笙野頼子と安部公房を比較するなんて、自分で書くのもなんだが、大方の賛同を得ることはできないであろう。しかし、次のような文章を読んでみると、ある種のユーモアのセンスに関して、何かしら共通する点もあるような気もしてくるのだ。(いずれも「水中都市」における、人間から魚類の変化に関する文章から)
ショウチュウを飲む人間なんて、原則的に信用すべきでないとさえ思っている。ショウチュウを飲み過ぎると、人間は必ず魚類に変化するんだ。現におれのおやじも、おれの見ている前で魚になった。しかし、おれは、おれを精神病入れようとする意見には、絶対反対である。病院なんかに何ができるものか。やはり人間を魚に変える注射するんだろう。(新潮文庫226ページ)
「魚をなくすためにはこの水なくする必要があります。この氾濫がすべての根本的な原因です。我々は完全な排水治水工事を政府に要求しましたが、政府は魚類の増殖を望んでいるので、我々の要求に応じないです。」(新潮文庫259ページ)
「君、魚を好きですか?」
「食べるのは好きですけれど、食べられるのは嫌いです」
(新潮文庫260ページ)
「助けてくれ、野良魚だ。」
「ぼくは逃げるよ。」
(新潮文庫、263ページ)
安部公房は魚類に変化することを恐怖する人間たち(=植民地の支配者側に属するプア・ホワイト)をユーモラスに描いたのに対し、笙野頼子はむしろ魚類あるいは火星人にさせられてしまった人間たちを取り上げたのではないか。
0 件のコメント:
コメントを投稿