2008年5月1日木曜日

笙野頼子は世界文学である(その2)


ここでいくつか注釈を書いておく。

  • 笙野やクッツェーが火星人やフライデー(マイケル・K)といった被抑圧者を取り上げる小説を書くからと言って、これらの作家が被抑圧者の単純な代弁者に なっているという訳ではない。相対的に上位の階級に属する作家たちはそのことを自覚してるから、被抑圧者の自己語りについて執筆するのを抑制してしまうか らである。
  • よく誤解されることであるが、ポストコロニアル文学とは、被抑圧者の復権を訴えかけるような政治的正義文学あるいはスローガン絶叫文学ではない。大英帝国 の帝国主義を支持した作家キプリングと、帝国主義批判の文学研究者サイードの奇妙な共生関係は、ポストコロニアリズムの微妙な側面を示す良い例なのだ。 (ポストコロニアリズムを左翼の生き残り戦略だと決め付けるような人たちは、ポストコロニアル批評だとか文学の本をほとんど1冊も読んだことがないようだ)。
  • ある文芸評論家は笙野頼子について、「フェミニズムで完全武装している」と述べたそうだ。しかし、これほど的外れな異論はない。笙野は、クッツェーと同じように、1つのイデオロギーや理論ではなく、文学で完全武装しているからである。(文学をやっているばかりでは、知識人にはなれないが)。


さて次の点が最も重要。

私は、クッツェーのFoe(邦訳『敵あるいはフォー』(1986年)と笙野頼子の『だいにっほん』シリーズ(2006-2007年)とを比較する つもりは基本的にはない。被抑圧者の語りというテーマで共通する点があるにしても、文学的手法だとか全体のテーマだとか時代設定は余りも違うから。

では何が似ているのか。それは国家論や宗教論に目覚めるようになった最近の笙野と、アパルトヘイト解放後、とりわけ南アフリカを立ち去ってオーストラリアで生活するようになってからのクッツェーの諸作品とが、きわめて興味深いほどに類似している。

今回は予告編ですから、ちょっとだけさわりを触れておく。クッツェーの最新作は2007年のDiary of a Bad Year だが、写真を見てください。ハードカバーの53ページは「12.ペドについて」となっています。「ぺど」が出てくるのにもびっくりですが、奇妙な線が引い てあるのが分かると思います。実は、偽クッツェー(セニョールC)のエッセイであると同時に、下の方に書いてあるのは、偽クッツェーの愛欲に充ちた私的日 記でもあるのです。つまり、最近のクッツェーの書く作品は、偽クッツェー氏の書くエッセイ、日記、レクチャー、自分史とが互いに入り混じった不思議な小説 となっているわけ。

このあたりの書き方も含め、解放後のクッツェーと、笙野との比較がおもしろい!


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Diary of a Bad Year (Viking)
Diary of a Bad Year (Viking)J. M. Coetzee


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