2008年4月30日水曜日

笙野頼子は世界文学である。(その1)

最近の笙野頼子の小説は世界文学として位置づけられる必要がある。世界文学というのは、福田何某が言うところの世界文学、つまり世界市場に輸出できる文学 という意味ではなく、どちらかといえばその反対に、「世界銀行文学」(Amitav Kumar, 2003)という意味での世界文学である。(もっとも笙野自身が言及しているのは、世界銀行ではなくIMFの方である)。しかし、私がここで言いたいの は、笙野が反グローバリズム反ネオ・リベラリズムのイデオロギーを担う「知識人」であると主張したいのではない。笙野の作品を「ネオリベラリズムを超える 想像力」と規定することには、どちらかと言えば反対なくらいである。

笙野の作品が世界文学だと言うのは、イデオロギーや知識人の問題なのではなく、あくまでも文学や作家にかかわる。つまり、笙野と共通する問題意識 や手法が、世界のさまざまな作家に見いだすことができるのだ。だから世界文学なのである。もちろんその背景には、グローバリズムと「自由&民主主義」が世 界全体を覆いか込もうとしているということができるわけだが、あくまでもそれは背景にすぎないのだ。

例えばどんな問題意識があるか。もっとも素朴な例をあげてみよう。

ポストコロニアル・フェミニズム理論家として名高いスピヴァックは、かつて『サバルタンは語ることができるか』という難解な本を書いた。サバルタ ンと言うのは歴史の証人になりえないかった被抑圧者層のことである。この問題意識に即応するかのように書かれたのが、南アフリカ出身のJ.M.クッツェー のFoe(本橋哲也訳『敵あるいはフォー』)であった。この小説は『ロビンソン・クルーソー』のパロディ小説で、原住民奴隷のフライデーが舌を引きぬかれ 発話できない設定になっている。お話としては、女性の主人公が『ロビンソン』の作者ダニエル・デフォーにお願いしてなんとかフライデーに言葉を与えようと 虚しく試みる物語である。

そう、もう1つの小説は、笙野頼子の『だいにっほん』のシリーズで、フライデーに対応するのが火星人の女と男である。笙野の火星人は舌こそ抜かれ ていないものの、彼女・彼らの発する言葉は、電波文として政府から黙殺されてしまうのである。火星人たちは、自分たちの怨念や感情を語って新しい歴史書を 紡ぎ出すことが出来るだろうか。


余談だが、笙野の小説の火星人は分かりにくい概念でサバルタンならが理解しやすいという日本語読者はいったいどれだけいるのだろうか。私に言わせ れば、サバルタンなる言葉の方がよっぽど解りにくい。しかも、サバルタンなるアカデミズムの言葉を使ってわかったふりをしてしまう危険があるから、よっぽ どたちが悪いと思うのだ。


要するに笙野の小説は、『火星人は語ることができるのか』というタイトルをつけても良いくらいなのである。こんなことを書くと、それは昔からの涙 ちょうだい的な被抑圧者の物語とどこが違うのか? ノーベル賞受賞したクッツェーはともかく、笙野頼子の作品は文学として意味があるのか?といった反論が あるかもしれない。だが、笙野の試みは、単純なお涙ちょうだい的な生易しい試みではありえなかった。この点についてはあらかじめスピヴァックが、『ポスト コロニアル理性批判』の序文で次のように証言している。

「1989年以降に気がついたんだけれども、どうやら左畜たちは、火星人スーツを全身にかぶって『被抑圧者』のふりをし、火星人の苦しい立場を強奪して威張り散らしているようですね」
(もちろん意訳です)

左畜、この場合は正確に言えば、アカデミズムの文化評論家や「エリート主義的」ポスコロのことなのだが、彼女・彼らがやっかいな存在であることには変わりない。こういった評論家・言論人との戦いなしには、事は進まないのである。

笙野頼子の戦いは、これらの世界での戦いと同時進行中のモノとして位置づけられるべきである。言い換えれば、笙野の同志と敵は世界中にいる。

だから笙野は世界文学なのである。

(続く)