それはどういうことか。
①被抑圧者である火星人たちは、自分たちの文化・歴史を持っていないと推測される。
②したがって、火星人たちは何らかの言葉や声を出そうとするならば、自分たちを暴力的に支配したり殺してしまう人間たちの言葉に依存せざるを得ない。つまり、「自分をひどい目にあわせた人間のまね」から出発せざるを得ないのである。言い換えれば、火星人落語とは、支配者の言葉を「取って食う」ことによって、自分の言葉を獲得しようとする試みである。1種の本家取りと言ってよいだろう。 (このあたりの議論は、フィリピン革命を論じたIleto, Pasyon and Revolutionが大いに参考になる。要するに、植民地主義支配の道具であるカトリシズムが、革命的言語を準備することにもなったと論じたものだ)。
③火星人落語が面白くないと言うのは、半ば当然の帰結であろう。だが単に面白くないばかりか、危険と直面していることも分かるだろう。落語の語りに徹し「淡々と」しているならば良い。(「淡々と」語ることにより、いわゆる「反復強迫」を超えるのであろう)。だが、殺人者の言葉をそのまま語るのだから、被抑圧者が取って食うもりが、逆に支配者に食われてしまう危険がつきまとうのだ。このことについては、『だいにっほん』の第3部の168ページに次のように書かれてある。
でも実は死者にとって何かのきっかけで忘れた記憶を思い出してしまうことは危機だった。なぜなら死者はそうなるとそのときの記憶をいきなおしてしまうからだ。
④笙野の小説では、火星人少女は危ういところ我に返り、なんとか声を取り戻す(170-172ページ、219-220ページ)。そして、「あれほど否定した笙野理論の用語を単語だけ勝手に使い自己流で喋」(223ページ)たのである。ここで重要なのは、笙野と火星人少女とのあいだにある距離である。笙野は火星人に対してシンパシーを持つ立場であるが、決して火星人ではない。また、笙野は火星人少女に教え諭し、操作できるような関係ではない。火星人の少女は、笙野先生から言葉を習いながら、それを自分なりにつまみ食いし、自分の言葉を持つようになったのである。(南アフリカのJ.M.COTZEEの小説Foeは『ロビンソン・クルウソー』のパロディで、ここでは先住民のフライデーは舌を抜かれていて全く言葉を話すことはできなかった。同じように、火星人=サバルタンが全く言葉を話さないとか、話したところでわれわれには全く理解できないといった設定にすることも可能であっただろう。しかし、それはまた別の小説であり、笙野の今回のシリーズに大きな問題点があったとは思われない)。
⑤火星人落語は何を目指すのかと言えば、火星人神話である(219ページ)。
「火星人神話」と言うのは文化と歴史を喪失した被抑圧者たちがこれから作ると期待される希望の物語である。ただし、火星人神話がどのようなものであるのかは、本書では語られることは無い。火星人少女は、あくまでも火星人神話とどのようなものであるのかその概略を語るだけである。火星人神話が詳しく語られないのは当然であろう。作家・笙野頼子は、自分が火星人ではないのだから、語ることは許されていないのである。もっとも、遊郭について何も知らないのに遊郭に語ってしまったので、作家・笙野頼子はすでに罪を犯してしまっているのだ。(笙野の罪がどれほど大きいのかを論じるのは、別の課題としたい)。
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