2008年5月29日木曜日

go native の恐怖 または魚類への変身(安部公房)

思いつきノート

笙野頼子と安部公房を比較するなんて、自分で書くのもなんだが、大方の賛同を得ることはできないであろう。しかし、次のような文章を読んでみると、ある種のユーモアのセンスに関して、何かしら共通する点もあるような気もしてくるのだ。(いずれも「水中都市」における、人間から魚類の変化に関する文章から)

ショウチュウを飲む人間なんて、原則的に信用すべきでないとさえ思っている。ショウチュウを飲み過ぎると、人間は必ず魚類に変化するんだ。現におれのおやじも、おれの見ている前で魚になった。しかし、おれは、おれを精神病入れようとする意見には、絶対反対である。病院なんかに何ができるものか。やはり人間を魚に変える注射するんだろう。(新潮文庫226ページ)

「魚をなくすためにはこの水なくする必要があります。この氾濫がすべての根本的な原因です。我々は完全な排水治水工事を政府に要求しましたが、政府は魚類の増殖を望んでいるので、我々の要求に応じないです。」(新潮文庫259ページ)


「君、魚を好きですか?」
「食べるのは好きですけれど、食べられるのは嫌いです」
(新潮文庫260ページ)


「助けてくれ、野良魚だ。」
「ぼくは逃げるよ。」
(新潮文庫、263ページ)


安部公房は魚類に変化することを恐怖する人間たち(=植民地の支配者側に属するプア・ホワイト)をユーモラスに描いたのに対し、笙野頼子はむしろ魚類あるいは火星人にさせられてしまった人間たちを取り上げたのではないか。

2008年5月28日水曜日

火星人と逆転劇ー安部公房と笙野頼子



(覚え書き)

笙野頼子ばかりでなく安部公房にも火星人が出てくるという指摘をしておいた。しかし、安部公房と笙野頼子の火星人は、小説注において全く異なる取扱いがなされている。

安部公房は晩年のエッセイ『死に急ぐ鯨たち』(新潮文庫)で次のように述べている。

もしあの島に、見えない原住民がいたとして、ロビンソン・クルーソーのすることなすこと、その原住民たちのいのちにかかわることだったとしたら、これはもう明白な犯罪小説じゃないか。ところで君はどっちの立場に立ってこの物語を読むことになるかな、ロビンソンの側か、原住民の側か。当然ロビンソンの側だろう、僕だって同じだよ、我々は植民地氏が民族である日本人だし、作者も同じく支配民族だから最初からそんな風に読めるように書かれている。(104ページ)

そしてそのうえで、「ロビンソン・クルーソーの物語を、殺された見えない原住民の側から書いてみようというわけだ」(105ページ)と述べ、『方舟さくら丸』の執筆意図を説明する。

だが私たちは、安部公房の最後の言葉を慎重に受け止める必要がある。ここでは詳細に述べる手間を省くが、安部公房が書いてきた小説は、SF作品を含めて一貫して植民地の支配民族、あるいは帝国側の市民の立場から書かれてきたものだからである。大英帝国のイギリス人が植民地人や弱小国に恐怖心を抱きつつ、ドラキュラ物語や宇宙人来襲の物語を楽しんだように、安部公房作品においても、支配民族の日本人が、火星人やら水棲人、あるいは満州人の闖入者だとか腐った子象、貧しい砂丘に住む辺境人に関する物語や演劇を恐れ楽しんだのである。(「第四間氷期」「人間そっくり」「闖入者」「公然の秘密」「砂の女」といったもの)。つまり、「殺された見えない原住民の側から」というのは、あくまでも決意表明と考えるべきであり、現実には公房の小説は、殺す・見る書く・読み側から書き続けてきたということである。(注 安部公房の『砂の女』は、キプリングの「モロビー・ジュークスの不思議な旅」と比較されるべきである。どちらも植民地の砂穴の中に閉じこめられてしまう男の物語である)

そのうえで、「威圧するものと威圧されるもの、支配する者と支配される者というこの関係は、しかし最後に逆転したことが暗示的に語られる」(菅野昭正、『ユープケッチャ』新潮文庫、解説の254ページ)。つまり、安部公房の作品では、植民地世界において、植民者と被植民者との逆転劇や変身(願望)がテーマ化されるわけなのである。

安部公房は、被植民者やサバルタンについて、彼らを人間的に描いてみようとか、一つのまともな人格のあるものとして主題化してみることについては、結局あまり成功しなかったのではないか。たとえば「公然の秘密」あるいはその演劇作品である「仔象は死んだ」は、明らかに被抑圧者あるいはサバルタンを見つめる残酷な我々をテーマ化したわけだが、サバルタン自身に語らせることには至らなかったのではないだろうか。

私の見るところ、笙野頼子の火星人あるいは火星人落語というものは、サバルタンの変身劇のテーマを継承するものである。たとえば、『だいにっほん』の第3部の164ページ。火星人のいぶきが、変身を遂げるシーン。

どこかから聞こえているはずの自分の、いぶきの口調が変わった。というよりその声音になった時いぶきは「神」になっていた。自分を殺した男の口まねをして、いぶきは淡々としているのだ。それでもその男に似ているのだ。これこそは父師匠さえも生涯に何回か演ずる事がなかった、「自分をひどい目にあわせた人間の真似をしながら、淡々と語って人を笑わせる」という火星人落語の究極芸だった。「最高峰とって食う芸」である。

火星人いぶきの変身芸は、被支配者が支配者をとって食ういわゆる逆転劇というよりは、自虐劇の極まりにほかならない。素朴に逆転をかたれぬところに、火星人の悲しさがある。安部公房の変身劇との位相の違いが、興味深い。

2008年5月19日月曜日

井上ひさしの「植民地」論


今、井上ひさしの『吉里吉里人』(1981年)もちょっと読んでいる。かなり分厚い本だが、読みやすいので苦労することはない。

この本はすでに20年以上前に出版されたものだし、小説の舞台は1970年ごろ(?)ではないかという感じだが、ある意味で全然古びていない。どういうことかというと、たとえば、8ページ

「この事件をアメリカの作家ヘミングウェイの実弟であるレスター・ヘミングウェイの独立宣言から語り始めるのもおもしろいだろいう。60年代の前半、数回にわたって、レスターはアメリカ合州国[←「州」の漢字を使っていた]大統領に宛て「ニュー・アトランチェス国」の分離独立を宣言している。彼はジャマイカ南方の小島を買い入れ、そこに人口一人の独立国家を樹立しようとしたが」(以下略)
この事件がどのような意味を持つのか私は判らない。だが、2008年4月16日のMIXIコラムをよむと、コソボの独立などとの関連でレスターの独立宣言が話題になっているのだ。ちょうど本を読んでいるときだから、びっくりしてしまうのだ。

また、5月14日、ちょうど238ページを読んでいると、インターネットのBBCでUKのどこか(おそらくスコットランドだと思うが)の独立のニュースを報道していたのだ。なんという偶然か。小国独立というのが、いまなお新鮮なテーマの証だとも言えるが。


さて、本題だ。

吉里吉里国が日本から独立しようとするにあたって、日本国の東大教授がそれに反論するときの台詞が次である。

「植民地が独立する。この場合は話は別ですよ。もともとちがう国同士であったものが、ある力関係によって一方は本国、他方は植民地、合わせて一国のような ものになったにすぎない。つまりベニヤ板ですね。(中略) とにかく、本国と植民地は一種の合わせ物ですから、時がくれば木の葉が枝を離れて散るようには なればなれになってしまいます。そういうわけでありますからして、分離独立を企てる植民地に対して本国はあまりうるさいことは申しません。理解離婚に踏み 切ったカップルの別れの朝、荷物をトラックに積んで去っていく妻を見送る夫の心境ですね」(241-242頁)


「つまり第二次大戦後の植民地の相次ぐ独立は、先に申しあげた宣言的効果説によって保障されたものだといえましょう。植民地は『独立します』と宣言したそ の瞬間から国際法上の存在として成立したのです。(中略) ところがもともとひとつだったものの一部が分離して独立する場合は、まるで事情が違ってまいり ますぞ」(242頁)

「よしんばある国からそこの一部がどう分離したにせよ、その本国と新国家とが睨み合っている間は、関係諸国はなかなか新国を承認してくれません。イギリス から分離独立したアメリカをはじめて承認したのはフランスでした。がしかし、当のフランス自身、自分の行った承認行為をイギリス本国に対する不法な干渉だ とみなしておりました」(242頁)


ここでは、小説中の東大教授(と井上ひさし)の国家論や植民地論についての是非を詳細に議論するつもりはないが、それにしても「植民地」とその「独立」のイメージが偏っていて興味深いではないか。

まず、南北アメリカのような白人移住者=植民者が支配する土地を植民地だと認識していない点である。致命的な認識の欠落だといえなくもない。(ちなみにポストコロニアル文学論からすれば、アメリカや北アフリカ(アルジェリア)、南アフリカなどはきわめて重要な植民地である)。

ついで、植民地の独立を、子どものいない夫婦関係の理解離婚のメタファーでとらえている点だ。いうまでもなく、夫婦というのは、日韓併合を念頭に 置いていると判断して間違いない。たとえば台湾やアイヌには伝統的国家や教育もなかったのであり、妻と夫との関係で喩えるのは不適当である。「もともとち がう国」がベニヤ板のように合わさったというような類ではないのだ。井上は、この点については、あまり考えていなかったのであろう。また、夫婦を論じなが らも、植民地の結果として生まれた「子どもたち」についても議論しわすれているのも、興味深い。(もちろんのことだが、日韓が平和的な離婚に喩えられるべ きでないのは言うまでもない。また、インドネシアの独立宣言等がどのような結果になったのかとか、いくらでも批判できるというものである)

要約すると、井上の植民地の認識は日韓併合のことであり、植民地の独立とは、日韓が「そうであったように」、平和的な分離独立が可能であるものということになっている。もちろん、韓国・朝鮮独立後の在日のことだとか、アイヌや沖縄の独立運動の可能性などは、ほとんど視野に入っていなかったと想像することができる。1970年代の普通の日本人の感覚としては、そんなものなのかもしれないが、やや準備不足であるとの指摘は免れないだろう。(笙野の『水晶内制度』との比較も興味深いだろう)

2008年5月16日金曜日

植民地人としての火星人ーー笙野頼子と安部公房

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残念ながら、笙野頼子の小説には分かり難い言葉が多用されている。笙野の主張によれば、読者・ファンのブログで議論され検討されているということなのだが、世の中、そんなにディープなファンばかりではないし、やはりもう少し工夫してもらいたいものだと思うのだ。

さて、笙野の分かり難い言葉の一つに「火星人」があるのだが、これについては議論されているのだろうか? ネットで検索してもほとんど出てこない・・・。いやイヤ、よくみると、ある! 一つは私のブログだ(まだ本格的に議論していないが(苦笑)。もうひとつは、なんと「火星人クラブ」というHPだ。「火星人クラブ」は女性文学研究者たちが真面目に書いているものなのだ。だが、火星人を論じるのが火星人だったというのはちょっと笑える。議論としては、この人たちも、笙野の火星人を被植民地人と規定しているので、私の方向性とほとんど変わりないようだ。

ポストコロニアル文学を研究をしようという私が、笙野の火星人に被植民者またはサバルタンを見出し、火星人クラブが笙野の火星人を議論する。。。なんて、当たり前すぎる図式的展開なんだろう!だが、そういう枠組みを持たない普通の読者は、笙野作品の火星人をどのように受け止めたのだろうか?たんに戸惑っているだけではないのだろうか?

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ちなみにSFの火星人は植民地人のメタファーであることは、しばしばあるようです。たとえば、H.G.ウェルズの来襲してくる火星人にも、大英帝国の植民地主義の罪悪感が絡んでくるらしい。

また私は安部公房をポストコロニアル文学者とみなすと、より理解しやすくなると考えているのです。というのは、満州体験が反映した作品ばかりでなく、たとえばSF作品にも植民地という問題設定が読みとれるからです。ちなみに、『人間そっくり』の火星人の正体は、地球人クレオールであると説明しているところがあります。(したがって被植民者というよりは、開拓移住をするほうの植民地人ということですね)。また、『第四間氷期』の水棲人は、水中開拓植民地における人間の変形がテーマだと言えるのです。

『やし酒のみ』ミュージカルとアフリカ落語




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第4回アフリカ開発会議開催記念講演 ライブミュージカル「やし酒飲み」

今朝(2008年5月16日金曜日)の朝日新聞によると、横浜市金沢区の高校生を中心として、チュツオーラの「やし酒のみ」を演じるのだそうだ。五月24,25,31日、6月1日で料金は千円。アフリカの文学に取り組むとは、実に頼もしい。

私はようやく最初の一部を読んだだけでまだ全部読んでいない。だが、神話的というか落語的というのか、とにかく伝統的文学とは大違いの作品であることは間違いない。さて、この本を論じているのが、実はJ।M.Coetzeeの論争うんちくフィクション『エリザベス・コステロ』の「アフリカの文学」である。簡単に言えば、アフリカ出身の黒人作家が登場し、アフリカのオーラルの伝統と、印刷技術によって支えられた西欧文学との関係を論じながら、アフリカ文学の独自性と意義を明らかにしようとする。これに対して豪州の白人女流作家コステロ先生と議論をかわしたり、過去の思い出にふけったりするのである。

ところで、最近の私の一大テーマである笙野頼子との関係について、一言だけ書いておかなくては。アフリカの落語的かつ幻想神話的文学というものと、落語作家・笙野頼子と火星人落語というものとは、大いに共通点があるわけで、さらに詳細に検討していくべきだと思う。『ミル・プラトー』も良いけれど、アフリカ文学も忘れないでね、と。

2008年5月15日木曜日

笙野頼子と「語り部」の復権(その1)

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最近の笙野頼子の小説を読んでみると、あまりにも速いスピードで量産しているので当惑してしまうことがある。常識的にいえば長編小説は1・2年以上かけるものだろう。ところが笙野ときたら、例えば、『だいにっほん』シリーズの第二部は「260枚を20日で書い」てしまったのだそうだ。(『だいにっほんおんたこめいわく史』223頁)。そもそも『だいにっほん』の3部作を仕上げるのに、他の小説や論争文も書きながら、わずか2年間しかかっていないのである。

実際、くどくどと同じ内容のことが何度も内容の文章が繰り返されることがあるし、必ずしも文章が練りあげられていないようにも思われる。せっかく海外のJ.M.CoetzeeやBen Okriと比較しようと思っているのに・・・。だいたい、こんなにたくさんの作品が書かれてしまうと、読むほうが追いつけなくなるじゃないか、と言った具合でこちらとしてもちょっと文句でも言いたくなったりもするのだ。


笙野の連作は、いびつな不協和音に満ちた、あまり洗練されているとは思えないような荒削りの小説作品のようにも見える。だが、これらを次々に月刊誌で発表するやり口は、もしかしたら笙野の独自の非文学的な文学戦略かもしれないではないか。私はアンダーソンの論文 ‘El Malhadado Pais’(邦訳「不幸な国」、リョサの小説『密林の語り部』を論じたもの)を読みながら、そんなふうに考えるようになってしまったのである。21世紀の笙野頼子の試みは、一言でいえば、顔と声を失わされ抽象的な存在になった現代の純文学作家が、原初的な心と口と肉体を取り戻し、中世的な語り部として甦ろうとする試みではないのかと理解するようになったのだ。むろん、中世的語り部に対しては、中世的な聞き手の存在が前提となっている。だから、わたしたち近代的読者の存在と意識をも同時に変容させようと笙野が挑発しているに違いないのである

「語り部」とは何かという議論は、ひとまずは、棚上げしておこう。

さて2000年後半になってからの笙野の変貌は衆目が一致するところでだろう。大量執筆とそのスピードは、純文学者としては異様なほどだ。しかも同時に、近代文学の形式を革命的に転換しようともしている。ご承知の通り、一つ一つの小説が連作となり、さらに外部の評論家や編集者との論戦・論争をも兼ねているのである(*)。[(*) 小説の連作化、小説・エッセイ・論戦の境界の消失は笙野だけのものではなく、たとえば、J.M.Coetzeeの『エリザベス・コステロ』( シリーズと対比すべきであることを、一言述べておく]。

上記のことは、私は、笙野頼子がパソコンでインターネットにアクセスするようになったことと関係していると私は思う。木村カナによれば、笙野頼子は2004年にパソコンを購入し、ネットに頻繁にアクセスするようになった。作品にも2005年以降、2ch俗語が頻出するようになったという。(『論座』の笙野特集2008年6月号)。つまり、笙野本人と笙野の読者とが、月刊文芸誌を支持する作家とインターネットを駆使するファンとが、月刊誌とネットのコミュニティーを媒介にして、リアルに出会うようになったのである。このコミュニティーは、ネーションのような想像の共同体ではないし、芸能人とファンとの間のようなマスコミ的一方通行の世界でもない。かといって、作家とファンがなれ合う息抜きの場でもない。笙野は一度もネット上には「降臨」しないのだ。では、何なのか?

 
たとえてみれば、月刊誌とネットが作り出す新しい公共空間は、一種の寄席を形成するようになったのだ。(落語が嫌な人は、たとえば、キース・ジャレットのピアノ・ソロ演奏みたいなものを想像してみてください)。笙野頼子は、場外の罵倒がかまびすしい中、毎回創作落語を披露する女の噺家なのである。客のほうは、この異様な緊張感のなかで、次から次へと生まれる新作を待ち受け、噺家にフィードバックして返す。従来の近代的小説が「孤独のうちにある個人」(アンダーソン=ベンヤミン)によって創作された静的性格の作品だったのに対し、笙野の「新作落語」は、生きた語りの場においてダイナミックに形成される生のアドリブ即興だ。繰り返し出てくる冗長な表現だとか、意味のないかのように思われる言葉も、実は、話し言葉的な語りの要素を書き言葉に導入するための必然的方法だったのである。

そう考えると、笙野の連作長編が異常なほどのスピードで発表・完成されたのもよく理解できる。近代的印刷技術を前提とする近代文学ではなく、むしろ、非近代的な口承芸術的文学なのだから、洗練化の概念も方向性も大いに異なってくるからだ。笙野とその客が作り出した寄席空間が異様なドライブ感をみせてくるなか、超絶猛速度で応答したのが落語家名人・笙野頼子だったのだ、と。(その1)

2008年5月8日木曜日

世界銀行文学なんて有るのか?


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笙野頼子は世界文学などと書いたが、世界文学をどのように規定したらよいのか。すでに述べたように、世界市場に輸出しうるような優れた商品という意味ではない。(日本の小説をランキングしようとしている評論家の中には、そういった世界文学の定義をしているものが実際にいるのだが)。そこでちょっと気になる、『世界銀行文学』という本について触れてみる。方向性としては、面白そうだからだ。

『世界銀行文学』というのは、インド系の文学・文化研究者Amitava Kumarという男性研究者が編纂した本で、インド、アフリカ、メキシコあるいはZapatistaなどに関心のあるさまざまな研究者が、寄稿している。

いくつか論文を読んでみたが、正直のところ、世界銀行文学という言葉の啓発的・教育的重要性は理解できても、それがいったい何なのか明確な像を結ぶことができなかった。しかし、少なくともKumarの論文に関する限り2つの方向性が示されているように思われる。1つは、Roy(インド人の女性小説家でブッカー賞受賞者、同時に反戦運動や反グローバリズム運動などの社会運動を担っている。翻訳多数)、Lahiri(より若手のインド系アメリカ人の小説家庭ピューリツァー賞受賞、翻訳多数)、Pankaj Mishra(若手のインド系英語作家、ナイポールの影響を強く受けているとされ、ナイポールとの共著もあるようだ。同時に、インターネット上で読むことのできるNew York Book of Review にはコンスタントに寄稿し、南アジアの惨状についての興味深いレポートを送っている。おそらく日本語への翻訳はまだないはずである)といった英語作家に言及しながら、グローバル化がインド人の生活の中の質に多大な影響力を与えていることを確認する作業である。

もう1つは、いわゆるポストコロニアル文学理論について、グローバル経済の時代に即して、歩2歩、前進させようとする方向である。これは「植民地的言説研究から脱国境的な文化研究へ」(Spivak)というような議論とも対応しているのだろう。

ポストコロニアル批評やポストコロニアル文学をこういった方向で展開して行くことには、大方の賛同を得ることができるだろう。従来のポストコロニアル批評は、たいていの場合は古典的な近代文学を論じることに重点を充てていたので、現代の文学や文化をないがしろにする傾向があったからである。分かり易い例を挙げてみれば、サイードの『文化と帝国主義』である。その前半部分こそは古典的な近代文学を論じて興味深い成果をあげていたものの、後半部分はポレミカルな帝国主義批判に終始し、真摯な文化研究という内実をすっかり欠くものだった。

世界銀行文学の方向性は大いに評価したいのではある。だが、世界銀行やIMFといった次元の問題について、文学者や文学の研究者たちはいったいどのような貢献ができるのだろうか。国際政治や社会・経済の専門家に伍して語るべき何かを持っているのだろうか。そこは大問題なのである。その点についての研究が不足しているので、『世界銀行文学』は理論としては中途半端な代物なのである。

文学者は、結局のところ、システムを論じる専門家ではない。(コンラッド『闇の奥』は、決して帝国主義の悪夢のシステムの内情をあばいたものではなかったし、悪の暴露を目的とした文学作品ではなかったことを思いおこそう)。むしろ、システムの中に属する様々な人々の主観的な、私的な体験や思想・宗教・夢を徹底的に語っていこうとするものだともいえる。それがどうやって世界レベルのシステム的大問題とつながって行くのだろうか。そう考えると、「世界銀行文学」という言葉は、ある意味では水と油を混合させるような、矛盾に満ちた概念だとものと見なすことができるかもしれないのである。

いや、もちろん別の可能性もあろう。それは「反グローバリズム運動」のイデオロギーを支えるプロパガンダ文学になることである。だが、それば文学が文学であることを放棄してしまうことになるかもしれない。文学であり続けながら、「自由と民主主義」のグローバル経済の世の中に対して批判的な眼差しを持って行くにはどのような方法論があるのだろうか。

だが、笙野頼子やさまざまな世界の作家の作品は、プロパガンダ文学に陥ることなく、この時代をとらえようと試みているように思われる。たとえば、笙野は次のように書く。

この不幸な現状と何か、その根本にある、おんたことは何か、それを解明する、または世に訴えるためにこの小説を書いているのである。(中略)この世紀を1つの家族の成長と変遷とともにじっくりじっくり書いたりして、その中におんたこが去来したりするのがいいのかもしれないとも思ったものだけれどね。(中略)つまりおんたこと言うのは家族を通しても書けん、時代を通しても書けん、どうしてかというとそれは多分おんたこと国家との関係が散らばったビーズみたいだから。(中略)おんたこと言うのは現実的一個人をじーくり書いたってその中になんかぜーったいに宿ってはくれないから(以下略) 


笙野頼子『だいにっほん、おんたこめいわく史』(38-39頁)

これは、文学の立場から、システムの新しい位相をも同時に明らかにするための方法論的宣言の1つといってよいだろう。そして、植民地出身の作家が、メタフィクションやSFあるいはマジック・リアリズム的手法を通して、国家論や宇宙の真理を物語っていこうとする姿勢と共通してるように思われるのだ。


(余談) 『現代思想』の笙野特集のタイトルが「ネオリベラリズムを超える想像力」だったのは、まことに残念でならない。いくらなんでも、笙野を矮小化しすぎているではないか。せめて、「明治政府ちゃんと西哲を超える祈りの力」とかにして欲しかった。

2008年5月3日土曜日

笙野頼子は世界文学である。(その3)

笙野頼子の宗教小説についての評価を下すことは非常に困難だ。ただし、同じような不思議な小説は、昔から有ったのだ。今、『だいにっほん、ろりりべ』を読んでいて連想するのは、オリーブ・シュライナー『アフリカ農場物語』である。

すでに100年以上前に書かれた英語作品であるが、笙野と雰囲気がよく似ている。南アフリカの植民地の辺境にいて、祈ること、無神論であること、哲学すること、女であること、女装することを考えさせる。一種のポストモダン、(ポスト)コロニアル、フェミニスト、社会主義小説だ。
『アフリカ農場物語』は岩波文庫で二分冊であるが、<上>には詳しい訳者解説があって嬉しい限りだ。ただし<下>のほうが本格的な不思議小説のスタートだと言える。

なお、私自身は、この作家の存在をJ.M.Coetzee, White Writingという南アの白人文学史で知った。

また、富山太佳夫・評は次の通り。
http://mainichi.jp/enta/book/hondana/archive/news/2006/10/20061022ddm015070073000c.html

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2008年5月1日木曜日

笙野頼子は世界文学である(その2)


ここでいくつか注釈を書いておく。

  • 笙野やクッツェーが火星人やフライデー(マイケル・K)といった被抑圧者を取り上げる小説を書くからと言って、これらの作家が被抑圧者の単純な代弁者に なっているという訳ではない。相対的に上位の階級に属する作家たちはそのことを自覚してるから、被抑圧者の自己語りについて執筆するのを抑制してしまうか らである。
  • よく誤解されることであるが、ポストコロニアル文学とは、被抑圧者の復権を訴えかけるような政治的正義文学あるいはスローガン絶叫文学ではない。大英帝国 の帝国主義を支持した作家キプリングと、帝国主義批判の文学研究者サイードの奇妙な共生関係は、ポストコロニアリズムの微妙な側面を示す良い例なのだ。 (ポストコロニアリズムを左翼の生き残り戦略だと決め付けるような人たちは、ポストコロニアル批評だとか文学の本をほとんど1冊も読んだことがないようだ)。
  • ある文芸評論家は笙野頼子について、「フェミニズムで完全武装している」と述べたそうだ。しかし、これほど的外れな異論はない。笙野は、クッツェーと同じように、1つのイデオロギーや理論ではなく、文学で完全武装しているからである。(文学をやっているばかりでは、知識人にはなれないが)。


さて次の点が最も重要。

私は、クッツェーのFoe(邦訳『敵あるいはフォー』(1986年)と笙野頼子の『だいにっほん』シリーズ(2006-2007年)とを比較する つもりは基本的にはない。被抑圧者の語りというテーマで共通する点があるにしても、文学的手法だとか全体のテーマだとか時代設定は余りも違うから。

では何が似ているのか。それは国家論や宗教論に目覚めるようになった最近の笙野と、アパルトヘイト解放後、とりわけ南アフリカを立ち去ってオーストラリアで生活するようになってからのクッツェーの諸作品とが、きわめて興味深いほどに類似している。

今回は予告編ですから、ちょっとだけさわりを触れておく。クッツェーの最新作は2007年のDiary of a Bad Year だが、写真を見てください。ハードカバーの53ページは「12.ペドについて」となっています。「ぺど」が出てくるのにもびっくりですが、奇妙な線が引い てあるのが分かると思います。実は、偽クッツェー(セニョールC)のエッセイであると同時に、下の方に書いてあるのは、偽クッツェーの愛欲に充ちた私的日 記でもあるのです。つまり、最近のクッツェーの書く作品は、偽クッツェー氏の書くエッセイ、日記、レクチャー、自分史とが互いに入り混じった不思議な小説 となっているわけ。

このあたりの書き方も含め、解放後のクッツェーと、笙野との比較がおもしろい!


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