2009年11月7日土曜日

ポストコロニアリズムの二つの顔(1)ーーサイード『オリエンタリズム』は読んではいけない!

ポストコロニアリズムには、なぜかくも誤解やら対立が多いのだろうか。二つの理由があると思う。一つの理由はサイード自身にある。サイードの本を何冊かちょっと吟味してみると分かるのだが、『オリエンタリズム』だけは突出して読みやすく単調な議論で埋め尽くされているのだ。これが本当にサイードの著作だといえるのだろうか?

とくに注目したいのが『オリエンタリズム』と『文化と帝国主義』の前半部との間にあるギャップである。どちらも主著なのであろうが、前者をポストコロニアリズムの基本書と理解する人と、後者をポストコロニアリズム的思索の事例と考える人とでは、ポストコロニアリズムの解釈が大きく異なってきてしまうのだ。私の立場はどうなのかといえば、『オリエンタリズム』のナイーブで単純な議論を真に受けてはいけないし、初学者は読んではいけない本であるとすら思う。ポストコロニアル理論を理解したかったら、サイードでいえば『文化と帝国主義』と『パレスチナとは何か(After the Lasy Sky)』を読まなければならないと打った鋳掛けたい。

もう一つは、前回示唆したように、朝鮮が植民地化してしまったと思っている人と、朝鮮は植民地化されていないと思っている人との間の隔たりである。すなわち、朝鮮がポストコロニアリズムの射程にあるはずだという解釈と、ポストコロニアリズムの射程の外にあるという解釈が存在するのである。前者の立場の人からすれば、後者の見解は信じられないほどケシカラヌ暴言(!)に聞こえるかも知れない。だが、至極真面目な見解であり、全然暴言ではない。いずれにせよ、ポストコロニアリズムやポストコロニアル文学についての見解の合意を得ることはほとんど不可能であることは容易に察することが出来るだろう。


(1)サイードの二つの顔ー『オリエンタリズム』はサイードの主著ではない

以前書いたことだが、「帝国意識」をテーマ化する歴史学者とサイードらとでは問題意識が大いに異なっていて噛み合わない。なぜ彼らのギャップの根本理由は、サイードは本来的には文学者(芸術研究者)であるのに対し、帝国意識論の歴史学者は悪の表象には関心があっても、芸術には関心がないからである。ところが、歴史学者はサイードの『オリエンタリズム』を読んで、ちょっと大きな勘違いしてしまったのだ。

文学者サイードにとって『オリエンタリズム』はそれほど大事な著作ではなかったのだ。むしろ、あまりにも一本調子で退屈な著作とみなされるべきだったのだ。(他のサイードの著作を読むと、あまりにも反響が大きかったのでサイード自身がびっくりしているということが分かる)。

サイードに言及する書き手(出版物・ネット)の大半は、サイードといえば「オリエンタリズム」と『知識人とは何か』だと思っているしその2冊しか読んでいないように思われる。この2冊だけは、アマゾンのレビューが異様に多いことからもわかるだろう。たしかにエドワード・サイードの『オリエンタリズム』といえば、ポストコロニアリズムの先駆けであると見なされるし、前述の中井亜佐子も、そう書かざるをえない(16頁)。

だが、サイード=「オリエンタリズム」という「常識」は、一般読書人もそろそろ捨てるべきではないのか。最大の根拠は、『オリエンタリズム』においてはサイード本来の専門である文学作品についてほとんど触れられていないからである。仮に『オリエンタリズム』の手法で文学作品を論じることが「ポストコロニアル批判」だとしたら、芸術的価値のある作品としての文学を扱うのではなく、単なるイデオロギー文書として論じることになるだろう。つまり、帝国意識研究の実証的歴史学者が採用する方法論を採用するだろうし、文学作品は単なる差別発言の集積であり、糾弾すべき単なる過去の遺物となってしまうだろう。これでは対位法的(Kontrapunkt, contrapuntal)な方法論ではありえない。もし「オリエンタリズム」の名前を借りた、そのような「文芸批評」があるとしたら、それは野蛮なる文化的遺産への暴力でしかない。たとえば、民主主義や人権を理解していないからといって、『源氏物語』を糾弾するようなものなのである。要するに、「オリエンタリズム」的な見方というのは、文学や学問を認識し評価する際の一つの契機すぎないのであって、「オリエンタリズム」一本槍で勝負できるような視点とはなりえないのである。

もちろん、ポストコロニアリズムは文学や芸術学とは必ずしも関係ないという反論も予期しうる。たしかに、その通りだ。だが、そういった理解の仕方は、サイードの多面的な著作、とりわけ文学、芸術学を中心として展開される多くの専門的著作とは異なった観点に立っていること、またバーバやスピヴァックといった他の主要な論客とも大きな隔たりがあることを知るべきだ。


他方、詩や小説を論じた『文化と帝国主義』、とくにその前半部こそが彼の本当の主著であると私は言いたい(*)。残念ながら、この本を読んだ人はあまりいない。たとえばbk1のレビューアーの佐々木力(東大教授・科学史) や 小林浩のように、全く読んだ形跡がないで文章を書いている者もいるのだ。はっきり言って読むのは容易ではない。というのは、西欧とアジア・アフリカの出会いを扱った様々な小説が論じられるわけで、そういった小説を読み、文学に親しんでおく必要があるからだ。

だが、文学でしか表現できないような異文化と異人との出会いが、キプリングやコンラッドの小説では描かれている。そして、サイードも『オリエンタリズム』のように、そういった小説を一方的に糾弾していくのではなく、むしろ、帝国主義的あるいは植民地主義的作家に対しても優しく丁寧に論評が加えられている。たとえばキプリングは、大英帝国主義を支持した作家であるが、その作品の分析は糾弾とはほど遠い。事実、『サイード自身が語るサイードでは次のようにも語っているのだ

「彼[キプリング]は、いろいろな種類の住民たちを信じられないくらい細かく描き分けられる。また彼は若者と老人とを描写することにかけて、すばらしい才能を発揮している」(87頁)

「彼[キプリング]のインドについての感じ方はわたし[サイード]のカイロについての感じ方と同じだよ。つまりわたしはエジプト人ではないので、政治については思い悩むことなく、カイロの地に居座れるのだが、キプリングのインドについてそんなふうに感じていたはずだ」(87頁)
ここでは詳しくは説明できないが、サイードが作家を「批判」するときと、非文学者を「批判」するというのでは、その姿勢が全く異なるのである。一言で言えば、偉大なる芸術家であり作家であるのに、なぜ同時に帝国主義者でありえたのかという問によって、サイードはいつも彼らと向き合っていたように私には思われる。

キプリングばかりではなく、サイード vs ナイポールの対立も、同じような複雑で微妙な対立として理解しなくてはならない。ナイポールは、もしかしたら旧植民地をコケにする反動的文学者だと思われているかも知れないが、左翼サイード vs 反動ナイポールというふうな単純な枠組みで理解しては絶対にならないのだ。サイードであるが、いつでもナイポールの文学的才能を高く評価していたのである。つまり、ナイポールの旧植民地に対する辛辣な観察と記述を、反感を持ちながらもある意味では共感を持って読んでいたのである。彼らは、全面的に相対立するというよりは、共通の土俵の上で対立しながら共存していた。こういう微妙なところにポストコロニアリズムの真の意味があるのだともいえるのだ。

どちらをサイードの主著と取るかによって、サイードとポストコロニアリズムの解釈論議は大きく分かれるだろう。私は『文化と帝国主義』こそが主著であり、『オリエンタリズム』を過大評価しないことを訴えたい。もちろん、『オリエンタリズム』がサイードでありポストコロニアリズムだという人が大多数である現状は動かないだろう。だが、そういう多数派の人だとしても、『オリエンタリズム』を認めないサイード読者がいること、そして、そういう読者のポストコロニアル認識が多数派とは根本的に異なっているということくらいは、わかってくれるのではないのか。

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私の書いたことは、(今回も)まことに荒っぽい議論だと思う。だが、このことは、誰かが書くべきではなかったのか。文学研究者はこういう乱暴な文章は書けないだろうし、非文学者はサイードの文学研究に無関心である。だから、誰もサイードの二つの側面について言及できないのである。よって、文学には関心があるが、文学とはほど遠い完全にアマチュアの私が、敢えてこのような単純明快な二分法を提起してみたのである。


注釈
(*) さらに言えば、『文化と帝国主義』の最終部のいくつかの章は、ポレミカルなだけの無内容な発言集だった。あれも文学者サイードにとっては、ちょっと痛かった。おそらくは、「サイードって有名だけれども、学問的にはたいしたこと無さそうだね」と言われている。だからこそ、『文化と帝国主義』の前半部や、『パレスチナとは何か』ーーもう一つ別の主著であり、中井亜佐子も詳しく論じているーーについて、もっと語られてもらいたいと願う。

2009年11月6日金曜日

池澤夏樹のポストコロニアル文学批判(その4)

グーグルのようなもので検索しても、池澤夏樹に批判的な見解を書く人はほとんどいないですね。例の沖縄系社会学者あるいは運動家の人たちはともかくとして、池澤夏樹の見解に大賛成な人ばかりなのでしょうか。(沖縄系の池澤批判者が、彼の文学全集を議論してもよいのですが・・・)。反発を覚えないにせよ、彼の議論に何の疑問を感じないのは、あまり望ましくありません。あのさわやかで知的な感じに騙されて、安易に迎合したり、呑まれてしまってはいけないのです。というのは、池澤が語っていることは、ポストコロニアル文学論の観点の非常に重要な論点と関わっているからです。

(あらかじめ断っておきますと、わたくしは、池澤夏樹 (ポストコロニアリズム) vs 沖縄系学者(反帝国主義、反「ポストコロニアリズム」)の対立に関して言えば、どちらといえば池澤よりの立場です。(沖縄系や韓国系のポストコロニアリズム議論は、完全にその言葉の意味について誤解していると私は理解しているからです。彼らはポスコロじゃなくて、反帝主義なのです)。


まずは2008年における学習院大学での池澤の講演をみてみましょう。

僕は今回新たに編んだ文学全集には、ふたつの顕著な特徴があります。ひとつはポストコロニアリズム。①元植民地に住んでいた人たちが、宗主国の言葉で書いている、②もしくは宗主国から植民地に行ったひとが書く。 (番号はshaktiによる)。 (中略) 
ポストコロニアルの作家の例でいえば、マルグリット・デュラス。フランス人ですが旧仏領インドシナのベトナムやカンボジアで育ちました。彼女にはその土地について強い思い入れがあったのです。
それからジーン・リース。西インド諸島生まれの白人です。西インド諸島は、先住民、スペイン人、サトウキビ農場の労働力のために連れてこられたアフリカ人と、いろんな人種がたくさんいます。カリブ海のあたりでは「クレオール」とも呼びます。シャーロット・ブロンテ「ジェーン・エア」に、主人公ジェーンが出会うロチェスターの狂人の妻が登場しますが、ジーン・リースはその妻の側からの視点で書いているんです。従来、敵役とされたパーソナリティを置き換えると、まったく世界が違って見えます。
第二次世界大戦後の世界文学は、弱者の視点に変わった、抑圧された者にもペンを与えたと思います。今までの見方をひっくり返した。ジーン・リースはその典型です。すごみ、気迫があります。

実に簡潔で明快なポストコロニアル文学の定義です。しかし、再度繰り返しますが、池澤の議論に対して、あまりに簡単に、ふーん、そうなんだ、とか言って納得してしまっては絶対にいけない。日本のかつての植民地は台湾と朝鮮半島であったという普通に思っているような日本在住の人ならば、当然次のような疑問が浮かびあがらなければならないはずだからです。
  1. 元植民地出身の人は、宗主国の言葉で書かなければならないのか。それでは、この全集に含まれているような、中国やベトナムの作家の作品はポストコロニアル文学とは呼べないのか。また、元植民地の人は宗主国の言語で文学した場合のみポストコロニアル文学だといえるのか。
  2. 元植民地の支配者民族と被支配者民族の書き物が、同じポストコロニアル文学という枠組みにくくられてしまって良いのか。政治構造から考えれば、植民地の支配者民族と被支配民族は、互いに対立し合ったり、憎しみあったり、ときには互いに戦闘するかもしれない、究極の相反する極限にあるのではないのか。それなのに、旧支配民族の書き物もポストコロニアル文学に価するのか。

上記のような疑問が浮かんでこなかった人は、池澤の議論の斬新さときわどさを見逃してきたということになるわけです。しかし、結論的に言ってしまえば、ポストコロニアル文学というのは、この池澤の簡潔な定義で間違っていない。サイードやバーバ、とりわけアッシュクロフトの『ポストコロニアルの文学』といった論客の議論を整理すると、そう断言するしかない。この議論に賛成だろうと反対だろうと、それがポストコロニアル文学と文学批評の立場なのだとしか言いようがないわけです。もしこのヴィジョンが気にくわないのならば、むしろポストコロニアリズムを批判すべきだと言い換えることも出来る。(ポストコロニアル文学とポストコロニアル費用の違いはないかとか、他にもさまざまな問題が含まれているが、ここでは省略する)。

さらに、ポストコロニアル文学論の命題は、次のような非常に重要な議論へと展開されるはずです。



①韓国あるいは中国は植民地化ないしは半植民地化した民族ではない。

②ポストコロニアル文学の観点から言えば、植民地の支配者と被支配者が、「周辺」的な領土において空間と時間を共有していたことに多大な意味がある。つまり、支配と被支配者の対立関係は絶対的なものではない。


韓国が日本の植民地ではなかったという議論をすると、韓国系の人間・研究者が猛反発することが予想されます。また、現に私は何度もそういう体験はしている。その気持ちは分からないわけではない。というのは、彼らの考える植民地支配とは、異民族に対し物理的ないしは文化的社会的な暴力的支配を行うことであると定義しているからである。したがって、もしかつての朝鮮半島は植民地化されてなかっと指摘すれば、日本帝国主義の非人間的な暴力を無かったことにしてしまうとする良からぬ動機を勝手に想定してしまうからだ。

朝鮮・韓国系の立場の人たちの気持ちが分からないわけでは無い。だが、私の議論は、帝国主義的暴力の存在を否定する議論とは全く無関係である。日本は、他の列強と比べて相対的によいことをしたとか、近代化に貢献したとかという話ではない。そうではなく、大日本帝国の物理的文化的暴力にもかかわらず、朝鮮半島は根本的な文化変容(=植民地化)しなかったという議論であり、むしろ民族の文化的力量を称える立場なのである。(続く)


参考文献


P.S. このブログでは、本橋哲也の「ポストコロニアリズム」は、誤解と思いこみに基づいた議論の積み重ねをしてしまっているという立場を取っています。文学者が未熟に政治化したなれの果てなのでしょう。良い本を沢山翻訳している先生なのですが。

2009年11月4日水曜日

A Hero of our Time - The New York Review of Books

A Hero of our Time - The New York Review of Books

レビーストロースがなくなったそうだ。
1963年のスーザン・ソンタグのレビーストロースの構造人類学の書評が、最新号のNYRBに掲載された。

2009年11月3日火曜日

池澤夏樹の批判(3)ーー文学と社会科学

昨夜というか今晩というべきですか、2009年11月2日の池澤夏樹の放送は熱がこもっていて良かった。良い文学や小説を味わった感激がよく伝わってきました。私も、バオ・ニンの『戦争の悲しみ』は購入してしまいました。

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しかし、先週のはちょっといただけなかったな。フランスの作家トゥルニエの『フライデーあるいは太平洋の冥界』の紹介なんだけれども、はっきり言って稚拙な図式主義を振りかざしていたように思う。

私自身が読んだのは『フライデー』と全く同じものではなく、彼が子供向けに書いた『新・ロビンソンクルーソー』(榊原晃三訳、岩波書店/岩波少年少女の本24)のほうです。しかしその本の解説によると、セックスの部分だけを削除したのが子供版だったはずですので、大きな違いはないでしょう。(「印象的だったのは、二人だけなのに口で話をするのは面倒だから、たがいに手話でやりとりしようとフライデー(というかヴァンドラディ)が提案したこと、そして、手話記号の一覧表のイラストが詳しく掲載されていたことでした)。


さて、先週の池澤の何が不満だったかというと、またしても、文学の輩が社会科学者のナイーブな単純化の受け売りをしてしまったということです。

ああ、良かったら岩波文庫の『ロビンソン』の翻訳者の解説を見てください。東大英文科の英文学者平井 正穂教授が、大塚久雄のロビンソン解釈の受け売りをしているのです。大塚久雄の近代主義的な解釈が、原作を強引にねじ曲げた誤読であることは、たとえば岩尾 龍太郎だとか、正木 恒夫植民地幻想』といった著作をご覧いただきたい。問題は、大塚近代主義だけではなないのは明白でしょう。(上)(下)二冊の翻訳まで引き受けた東大の文学部教授が、たとえ当時多大なる影響力があったとはいえ、英文学の解釈について、一経済史研究者の受け売りをしてしまったと言うことです。こういうことは、独り平井教授のみならず、日本の文学研究の本質に関わる大問題ではないかと密かに思っています。

話が少々脱線してしまいました。要するに作家・池澤夏樹がテレビで述べたのは、平井教授と同じような単純な二分法に陥っていた訳です。つまり、デフォーの『ロビンソン・クルーソー』は、実に勤勉なプロティスタンティズムの精神の具現化でありましたとか、原住民のフライデーを従者と扱っていました、しかしトゥルニエとなると、レビー・ストロースの『野生の思考』の影響も受けて、全然違っていますよ、というのです。

つまるところ、

  デフォー:トゥルニエ
=モダニズム:ポスト・モダニズム
=プロ倫禁欲主義:脱宗教的な「遊び」
=原住民奴隷思想:原住民友愛思想

だというのです。

池澤のトゥルニエの説明はそんなに的を外しているとは思いません。だが、デフォーの『ロビンソン』はちょっと違うだろうと言いたいのです。まず、正木が説得的に主張していますが、デフォーはプロ倫(Max Weber)的な勤勉人ではなく、重商主義的発想が強いギャンブラーなのだ。それから、ロビンソンはかなり柔軟な思考力があって、案外良い奴なんだ(笑)。僕自身、デフォーの帝国主義・植民地主義の精神を暴露してやるぞという気持ちで『ロビンソン』を読んでみたのだが、どうもそれは私の偏見でしかないと思い知らされたのだ。むしろロビンソンは優柔不断で、あれやこれやと思い悩む奴なのである。

もちろん、小説の中でロビンソンはフライデーの反論にも耳を傾けているのだ。いま手元にあるのは、Dover Thrift Editionsの米2ドルのRobinsonなのだが、その160頁にはこんなことが書いてある。

[Robinson ]’Friday, God is stronger than the devil, God is above the devil, and therefore we pray to God to tread him down under our feet, and enable us to resist his temptations and quench his fiery darts'.

[Friday] 'But if God much strong, much might as the devil, why God no kill the devil, so make him no more do wicked?'

I was strrangely surpursed at his question・・・
フライデーの鋭いつっこみで、ロビンソンはもうタジタジとなってしまうのである。こんな具合で終始しているから、デフォーの古典的名作は決して簡単に侮れるような代物ではないのだ。まあ池澤だって本当は分かっているとは思うが、そういう単純な二分法の枠組みにぴったりと当てはまらないからこそ、文学の古典として生き残っているのだ。だからこそ、パロディを作りたくるというものなのであろう。


そういうわけで、先週(2009年10月)のは、ちょっと残念でした。なお、デフォーの『ロビンソン』は東大の文化人類学教授でもあり、現在は文学翻訳家としても活躍している増田義郎先生による新訳が出ている。完訳 ロビンソン・クルーソー』である私は未読であるが、ぜひとも読んでみたい。(余談だが、ロビンソン・クルーソーが28年間滞在したとされるトバゴ島というのは、V.S.ナイポールの出身地トリニダード島とともにトリニダード・トバゴという国を作っている)。

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2009年11月2日月曜日

池澤夏樹のポストコロニアリズム文学批判(2)ーーその偉大なる功績

私はさんざん池澤夏樹の書いていることについて文句を書いたし、これからそういうことになるかもしれない。だが、それにしても一度は功績を大いに褒めておきたい。ポストコロニアル文学が読んでおもしろいものだとハッキリ断言し、しかも商業的にも大きく成功せしめたこと(成功したと思うが)、多くの読者を獲得したということは、称賛に値する。これだけで十分文学史に残る作家となったと言いたいくらいだ。

作家と言うのは学者ではないので、分かり易い書き方でハッキリとが書くことが出来る。狭い学者の枠組みに閉じこめられないのである。池澤の真価もそこにある

たとえば、ある非常に優れた学者、ポストコロニアル英文学については日本を代表すると思われる英文学者・中井亜佐子の著作を例に考えてみよう。氏は最近ポストコロニアル文学について、日本語で最も重要な研究書であり教科書である『他者の自伝』―これから少なくとも10年は日本の英文学徒の間で読み継がれるであろう―を書いて出版した。だが、非常に残念なことだが、英文学という専門家世界の領域をほとんど一歩も超えようとはしなかったのである。一般読者の知りたい素朴な疑問といのは、つまり、その本が面白いのか、わざわざ英語で読むに値するのか、その本が古典的評価を得ているのは何故なのか。もし重要だったり感動的なモノだとするなら、それがどのように素晴らしいのか。また、我々日本人が、言及されたようなポストコロニアル英語文学を読むことによって、どんな意味や意義があるのか。さらに言えば、地域研究系・社会科学系の読者にとっての最大の関心事だとおもうが、ポストコロニアル文学を研究をすることによって、お前はどのような政治的見解をとっているのか、ということだ。しかし、そういったナイーブで切実な問について、学者的な幻惑でしか応答するだけだったのである。(とくにナイポール論においては、重要な議論となるべきはずだ)。

要するに中井氏は、英文学という学界の中で共有された土俵の中でのみ議論を展開してみせたのだ。それは致命的な問題ではない。だが、やはり残念に思う。文学というのは、文学研究者のためにだけあるものでなないからだ。書評ではありえない、専門家的研究というのは、寂しい限りではないか。

より深刻な問題は、ポストコロニアルという問題意識が、たとえば政治学・社会学、あるいは、地域研究やエスニック・スタディーズのような領域を含みこんでいることに由来する。いったい異なる専門分野の人のどれほどが、中井の声に耳を傾けるだろうか。おそくらは、日本でポストコロニアリズムを研究していると自称している朝鮮(韓国)や沖縄関連の研究者の大半は、中井亜佐子ーー繰り返すが、中村 和恵と並ぶ日本語圏の代表的ポストコロニアル英語文学研究者だと思うーー氏の名前を知らないのが現状ではないか。

「ポストコロニアル」とか「ポストコロニアリズム」といった専門用語(?)が、事実上、文学研究者(とその周辺)と地域社会研究(とその周辺)とに分断されてしまっているのだが、中井氏の書物はそのギャップを埋めるものにはならなかったのである。


以上のような状況があるからこそ、池澤夏樹が光ってくる。読むに値する文学であると一般読者に語りかけ、紹介の労を引き受ける著名人がいるということは、ポストコロニアリズムやポストコロニアル文学にとっては、実に貴重で、有り難いことだ。

では池澤の選んだ選集は、氏の説明を超えて、どのような波紋を投げかける潜在的可能性があるのか。まず、指摘しておきたいのが、いわゆる「ポストコロニアリズム」とか「ポスコロ」とかいうとき、一般読書人は文学的な用語だとは解していないということだ。サイードやバーバが文学研究者だと知らない人がいても不思議ではないくらいだ。そこでちょっとWikipediaの「ポストコロニアル理論」を引用する。

20世紀後半、第二次世界大戦によりヨーロッパが没落し、世界が脱植民地化時代に突入すると、それまで植民地だった地域は次々に独立を果たしたが、こうした旧植民地に残る様々な課題を把握するために始まった文化研究がポストコロニアリズムである。ポストコロニアリズムの旗手エドワード・サイードが著した『オリエンタリズム』(1978年)の視点がポストコロニアル理論を確立した。

例えば、ヨーロッパで書かれた小説に、アジア・アフリカなど植民地の国々がどのように描かれているか、あるいは旧植民地の国々の文学ではどのように旧宗主国が描かれているか、旧植民地の文化がいかに抑圧されてきたかといった視点で研究する。一般に、旧植民地と旧宗主国またはその他の国との関係性に着目し、西欧中心史観への疑問を投げかけ、旧植民地文化の再評価のみならず、西欧の文化を問い直す視座を提供する。日本の場合、ヨーロッパとの関係、アジアの植民地との関係においても考察の対象になる。

上記の説明は、おそらくは、英文学や仏文学専門の人をのぞけば、大多数の人がポストコロニアリズムに抱いているイメージと近い。「ポスコロっていうのは、従来親しんできた西欧文学について、「オリエンタリズム」の観点から批判(糾弾)していくんだろう」というものだ。たとえば、フランス人作家カミュはアルジェリア出身なのでアラブ人に偏見のある描き方をしたとか、ドリトル先生やシャーロック・ホームズ、オーギュスト・デュパンには、英米の旧宗主国的偏見が見え隠れしているとか、そういった点を洗い出そうとするのがポストコロニアリズムなんだろうという理解である。

ところが池澤夏樹が「現代的で面白い」という観点から選んでしまった全集は、黒人やアジア人を差別する立場の書き手が盛りだくさんだ。しかも、帝国主義や植民地主義を自己批判するような作品であるとは限らない。それなのに、黒人差別をする側の民族の書き手と、黒人の書き手を、「面白い」という尺度で褒めあげてしまうのが池澤夏樹である。

池澤はWikipediaに代表されるような「ポスコロ」理解を真っ正面から否定してしいることになるのだ。池澤の最大の功績はここにある。そして、池澤の提示した政治的曖昧さこそが、ポストコロニアル文学的発想なのだと私は強調したい。(続く)


P.S 今日の放送(『戦争の悲しみ』)は良かった。先週はちょっと酷いと思ったけれど・・・。

2009年11月1日日曜日

BBC World Book Clubは必聴Podcastだ

この2009年9月にはApple社から新しいiPodが発売されたので、さっそく購入しました。すると自然にPodcastなるもの、あるいは、iTunesUなどに興味を寄せることになった。いずれもパソコンがあれば視聴できるものなのだが、いままでは無関心でいただけのものだ。だが、それにしても、すばらしい財宝が無料で放映されていることに気がついて驚いた。たとえば、コナン・ドイルのインタビュー映像とかがいつでも好きなときに見ることが出来るわけだ。

さてポストコロニアル文学愛好家となれば、次のPodcastは絶対に聞き逃してはならない。
BBCのWorld Book Clubである。(私のiTUnesではうまくiPodに取り込めないが、今回は技術的な話は書かない。私が詳しくないからなのだが)。

近くの散策のお供にと何気なく持ち運び聴いてみたら、なんとギュンター・グラスが生登場しているじゃないですか。もちろん英語です。そして、「『ブリキの太鼓』の太鼓はどういう意味なのか?」とか、世界の一般読者(?)が電話や手紙で質問攻めにするという趣旨の放送なのでした。面白いのが読者がパキスタン人だとかエジプト人(?)だとかで旧英植民地などの世界中の人だったことだが、その件はさておき、調べてみるとこのWorld Book Clubの他の出演する作家さんたちが実にポストコロニアル文学的な作家名が並んでいること。(実はまだ聴いていません)
Chimamanda Ngozi Adichie--池澤夏樹が週刊誌で翻訳本を絶賛していたナイジェリア人若手女流家。久保田のぞみ先生の翻訳である。
他にも Nawal El Sadaawi, Moshin Hamid, Toni Morrison, Derek Walcott, Alice Walkerと並ぶのだ。

まずはBBC World Book Clubの紹介まで。(iTuensでの同期はちょっと難しいみたいですが、mp3音源をダウンロードすることは簡単です。時間は1時間近くあります)。

2009年10月29日木曜日

サイードとリース『サルガッソーの広い海』

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ところでジーン・リース『サルガッソーの広い海』について、一言だけ書いておきたいことがある。池澤は、ポストコロニアリズムやフェミニズムいった理論的枠組みでのみ優れているだけではなく、小説技術においても見事であると述べている。なるほど、もしかしたらそうなのかもしれない。しかし、そういうことは脇においておくと、基本的にはスカッとする小説などではなく、物悲しい、不安定ななかに溺れて消えていくような小説だ。最後は自殺していくが、小川未明の「人魚姫」を思い起こさせる。

決して、魅力のある女性主人公が、イギリス宗主国の暴力の前に打ちのめされれたという話ではない。最初から軽くてふわふわした女性が、消えていく悲劇なのである。そして、作者が76歳で完成させた小説である。まさに晩年の小説ではあるまいか。このことをもっと考えてみたいと思う。

いま、思い浮かべるのが、最近翻訳出版されたサイードの『故国喪失についての省察2』(みすず書房)に所収されている最も興味深いエッセイ「敗北とは何か」だ。このエッセイは、「ハワイ原住民の権利といった大義を信奉するのに、いまは相応しい時機ではないと感じる」(p270)という話から始まり、私にはしびれるモノだった。なぜならば、私がハワイ大学の大学院生のおろ、ハワイ人の講演があり、そういう話題が持ち上がったからだ。

サイード自身は「説得力のあるかたちで考えぬかれたものであるならば、なんであれどこかで他の場所で、他の人々によって思考されるに違いない」(アドルノ)という確信をもちうる。だから、真に敗北した大義などは存在しないと結論づける。

サイードは安易にこのような結論に至っているのではない。その途中で、スウィフト、フローベール、セルバンテス、ハーディ等が、敗北をどのように表象してきたのかに言及するのだ。それらに共通するのは、「作家生活の終わりの近くになって執筆されたということだ」(284頁) あるいは「若い頃に抱いた野心や大望がはたして成就したのかどうか、締めくくりをつけ、判断を下し、得失を勘定すべき時期である」(同頁)。

ジーン・リースが最晩年まで拘った「サルガッソーの広い海」のもの悲しさを、サイードの指摘とともに考えてみたいと思う。


なお、私のような文学素人として、特別な驚きだったことをもう一つ付け加えておきたい。というのは、昔、J.M.Coetzeeの自伝的的小説Youth を読んでいると、 Ford Madox Fordに若い頃憧れたと書かれてある。それから藤永 茂先生のコンラッド批判の文章を読んでいると、コンラッドがFord Madox Fordと共著(短編)を書いている。どんな人なのかと思って調べてみると、ジーン・リースを愛人にしていたモダニズム文学者・編集者であることが分かった。これらの白人文学者たちは、いずれもポストコロニアル文学としてよく論じられているのだが、互いに知的に人的に深くつながっているのである。文学研究者がでどのように論じているのか(あるいは論じていないのか知らないが、大変面白いと思った。

2009年10月28日水曜日

池澤夏樹の「ポストコロニアリズム文学」批判(1)

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池澤夏樹は、戦後日本作家の中では、ポストコロニアル的な問題意識について早くから目覚めた希有な作家であると前から思っていた。彼の小説作品には、一般にポストコロニアル文学として流通してよさそうなものも何冊があるのだ。だから、彼が新しい世界文学全集を編集するにあたって、ポストコロニアル文学全集と呼べるようなものを造り出してしまったことについてはあまり驚かない。

池澤は、2009年の10月からNHK教育テレビの月曜日夜10:25から「探究この世界 池澤夏樹の世界文学ワンダーランド」という放送を始めた。同時にNHK出版から『世界文学ワンダーランド』 というテキストも出版した。そこには、「世界文学を再定義する」いう言葉があり、さらに、「『ポストコロニアリズムとフェミニズム』の視点から世界を見直す」といった、氏の基調論点がはっきりと明示されている。事実、選ばれている小説も、ポストコロニアル文学的なものが多い。従来の世界文学全集とは異なって、旧植民地やヨーロッパの小国出身の作家、あるいは中国・ベトナムの作家も含まれている。私はその選び方についてはとくに大きな異論はないし、むしろ、魅力に充ちた、ぜひとも読んでみたい全集だと言いたい。ところが、半ば予想できてはいたのだが、池澤のポストコロニアル文学の提示の仕方は、自己欺瞞と教条主義に彩られているのである。

私は、それでも興味津々で、ジーン・リース『サルガッソーの広い海』 について池澤がTVでどのように語るのか、伝えようとするのか、聴いてみた。2009年10月19日(月)の放送だ。この小説はシャーロット・ブロンテ『ジェーン・エアー』にほんの少しだけその声が聞こえてくるカリブ海出身の凶女について、カリブ出身の女流作家リースが書き直したパロディ小説として有名である。ポストコロニアル批評家のスピヴァックも大いに論じているもので、ポストコロニアル文学に興味のある人の必読書となっている作品だ。

案の定、残念すぎる内容だった。一部の英文学(あるいはフランス文学)関係者を除けば、ポストコロニアル文学について詳しい人はあまりいないだろうが、予備知識のない一般視聴者を誤った理解に導くような、きわめて欺瞞サヨク的な、あるいは「戦後知識人的」見解を、池澤は安易に語ってしまっていたからある。

ポイントを端的に言おう。ジーン・リースの作品、あるいはポストコロニアル文学について、「植民地の独立ともに生まれた文学である」とか「(文学作品を通じて)植民地の人たちを偏見から解放したのです」とNHKのアナウンサーに語らせてしまったのである。あるいはNHKの読本では次のように書かれてある。

『サルガッソーの広い海』はポストコロニアリズムとフェミニズムの両方の原理が濃く入っている作品ですが、とりわけ本国による支配に対する文学的反逆として非常にうまくいった例です。結局、あなたたち本国は自分に都合のいいように植民地を扱ってきた。経済貿易の面では植民地を大いに利用し、余情人口のはけ口にしたけれども、人間の面では植民地生まれだからだめなやつだと決めつけて、『ジェイン・エア』のバーサのように悪役・嫌われ役をふってきたでしょう、とジーン・リースは言いたいのです(55頁)

さらには、ジーン・リースの置かれた立場を沖縄・朝鮮・アイヌの人々と対比したり、挙げ句の果てには日本には西欧のような差別があまりないとかいった話にまで至ってしまうのだ。

常識的判断力があるのならば、池澤の議論がちょっと変であることに気付くかも知れない。そうだろう、いくらジーン・リースが旧英領ドミニカ(現在はドミニカ国)の植民地出身者であり、イギリス本国で貧しかったり、つまはじきになっていたとしても、所詮は白人支配階級出身の作家ではないか。植民地出身の白人支配階級の文学が、「植民地の人々を偏見から解放」したりするのであろうか? あるいは、むしろ、植民地における異民族支配を正当化する書き物かもしれないではないか。実際、カリブの島々の過酷な搾取や支配に対する批判的文章は、ほとんど『サルガッソーの広い海』からは読みとることはできない。もちろん反植民地主義だとか被支配民族解放を示唆するような箇所は一つもない。なにしろ主人公は植民地生まれでイギリス人に凶女にされてしまった女かもしれないが、要するに、奴隷農園で大儲けした民族の側にいるのだ。

植民地主義や帝国主義の暴力批判の洗礼を受けた人ならば、さらに疑問は広がっていくはずだ。というのは池澤の文学選集の作品をちょっと調べてみるとわかるのことだが、書き手はほとんどの場合植民地の支配者民族に属しているのだ。選集の中での唯一の例外といえるのは、アフリカのチュツオーラによる『やし酒飲み』だけなのだが、これも英語で書かれたものだし、何だかオバカで不思議なアフリカン落語という風である。文学的な評価はさておき、ファノンやリサールが描いたような反植民地主義的思想に裏打ちされた書き物を期待すると、完全に肩透かしを食らう。ましてや「植民地の人たちを偏見から解放する」ものとしてはあまり役に立ちそうにない。

それ以外の作品はとなると、さらに戸惑うことになるだろう。たとえば、池澤はデュラスの『太平洋の防波堤』『愛人』を選んでいる。デュラスはフランス帝国支配下のベトナムで若い時代を過ごしたフランス人女性作家なのだが、彼女の作品が被支配民族であるベトナム人を解放する文学では断じてあり得ない。それどころか、むしろ「帝国的ノスタルジア」(ロザルド)に満ちた差別的作品だし、保守的な篠沢秀夫も『篠沢フランス文学講義』で証言しているように東洋人を見下しすオリエンタリズムが盛りだくさんという作風なのである。

「ポストコロニアル文学」というのは、本当のところ、植民地の被支配者のための文学なのか。むしろ、植民者支配者のための文化と文学にすぎないのではないか。そういう問が当然生まれても良いではないか。当然のことながら、なぜ池澤は我々にそういう怪しげな作品を勧めるのか問いただしたくなるはずだ。これはなにも池澤個人に問いかけるべき問ではない。他のポストコロニアル文学の作家や研究者やのひとり一人独りに投げかけたい問なのだ。たとえば故サイードに対しては、なぜコンラッドの保守的でケシカラン小説などを褒めるのか、と。(コンラッドについては藤永 茂『「闇の奥」の奥―コンラッド/植民地主義/アフリカの重荷』を参照のこと。すくなくとも、ベン・アンダーソンのような文化主義的東南アジア研究者は、サイード=コンラッドのような文学的スタンスは取らなかった。たとえば、Anderson, Under Three Flags: Anarchism And the Anti-colonial Imaginationを参照のこと。なお、サイードとアンダーソンのスタンスの違いについては、別の機会に書いておきたい)。

結論的に述べれば、ポストコロニアル文学およびポストコロニアル批評と言われる一群の読み物=書き物は、政治的には至極曖昧なのである。植民地の側からの対抗的書き物ではあるが、決して政治的進歩を代弁しているとは限らないのだ。このことは、再三繰り返して言明しておいた方がよいだろう。ポストコロニアルは反コロニアリズムでも反帝国主義でもないいのだ。また、白人植民者の文学的遺産を受け継いだという意味では、支配的文学でもあるのである。したがって、ポストコロニアル文学を論じるに当たっては、政治的進歩主義の尺度に照らして評価してはならない。

逆に言えば、政治的右翼・保守主義者が誤解しているように、サヨク主義の生き残り戦略に過ぎないから「ポスコロ」はダメだという議論は、完全に勘違いしている。たとえば、「東は東、西は西」という警句と『ジャングル・ブック』でよく知られるキプリングは、イギリス帝国主義の支持者として知られる作家だ。彼の政治的スタンスには辟易するのに、作品を読むと「うーん」とうなって論じたり引用したりすること。これが、もっともポストコロニアル文学的なのでだから。

池澤に帰れば、「うーん」と唸るべきところを、妙な政治的進歩主義で隠蔽しようとした点に最大の罪がある。素晴らしいポストコロニアル文学は、植民地の人を侮辱するケシカラン書き物かも知れないのだが、それにもかかわらず、読者をうならせる確かな何かがある。それを追求することが両義的で曖昧な文学作品の楽しみではないか。

池澤の進歩的知識人的発言にはまらず、池澤の選んだ文学作品をもっと真っ正面から読んでいこうではないか。 池澤夏樹には、くれぐれもご用心!

コロン作家の自己欺瞞を超えて(池澤夏樹批判)

そろそろブログを再開させよう。というのはNHK教育テレビにおいて、池澤夏樹がきわめてバイアスのかかった、ナイーブな論調を展開していたので、ちょっとムカツイテいるからである。

池澤はあたかもポストコロニアル文学なるものが、植民地住民の解放の文学であるかのように宣言しているのだ。しかも、そこで紹介されている小説が植民地の支配者の白人文学だったりするのだから、呆れて物が言えない。先週は『サルガッソー』について紋切り型の紹介をしたかと思うと、先日は『フライデー』についてこれもまた教条的な説明をしているのだ。彼は、本読みとして、あるいは一人の知識人として、大いに間違いを犯してしまったのだと言わざるを得ないのである。

自分が、いや我々が、本当は植民者(コロン)であるのに、そしてその立場を簡単に放棄できないのに、あたかも反植民地主義の先端を切ることができるかのような自己欺瞞が、池澤夏樹にはある。沖縄社会学者の野村ーー私は批判的に言及したがーーに、「お前は沖縄を植民化したコロン作家だろう!」と言われて、「NO!」と言ってしまった池澤だ。おそらくは相当お目出度いところがあるのだ。

よって、以降では、池澤の議論と、彼のアイヌ小説(北海道コロン小説)について論じようと思う。

2009年5月12日火曜日

脱植民地化の展望(木畑再考)

以前、このブログは始めた頃、歴史学者・木畑の文学研究者サイードの批判をとりあげた。そのうち、とくに重要だったのは、次の箇所だった。

歴史的コンテクストにあまり注意を払わずに、多様なテクストを「コロニアルな言説」として一様に読み解いていく体の作品においては、歴史のダイナミズムを求めるべくもない。ポストコロニアリズムというからには、植民地支配の確立の過程、支配をめぐるさまざまな闘争の過程、脱植民地化(政治的独立という意味での狭義の脱植民地化)の過程、さらに独立後の変化の過程を見通す視座が必要であろう

あらためて考えてみるが、木畑は自覚していなかった(!)にもかからず、非常に重要な論点だからである。なぜか

木畑の議論を敷延すれば、(1)植民地化の過程 (2)支配をめぐる諸闘争の過程 (3)脱植民地化と独立の過程についての視座が必要である、それなのに、サイードはそれを怠っているというのである。

よろしい。その通りである。だが、歴史学者たちのほうは、文化の脱植民地化の過程を射程にいれ、実証的に研究する準備ができたといえるのだろうか? いや、そういう意地悪な問いかけはもうやめて率直に問おう。文化が脱植民地化した適当な歴史的事例が存在するだろうか? 脱植民地化というのは、空しい夢だったのではないのか?

たしかに、たとえば、アイルランドが独立しアイルランド語が公用語になった。あるいは、フィリピンが独立してフィリピーノ語が公用語になった。だが、脱植民地化と言いうるような文化的変動にたどり着いたと言えるのだろうか? あるいは内的植民地となったアイヌ人やチャモロ人にはどのような展望があるというのだろうか?

実のところ我々は、不幸にも植民地化されてしまった文化について、その脱植民地化とはいかなる事態なのかということさえ見当もつかないのである。(なお、私は韓国やジャワのような民族については歴史的な被抑圧民族であったとおもうが、植民地化されたとは考えていない)。


植民地化された文化は脱植民地化されることはないと言い切って良いのだろうか。私には判らない。ただ言えるのは、いまのところ、植民地化してしまった社会は、その既成事実を前提のうえで、新たな世界の模索をしつづけてるかしかなかったということだった。ポストコロニアル理論家や文学者というのは、まさに植民地人が、植民地人でありながら文化的に貢献しようとする姿勢にすぎないのである。

たとえば、イレートの19世紀末フィリピン革命研究も、そういった作品の一つであった。要するに文化的に植民地化してしまった人々、すなわちカトリシズムの宗教と言語を受け入れてしまった人たちが、脱植民地化(あるいは脱カトリシズム化)することなしに、抵抗の論理を構築していったという事例研究であった。(イレートの研究について、フィリピン人の脱植民地化の試みであると誤読する研究者が多かったのだが、どう考えても甘かったのだ。決して脱植民地化できなかった人々が、彼らなりの努力をしていたという記録なのである。その証拠に、今なおフィリピン人は植民地的である)。

キリスト受難詩と革命―1840~1910年のフィリピン民衆運動 (叢書・ウニベルシタス)キリスト受難詩と革命―1840~1910年のフィリピン民衆運動 (叢書・ウニベルシタス)
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2009年2月19日木曜日

村上春樹のエレサレム

村上春樹のエルサレム文学賞の授賞式でのスピーチについて、多くの人が発言をしている。もしかしたら私がこれから書くことも、他の大部分の人と全く同じ見解なるかもしれないが、とりあえずの記録として記しておきたいと思う。

http://www.haaretz.com/hasen/spages/1064909.html


村上は次のように述べた。
"Between a high, solid wall and an egg that breaks against it, I will always stand on the side of the egg."Yes, no matter how right the wall may be and how wrong the egg, I will stand with the egg.


抗しがたいシステムである「壁」と、魂を持つ個々という意味での「卵」と区別し、人間「卵」の側にコミットするというのだ。それがどんな意味を持つのかといえば、ある意味で明白である。

What is the meaning of this metaphor? In some cases, it is all too simple and clear. Bombers and tanks and rockets and white phosphorus shells are that high, solid wall. The eggs are the unarmed civilians who are crushed and burned and shot by them. This is one meaning of the metaphor.


「壁」とはイスラエル国家が行使している軍事行動、すなわち爆撃機であり、戦車であり、ロケット砲であり、白リン弾を示唆する。これに対して、「卵」とは、そういった武力によって殺されていく非武装のパレスチナ市民のことである。

しかしながら、村上の言いたいことは、おそらくそういうことだけではなかった。いやむしろ、別のことに関心があったのかもしれないと思う。現に村上は、急いで次のように付け加えるの忘れない。

This is not all, though. It carries a deeper meaning
.

"a deeper meaning"とは何だろうか。

Each of us is, more or less, an egg. Each of us is a unique, irreplaceable soul enclosed in a fragile shell. This is true of me, and it is true of each of you. And each of us, to a greater or lesser degree, is confronting a high, solid wall.

抽象的で分かりにくく読めるかも知れない。しかし、私にはきわめて明快な事実を指摘しているにほかならないと思われる。

ここでは、「壁」をイスラエル国家とみなしておこう。だが、この時「卵」と言うのは、イスラエルによって攻撃されているパレスチナ市民だけではないのだ。なぜならば、イスラエル国家の内側にあるユダヤ教徒のイスラエル市民も、全く同じように「壁」に囲まれているからである。イスラエル人はパレスチナ人を壁に囲い込んだかのように考えているかもしれないが、実は彼らも、その「壁」によって囲まれてしまった「卵」なのである。

村上は、何度も何度もme, each of you, each of usといった表現を持ちながら、次のように続けた。

Each of us is, more or less, an egg. Each of us is a unique, irreplaceable soul enclosed in a fragile shell. This is true of me, and it is true of each of you. And each of us, to a greater or lesser degree, is confronting a high, solid wall.


私の理解するところでは、「卵」と言うのは決して非武装の市民だけではない。武器を持って非武装市民を虐殺していくイスラエルの兵士に対しても向けられている。だからここで何度も、「あなた達一人一人」が強調されているわけである。

そして村上は、若い頃に中国戦線に送られていった、亡き父親の話に転ずる。村上のお父さんは、毎朝、戦争で亡くなった敵と味方の双方に対して祈りを捧げていたのだそうだ。このお父さん話は、イスラエルという国家の中で生きるイスラエルの市民と兵士を念頭においているに違いない。イスラエルの「卵」が、イスラエルの「壁」に押しつぶされないことを祈ってものでもあろう。

The System in order to prevent it from tangling our souls in its web and demeaning them. I fully believe it is the novelist's job to keep trying to clarify the uniqueness of each individual soul by writing stories - stories of life and death, stories of love, stories that make people cry and quake with fear and shake with laughter. This is why we go on, day after day, concocting fictions with utter seriousness.



だが、村上春樹の「壁」の概念には、少々疑問に思うところがないわけではない。

To all appearances, we have no hope of winning. The wall is too high, too strong - and too cold. If we have any hope of victory at all, it will have to come from our believing in the utter uniqueness and irreplaceability of our own and others' souls and from the warmth we gain by joining souls together.

Take a moment to think about this. Each of us possesses a tangible, living soul. The System has no such thing. We must not allow The System to exploit us. We must not allow The System to take on a life of its own. The System did not make us: We made The System.


村上の「壁」あるいはシステムの説明は、彼の今までの小説の認識とよく通じ合っているように見える。だが、これほどまでに抽象的で、神秘的な「壁」は存在するのだろうか。たとえば問題を、パレスチナにおける虐殺問題のようなものに限定してしまえば、その軍事行動を指揮する何人かの政府要人を絞り込むことができる。彼らは決して、『ねじまき鳥』や『羊』のなかの、不思議な権力者のような存在ではない。むしろ、村上の前にはっきりと姿を現す普通の人間である。そして、彼らが実際に軍事行動を決定したのではないのか。言い換えれば、「壁」はそんなに神秘的でもないだろうし、それほど強固で高いわけではない。むしろ、現実に崩壊することを予期することさえもできるのではないのか。

村上の世界観と、村上の小説は、いたずらに権力とsystemを神秘化としているのではないか。村上春樹の世界観と、例えば司馬遼太郎の世界観とか絶対に交叉しないところであるが、この大いなるギャップがむしろ問題ではなかろうか。(司馬遼太郎に代表されるような、権力者を描く歴史小説が、歴史とシステムの人間化を目論んでいるのに対し、村上は歴史とシステムを「あまりにも高く、強く、冷たい」壁としてしまったのである。ある意味では、司馬的世界ーーあるいは司馬遼太郎の「世代」というのだろうかーーがサルトルと的な実存主義的歴史観、村上春樹はレビーストロース的な構造主義的な歴史観を反映していると言えなくもないではない。もっとも、あまりにも図式的な理解であることは否めないが)。


最後にもうひとつだけ疑問点を書いておきたい。それは村上スピーチの結びの言葉である。

I am grateful that my books are being read by people in many parts of the world. And I am glad to have had the opportunity to speak to you here today.


村上の小説は、確かに世界中にたくさんの読者を持っている。しかし、アラブやイスラムの読者はどれだけいるのだろうか。また、彼の発言は、イスラエルの人には届くかもしれないが、パレスチナの側には、全く届いていないのではないだろうか。すでにこういう村上に対する批判は多いと思うが、やはり一言述べておかずにはいかない。

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【英語全文】村上春樹さん「エルサレム賞」授賞式講演全文


 以下の英文は村上春樹さんが講演を終えたあと共同通信エルサレム支局の長谷川健司特派員(支局長)がエルサレム賞主催者から入手したテキストが基になっています。しかし、実際の講演はこれに少し修正が加えられていました。当日、長谷川特派員が授賞式会場の取材で録音したレコーダーを聞きなおし、実際に村上さんが話した通りに再現したものです。

“Jerusalem Prize” Remarks

Good evening. I have come to Jerusalem today as a novelist, which is to say as a professional spinner of lies.
Of course, novelists are not the only ones who tell lies. Politicians do it, too, as we all know. Diplomats and generals tell their own kinds of lies on occasion, as do used car salesmen, butchers and builders. The lies of novelists differ from others, however, in that no one criticizes the novelist as immoral for telling lies. Indeed, the bigger and better his lies and the more ingeniously he creates them, the more he is likely to be praised by the public and the critics. Why should that be?

My answer would be this: namely, that by telling skilful lies--which is to say, by making up fictions that appear to be true--the novelist can bring a truth out to a new place and shine a new light on it. In most cases, it is virtually impossible to grasp a truth in its original form and depict it accurately. This is why we try to grab its tail by luring the truth from its hiding place, transferring it to a fictional location, and replacing it with a fictional form. In order to accomplish this, however, we first have to clarify where the truth-lies within us, within ourselves. This is an important qualification for making up good lies.

Today, however, I have no intention of lying. I will try to be as honest as I can. There are only a few days in the year when I do not engage in telling lies, and today happens to be one of them.
So let me tell you the truth. In Japan a fair number of people advised me not to come here to accept the Jerusalem Prize. Some even warned me they would instigate a boycott of my books if I came. The reason for this, of course, was the fierce fighting that was raging in Gaza. The U.N. reported that more than a thousand people had lost their lives in the blockaded city of Gaza, many of them unarmed citizens--children and old people.

Any number of times after receiving notice of the award, I asked myself whether traveling to Israel at a time like this and accepting a literary prize was the proper thing to do, whether this would create the impression that I supported one side in the conflict, that I endorsed the policies of a nation that chose to unleash its overwhelming military power. Neither, of course, do I wish to see my books subjected to a boycott.
Finally, however, after careful consideration, I made up my mind to come here. One reason for my decision was that all too many people advised me not to do it. Perhaps, like many other novelists, I tend to do the exact opposite of what I am told. If people are telling me-- and especially if they are warning me-- “Don’t go there,” “Don’t do that,” I tend to want to “go there” and “do that”. It’s in my nature, you might say, as a novelist. Novelists are a special breed. They cannot genuinely trust anything they have not seen with their own eyes or touched with their own hands.
And that is why I am here. I chose to come here rather than stay away. I chose to see for myself rather than not to see. I chose to speak to you rather than to say nothing.

Please do allow me to deliver a message, one very personal message. It is something that I always keep in mind while I am writing fiction. I have never gone so far as to write it on a piece of paper and paste it to the wall: rather, it is carved into the wall of my mind, and it goes something like this:

“Between a high, solid wall and an egg that breaks against it, I will always stand on the side of the egg.”

Yes, no matter how right the wall may be and how wrong the egg, I will stand with the egg. Someone else will have to decide what is right and what is wrong; perhaps time or history will do it. But if there were a novelist who, for whatever reason, wrote works standing with the wall, of what value would such works be?
What is the meaning of this metaphor? In some cases, it is all too simple and clear. Bombers and tanks and rockets and white phosphorus shells are that high wall. The eggs are the unarmed civilians who are crushed and burned and shot by them. This is one meaning of the metaphor.

But this is not all. It carries a deeper meaning. Think of it this way. Each of us is, more or less, an egg. Each of us is a unique, irreplaceable soul enclosed in a fragile shell. This is true of me, and it is true of each of you. And each of us, to a greater or lesser degree, is confronting a high, solid wall. The wall has a name: it is “The System.” The System is supposed to protect us, but sometimes it takes on a life of its own, and then it begins to kill us and cause us to kill others--coldly, efficiently, systematically.

I have only one reason to write novels, and that is to bring the dignity of the individual soul to the surface and shine a light upon it. The purpose of a story is to sound an alarm, to keep a light trained on the System in order to prevent it from tangling our souls in its web and demeaning them. I truly believe it is the novelist’s job to keep trying to clarify the uniqueness of each individual soul by writing stories--stories of life and death, stories of love, stories that make people cry and quake with fear and shake with laughter. This is why we go on, day after day, concocting fictions with utter seriousness.

My father passed away last year at the age of ninety. He was a retired teacher and a part-time Buddhist priest. When he was in graduate school in Kyoto, he was drafted into the army and sent to fight in China. As a child born after the war, I used to see him every morning before breakfast offering up long, deeply-felt prayers at the small Buddhist altar in our house. One time I asked him why he did this, and he told me he was praying for the people who had died in the battlefield. He was praying for all the people who died, he said, both ally and enemy alike. Staring at his back as he knelt at the altar, I seemed to feel the shadow of death hovering around him.
My father died, and with him he took his memories, memories that I can never know. But the presence of death that lurked about him remains in my own memory. It is one of the few things I carry on from him, and one of the most important.

I have only one thing I hope to convey to you today. We are all human beings, individuals transcending nationality and race and religion, and we are all fragile eggs faced with a solid wall called The System. To all appearances, we have no hope of winning. The wall is too high, too strong--and too cold. If we have any hope of victory at all, it will have to come from our believing in the utter uniqueness and irreplaceability of our own and others’ souls and from our believing in the warmth we gain by joining souls together.
Take a moment to think about this. Each of us possesses a tangible, living soul. The System has no such thing. We must not allow the System to exploit us. We must not allow the System to take on a life of its own. The System did not make us: we made the System.
That is all I have to say to you.

I am grateful to have been awarded the Jerusalem Prize. I am grateful that my books are being read by people in many parts of the world. And I would like to express my gratitude to the readers in Israel. You are the biggest reason why I am here. And I hope we are sharing something, something very meaningful. And I am glad to have had the opportunity to speak to you here today. Thank you very much.