2008年8月28日木曜日

テンプル・グランディン:アスペルガーのヒロイン [ EP: 科学に�

テンプル・グランディン:アスペルガーのヒロイン [ EP: 科学に�

これも、面白そうなHPである。

火星の人類学者(動物学者)の本 『動物感覚』

テンプル グランディン というのは、非常に重要な火星の人類学者あるいは火星人動物学者みたいですね。これも、笙野ファン必読でしょう。というか、俺だけ知らなかったのかもしれないな。 動物が大好きで、笙野頼子が好きな人、たとえばキムカナさんとかは、たぶん読破しているに違いない。まったく、うかつだった! こういう世界があるとは。さっそく、BetterWorld.comでペーパーバックを購入することにした。

なお、「三匹の猫」の竹下節子さんも必読かもしれない。まったくスゴイ世界があったものだ。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

『動物感覚―アニマル・マインドを読み解く』

動物感覚―アニマル・マインドを読み解く動物感覚―アニマル・マインドを読み解く
Temple Grandin Catherine Johnson 中尾 ゆかり

日本放送出版協会 2006-05
売り上げランキング : 48482
おすすめ平均

Amazonで詳しく見る
by G-Tools


By kingyo.K.K - レビューをすべて見る
著者のテンプル・グランディンについては、随分前にオリバー・サックスの「火星の人類学者」を読んで知った。自閉症でありながら動物科学者であり動物に深 い愛着を持っている。彼女が考案した食肉処理施設は、家畜に不安や苦痛を与えないように設計されており、世界中で使われている。彼女は人に抱きしめられる とパニックを起こしてしまうので、家畜を押さえる締め付け機を改良して使い、自分が気持ち良いだけの圧力をかけてリラックスする。こんな話が印象に残って いて、いつかこの人の自伝を読もう、とずっと思っていたら、この「動物感覚」が出た。
「動物感覚」を読んで、テンプル・グランディンの活躍が想像よりもはるかに凄いことが分かった。家畜が人道的に扱われているかチェックするため に世界中を走り回っている。監査方法も理路整然と無駄がなく効果的で惚れ惚れしてしまう。もちろん動物科学や自閉症の研究もしている。動物が世界をどう感 じているか、人間とどう違うのか、人間が動物にどう関わっているのか、実験、観察の結果を述べる研究者でありながら、まるで動物の代弁をしているようでも ある。自閉症患者と動物は似ているところがあるそうだ。やや専門的なところもあるが、たいていは理解できる。へぇ、そうなんだとビックリすることや哺乳類 の一員として妙に納得してしまうところもある。動物に関する蘊蓄が増えた。「哺乳動物と鳥はみな、自分たちを取りまく状況に好奇心と関心をもっていて、い いことが起こるのをほんとうに楽しみにしている。」という一文がとても気に入った。

5つ星のうち 5.0 人間と動物の狭間で, 2006/11/21
作者は自閉症の動物学者。幼少の頃より動物好きだった彼女は、長じて、自閉症の人間と動物の認識世界に共通点があることに気付く。自らを「人間と動物の間に立つ者」と位置づけ、読者を動物たちの意識世界に案内する。いやー、面白かった。

面白いのは、彼女にとっては、健常者の思考回路こそが「ミステリー」だったということだ。アカデミズムの世界と役所関連の仕事を通して、彼女はむしろ健常者の「現実を捨象する思考回路」に驚愕をする。特に頭の良い、観念思考に長けた人間ほど現実を見ないという。よってラディカルになり易いと。自閉症の思考回路は「具体的な事象を全て捨象せずに取り込む」のだそうだ。過激な動物愛護団体へ苛立ちを表明し、食肉処理場への行政指導で発揮される「頭の良い人間の無能ぶり」を指摘する。きっと仕事上で「観念派」の人間に随分イライラさせられてきたんだろうなぁ(笑)。ともあれ、動物と健常者の間で、両者と もを「不思議」と眺め続けた著者の視点が大変に新鮮だ。

近年の動物学の研究成果も多く紹介されており、人間と狼の関係史や、人間の言語獲得過程への考察、感情と価値判断の関係etc、一般読者にはいずれも目から鱗の話が沢山だ。
例えば、イルカは大量虐殺から快楽殺人から性犯罪までなさる動物だそうだ。どこが「平和の使者」だって。
動物に興味のある方、のみならず、動物を通して見える人間の姿に興味のある方、凝った文章は全く書かない著者さんで、大変に読み易い一冊です。 (強調はshaktiによる)


我、自閉症に生まれて我、自閉症に生まれて
Temple Grandin Margaret M. Scariano カニングハム 久子

学研 1994-03
売り上げランキング : 5974
おすすめ平均

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

自閉症の才能開発―自閉症と天才をつなぐ環自閉症の才能開発―自閉症と天才をつなぐ環
Temple Grandin カニングハム久子

学習研究社 1997-07
売り上げランキング : 63674
おすすめ平均

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

3匹のネコ

3匹のネコ: "自閉症"

「火星の人類学者」の動物観察や笙野頼子の猫論を理解するのに、役に立つ文章であると思う。

2008年8月27日水曜日

帝国主義と植民地(その1)

帝国主義と植民地

ここでおそらく暫定的な試みとなるであろうが、帝国主義という言葉と、植民地という言葉について、わかりやすい区別をしていきたい。これはきわめて重要な提案となるはずだ。

私は、次のことを提案をするつもりである。

  1. 帝国主義と植民地主義ないし植民地の区別をすること
  2. 植民地化とは文化と精神の支配であるとすること。
  3. 被植民地化した社会と、帝国主義に従属したにもかかわらず被植民地化されなかった社会との区別をすることである。


帝国主義と植民地主義にはしばしば区別されることなく使われることが多い。それでも次のサイードの定義はよく引用されている。

「帝国主義」という言葉は、遠隔の領土を支配するところの宗主国中枢における実践と理論、またそれがかかえる様々な姿勢を意味している。いっぽう「植民地主義」というのは、ほとんどいつも帝国主義の帰結であり、遠隔の地に居住区を定着させることである。(中略)私たちの時代において、あからさまな植民地主義はおおむね終わりを告げている。いっぽう帝国主義は、これからみているように、それがこれまであったところに、特定の政治的・イデオロギー的・経済的・社会的慣習実践のみならず文化一般にかかわる領域に、消えずにとどまっている。」(『文化と帝国主義1』40-41ページ)。


しかしながら、このサイードの簡単な区別では、ほとんどの人はその意味がよく分からないはずだ。 たとえば野村浩也の場合、「個別具体的な土地の住民に対して帝国主義が実践される場合のことを特に植民地主義という」(『植民者へ―ポストコロニアリズムという挑発』30ページ)と解釈している。つまり、帝国主義が「悪」で、植民地主義は「悪」を遂行するエージェントであるというわけだ。こういう解釈はもっともらしくもみえる。だが、これでは、「遠隔の地に居住区を定着させる」という契機を無視してしまうことになるだろう。また、植民地主義が終わったが、帝国主義は今なお存続しているというサイードの文章の意味を理解できなくなってしまうだろう。

それ以上に問題なのは、朝鮮系・沖縄系のいわゆる「ポスコロ」にありがちなのだが、帝国主義と植民地に関わる帝国側・植民地宗主国側が、すべて「悪一色」に染まってしまうことである。これではポストコロニアル文学・文化研究は非常に窮屈なものになってしまう。ここでは詳しい論評を避けるが、サイード、スピヴァック、バーバといった文学研究者あるいはクッツェー、ラシュディ、ナイポールといったポストコロニアル文学者たちの業績を否定してしまうことにもなるのだ。なにしろ、たとえばサイードの場合、帝国主義に荷担したり、レイシストでもある英語作家を敬愛しているときているのだ。あるいはサイードは南アフリカのアフリカーナ系白人作家なのだ。

ここで誤解なきように述べておくが、帝国主義を甘く評価するとか、部分的にでも承認したいというのではない。究極的には、サイード的に言えば対位法的に絡み合わせて理解するにせよ、帝国主義や植民地主義といったものから相対的に自律した社会的文化的空間を設定すべきだと主張しているのである。文学愛好家ならば、レイシストや帝国主義者が常に異人種を非人間的に描くとはかぎらないし、その反対に博愛主義者や平和主義者が異人種を人間として誠実に描くとは限らないことはご存知であろう。


て、「帝国(主義)」と「植民地(主義)」の二つの言葉の性質の違いをよく考えてみてもらいたい。「植民地主義」(colonialism)という言葉が指示しているのは、「植民地」(colony)ないし「植民者」(colonistあるはフランス語でcolon)という言葉だ。ところが、「帝国主義」(imperialism)と「帝国」(Empire)との間には若干の距離がある。ましてや、「帝国者」という言葉は普通には存在しないのである。それはどういうことなのか。

次のように考えたらどうだろうか。帝国主義は宗主国中枢からの権力発動という抽象的なシステムに貫徹する力の諸傾向を示唆している。他方、植民地主義の植民という言葉は、いつも具体的な人間と、彼らの行為・実践を指し示しているのである。つまり、宗主国等の様々な人間が遠隔地に移住すること、そこで開発開拓・軍事行政・教育布教活動などの様々な産業に従事することである。もちろん植民地とは、宗主国が移民を送り出す遠隔の土地であり、植民者とはそこにおくりだされる農業開拓民、聖職者、教師、軍人、官吏、技術者、文化人たちのことである。つまり、植民地主義はそういった人間たちを膨張的に送り出す理念のことなのである。(つづく)


文化と帝国主義〈1〉文化と帝国主義〈1〉
Edward W. Said 大橋 洋一

みすず書房 1998-12
売り上げランキング : 77957

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

水村美苗「日本語が亡びるとき」をめぐって


やはり水村美苗の「日本語が亡びるときーー英語の世紀の中で」『新潮』(2008年9月号)について書いておかなければならないと思う。mixi 上で紹介したら、私の知人・友人の多くが水村美苗の議論について、大いに関心を持ってくれたからだ。

さて、「日本語は亡びるとき」は日誌または小説の形態をとってはいるが、笙野やクッツェーの作品のような特別な「からくり」があるわけではなさそうだ。ここでは単なる評論とみなし、物語的展開についての言及は捨象しておこう

新潮 2008年 09月号 [雑誌]新潮 2008年 09月号 [雑誌]

新潮社 2008-08-07
売り上げランキング :

Amazonで詳しく見る
by G-Tools



さて、内容はといえば、ある意味では凡庸である。タイトルが示す内容そのままであり、必ずしも刺激的な評論とは言い難い。しかし、もちろんのことだが、この小説家独自の問題意識も散りばめられている。とくに興味深いのは、アメリカで教育を受けてきたにもかかわらず、「なぜ日本語の作家となったのか」というテーマ、あるいは、「なぜ私は英語の作家にならなかったのか」というテーマを水村美苗が抱いているからである(同書、171頁)。 英語と日本語の両方の世界に足を踏み入れた女性が、世界的に見ればマイナーな日本語という言語をあえて選び取ったのは何故か。こういうテーマを抱えている日本人作家が、日本語が亡びるときを論じるのだから、やはり読んでみないわけにはいかないだろう。何しろ水村美苗と言ったら、日本語と英語による本格的なバイリンガル小説『私小説 from left to right』の作者なのだ。


かつて村上春樹について、次のようなことを書いてみた事がある。村上春樹といえば、アメリカ文学を愛好し、グローバル化した社会に奉仕する、ネオリベ的で非国民的なケシカラン作家であるとしばしば批判されている。私はこの見解に半ば同意しつつも、村上春樹が彼なりの枠組みで日本語と日本語文学の枠組みにとどまっている事を論じたのだ。このグローバリゼーションの時代において、村上という作家はボーダーライン上にあるのだ。もしその気になれば、優秀なエディターを雇い、アメリカ語の売れっ子作家になることも可能だったではないか。それなのに日本人・日本語作家であることやめてないのだ。しかも、海外向けて作品を発表するばかりでなく、英語文学を日本語に翻訳するという地道な作業に取り組んでいる。彼なりにグローバリゼーションに対して抵抗をしているのだ、と。

しかし、村上春樹の後の世代が日本語文学にとどまるのか、たしかに心許ない。もし日本人の最大のベストセラー作家が英語で執筆する時代になってしまったならば、日本語と日本語文学は壊滅的なダメージを受けている時代の到来ではないか。

バイリンガル或いはフランス語を含めて三カ国語が堪能な作家・水村美苗は、どのようにして議論を展開しているのか。予想通りというべきか、水村美苗もベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』に言及している。しかも極めて批判的である。アンダーソンは、ヨーロッパ的な多言語主義の視点に立っているが、自分が英語を母語とする人間だから、英語が他の国語とは違う<普遍語>であることについて、十分検討していないというのである。<普遍語>に関しての思考の欠落があるのだ、というのだ。

水村美苗のアンダーソン批判は不当なものである。というよりは、アンダーソンとは異なる価値観の持ち主だと思うが、差し当たりその事について取り上げず、水村の論旨を追っていこう。水村の提案は、アンダーソンが探求を怠っていたという<普遍語>についての検討である。

水村は言う。<普遍語>とは、学問のための<書き言葉>であり、<読まれるべき言葉>以外の何ものでもない。<叡智を求める人>は、例えばガリレオやエラスムスは、ラテン語で書いたのだ。これに対して<現地語>というのは、下位のレベルにある言葉であり、<書き言葉>の有無は問わず、「女子供」と無教養の男のためのものでしかない。文学として意味を持つ散文が書かれる事は少ない。

他方、<国語>は<普遍語>でも<現地語>でもない。もとは<現地語>でしかなかった言葉が、<普遍語>を翻訳する過程において<普遍語>と同じレベルで機能するようになった言葉である。そして、近代の英仏独の<3大国語>は、<普遍語>と<現地語>を持ち合わせる言語となったのだ。そして19世紀になると、他の小国のヨーロッパ人たちも<自分たちの言葉>で書くべきだと考えるようになるのだ。<国語>の時代に入ったというべきであろうか。

ここで、水村はきわめて論争的な仮説をいくつか提示する。<国語>の時代に<学問>と<文学>とが別れるようになったのだ、そして、「人間とは何か」「いかに生きるか」といった問いは、専門化された<学問の言葉>には求められず、<文学の言葉>に求められるようになったのだ、と。もちろん文学、とくに小説の言葉を担うのは、<母語>あるいは<現地語>と<普遍語>の双方の性質を有することができた<国語>であった。

さらに追い打ちをかけるように、「この世に<真理>には二つの種類がある」(206頁)とまで述べる。テキストブックを読めばすむ<学問の真理>と、必ずテキストそのものにかえってそれを読まなければならない<文学の真理>があるというのだ。いわゆる科学の真理と、文体に宿る真理とがあるというわけだ。実にユニークな主張であることは誰も否定できまい。


以上のような前提で、水村美苗は日本近代文学が「亡びる」、いや、すでに亡びつつあると述べているのである。つまり、日本語で書かれた文学一般が消えて無くなってしまうというのではなく、<文学的真理>を備えた本物の日本近代文学が亡びつつあるのだと主張しているのだ。すなわち、英語が<普遍語>となり、<国語>の祝祭の時代が終焉すれば、<国語>はただの<現地語>と化す。そうなれば、<叡智を求める人>は<現地語>化したニホンゴ文学など読まなくなる。「<叡智を求める人>であればあるほど、日本語で書かれた文学だけは読もうとしなくなってきている」(209頁)、と。


水村の論旨をたどっていくと、そのキーワードは結局のところ、<真理><叡智を求める人>である。しかし、それでは日本の近代文学の<真理>とはなんだったのだろうか?おそらく、水村氏の考えでは、夏目漱石の小説に体現されているのであろう。だが、<文学の真理>なる概念によって評価される夏目漱石らの近代文学とは、いったいどういうようなものなのか。水村の今回の評論では、そういったことまでは論述されずに終わりになっている。一番肝心な議論のはずなのだが・・・。(続編は2008年秋というから、もう2-3ヶ月もすれば筑摩書房から刊行される予定である)


私が彼女の議論に少々違和感を覚えてしまうのには、いくつかの理由がある。まず、普遍語や国語で探求しようとしているのは、はたして彼女の論じるような<真理>だけなのだろうかなのかと思ってしまうからだ。たしかに水村は<学問的真理>とは別の次元の真理があると述べた。それは<文学の真理>である。だが、そうなると、たとえば信仰や美や愛の真理はいったいどこに属するのだろうか。水村はアンダーソンを批判して、普遍語の探求をしながらも、例にあげたのはガリレオやニュートンといったルネッサンス・近世以降の学者だけであった。逆に言えば、アウグスティヌスだとか、井筒俊彦が論じた諸賢人の名前は、全く取り上げれられなかった。だが、ラテン語やギリシャ語のような普遍語は、本来は神学や宗教的真理の探究のために学ばれたのではないか。要するに、近世・近代の世俗化した学問や近代文学(小説)の真理は、宗教的神秘的次元の真理についての探求は、禁欲したり括弧にくくったりしてしまったのであろう。そして、水村もまた安易に継承し、近世・近代的な思想に限界づけられている。私は中世的な信仰の世界に戻れと論じているのではない。だが、宗教的真理だとか祈り・信仰的次元を見ないできた近世以降の学問と文学を無条件に肯んじているのことを問題にしているのである。また、もちろんのことであるが、アメリカ語が<普遍語>になるとしても、信仰の次元において<普遍語>となるとは思われない。

私が今脳裏をかすめているのは、たとえば、笙野頼子の宗教的私小説がある。笙野は個々人が祈る心に焦点をあてつつ、日本近代(と明治政府ちゃん)を乗り越え、日本神話の再解釈・再構築というテーマにまで挑戦した。さらに国家語さえも根底から支えている神話の書き換えまで小説的に論じようとしている。あるいは、Ben Okriやターハル・ベン・ジェルーンのような小説。そういった現代の新しい小説は、水村の枠組みを挑戦するものなのではないのか。

もう一つの違和感――さきの違和感と大いにオーバーラップしてくるがーーは、ベネディクト・アンダーソンの解釈にも関わってくる。


水村は不遜なことに「アンダーソンは普遍語の意味を十分に考える必然性がなかった」(189頁) と述べ、アンダーソンをヨーロッパに典型的な多言語的知識人であると規定する。

だが、そうアンダーソンに保証されて、ワァーツと拍手をしても、家に戻ってきて正気に返ったとき、さあ、それではアンダーソンに倣ってインドネシアの言葉やフィリピンの言葉を学ぼうという気になる人がどれくらいいるであろうか(186ページ)
水村がどのような心づもりで書いたのかはわからない。だが、アンダーソンこそは、コーネル大学において長年多くの学生を魅了し、インドネシア語やジャワ語の世界にいざなってきた張本人ではないか。半世紀近くに及ぶでだろうベネディクト・アンダーソンの学問的・教育的業績を、水村美苗は真っ向から否定するつもりなのだろうか。もちろんのこと、水村はアンダーソンの東南アジアの言語内在的な文化主義的研究については完全に無視してしまうのだ(苦笑)。ポイントは何かといえば、水村美苗の方は<現地語>を余りに簡単に軽視しているということだ。つまり、ヨーロッパなどのマイナーな国語だとか、ジャワ語だとかのいわゆる現地語によって探求され明らかにされてきた様々な<真理>について、全く顧みようとしないのである

いとも簡単に、現地語の詩や小説などは、教養のない男や「女子供」の慰めでしかないつまらぬものであると決めつけてしまう水村美苗。女子供という言葉にカギカッコをつけても、結局は同じところであろう。要するに水村は、「教養のある西欧のブルジョア・インテリ男」の立場に立って物を語っているのである。私はここでも、笙野頼子を思い出す。
インテリから見たとき、今の私はもう見えないはずです。作品も読めない。今の私はいると困る存在です。だって金毘羅なんだし。メルロ・ポンティとドゥルーズ=ガタリのある本棚の中にある私の本を並べて楽しんでいた人達はきっと私を見て捨てるでしょう。熊楠と折口信夫が好きな人などはもとよりそうです。(『金毘羅』194ページ
この小市民の私、つまり、「戦後のロリコン達が口を極めて罵る凡庸な『私』」(『金毘羅』225ページ)の極私的物語は、水村美苗の中では取るに足らぬものと消されてしまうことになるのであろう。

「日本語は亡びる」という問題意識については、私が水村美苗に大いに共感する。<国語>から<現地語>に転落してしまうではないか、という議論もわからないではない。アンソニー・リードの『東南アジア史』を読めば、前植民地時代のフィリピンの詩と読み書きの伝統は、まさに「女」による「程度の低いもの」であるようにさえ思われることは否定できない。(注。ただしフィリピンは東南アジアの僻地であり、ジャワやタイのような独自の王朝文明が栄えた土地とは異なる。フィリピン諸語とインドネシア諸語とは文化の厚みが全然違うのである!なお、ベネディクト・アンダーソンにはジャワ語の古典文学の研究論文もある)。

しかし、明治近代文学を自明の前提とするような水村の議論の組み立て方には、やはり最後まで違和感を感じざるを得なかった。新しい時代を迎えようとするとき、近代主義的価値観に束縛された議論に終始してよかったのだろうか。



P.S. 水村美苗の危機意識、つまり日本語文学ばかりか、フランス文学のようなメジャーな民族文学までもが現地語文学に転落してしまうのではないかという恐怖についての論評を読んだ者は、ぜひとも小国文学者ミラン・クンデラの『カーテン』所収の「世界文学」を読んでみる必要がある。

欧州文学の先端を切っていたアイスランド文学の運命、国語消滅の危機におびえていたポーランド人と文学、ロシア支配のもとで本当に死滅する危機にあった中欧文学等々。翻訳の意義だとか、あるいは、大江健三郎の小説論だとか、刺激に富む議論ばかりである。大国主義者水村美苗とは異なる視点もうれしい。

カーテン―7部構成の小説論カーテン―7部構成の小説論
Milan Kundera 西永 良成

集英社 2005-10
売り上げランキング : 245735
おすすめ平均

Amazonで詳しく見る
by G-Tools



---------------------------------------------------------------------------
金毘羅金毘羅
笙野 頼子

集英社 2004-10
売り上げランキング : 168874

Amazonで詳しく見る
by G-Tools



Under Three Flags: Anarchism and the Anti-Colonial ImaginationUnder Three Flags: Anarchism and the Anti-Colonial Imagination
Benedict Anderson

Verso Books 2007-11
売り上げランキング : 61670

Amazonで詳しく見る
by G-Tools


Elizabeth Costello (Wheeler Large Print Compass Series)Elizabeth Costello (Wheeler Large Print Compass Series)
J. M. Coetzee

Wheeler Pub Inc 2004-04
売り上げランキング :

Amazonで詳しく見る
by G-Tools


(注)クッツェー「アフリカの人文学」が大いにヒントになっている。この小説では、架空の女性作家で主人公のエリザベス・コステロ主人公がアフリカ在住の姉ブランチを訪ねるのだが、そのブランチが名誉博士号授賞式で、挑発的議論を展開するのである。私は、その挑発的議論に大いに示唆されてしまったのだ。



2008年8月23日土曜日

天才と障碍(その3,笙野の冗長と鋭さ)

おそらく真面目に笙野頼子の読解に取り組む者にとって、彼女がアスペルガーかどうかということは、あまり大事なことではないかもしれない。しかしそれでも、アスペルガーという補助線を行くことにより、いくつかの事が理解しやすくなるような気もする。根本的なテーマの解明についての助けにはならないが、周辺的な謎を理解するのには役に立つ、そんな感じじゃないだろうか。

例えば、いくつかの作品は、余りにも「ブス」についての言及が多すぎ、辟易してしまう。「そこんところ、もっと要領よくまとめてくれませんか」と思ったものだ。しかも、笙野が大してブスでないことが判ってしまい、しらけてしまう(笑)。

大塚某との「論争」などは、はっきり言って面倒くさい。なぜそう言った事に読者がいちいちつきあ合わなくてはならないのか。もちろん大塚某を読もうとは思わない。サイードの御本を理解するためにコンラッド、キプリング、カミュを読み込んだ私だが、笙野のために大塚は断じて読まないぞ! (当たり前である)

そういったイライラ感は、笙野がアスペルガー的性格だったということで、腑に落ちるし納得できてしまうのだ。(もっとも最近の作品群に関していうと、書くべき実に莫大なテーマをしっかりと見据え、あまり無駄がないように思われる。ときには繰り返し同じことを書くが、ご愛嬌というレベルだ)。

また、ある種の深読みが不要になる。例えば、近現代の恋愛至上主義的イデオロギーの批判を笙野に読み取る必要もなくなるだろう。笙野は、あくまでも私的な話をしているのであって、恋愛至上主義イデオロギーを批判しているつもりはないのに違いない。


或いは、次の文章などは、笙野をアスペルガー的性格とみなしていけば、判りやすく解釈できる。

モラルは人間の体にある。寄生している金毘羅はそのモラルを演ずるのだ。愛情も演じてみているのだ。演じついでに信じてしまわなくてはいけないのだ。というか本当に人間になりたいのです。でもできれば人権だけいただいてどこかに逃亡したい。(149ー150頁)



しかし、次のような鋭い指摘は、笙野がアスペルガーかどうかということとは直接的には関係ない。とはいえ、アスペルガー的性格だからこそ、このように認識しそれを表現してくれたのかと感慨深い。


私の、金毘羅の目からみれば、つまりたとえば文学の世界で語るべきことが何もないと言っている人間は新しく語るべき現実から目を背けているだけだと分かりました。または「私などない」と言っている人間は自分だけが絶対者で特別だと思っているからそういう抜けたことを言うんだと見抜けました。(中略)大量死で文学が無効になったという人間も爆撃テロで文学が無意味になったという人間も自分は死んでいません。それとも出家でもする気なんでしょうか。(110ページ)

こういうことをしっかりと書いてくれる作家がいる事を、とてもうれしく思う。私の学生時代、柄谷も重要であったが、それ以上に重要な位置を占めていたのは、哲学者の廣松渉であった。廣松の議論は「共同主観的存在構造」であるから、いわゆるブルジョア的個人主義の哲学は否定される。そのことはよく理解できるのだが、どう考えても、心と体を持ち限界づけられた個々の観点を適切に論じているように思われなかった。そのことを広松派の友人たちに論じたりもしたのだが、誰も理解してくれる人はいなかったのだ。今考えてみると、私が抱いていたのは、哲学的領域というよりはむしろ文学や神学の主題に近いし、より文学的に論じるべきだったのだ。しかし、いずれにせよ広松的共同主観的存在論では、認知しえない課題があることは確かだったのだ。それを今、笙野頼子が引き受けてくれている!  なるほど、ついに現れたか! しかも、柄谷派の傲慢な発想を端的に指摘しておるじゃないか!


考えが「波動」になるだのお祈りが「粒子」になって万札を運んでくるだの。金毘羅は、むろん引っかかりませんでした。つまり金毘羅は言葉の中でしか生きられないがゆえに日本語というものいちいち言葉の通りに検討するからです。(115ページ)


これは痛快だ。(疑似科学批判のときに、オカルト批判の早稲田の教授を何度も何度も批判する事は、はっきり言って冗長すぎるのだが)。

要するに、言葉をいついかなる時であっても、雰囲気ではなくてロジックで理解しようとするから、こういう認識が可能になる。偽数学・偽科学によってごまかそうとする偽科学主義エリートをけっして笙野は許さないのだ。そのシツコサが偉い!


笙野アスペルガー説については、これまでとする。

異星の客 (創元SF文庫)異星の客 (創元SF文庫)
R.A.ハインライン

東京創元社 1969-02
売り上げランキング : 65545
おすすめ平均

Amazonで詳しく見る
by G-Tools


火星人の方法 (ハヤカワ文庫 SF 492)火星人の方法 (ハヤカワ文庫 SF 492)
小尾 芙佐

早川書房 1982-10
売り上げランキング : 141123
おすすめ平均

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

天才と障碍(その2)





以下は、笙野頼子の『金毘羅』のなかの文章である。

問題は実は私のほうにあるんだと思う。というのは要するに普通の家族というのは言葉なんかではコミュニケーションしてないからです。というよりそもそも日本国民の殆どはロジックに乗せてまともに日本語を使う能力などありません。矛盾した事をころころいいながら自分の感情だけ身振りだけを表現するのです。そして職場ならば力関係者で物事が決まります。家庭ならば言葉ただ身振りと感情でやりとりされて、愛情や調和があれば、それでいいのです。だから健全な子供は言葉なんかいちいち覚えていないのです。しかし金毘羅は言葉を全部辞書的に取るしかない。(106ページ)

家族はただこう言いたかっただけであった。「どうかこっちを見て、私達といて、現実に目を向けて」と。私には家族が見えていなかった。家族とは何かを判っていないのだし、家族とともに何かをしたり、そもそも一緒に何かを生きたりする能力がないのでした。(106~107ページ)

本当に人間のする事は判りません。何をするか判らないしそもそも人間にはまともな日本語を使えないのだ。金毘羅にとって、人間程恐ろしいものはありません。(108ページ)

日本特有の、「誰かとまずくなる」という事の問題でも買ってない。というかどうでもいいのです。また我慢強いと言われる事も多いのですが、自分が我慢している事を判っていないことも多いのでした。(108ページ)

私は「コモドドラゴンのようにしつこい」と生前の母から話言われていたのです。(中略)もともと金毘羅とは生存競争に弱いものなのです。ただ言葉や考えに容赦なく制限がないだけです。(中略)どんなに相手にしろ私が怖くしつこいのはしうちや金銭に対してではなくて、言葉に対してでした。(108ー109ページ)

しょせん、金毘羅は言葉やロジックでしか社会、人間と触れ合うことができないです。どうしてかというと人間のする事があまりわからないからだ。だから一言でいえば金毘羅とは迷惑なものです。しかしその一方言葉で触れ合うというのは実は非常に大切で主要なことでもしもこの国に1人もそういう能力のある人がなければ困るはずです。金毘羅はそういう世界こそ必要な「人材」でした。(109~110ページ)

あまり大きな声で言うつもりはないが、この文章を素朴に読む限り、笙野も、加藤一二三同様にある種の発達障害、とりわけ高機能自閉症またはアスペルガー症候群の可能性が高いのではないのか。決して笙野という作家を貶める意図はない。むしろ、アスペルガー的であることによって、作家として得難い才能を発揮したとも言いたい。

とりあえず、 オリバー・サックス著「火星の人類学者」というのを読んでみなくては。(続く)

火星の人類学者―脳神経科医と7人の奇妙な患者 (ハヤカワ文庫NF)
火星の人類学者―脳神経科医と7人の奇妙な患者 (ハヤカワ文庫NF)Oliver Sacks 吉田 利子

おすすめ平均
stars小説でさえあり得ないような内容こそ現実
stars正常な人間でいられる方が不思議。
stars自閉症を2つのまなざしから眺めると
stars障害は幸福の終わりではない
stars自分に巣食う「常識」を問い直す


我、自閉症に生まれて我、自閉症に生まれて
Temple Grandin Margaret M. Scariano カニングハム 久子

学研 1994-03
売り上げランキング : 31037

Amazonで詳しく見る
by G-Tools


Amazonで詳しく見る
by G-ಟೂಲ್ಸ್
金毘羅金毘羅
笙野 頼子

集英社 2004-10
売り上げランキング : 239709

Amazonで詳しく見る
by G-Tools


天才と発達障害(加藤一二三とADHD)

将棋の世界に加藤一二三という天才棋士がいる。18歳でA級八段にまで登り、神武以来の天才と言われた男だ。私は最近のプロ将棋の動向はよく知らないが、18段歳A級8段の記録はまだ破られていないと思う。また、60歳過ぎて加藤程活躍している棋士は極めて稀である。加藤のかつてのライバルたちは、殆どが引退したり、引退に近い成績に陥っている。例えば米長は加藤よりも年下なのに実質的引退だ。加藤より大分若い中原誠も、かつての精彩は全くない。ところが加藤は70歳近いのにまだまだ元気で現役なのだ。おそらく、将棋界始まって以来の大老人棋士となるであろう。

加藤は、同時に奇人変人として知られている。
ご飯をかつ丼ばかりを食べるとか、友達が1人もいないクリスチャンだとか、対局中に相手の棋士の背面に回って将棋盤をのぞくとか、あまり良くない噂ばかりである。しかし大きくまとめると、彼の奇癖は次の三つに分類できた。

①常識的に見たら必要もない序盤や中盤の局面で、超長考をしてしまう。(もちろん将棋指しにとっては、客観的に望ましくない習慣である。加藤一二三が今ひとつ成績が振るわなかったのはこれが原因であると言われている)。それでいて、長考の結果持ち時間が途中でなくなり1分将棋になったとき、正確な読みで異様に強くなる。

②しつこく同じ作戦にこだわる。(中原名人に名人戦で挑戦したとき、全部相矢倉で4連敗してしまった事がある)。

③対局中、貧乏ゆすりがひどかったりとか、落ち着きがない行動をする。

様々な棋士たちが加藤の悪口や批判を口にしていた。それはまあ、もっともなことかもしれないと思う。だが、21世紀の現在振り返ってみれば、加藤の奇癖は、 ADHD(注意散漫・多動症候群)にほかならない。貧乏ゆすりが多動性なのは言うまでもないが、とりわけ重要なのが、加藤の時間感覚のなさと超集中力である。

もし加藤が ADHD でなく、適切な時間配分が可能な棋士だったらどうなったのであろうか。もっと簡単に名人になれたのであろうか。或いは、むしろ、凡庸な普通のプロ棋士だったのだろうか。

2008年8月22日金曜日

野村たちの「ポスコロ」本の率直な感想

「弱者への愛には、いつも殺意がこめられているーー」
安部公房『密会』より)


本当は野村浩也たちの『植民者へ』について、もっと正面切って論じなければならないんだろう。つまり、ポストコロニアリズムやサイードに関連する弱点については括弧に入れて、議論しなくてはいけないということだ。

厄介だが、少しだけ感想を書いておこう。

野村らの主張を強引に要約すれば、沖縄にシンパシーをもっているかのように演じている「リベラル」な日本人がインチキであること、そして、沖縄も日本の一部なのだから本当の平等を実現せよ、というメッセージである。

前者に関して言えば、一応の目的は達成できたのではないのかと思う。もう少し池澤夏樹の分析を丁寧に解読してもらいたかったし、坂本龍一の沖縄オリエンタリズム音楽の批判的分析だとか、芸能界における沖縄趣味等についても触れて欲しかったのだが。

個人的に言えば、私という一日本人が、フィリピンの人々や社会にどのようにシンパシーをもったり、関わったりしたらよいのかというジレンマ体験を大いに思い出させてくれた。シンパシーをもつというのは、弱者をパトロナイズするとか飼い慣らすという発想と紙一重なのだ。

後者のメッセージが有効になるためには、真正なる日本民族主義の蘇生が必要不可欠である。「真正な民族」とは、「一民族の成員という資格において平等な、ないし平等であろうとする人々」(関曠野『民族とは何か』講談社現代新書、225頁)のことである。

しかし、真正なる日本民族主義とは何かという問題提起はなされていないと思う。本書の課題ではないといえばそれまでだが、やはり残念だ。何故そんな風に思うのかと言えば、野村らの論法でフィリピンやインドの貧困や不公正を論じても、ほとんど誰にも相手にされないのは明白だからだ。「そんなこと、我々に関係ないだろ!」と、きっぱりと馬鹿にするのが、日本人の現実ではないか。つまり、彼らが本を出版したり、日本の大学で職を得ることができるのは、沖縄がやっぱり日本の一部だからなのだ。それならば、二項対立ばかり強調するのではなく、日本民族主義や日本改造論(e.g.改憲論)をも論じて欲しかったのだ。

他にも言いたいことはあるが、このへんにしておく。

民族とは何か (講談社現代新書)民族とは何か (講談社現代新書)
関 曠野

講談社 2001-12
売り上げランキング : 230138

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

ポストコロニアリズムの誤用を批判する

アマゾンにレビューを書いた。
植民者へ―ポストコロニアリズムという挑発植民者へ―ポストコロニアリズムという挑発
野村 浩也

松籟社 2007-11
売り上げランキング : 303863

Amazonで詳しく見る
by G-Tools


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

あえて断言してしまえば、学問的良心の欠如した「悪書」である。

そもそも『ポストコロニアリズムという挑発』というタイトルが最悪である。サイードやバーバの文学的・学問的著作を本当に読んでみればわかることだが、ポストコロニアリズムの政治的立場はきわめて曖昧で、日和見的にすら見えるかもしれないものなのだ。たとえば、帝国主義や人種主義を信奉する作家を高く評価したのがサイードである。また、ファノン解釈においては、「偏狭な民族主義に満足するようなものでなく、ヨーロッパ人と原住民とがひとつにまとまって新しい反帝国主義共同体に参加する」ことを促す理論であると評価したのもサイードなのだ。要するに、野村たちの政治的立場とは明らかに異なっている。だから彼らに求められていた仕事は、むしろサイード批判であり、ポストコロニアルリズム批判のはずだったのである。もちろん本書のタイトルも、『ポストコロニアリズムからアンチーネオ・コロニアリズムへ』とすべきだったのだ。

私の議論が信じられないものは、フィリピン人の左翼文芸理論家Epifanio San JuanのBeyond Postcolonial Theory を読んでみるがよい。あるいは、アーニャ・ ルーンバ『ポストコロニアル理論入門』でもある程度は触れられている。

もうひとつの問題は、「日本本土」を一枚岩的に扱い、植民地=沖縄と対比させている点である。私見では、東京とアメリカが共謀して作り上げた真の植民地は、沖縄県というよりは神奈川県のほうだからである。たとえば、横浜開港は香港やカルカッタの開港と対比されるべきだし、横須賀市と相模原市は日本の軍都として建設され、今では米軍基地となっている。極めつけは、県民がペリー来航を大いに祝い、東京とアメリカに郷愁の念を抱いていることだろう。ちなみに相模原南部に私は住んでいるが、祭りの踊りは「阿波踊り」である。こういう土地こそ植民地と呼ぶのに相応しい。沖縄植民地論を展開している学者たちがそろいもそろって、東京のお膝元が植民地であることを何故見抜けないのか。なかには、神奈川で暮らしたり勉学したりした「無意識のコロン学者」がいるのではないか。

以上、多くの欠点があるが、部分的には興味深い題材はいくつもある。たとえば、コロン作家・池澤夏樹を批判したり、在日朝鮮人作家・李良枝を取り上げた点である。サイードという虎の威を借る狐の論法を捨て去れば、さまざまな可能性が開かれてくるだろう。

2008年8月20日水曜日

郭基煥の北朝鮮論と李良枝論(その2)

郭氏は驚くほど率直に、彼の思想の偏狭性と日本人対する警戒心をむき出しに率直に語っている。たとえば、こんな具合だ。(この本の読者に対しては、あまりに過剰な警戒心であるようにも思われる。しかし、日本社会のなかでこのような警戒心を持たざるを得ないということについては、啓蒙的な意義があることは同意できる)。



在日同士の交流は、何かしらやよそよそしいものになる。私は会話が監視されているの感じる。ともかく、在日同士のコミュニケーションは、ほとんど常に日本人が聞き取り、日本人が割り込んでいくことができる体制の中でしかなしえなくなっている。

この文章は在日に向かってのみ語ることはできない。日本語で書かれている以上、日本人が割り込んでくる可能性がある体制の中でしか書くことはできない。だとすれば、強調されている者達がやるやり方をまねるしかない。盗聴器に聞かれてることを予想した上で話すことだ。そしてそれはこの文章の義務であろう。(152ー153ページ)



さて残念ながら、郭氏の李良枝論については、あまり深入りすることはできない。私がまだその作品を読んだことないからである。だが、最低限の紹介として、次のことを述べておく。氏は、李良枝より前の世代の在日の評論家が李良枝の作品の「非政治性」を批判的に言及するのに対し、彼女を擁護する。そして、自我の安定を前提する不条理文学であり、「日本のかつての植民地に対する宗主国意識、それを保護し正当化するための様々な言説やイデオロギーを暴き、動揺させ、分解するという意図が明瞭に現れている」(195ページ)と評価しているのである。

李良枝という日本語作家を、氏のような偏狭な発想で、はたしてよく評価できるものだろうか。私はそんな危惧を抱く。だが、ここではそういった批判をするつもりはない。実際、日本人の宗主国意識あるいは帝国意識批判といった側面を李良枝から読みとるのは一つの正当な解釈にちがいない。

しかしながら、次の議論は根本的に批判しておく必要がある。というのは、ポストコロニアル文学とは何なのかということについて、無知と独善を露呈してしまっているからである。



「日本のかつての植民地に対する宗主国意識、それを保護し正当化するための様々な言説やイデオロギーを暴き、動揺させ、分解するという意図が明瞭に現れているという意味で、彼女の小説の中でも、[「かずきめ」という作品は]もっともポストコロニアル文学と呼ぶにふさわしい。」(195ページ)



一般に在日朝鮮人文学と言われる一群の作品は「朝鮮発のポストコロニアル文学」と言っていいはずであろう。在日朝鮮人文学は、世界の他のポストコロニアル文学と直接的・持続的に交流することはなかったが、一方でそれらといわば共鳴ししあっているとみなすことができる。あるいは、世界のポストコロニアル文学、もっと言えば、世界中の被植民者達とコミュニケーションすることなく連帯しあっている、と言ってよいかもしれない。そういった事情を踏まえて、私が李良枝の『かきずめ』にポストコロニアル文学性を強く見いだすのは、なによりもその戦闘的・非妥協的性質のためである。(195-196ページ)



民族の言葉を奪われ日本語で文章の読み書きしなければならなかったら在日朝鮮人の文学について、ポストコロニアル文学と評価することには賛成である。だが、郭の独善的予想とは正反対に、世界のポストコロニアル文学と言われるものは、「戦闘的・非妥協的性質」のものだったり、植民地主義や帝国主義をストレートに告発する文学作品などではないのだ。少なくとも私は、そういった戦闘的な文学作品をほとんど思い浮かべることはできない(*)。おそらく郭は、いわゆるポストコロニアル文学だとかポストコロニアル文学理論について、まったく知らないし読んだことがないのである。

私は、郭の議論のすべてが無意味だと言っているのではない。だが、いわゆるポストコロニアル文学の発想と、氏の議論には大きなギャップがあることだけは強調しておく。

もちろん、これは郭氏個人の責任ではありえない。日本の朝鮮・中国・沖縄系の社会学系研究者が、意図的かどうかはともかくとして、共謀的にポストコロニアリズムという言葉を「倒錯的に」借用してきたこと、それが氏の勘違いの原因であることは、あまりにも明白なのだ

おそらく彼らに求められているのは、サイード、スピヴァックといったポストコロニアリルの文学批評家との根本的対決なのである。西欧的な権威に照らして、自分の議論の正当性を確保しようとするような発想から脱却することなのである。サイードだとかラシュディを否定する勇気がないので、議論がおかしくなってしまうのだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

(*)おそらくAchebeあたりが議論されるべきなのでしょう。Achebeは厳しいConrad批判で知られていますからね。しかし、彼の文学作品が「戦闘的・非妥協的性質」をもつといえるのでしょうか? あるいはGordimerでしょうか? しかし、Gordimerはそもそも白人植民者の文学ですし、氏の想定外でしょう。また、アパルトヘイト政策の南アと、現代日本とを比較する議論を私は受け入れることはできませんね。(ナチス・ドイツのユダヤ人と現代の在日朝鮮人とを比較する人もいるようですが、これも少々誇張しすぎでしょう)。

2008年8月8日金曜日

AmiVoiceはけっこう使えるソフトです。

しばらく、 AmiVoice で音声認識をしてます。最初はちょっと使いにくいという印象でした。しかし、使っているうちにかなり実用的ではないかと思うようになってきました。パソコンソフトに対するトレーニングは不要ですが、ユーザーがよく使うボキャブラリーを登録することは重要です。例えば、この文章で言えば「ボキャブラリー」という単語です。それを丁寧にやっていけば、かなり便利な文書作成ソフトとなることでしょう。(以上、Amivoiceによる)。

この何日かは、2ちゃんねるのビジネスソフトのところで、Amivoiceの成果を披露してみました。

AmiVoice Es 2008AmiVoice Es 2008

エムシーツー 2007-11-16
売り上げランキング : 1952

Amazonで詳しく見る
by G-Tools



2008年8月7日木曜日

郭基煥の北朝鮮論と李良枝論(その1)

表象のアイルランド表象のアイルランド
テリー・イーグルトン

紀伊國屋書店 1997-06
売り上げランキング : 483218
おすすめ平均

Amazonで詳しく見る
by G-Tools


ナビ・タリョン (講談社文庫)ナビ・タリョン (講談社文庫)
李 良枝

講談社 1989-03
売り上げランキング : 297559

Amazonで詳しく見る
by G-Tools



郭基煥「責任としての抵抗」

野村浩也(編)『植民者へ』の中の郭基煥「責任としての抵抗」という論文は、李良枝の小説をとりあげ、ちょっと面白いと思いメモを取っておいた。取り上げられている作品は、「ナビ・タリョン」と「かずきめ」である。


①「北朝鮮表象」をめぐって

北朝鮮について日本で語るというのは、いかに難しいことであろうか。北朝鮮バッシングの恐ろしい圧力がある、客観的に見ても北朝鮮はちゃくちゃ国であることは否定できない。そういう状況のなかで、北朝鮮バッシングに組みせず、かといって、北朝鮮を礼賛するような愚かさに陥らないようにするには、どのような言語表現のスタイルや形式があるのだろうか。確かそんなことを、テリー・イーグルトン『表象のアイルランド』を読みながら考えていた。


イーグルトンはこんなこと書いている。

イギリス人がアイルランドのことを考えるとき、血で、気難しく、野暮な国民を思い浮かべるとすれば、このような不名誉な先入観を是正しようとするアイルランドの作家たちは、自分たちの社会秩序を消毒し、同国人たちを啓発し、さらには、甘美と崇高を兼ね備えたフィクションによって宗主国の読者層に感銘を与えなければならない。(中略)現状のままにアイルランド描写することによって、イングランドの読者の道徳的憤慨を喚起することは可能かもしれない。だが、その時は同時に、アイルランドがいかに堕落しているかに関する読者の思い込みを裏付けてしまうことにもなる。 イーグルトン「アングロ・アイリッシュ小説における形式とイデオロギー」(266-267ページ)




真理と傾向性、尊厳と本来生は、なかなか和解させることができない。それゆえ、植民地国民の文学芸術は、民衆を貶めることによってしか圧政者を告発することのできないリアリズムか、さもなければ、国民の自負の念を育成しながら植民地支配者に誤った安心感を与える危険をおかす理想主義かという、両極端の間で不安定に航行することを余儀なくさせるのである。(同上、268ページ)


当時の私は、フィリピン研究をしていたので、難解なジレンマの、この簡潔な提示に、大いに感激した。普通の日本人に対して、フィリピン社会について語るということは、いかに大変なことか。実際、ほとんどのフィリピン関係者は、二つのタイプに分裂せざるを得なかった。一方では、フィリッピン社会はいかに素晴らしいか、貧しくても人々が互いに助け合い、女性の力が強く、家父長制的な窮屈さからは自由であることを強調する理想主義のタイプがいた。他方には、フィリピン社会がいかに矛盾に充ち溢れ、文化的には極限的までに堕落し、ケチャップを塗りたくったような不味い飯しかないかを強調する現実主義のタイプがいる。前者は、フィリピン人とフィリピン関係者の自負の念を養い、自己満足を養うには良いのだが、本当の事をカッコに入れて、欺瞞に満ちた現実美化を行っている。例えば、女性の指導者は確かに日本よりははるかに多いのだが、圧力結婚はごく普通のことだし、実はレイプが頻繁で、レイプ婚だってけっして珍しくなかったりする。そういうことを都合よく忘れたり、或いは単に知らない人が、フィリピン社会は女性が強い社会であると報告文を作成してしまうのである。後者を後者で、もっと問題は深刻かもしれない。フィリピン社会の堕落と貧困を強調してしまうと、フィリピン人は、こんな国にても残っていても希望がない、俺はフィリピン人であることが恥ずかしい、と絶望的な気分に陥るしかない。冷淡で差別的な日本人はというと、自分の愚かさや醜さを棚に上げながら、そんなクダラナイ国は見捨ててしまえ、と単にバカにしだしたりしてしまうのだ。こういう悲しい両極端で、どのような表現が可能だというのか。

しかし、北朝鮮表象となると、フィリピン表象以上に困難極めることは予想がついた。日本人の帝国意識的思い上がりから距離を取り、かつ、北朝鮮礼賛のピエロにならないでいること。これほど難解な課題は、そうやたらにあるものではないあろう。(ピエロ路線を選択する在日朝鮮人の青年も知ってはいるが、政治的にナイーブで純粋培養だったためである)

大阪大学の在日韓国人研究者に対して、「北朝鮮問題」についてどのように表現するのかと私は質問してみたことがある。だが、K氏は簡単に私の問いは、どうでも良いことだと、あしらったのだ。おそらく在日韓国人の彼は、北朝鮮問題についてあまり考えていなかっただろうし、仮に考えていたとしても、それを日本人の私に論じるつもりなど全くなかったのだろう。(注、北朝鮮が唐突に出てきたのではない。私の参加していた研究グループは、朝鮮大学校の教員・大学生なども交じっていた共同研究だったからである)


しかし、郭基煥は北朝鮮表象について、全く逃げず、真正面から立ち向かおうとしているのだ。韓流ブームと北朝鮮バッシングの時流に乗って逃げようとする誘惑を、郭基煥は勇気を振り絞って断ち切ろうとしているのだ。


<責任としての抵抗>とは<対決>であり、そのことが意味するのは、決して支配者達に回収されない形で抵抗する、ということだ。(中略)たとえば自分の国籍が韓国であるという事情を利用して、韓国人であると日本人や同胞に向かって言ったり、戦後50年が経過したという歴史を意識の中で強調し、利用して、過去との差異を強調することではない。むしろ自分と北朝鮮との関係を強調することだ。北朝鮮を想起させる朝鮮人ということばで自らを語る。自分の親類に朝鮮総連の活動員がいることを語る。そういうやり方をとることだ。そういうやり方をとるとき、私は恐怖しないでは要られないだろう。だが、そのように恐怖の中で抵抗すること、つまり<対決>は、経験の構造が求めるものなのだ。(182ページ)



彼のような戦闘的姿勢について、いろいろな批判はあろう。たとえば、在日が日本国籍をとって韓国系日本人となったとして、いったい何が悪いのか。私だってそう思わないではない。だが、「責任としての抵抗」という一つの実存的決断について、我々は評価してもよいのではないのか、そんな気にさせられるのも本当のことなのである。

植民者へ―ポストコロニアリズムという挑発植民者へ―ポストコロニアリズムという挑発
野村 浩也

松籟社 2007-11
売り上げランキング : 113269

Amazonで詳しく見る
by G-Tools



2008年8月6日水曜日

池澤夏樹は「おんたこ」か (現代日本のポストコロニアル文学?)

静かな大地
静かな大地池澤 夏樹

おすすめ平均
stars心にしみる、せつない物語
stars日本人は絶対に読んでおくべき一冊
stars出会えて本当に良かった小説
stars渦中に身を置くこと
stars読ませる内容

Amazonで詳しく見る
by G-Tools



日本のポストコロニアル文学的作家ということで、ぼくは当然池澤夏樹を重視し何冊か購入してみたわけです。残念ながらまだあまり読んでいない。その中でなぜか印象に残ってしまったのは、タイ・カンボジア国境のNGOで働く日本人少年と少女の恋愛物語でした。確か「タマリンドの木」ではないかと思います。しかし残念ながら好印象というよりは、池澤が現地を取材し、こういう短編小説を書いちゃったんだな、という感じでした。

アマゾンのレビューで触れた梁石日の『闇の子どもたち』だとか船戸与一『虹の谷の5月』、篠田節子『コンタクト・ゾーン』のような小説と同じような水準という印象でした。要するに、本格的小説に期待するものをそこに求めるならば、甘すぎるという印象です。私がある程度分かるのはフィリピンだけですが、それでも彼らの描くタイ、カンボジア、マレー世界は、ちょっとエキゾチックなだけで表面的な記述でしかないことがわかります。もちろん、現地事情に疎い人がブンガクしてもかまわないのですが、文学的にもあまり深くないのです。

ポストコロニアル文学として池澤を考えるならば、恐らくは代表作は「マシアスギリ」の失脚」と「静かな大地」ということになるのでしょう。これに恐らく、インドネシアを舞台にしたものだとか、南太平洋舞台にした児童文学だとか、いろいろと付け加える必要もあるかもしれません。残念ながら、私はどれも読んでいません。「静かな大地」は今年中には読んでしまおうと思いますが。

多分それなりに面白いものが書かれているのではないかと思います。当時の北海道を思い起こしながら、人間ドラマを楽しむことができるでしょう。最後に自殺せざるを得ない日本人の主人公のことを考えながら、日本とアイヌの歴史、日本人の植民地主義的な歴史について、考えることができるかもしません。

だが、読んでもいないのに池澤さんに大変失礼ですが、悪い予感がするのです。すごくノーテンキなリベラル・リアリズムの歴史小説じゃないかという感じがするのです。(こんなことは司馬遼太郎に向かって主張してもしょうがないでしょうが、池澤夏樹には許されるでしょう)。最後の年譜を見ても、こんな感じです。

本書は創作であるが、主役である宗形家の人々にはモデルがある。(中略)彼らの事績をなるべく曲げずに小説に仕立てるのが作者の意図だったし、彼の人生をたどりつつ時代相も再現するために、文献に残された主要な日付は出来る限り動かさないことにした。(中略)今となって正直に言うと、事実と創作が絡み合って作者にもほどけなくなったというのが本当のところで、だから北海道史や実在の人物については嘘はないけれども、登場人物については虚実ないまぜと思って見ていただきたい


(朝日文庫、654ページ)

この文章を読む限り、小説を読み慣れていない一般読者に向いている、極めて健全で読みやすい作品なのでしょう。だが、そんなリベラルで健全で分かりやすいリアリズムの小説が、本当に文学なのでしょうか。なんだか、ハリウッド映画の「アミスタッド」だとか「カラー・パープル」みたいじゃないだろうか。最後に主人公が自殺するというが、本当に作者と我々にとって切実さがあるのだろうか。そんなふうに思ってしまうんですね。



池澤夏樹の「静かな大地」について、作家の高橋源一郎は解説で次のように書いています。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
文学もまた、歴史と同様、過去を言葉によって記述しようと試みてきた。だが、そのやり方は、歴史と異なる。どんな風にか。池澤夏樹のこの「静かな大地」のように、である。
(666~667頁)。


(中略)
だが、それは、歴史が教えることのできる、ただの知識に過ぎない。

彼らを滅ぼすに至った「和人」とは誰か。我々のことだ。我々は、我々のものと異なる言葉と、我々のものと異なる文化持つ人々を滅ぼした者たちの末裔なのだ。

確かに、我々は「それは気の毒なことだが、みんな、我々の先祖はやったことだ。私は知らない」といえるのかもしれない。いや、そのようにいっても構わない、と教えるの歴史なのである。

作者は、そうは考えない。
(668ページ)。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

高橋源一郎の書いていることは、普通に正論である。もちろん、中高生や大学の教養課程の生徒が相手ならば、こういう内容の小説は必読書となるだろうし、高橋の解説も重要であろう。だが、高橋は肝心な内容に言及することを避けているのではないのか?

ポストコロニアリズムの時代に期待どおりに書かれている政治的に正しい小説、あえてそういう小説を読む価値があるのだろうか、という疑問すら浮かんでくるではないか。

強引に次のようにも問うてもみたい。なぜ池澤は、いわゆるポストコロニアル文学者とは異なのか。つまり、①マジックリアリズムやSFでもなく、②メタフィクション的私小説(偽自伝文学)でもないのか、と。つまり、なぜ、そんなにお気楽な小説を書けてしまうのか、と。

制度化された正義、政治的に正しい教科書風テキストを書く作家というのは、笙野頼子流に言えば、すでに「おんたこ」なのかもしれない・・・。