2008年5月15日木曜日

笙野頼子と「語り部」の復権(その1)

だいにっほん、おんたこめいわく史だいにっほん、おんたこめいわく史
笙野 頼子

講談社 2006-08-19
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密林の語り部 (新潮・現代世界の文学)密林の語り部 (新潮・現代世界の文学)
マリオ バルガス・リョサ Mario Vargas Llosa 西村 英一郎

新潮社 1994-02




最近の笙野頼子の小説を読んでみると、あまりにも速いスピードで量産しているので当惑してしまうことがある。常識的にいえば長編小説は1・2年以上かけるものだろう。ところが笙野ときたら、例えば、『だいにっほん』シリーズの第二部は「260枚を20日で書い」てしまったのだそうだ。(『だいにっほんおんたこめいわく史』223頁)。そもそも『だいにっほん』の3部作を仕上げるのに、他の小説や論争文も書きながら、わずか2年間しかかっていないのである。

実際、くどくどと同じ内容のことが何度も内容の文章が繰り返されることがあるし、必ずしも文章が練りあげられていないようにも思われる。せっかく海外のJ.M.CoetzeeやBen Okriと比較しようと思っているのに・・・。だいたい、こんなにたくさんの作品が書かれてしまうと、読むほうが追いつけなくなるじゃないか、と言った具合でこちらとしてもちょっと文句でも言いたくなったりもするのだ。


笙野の連作は、いびつな不協和音に満ちた、あまり洗練されているとは思えないような荒削りの小説作品のようにも見える。だが、これらを次々に月刊誌で発表するやり口は、もしかしたら笙野の独自の非文学的な文学戦略かもしれないではないか。私はアンダーソンの論文 ‘El Malhadado Pais’(邦訳「不幸な国」、リョサの小説『密林の語り部』を論じたもの)を読みながら、そんなふうに考えるようになってしまったのである。21世紀の笙野頼子の試みは、一言でいえば、顔と声を失わされ抽象的な存在になった現代の純文学作家が、原初的な心と口と肉体を取り戻し、中世的な語り部として甦ろうとする試みではないのかと理解するようになったのだ。むろん、中世的語り部に対しては、中世的な聞き手の存在が前提となっている。だから、わたしたち近代的読者の存在と意識をも同時に変容させようと笙野が挑発しているに違いないのである

「語り部」とは何かという議論は、ひとまずは、棚上げしておこう。

さて2000年後半になってからの笙野の変貌は衆目が一致するところでだろう。大量執筆とそのスピードは、純文学者としては異様なほどだ。しかも同時に、近代文学の形式を革命的に転換しようともしている。ご承知の通り、一つ一つの小説が連作となり、さらに外部の評論家や編集者との論戦・論争をも兼ねているのである(*)。[(*) 小説の連作化、小説・エッセイ・論戦の境界の消失は笙野だけのものではなく、たとえば、J.M.Coetzeeの『エリザベス・コステロ』( シリーズと対比すべきであることを、一言述べておく]。

上記のことは、私は、笙野頼子がパソコンでインターネットにアクセスするようになったことと関係していると私は思う。木村カナによれば、笙野頼子は2004年にパソコンを購入し、ネットに頻繁にアクセスするようになった。作品にも2005年以降、2ch俗語が頻出するようになったという。(『論座』の笙野特集2008年6月号)。つまり、笙野本人と笙野の読者とが、月刊文芸誌を支持する作家とインターネットを駆使するファンとが、月刊誌とネットのコミュニティーを媒介にして、リアルに出会うようになったのである。このコミュニティーは、ネーションのような想像の共同体ではないし、芸能人とファンとの間のようなマスコミ的一方通行の世界でもない。かといって、作家とファンがなれ合う息抜きの場でもない。笙野は一度もネット上には「降臨」しないのだ。では、何なのか?

 
たとえてみれば、月刊誌とネットが作り出す新しい公共空間は、一種の寄席を形成するようになったのだ。(落語が嫌な人は、たとえば、キース・ジャレットのピアノ・ソロ演奏みたいなものを想像してみてください)。笙野頼子は、場外の罵倒がかまびすしい中、毎回創作落語を披露する女の噺家なのである。客のほうは、この異様な緊張感のなかで、次から次へと生まれる新作を待ち受け、噺家にフィードバックして返す。従来の近代的小説が「孤独のうちにある個人」(アンダーソン=ベンヤミン)によって創作された静的性格の作品だったのに対し、笙野の「新作落語」は、生きた語りの場においてダイナミックに形成される生のアドリブ即興だ。繰り返し出てくる冗長な表現だとか、意味のないかのように思われる言葉も、実は、話し言葉的な語りの要素を書き言葉に導入するための必然的方法だったのである。

そう考えると、笙野の連作長編が異常なほどのスピードで発表・完成されたのもよく理解できる。近代的印刷技術を前提とする近代文学ではなく、むしろ、非近代的な口承芸術的文学なのだから、洗練化の概念も方向性も大いに異なってくるからだ。笙野とその客が作り出した寄席空間が異様なドライブ感をみせてくるなか、超絶猛速度で応答したのが落語家名人・笙野頼子だったのだ、と。(その1)

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