(覚え書き)
笙野頼子ばかりでなく安部公房にも火星人が出てくるという指摘をしておいた。しかし、安部公房と笙野頼子の火星人は、小説注において全く異なる取扱いがなされている。
安部公房は晩年のエッセイ『死に急ぐ鯨たち』(新潮文庫)で次のように述べている。
もしあの島に、見えない原住民がいたとして、ロビンソン・クルーソーのすることなすこと、その原住民たちのいのちにかかわることだったとしたら、これはもう明白な犯罪小説じゃないか。ところで君はどっちの立場に立ってこの物語を読むことになるかな、ロビンソンの側か、原住民の側か。当然ロビンソンの側だろう、僕だって同じだよ、我々は植民地氏が民族である日本人だし、作者も同じく支配民族だから最初からそんな風に読めるように書かれている。(104ページ)
そしてそのうえで、「ロビンソン・クルーソーの物語を、殺された見えない原住民の側から書いてみようというわけだ」(105ページ)と述べ、『方舟さくら丸』の執筆意図を説明する。
だが私たちは、安部公房の最後の言葉を慎重に受け止める必要がある。ここでは詳細に述べる手間を省くが、安部公房が書いてきた小説は、SF作品を含めて一貫して植民地の支配民族、あるいは帝国側の市民の立場から書かれてきたものだからである。大英帝国のイギリス人が植民地人や弱小国に恐怖心を抱きつつ、ドラキュラ物語や宇宙人来襲の物語を楽しんだように、安部公房作品においても、支配民族の日本人が、火星人やら水棲人、あるいは満州人の闖入者だとか腐った子象、貧しい砂丘に住む辺境人に関する物語や演劇を恐れ楽しんだのである。(「第四間氷期」「人間そっくり」「闖入者」「公然の秘密」「砂の女」といったもの)。つまり、「殺された見えない原住民の側から」というのは、あくまでも決意表明と考えるべきであり、現実には公房の小説は、殺す・見る書く・読み側から書き続けてきたということである。(注 安部公房の『砂の女』は、キプリングの「モロビー・ジュークスの不思議な旅」と比較されるべきである。どちらも植民地の砂穴の中に閉じこめられてしまう男の物語である)
そのうえで、「威圧するものと威圧されるもの、支配する者と支配される者というこの関係は、しかし最後に逆転したことが暗示的に語られる」(菅野昭正、『ユープケッチャ』新潮文庫、解説の254ページ)。つまり、安部公房の作品では、植民地世界において、植民者と被植民者との逆転劇や変身(願望)がテーマ化されるわけなのである。
安部公房は、被植民者やサバルタンについて、彼らを人間的に描いてみようとか、一つのまともな人格のあるものとして主題化してみることについては、結局あまり成功しなかったのではないか。たとえば「公然の秘密」あるいはその演劇作品である「仔象は死んだ」は、明らかに被抑圧者あるいはサバルタンを見つめる残酷な我々をテーマ化したわけだが、サバルタン自身に語らせることには至らなかったのではないだろうか。
私の見るところ、笙野頼子の火星人あるいは火星人落語というものは、サバルタンの変身劇のテーマを継承するものである。たとえば、『だいにっほん』の第3部の164ページ。火星人のいぶきが、変身を遂げるシーン。
どこかから聞こえているはずの自分の、いぶきの口調が変わった。というよりその声音になった時いぶきは「神」になっていた。自分を殺した男の口まねをして、いぶきは淡々としているのだ。それでもその男に似ているのだ。これこそは父師匠さえも生涯に何回か演ずる事がなかった、「自分をひどい目にあわせた人間の真似をしながら、淡々と語って人を笑わせる」という火星人落語の究極芸だった。「最高峰とって食う芸」である。
火星人いぶきの変身芸は、被支配者が支配者をとって食ういわゆる逆転劇というよりは、自虐劇の極まりにほかならない。素朴に逆転をかたれぬところに、火星人の悲しさがある。安部公房の変身劇との位相の違いが、興味深い。
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