2008年5月8日木曜日

世界銀行文学なんて有るのか?


World Bank LiteratureWorld Bank Literature
John Berger Amitava Kumar

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笙野頼子は世界文学などと書いたが、世界文学をどのように規定したらよいのか。すでに述べたように、世界市場に輸出しうるような優れた商品という意味ではない。(日本の小説をランキングしようとしている評論家の中には、そういった世界文学の定義をしているものが実際にいるのだが)。そこでちょっと気になる、『世界銀行文学』という本について触れてみる。方向性としては、面白そうだからだ。

『世界銀行文学』というのは、インド系の文学・文化研究者Amitava Kumarという男性研究者が編纂した本で、インド、アフリカ、メキシコあるいはZapatistaなどに関心のあるさまざまな研究者が、寄稿している。

いくつか論文を読んでみたが、正直のところ、世界銀行文学という言葉の啓発的・教育的重要性は理解できても、それがいったい何なのか明確な像を結ぶことができなかった。しかし、少なくともKumarの論文に関する限り2つの方向性が示されているように思われる。1つは、Roy(インド人の女性小説家でブッカー賞受賞者、同時に反戦運動や反グローバリズム運動などの社会運動を担っている。翻訳多数)、Lahiri(より若手のインド系アメリカ人の小説家庭ピューリツァー賞受賞、翻訳多数)、Pankaj Mishra(若手のインド系英語作家、ナイポールの影響を強く受けているとされ、ナイポールとの共著もあるようだ。同時に、インターネット上で読むことのできるNew York Book of Review にはコンスタントに寄稿し、南アジアの惨状についての興味深いレポートを送っている。おそらく日本語への翻訳はまだないはずである)といった英語作家に言及しながら、グローバル化がインド人の生活の中の質に多大な影響力を与えていることを確認する作業である。

もう1つは、いわゆるポストコロニアル文学理論について、グローバル経済の時代に即して、歩2歩、前進させようとする方向である。これは「植民地的言説研究から脱国境的な文化研究へ」(Spivak)というような議論とも対応しているのだろう。

ポストコロニアル批評やポストコロニアル文学をこういった方向で展開して行くことには、大方の賛同を得ることができるだろう。従来のポストコロニアル批評は、たいていの場合は古典的な近代文学を論じることに重点を充てていたので、現代の文学や文化をないがしろにする傾向があったからである。分かり易い例を挙げてみれば、サイードの『文化と帝国主義』である。その前半部分こそは古典的な近代文学を論じて興味深い成果をあげていたものの、後半部分はポレミカルな帝国主義批判に終始し、真摯な文化研究という内実をすっかり欠くものだった。

世界銀行文学の方向性は大いに評価したいのではある。だが、世界銀行やIMFといった次元の問題について、文学者や文学の研究者たちはいったいどのような貢献ができるのだろうか。国際政治や社会・経済の専門家に伍して語るべき何かを持っているのだろうか。そこは大問題なのである。その点についての研究が不足しているので、『世界銀行文学』は理論としては中途半端な代物なのである。

文学者は、結局のところ、システムを論じる専門家ではない。(コンラッド『闇の奥』は、決して帝国主義の悪夢のシステムの内情をあばいたものではなかったし、悪の暴露を目的とした文学作品ではなかったことを思いおこそう)。むしろ、システムの中に属する様々な人々の主観的な、私的な体験や思想・宗教・夢を徹底的に語っていこうとするものだともいえる。それがどうやって世界レベルのシステム的大問題とつながって行くのだろうか。そう考えると、「世界銀行文学」という言葉は、ある意味では水と油を混合させるような、矛盾に満ちた概念だとものと見なすことができるかもしれないのである。

いや、もちろん別の可能性もあろう。それは「反グローバリズム運動」のイデオロギーを支えるプロパガンダ文学になることである。だが、それば文学が文学であることを放棄してしまうことになるかもしれない。文学であり続けながら、「自由と民主主義」のグローバル経済の世の中に対して批判的な眼差しを持って行くにはどのような方法論があるのだろうか。

だが、笙野頼子やさまざまな世界の作家の作品は、プロパガンダ文学に陥ることなく、この時代をとらえようと試みているように思われる。たとえば、笙野は次のように書く。

この不幸な現状と何か、その根本にある、おんたことは何か、それを解明する、または世に訴えるためにこの小説を書いているのである。(中略)この世紀を1つの家族の成長と変遷とともにじっくりじっくり書いたりして、その中におんたこが去来したりするのがいいのかもしれないとも思ったものだけれどね。(中略)つまりおんたこと言うのは家族を通しても書けん、時代を通しても書けん、どうしてかというとそれは多分おんたこと国家との関係が散らばったビーズみたいだから。(中略)おんたこと言うのは現実的一個人をじーくり書いたってその中になんかぜーったいに宿ってはくれないから(以下略) 


笙野頼子『だいにっほん、おんたこめいわく史』(38-39頁)

これは、文学の立場から、システムの新しい位相をも同時に明らかにするための方法論的宣言の1つといってよいだろう。そして、植民地出身の作家が、メタフィクションやSFあるいはマジック・リアリズム的手法を通して、国家論や宇宙の真理を物語っていこうとする姿勢と共通してるように思われるのだ。


(余談) 『現代思想』の笙野特集のタイトルが「ネオリベラリズムを超える想像力」だったのは、まことに残念でならない。いくらなんでも、笙野を矮小化しすぎているではないか。せめて、「明治政府ちゃんと西哲を超える祈りの力」とかにして欲しかった。

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