2008年7月27日日曜日

AmiVoiceの音声認識

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ついに AmiVoice を Yahoo オークションで購入してみた。送料込みで、 USB マイクつきのものが1万9200円である。ドラゴンスピーチと AmiVoice とではどちらが使いやすいのか。これからもっと調べてみようと思う。

多くの人に現状で勧められているのは、 AmiVoice の方である。トレーニングは不要というのはやはり有り難いものであろう。しかし逆に言えば、トレーニングによってより使いやすくする可能性が閉ざされたともいえる。

ここで大急ぎで付け加えなければならないのは、新単語を登録するようなものは別として、ドラゴンスピーチのトレーニングには限界があるように思えるということだ。万年筆のように、何年も何年も使っていれば使いやすくなる、というものではなさそうなのだ。また、 AmiVoice にトレーニングのようなものが全くないのかといえば、そうではない。

IBM ViaVoice とドラゴンスピーチでは、明らかに Dragon の方が使いやすかった。 今でもViaVoice を使ってる人はあまりいないのではないだろうか。(ただし ATOK と組み合わせ、 ATOK ViaVoice にしている人は沢山いるだろう。私は今では ATOK ViaVoice を使っていないが、多くの人に勧められるものであった)。今回のドラゴンvs Amivoiceの勝負はどうなるのだろうか。

また興味深いのは、 AmiVoice の技術が英語等ノ音声認識技術に役に立つのかどうかである。英語の音声認識は Dragon が圧倒的なシェアを誇っているわけだが、 AmiVoice と連携する会社が英語の音声認識ソフトを作っていく可能性はないのだろうか。それとも日本語という特殊な世界の中で活躍するのが AmiVoice なんだろか。(以上、AmiVoiceによる)

2008年7月26日土曜日

笙野ファンはエミリー展に急げ







http://www.emily2008.jp/

笙野ファンは、7月28日(月)までで終了してしまうエミリー・カーメウングワレー展(東京)に急いだほうがよい。

笙野の処女作「極楽」あるいはバルザックの「知られざる傑作」(大学生の頃、フランス語で読まさせられた記憶がある)(=「絶対の探求」だと思っていたが、どうやら私の勘違いでした)と通じるような世界を作り出した、オーストラリアー先住民の芸術家の作品が、そこに展示されているのを発見するだろう。西欧近代からは全く自由に、太古の地下脈に耳を澄まして作り上げた芸術がそこにあるのだ。


2008年7月16日水曜日

ポストコロニアルか反帝か(続々)

amazonで野村浩也のもう一つの本『無意識の植民地主義』のレビューも書いておきました。再録し、さらにコメントを付け加えておきます。


無意識の植民地主義―日本人の米軍基地と沖縄人無意識の植民地主義―日本人の米軍基地と沖縄人
野村 浩也

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5つ星のうち 3.0 沖縄人による現代「日帝」批判, 2008/7/15
By shakti - レビューをすべて見る
沖縄支配を継続し、米軍基地を沖縄に強要し続ける現代日本人に対し、その帝国主義を厳しく告発する沖縄人社会学者による書物である。現代の日本帝国主義批判という意味で論旨はきわめて明快だ。また、容赦ない批判を「良心的日本人」にも加えていて興味深い。「良心的日本人」とは、要するに「無意識」の植民地主義者である。本書では、沖縄に在住し、沖縄を「自分の土地」と呼んでしまったコロン(植民者)作家・池澤夏樹に対し、痛烈な批判を浴びせている。

正論ばかりであると思うが、いくつか問題点を指摘しておく。

①野村は、サイードやポストコロニアリズムを彼の思想的道具として使っているが、これは学問的厳密性に欠く議論だと言わざるを得ない。サイードは、ハイブリッド性を重視し、キプリングやコンラッドのような白人の植民地主義・レイシスト作家をも高く評価する文芸批評家なのである。当然のことながら、彼は、サイードやポストコロニアリズムを厳しく批判せればならなかったはずである。(たとえば、San Juan, Beyond Postcolonialismなどを参照のこと)。また、日本人と沖縄人を常に二項対立させているのにもかかわらず、沖縄民族主義や沖縄独立について語ろうとしないのは、たいへん奇妙だ。

②沖縄を主題化するならば、植民地主義はあまり適切ではない概念ではあるように思われる。力をもちいて遠隔地(沖縄)を支配しようとする日帝の帝国主義こそが、最大の問題点のはずだからだ。

③沖縄人の立場から日帝批判をするのはよい。だが、他の被支配民族とか、日本の米軍基地周辺住民との連帯の回路があまり示されていないのは残念である。たとえば私の住む神奈川県相模原市は、日本とアメリカの植民地主義者・軍国主義者によって建設された軍都であり、深夜早朝でも米軍ジェット機の発着演習が繰り返されている。しかし本書を読む限り、相模原や大和市の基地住民が沖縄人と連帯することは難しいような印象すら与える。私には納得がいかない。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
このレビューではさらっと言及しただけですが、③の相模原市と沖縄との対比は実は重要な指摘を含んでいるつもりです。植民地の概念に関わる重大なテーマです。しかし、この件はしばしば感情的な大論争のテーマになりますから、別の機会に書くこととします。

The case against Conrad | Review | guardian.co.uk Books

The case against Conrad | Review | guardian.co.uk Books

Caryl PhillipsがAchebeがConradのレイシズム小説について論ずる。


辺境からの便りーーポストコロニアル文学と理論の探求の試み: ポストコロニアルか反帝か(続)ーー二つのポストコロニアリズム

ポストコロニアルか反帝か(続)ーー二つのポストコロニアリズム

ここで再確認するのは、ポストコロニアルというカテゴリーに近い書き手は、むしろ小説家・池澤夏樹の方だということです。これに対し、野田のような自称ポストコロニアリズムの社会学者たちは、ポストコロニアルという文学的視点からはかなり距離を保っていると言える。

ポストコロニアリズムは政治的にはさまざまなポジションを含み、非同一性の理論を堅持する。これに対して野村たち社会学者の見解は、ポストではなくアンチの思想であり、むしろ反植民地主義反帝国主義の視点と命名されるべきです。

例えば昨年翻訳出版されたキャリル・フィリップス『新しい世界のかたち』(明石書店)はカリブ商品の黒人小説家による文学評論集ですが、明らかに前者のポストコロニアリズムの立場に立っています。黒人であり、決して保守的な政治評論家ではないのですが、どう見てもアンチ・コロニアリズムだとか反白人の政治的アジテーターではない。植民者(コロン)の文学者(ゴーディマーやクッツェーなど)だとかナイポールに対しても、どちらかといえば肯定的に取り扱っているのが、この本の特徴です。(さらには、レイシズム的要素を含む作家コンラッドに対する高い評価があることも、注目すべきでしょう)。

なお、もう邦訳では副題として「黒人の歴史文化とディアスポラの世界地図」と書いてありますが、これはやや誤解を招くタイトルです。おそらく出版社になんらかの「意図」があったのでしょうが、ちょっと残念ですね。

新しい世界のかたち―黒人の歴史文化とディアスポラの世界地図新しい世界のかたち―黒人の歴史文化とディアスポラの世界地図
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2008年7月15日火曜日

ポストコロニアリズムか反帝か、植民地作家池澤夏樹の評価

話が脱線してしまって、なかなか思うように主題に到達しません。

そして、またまた脱線してしまいます。最近図書館で野村浩也の人が編集した『植民者へ―ポストコロニアリズムという挑発』(2007年)という本を借りてきました。この本についての総体的評価はここでは避けますが、側面的に2点だけ問題にしておきます。

植民者へ―ポストコロニアリズムという挑発植民者へ―ポストコロニアリズムという挑発
野村 浩也

松籟社 2007-11
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① 本書では「ポストコロニアリズム」という言葉がタイトルばかりでなくさまざまと箇所で用いられていますが、この言葉の使い方は間違っていると言わざるを得ない。なぜならば、サイードやバーバあるいはスピヴァックといったポストコロニアル批評家の文章をちゃんと読んでみれば分かることですが、ポストコロニアルという概念の政治的ポジションはきわめて曖昧な文学的なものであって、本書のような明確な指針をうちだすような性質のものではないからです。

たとえば、サイードが敬愛しているの英語作家にポーランド出身のコンラッドという人がいます。代表作は、コッポラの映画『地獄の黙示録』の原作として有名になった『闇の奥』ですが、この本はある意味では、黒人差別と大英帝国の植民地主義の礼賛になっている作品です。すでにアフリカ人作家アチュベが読んではいけない作品だと非難しております。また、コンラッドという人間に対する厳しい批判は、藤永 茂の『「闇の奥」の奥―コンラッド/植民地主義/アフリカの重荷』を読んでみれば理解が深まることでしょう。

『闇の奥』の奥―コンラッド/植民地主義/アフリカの重荷『闇の奥』の奥―コンラッド/植民地主義/アフリカの重荷
藤永 茂

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では野村たちはどうしたらよいのか。簡単なことです。サイードの人気だとか権威に媚びたりせず、「反帝国主義」だとか「ネオ・コロニアリズム」という昔ながらの概念を堂々と使うべきだったのです。そして、サイードらの政治的姿勢の曖昧さを糾弾すべきだったのです。左翼からのポストコロニアリズム批判は、在米フィリピン人の政治批評家San JuanのBeyond Postcolonialismがよく整理されていますと思います。

Beyond Postcolonial TheoryBeyond Postcolonial Theory
Epifanio San Juan

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②野村たちは、作家・池澤夏樹を植民地主義者であると非難しています。私も、ある意味で彼らに賛成で、たしかに池澤はコロン(植民者)の視点から物を書いているのだと思います。しかし、ポストコロニアル文学理論的にいえば、それだけで終わりにしてしまうのでは、ちょっとだけ残念でなりません。(野村たちはポストコロニアル文学理論的ではないから、別に構わないのでしょうが)。

どういう事かというと、池澤は日本の植民者(の末裔)の立場から、すでに旧植民地(北海道、南太平洋の島々など)を舞台にした小説を書いているのだから、それらの作品についての本格的論評をすべきではなかったのかと思うわけです。エッセイや発言ではなく、小説の中で植民地と人間がどのように描かれているのか。実はそれがポイントではないでしょうか。(この点に関しては、サイードのカミュ批判が先行例として興味深いと思われます)。

植民地的作家、あるいはポストコロニアル作家としての池澤夏樹の評価については、今後の私の課題とすることにしましょう。(池澤さんの惜しむべきは、おまえはコロンじゃないかと沖縄人に指摘されて、「そうかもしれない」と潔く認めなかったことである。それだけは間違いない!)

南の島のティオ (文春文庫)南の島のティオ (文春文庫)
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2008年7月13日日曜日

笙野頼子とポストコロニアリズム

議論を展開する前に笙野頼子とポストコロニアル文学との関係について書いておかなければならないということに気がついた。

笙野頼子はポストコロニアル文学なのか?端的に回答してしまえば、NOであろう。私自身、ポストコロニアル文学と笙野頼子の両方に興味を持っているし、安部公房はポストコロニアル文学であると主張している。だが、笙野をポストコロニアル文学とは言い難い。もし笙野頼子自身に問いただしてみれば、「俺はポストコロニアル文学というものをよく知らない。いや、もし李良枝がポストコロニアル文学だというのならば、全く知らないわけではないが・・・」と答えるのではないだろうか。(李良枝と笙野頼子というのは、ポストコロニアル文学の視点からいえば、最も重要なテーマに違いない! だが、私にはまだ扱うことができないのである)。

笙野頼子がポストコロニアル文学ではないとしても、共通のテーマに取り組んでいると言っても良いだろう。とりわけ、歪められた言語と宗教に対する取り組みがそれである。そして、ここでは当初、ポストコロニアル文学におけるサバルタン表象と、笙野頼子の火星人および火星人落語の描き方について比較するつもりだったが、もっと大きな枠組みで対比できるように思われてきた。そこで、予定を変更を変更して概略をのべてみる。

[ポストコロニアル文学と笙野頼子を大枠で比較するという試みは、もちろん危険性もある。笙野頼子をネオ・リベラリズム批判の枠組みで論じるのが不味いのと同じ意味で、矮小化する危険があるからだ。しかし、私以外の人が笙野頼子とポストコロニアリズムを比較しようとは考えついていない様子なので、こういった試みにも一定の意義はあるのではないか]。

ポストコロニアリズムの4類型(3類型ではなくて4類型にしてみました)。

①対抗国家あるいはナショナリズムと民族文学
②保守派ポストコロニアル文学
③リベラル・ラジカル派ポストコロニアル文学
④エリート主義的ポストコロニアリズム(≠文学)



①はポストコロニアリズムだとかポストコロニアル文学ではない。要するに、ポストコロニアルではなくてアンチ・コロニアリズム。また、その延長線上にありながら、帝国全体を書き直そうとするのではなく、ローカルな土地に自閉し、独自の対抗国家を築こうとしているする。文化・文学的に言えば、ナショナリズムや国家主義、あるいは対抗神話を志向することになる。あるいは、民族文学を樹立することになるのでしょうか。ポストコロニアリズムがハイブリッドな非同一性の理論なのに対し、こちらは均一的で排他的な同一性の理論であると言うこともできる。

②保守派ポストコロニアル文学―サイードが厳しく批判したナイポールやカミュなどがこの保守派だ。ここで重要なのは、その保守的・反動的見解にもかかわらず、優れた文学でありうるということ。また、サイードのようなポストコロニアルの批判的知識人たちとの距離も、意外にそれほど大きくないということも注目に値する。言い換えれば、サイードがポストコロニアリズムのチャンピオンで、ナイポールは反ポストコロニアリズムだといったような議論は、ポストコロニアル文学の概念を誤解したものだと言えます。

③リベラル・ラジカル派ポストコロニアル文学―ここでとりあえず、②との差異は思ったほど大きくないと強調しておきましょう。エジプト時代のサイードの境地は、帝国主義作家キプリングのインド体験と共通した物だそうだが、全然驚くべきではないだろう。政治的には対立関係にあるように見えても、実は彼らは同じ土俵にいるのである。

④エリート主義的ポストコロニアリズム―サバルタンあるいはネイティブ・インフォーマントを代弁すると称するインテリ学者たち。彼らは、左翼的あるいはPC的反体制的なポーズをとっているが、被抑圧者を利用しているだけにすぎない学者・知識人・評論家たち。もちろん彼らの書き物は文学とは言わない。③のリベラル派・radical派ポストコロニアル文学は、④に転落する危険性もある。


ポストコロニアル文学についての日本語の解説本はいくつかありますが、このような類型は多分新しいはずです。もちろん前々から私にはこういう認識はあったわけですが、笙野頼子の小説の類型にも役立つのではないかと思って書いてみたです。つまり_、

①対抗国家(対抗神話)を選んだ人々というテーマ、ウラミズモと『水晶内制度』
②江藤淳と保守的評論家
③ 笙野?
④「おんたこ」(ニセ知識人)と火星人(対抗神話を持たない被抑圧者)との共生関係 『だいにっほん』

2008年7月3日木曜日

余談(ICレコーダーの音声認識)

今回は全くの余談をかく。

じつはわたくしは、音声認識で文章を書いている。ソフトは、ちょっと前に発売されたドラゴンスピーチである。また時々であるが、ソニーのICレコーダーを使って、パソコンの前ではなくICレコーダーの前で書き込み作業をすることもある。今回はICレコーダーである。

音声認識ソフトを使って文章を書くと言うのは、慣れてしまうと大変楽しいものだ。一つの理由は、何か書きたいものがしっかりある時、その書きたいというエネルギーやパワーだとかが、どんどんとあふれ出るがごとく、文章になってくれるからである。もちろん細かい訂正作業は必要である。が、ラフスケッチ原稿ができるということで、良いではないか。

音声認識技術の問題もたしかにあるのだが、キーボードで文章を書こうとしても、やっぱりそこでも漢字の誤変換にイライラさせられたりとか、そういった問題は必ずある。だからICレコーダーによる音声認識技術の悪さということも、それほど大きな問題ではないのではないかというふうに思っている。

ただし、ICレコーダーでも音声認識率は95%以上だということは強調しておかなければならないだろう。(以下は、私の使っている道具ですが、少々古くなっているので、必ずしもおすすめ品という意味ではありません。今ならば、ドラゴンよりもAmiVoiceのほうが良さそうですし)。

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ポストコロニアル文学のサバルタン表象①

サイードの『オリエンタリズム』が過度にヒットしてしまった結果だろうが、ポストコロニアリズムはしばしば誤解されることになった。わたしの知人でも誤解している人はかなり多いのだ。簡単に言ってしまえば、左翼・反植民地主義だからサイードとポストコロニアリズムが好きだという風に誤解する人と、その反対に左翼の生き残りにすぎないから嫌いだと誤解してしまう人に分かれてしまうのである。(希に、左翼として不徹底であるからサイードやポストコロニアリズムはダメだと批判するものがいる。これは誤解ではなくて一つの正論である)。

じつは、私のブログに言及しながら、ある人がポストコロニアリズムについて、まるで見当違いの文章を書いていたのを発見した。おそらく、ポストコロニアル文学とかその研究本を全く読んだことがないのだろう。毎度のことなのでやむをえないとは思うが、やっぱり残念なことである。(もっとも重要な参考書をあげると、オーストラリアの白人文学研究者アッシュクラフト他による『ポストコロニアルの文学』(青土社)。1番最近の興味深い研究本は、中井亜佐子『他者の自伝―ポストコロニアル文学を読む』(研究社)である。また、詩人・エッセイストでもある中村和恵(明治大学)の書くものは、ほとんど必読のものばかりである)。

しかも、笙野頼子のだいにっほん三部作の戦闘的文学について、稚拙なまでのパーフェクトな誤解している。こういうのは全くの勘違いなので、残念ながら批判する価値はない。(だが、文学・思想関係では、こういった誤解がしばしばあるから不思議である。決して頭の悪い人ではないはずなのだが、・・・。でも、大変ケシカランことです)。

さて、その人のポストコロニアリズムおよび笙野批判は、こんな文章であった。

自らの権力者である部分が見えていない故に進めない。それは笙野本人にも感じられることだ。笙野あるいはこの筆者に欠けているもの。それは、それこそスピヴァクの言葉である『サバルタンは語ることができるか』という問いである。何故サバルタンは自らを語れないのか。何故サバルタンは歴史を奪われてしまうのか。こういった問いがないとは言えないが、その存在感が薄いために、笙野は火星人主人公たるいぶきに歴史を語らせようとする。

もう一度言う。そんな簡単な話なのか? そんなに「わかりやすい」話なのか?こういった問いの答えを、それこそポスコロがやっているように、社会 体制に求めるのもよかろう。しかし歴史上の幻想にそれを求めると、歴史幻想における権力者の分析になり、自らの権力者である部分には何も影響が生じない。 自他未分 化的なおぞましくも魅惑的な領域に辿り着けない。サバルタンは非サバルタン化されることが「正しい」という固定観念から抜け出せない。


こういった考え方ほどポストコロニアル文学や理論からほど遠いものはない。というのは、書き手が語る言葉や文学の権力性についてもっとも自覚的なのが、サバルタンを主題化しようとするポストコロニアル文学だからである。端的な例は南アフリカの白人作家J.M.Coetzee のFoe(邦訳『敵あるいはフォー』)だ。この小説はDefoeの『ロビンソン・クルーソー』のパロディーだが、ここでは原住民フライデーは舌を抜かれて全く発話できなくなっている。そして、好き勝手に小説を書く作家デフォーは彼の敵(=フォー)となっているのだ。アパルトヘイト政策の南アフリカでアフリカーナー系白人作家が文学をやっていることの批判的言及になっているのはいうまでもない。(クッツェー文学というのは実は、クッツェーの「分身」や「祖先」が強姦親父になってしまう作品が多いのである。たとえば『恥辱』では、白人の英文学教授がカラードの女子学生を無理やりベッドに連れ込んでしまう。彼自身も南アの白人大学教授であったことも付け加えておこう)。

そもそもポストコロニアル文学の起源というのは、植民地官僚や植民地旅行者の記録なのだ。世代を下るにつれ、植民地生まれの白人クレオールたちだとか、原住民エリートたちが文学を執筆するようになる。そして、今日よく知られたポストコロニアル文学者や批評家というのは、実は、白人クレオールか文化的にイギリス化(フランス化)したような原住民エリートなのである。まもとめてしまうと、ポストコロニアル文学とは、①白人クレオールあるいは白人化した原住民の書き手によって執筆されたものであり、②宗主国の文化的・文学的伝統に則りながら、それを批判的に克服しようとする試みがなされたものである。断じて、サバルタン解放文学ではないのだ。

それではポストコロニアル文学の中では、植民地の中で発言権をもたない弱者について、どのように表現されているのか。意外に思われるかもしれないが、ポストコロニアル文学がサバルタンを好意的に論ずるとは限らない。(政治的非正義の代表的作家ナイポールがその代表だ)。もちろん、サバルタン対して好意的な作家もたくさんいる。しかし、まじめな作家である限り、サバルタン=被抑圧者を真正面から描きあげることはできない。何しろ書き手は、いくらリベラル・マインドで弱者にシンパシーを抱いたとしても、所詮は白人支配者の側にいるのだ。被抑圧者の文化や生活あるいは言語に通じてないのだ。というわけで、(ポスト)コロニアル文学においては、被抑圧者というものはどうしても主人公にとって恐怖の対象であるとか軽蔑の対象になりがちなのである。そういう文脈をよく考えないと、ポストコロニアル文学におけるサバルタンの表象の問題をよく理解することができないわけだ。

わたしが考えるに、ポストコロニアル文学のサバルタンの描き方には次の3通りの類型がある。

① 保守派のポストコロニアル文学――被抑圧者、弱者、被植民者、サバルタン、女、火星人、黒人といったものを恐怖の対象または軽蔑の対象としてとして描く文学である。

分かり易いのは、むしろコロニアル文学というべきであろうが、巽孝之の解釈するエドガー・アラン・ポーの『モルグ街の殺人事件』が挙げられるだろう。巽によれば、人間ばなれした怪力の殺人オラウータンは、南部アメリカ貴族ポーにとっての黒人なのだそうである。いわゆるポストコロニアル文学で言えば、カリブ出身の白人クレオール作家ジーン・リースの『サルガッソーの広い海』における、主人公の女性の黒人奴隷に対する恐怖をあげるのが適当だろうか。あるいは、カリブの小さな島トリニダード出身のインド系作家ナイポールの描く旧植民地社会(特にアフリカとインド)の描き方をあげてもよいかもしれない。

② エリート主義的的ポストコロニアリズム――保守派のポストコロニアル文学は文学だったが、これは文学と呼べる代物ではない。むしろ、アカデミズムの危険な潮流である。(笙野頼子の「おんたこ」とほとんど似通っていることに気づくであろう)。要するに、ポストコロニアル文学批評の難しい言葉を操ることができる植民地出身の知識官僚・エリートたちが、本当の弱者やサバルタンを「代弁」し、自分たちの特権を強化しようとするやり方である。

参考文献は、SpivakのA Critique of Postcolonial Reasonである。たとえば序文でSpivakは次の様に書いている。「わたくしは、ある種のポストコロニアルの主体が逆にコロニアル主体を再コード化し、〈ネイティヴ・インフォーマント〉[≒サバルタン]の立場を占有してきていたことに気づき始めた。グローバリゼーションがたけなわの今日では、テレコミュニケーションが〈ネイティヴ・インフォーマント〉から直接に土着の知識と称するものを盗み取りし」ていると述べている。詳しくは、この本の「文化」の章をよく読んでもらいたい。(邦訳がわかりやすいとは必ずしもいえない。原文でまずは読むことを薦める)。

③第3のポストコロニアル文学――これがいわゆるポストコロニアル文学のサバルタン表象である。じつは①保守派の文学との距離は案外近いのが興味深い。(明日また続きを書く)


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2008年7月1日火曜日

笙野頼子の火星人落語

笙野頼子の火星人落語とは、笙野が3部作を通じて何度も書いてあるように、「自分をひどい目にあわせた人間のまねをしながら、淡々と語って人を笑わせる」というものである。「取って食う芸」だともいう。

それはどういうことか。

被抑圧者である火星人たちは、自分たちの文化・歴史を持っていないと推測される

②したがって、火星人たちは何らかの言葉や声を出そうとするならば、自分たちを暴力的に支配したり殺してしまう人間たちの言葉に依存せざるを得ない。つまり、「自分をひどい目にあわせた人間のまね」から出発せざるを得ないのである。言い換えれば、火星人落語とは、支配者の言葉を「取って食う」ことによって、自分の言葉を獲得しようとする試みである。1種の本家取りと言ってよいだろう。 (このあたりの議論は、フィリピン革命を論じたIleto, Pasyon and Revolutionが大いに参考になる。要するに、植民地主義支配の道具であるカトリシズムが、革命的言語を準備することにもなったと論じたものだ)。

③火星人落語が面白くないと言うのは、半ば当然の帰結であろう。だが単に面白くないばかりか、危険と直面していることも分かるだろう。落語の語りに徹し「淡々と」しているならば良い。(「淡々と」語ることにより、いわゆる「反復強迫」を超えるのであろう)。だが、殺人者の言葉をそのまま語るのだから、被抑圧者が取って食うもりが、逆に支配者に食われてしまう危険がつきまとうのだ。このことについては、『だいにっほん』の第3部の168ページに次のように書かれてある。

でも実は死者にとって何かのきっかけで忘れた記憶を思い出してしまうことは危機だった。なぜなら死者はそうなるとそのときの記憶をいきなおしてしまうからだ。

④笙野の小説では、火星人少女は危ういところ我に返り、なんとか声を取り戻す(170-172ページ、219-220ページ)。そして、「あれほど否定した笙野理論の用語を単語だけ勝手に使い自己流で喋」(223ページ)たのである。ここで重要なのは、笙野と火星人少女とのあいだにある距離である。笙野は火星人に対してシンパシーを持つ立場であるが、決して火星人ではない。また、笙野は火星人少女に教え諭し、操作できるような関係ではない。火星人の少女は、笙野先生から言葉を習いながら、それを自分なりにつまみ食いし、自分の言葉を持つようになったのである。(南アフリカのJ.M.COTZEEの小説Foeは『ロビンソン・クルウソー』のパロディで、ここでは先住民のフライデーは舌を抜かれていて全く言葉を話すことはできなかった。同じように、火星人=サバルタンが全く言葉を話さないとか、話したところでわれわれには全く理解できないといった設定にすることも可能であっただろう。しかし、それはまた別の小説であり、笙野の今回のシリーズに大きな問題点があったとは思われない)。



⑤火星人落語は何を目指すのかと言えば、火星人神話である(219ページ)。
「火星人神話」と言うのは文化と歴史を喪失した被抑圧者たちがこれから作ると期待される希望の物語である。ただし、火星人神話がどのようなものであるのかは、本書では語られることは無い。火星人少女は、あくまでも火星人神話とどのようなものであるのかその概略を語るだけである。火星人神話が詳しく語られないのは当然であろう。作家・笙野頼子は、自分が火星人ではないのだから、語ることは許されていないのである。もっとも、遊郭について何も知らないのに遊郭に語ってしまったので、作家・笙野頼子はすでに罪を犯してしまっているのだ。(笙野の罪がどれほど大きいのかを論じるのは、別の課題としたい)。

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