2008年9月3日水曜日

水村美苗、村上春樹からみるアメリカ文化

MIXIで水村美苗の文章を議論していて思ったのは、水村(1951-)の世代にとって、日本語文学が米語の力によって本質的な変容を迫られていたのではないのかということである。水村と対比されるべき作家として、やはり村上春樹(1949-)があげられるべきなのだろう。いずれも、英語文学などの強い影響を受けつつも、米語作家になるのではなく日本語作家となった。おそらく、水村の方が村上よりも、はるかに「近代日本文学的」であり、かつ「近代英仏文学的」であるのに違いない。より大きな葛藤があっただろう。しかし、米国でマイノリティ英語作家になる可能性も、より大きかったであろう。そんなふうに想像する。

これに対して村上はもっと自然にアメリカ文学的だ(と思う)。三浦雅史の表現を使えば、「村上春樹がアメリカ文学にじかに接着してしまった」(『村上春樹と柴田元幸のもうひとつのアメリカ』)のである。

水村が「日本語が亡びるとき」を書いたときの感慨を味わい評価するには、村上を含めた他の作家との対比のうえで、日本語と日本文学の運命を考えてみる必要があるに思う。

私は、実のところ、嫌な予感がしないではない。ポストコロニアル文学のことを考えてみよう。これは、旧英領出身者または旧仏領出身者の文学のことだ。つまり、決して旧アメリカ領出身者の文学を意味していないのだ。アメリカの世界支配は文学と文化を死滅に追いやるのではないのか。たとえば、スペイン植民地のフィリピンからはホセ・リサールという偉大な文人が生み出された。が、アメリカ植民地以降は重要な文学者は一人もいないのだ。水村がアメリカ文学ではなく、近代イギリスとフランスの文学に焦点を定めていることも偶然ではないような気がする。

米語という普遍語が物語を窒息させてしまうのではないのか。そういう恐れを、水村と共有してみるのも悪くないのではないか。

2008年9月2日火曜日

水村美苗「日本語」とクンデラの小国・大国論

水村美苗の「日本語が亡びるとき」は、インターネット検索してみるとかなり評判がよかった。確かに読みやすいし、退屈しない文章なのだから、さすが一流小説家だと思う。しかし、どうして皆そんな簡単に称賛できてしまうのだろうか。あるいは、「新鮮」(読売新聞)だと評価してしまうのだろうか。このあたりは、少々不思議に思う。

いくつかの理由を考えてみた。

①小国の運命についてあまり考えたことがない人が多かった。――ヨーロッパの小国では、自分の国の言葉が滅びてしまう危険性について、いつも身近な問題だったはずである。人口が少ない国、あるいは人口多くても強国に支配されてしまっていた国では、いつも隣り合わせだったであろう。ましてや近代的文学の言語として生き残るかどうかは、まさに生々しい問題だったに違いない。

例えば、辺境に蹂躙され、独立も維持できなくなったポーランドの言語と文学。人口が少なくロシアに従属してきた歴史を持つフィンランド。ヨーロッパ文学の最先端を切る文学作品を残したにもかかわらず、人口は少なくヨーロッパ中心域から遠く離れていたアイスランド。かつては大国だったものの人口も少なく、言語的劣等感もあったオランダ。20世紀において外国に占領されてしまった朝鮮。

②ミラン・クンデラの小説論を読んだことがなかった人が感動してしまった。――チェコ出身の偉大な作家クンデラのエッセイ『カーテン』のなかの「世界文学」を読んでみれば、水村よりももっと興味深いさまざまな指摘を見いだすはずである。例えば、水村はあたかもできるだけ多くの人々が<真理>に向けて、研鑽すればよいと信じている。だが、クンデラを読めばそれが間違っているかもしれない分かるだろう。「ヨーロッパ初の偉大な散文の手法が、その最も小さな国、現在でも30万人の住民しかいない国[=アイスランド]で作られたのだということを」(42ページ)。この文章を読むだけでも、水村の文学思想は、近代ヨーロッパの大国主義に縛られていることがわかるであろう。しかも、クンデラは次のように言う。「ジッドはロシア語を知らず、GBショーはノルウェー語知らず、サルトルはドス・パソスを原文で読んだわけではない」(47ページ)。要するに、少人数の人しか読み書きできないような言語でもって、偉大な文学が書かれたというのである。たしかにギリシャとアイスランドというヨーロッパの二つの偉大な小人口文明の歴史的意義を我々は想起せざるを得ないのだ。

クンデラの議論で最も興味深いのは、「小国の地方主義」と「大国の地方主義」という議論であった。(クンデラもちろん、文学を<真理>のためのものだと思ってない。芸術や、文化というものについて、この言葉はふさわしくないと考えているのであろう)。そのうえで、地方主義にとりつかれた小国の文学について、次の様に述べている。「小国民は自国の作家に、作家は自分たちにしか所属しないという信念を教え込んでしまっているのだ。まなざしを祖国の国境の彼方に定め、芸術という超国民的な領域で同輩たちの仲間に加わることは、思い上がって自国の同輩たちを馬鹿にするものとみなされる」「小国民にとって文学は【文学史にかかわる事柄】よりもむしろ【民族にかかわる事柄】なのである。

より興味深い指摘は、大国の地方主義においてみられる。ここでやり玉に上がっているのは、フランスである。クンデラによれば、フランスの知的エスタブリッシュメントに対してアンケートをし、フランス全史の中で最も傑出した10冊の本をあげることになったそうである。ところが驚くべきことに、文学史の観点からは一度も重要だと見なされたことがない通俗大衆小説(ユゴーの『レ・ミゼラブル』である)が1位に挙げられている。11位にドゴールの『回顧録』であり、クンデラが最も重要であると考えるフランス文学者のラブレーは14位でしかない。そして、『赤と黒』や『ボヴァリー夫人』がようやく20位代に来る。この部分はクンデラのエッセイの中で最もショッキングで落胆すべき箇所となっているわけだが、要するに、フランスにおいては、「美的全体[=世界史的な美の歴史への評価]への無関心が文化全体を不可避的に地方主義の中におし返すのだ」(54ページ)ということが確認される。言い換えれば、フランスの国民文学の偉大さは、フランス人が評価しているのではなく、世界の読者・作家が評価しているというわけである。フランス語によるフランス文学の偉大さは、翻訳でしか読んだことがないような世界の読者が理解できるというパラドックス! 水村美苗に読ませたいではないか。

カーテン―7部構成の小説論カーテン―7部構成の小説論
Milan Kundera 西永 良成

集英社 2005-10
売り上げランキング : 245735
おすすめ平均

Amazonで詳しく見る
by G-Tools





③水村の文章のタイミングがよかった――それでは、どんなタイミングなんだろうか。ついに日本文化・文学が危機的状況を迎えたということなのだろうか。私には、よく分からない。

評論というよりは一種の私小説であると受容され評価された。ーー水村の文章について、純粋な評論というよりは、評論的な要素を持つ私小説なのだという受け止め方があるはずです。そして美苗さんの私的経験に興味を持つ人も多いでしょう。これは私が捨象してしまった見方です。しかし、かなり的を射た見方でしょう。残念ながら、そのあたりについて、詳しく感動を論じている人はあまりいないかったような気がします。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
アイスランド文学についての言及として、下記の本は面白かった。
アメリカ文学史のキーワード (講談社現代新書)アメリカ文学史のキーワード (講談社現代新書)
巽 孝之

講談社 2000-09
売り上げランキング : 194164

Amazonで詳しく見る
by G-Tools