2009年10月29日木曜日

サイードとリース『サルガッソーの広い海』

故国喪失についての省察 2故国喪失についての省察 2
大橋洋一

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ところでジーン・リース『サルガッソーの広い海』について、一言だけ書いておきたいことがある。池澤は、ポストコロニアリズムやフェミニズムいった理論的枠組みでのみ優れているだけではなく、小説技術においても見事であると述べている。なるほど、もしかしたらそうなのかもしれない。しかし、そういうことは脇においておくと、基本的にはスカッとする小説などではなく、物悲しい、不安定ななかに溺れて消えていくような小説だ。最後は自殺していくが、小川未明の「人魚姫」を思い起こさせる。

決して、魅力のある女性主人公が、イギリス宗主国の暴力の前に打ちのめされれたという話ではない。最初から軽くてふわふわした女性が、消えていく悲劇なのである。そして、作者が76歳で完成させた小説である。まさに晩年の小説ではあるまいか。このことをもっと考えてみたいと思う。

いま、思い浮かべるのが、最近翻訳出版されたサイードの『故国喪失についての省察2』(みすず書房)に所収されている最も興味深いエッセイ「敗北とは何か」だ。このエッセイは、「ハワイ原住民の権利といった大義を信奉するのに、いまは相応しい時機ではないと感じる」(p270)という話から始まり、私にはしびれるモノだった。なぜならば、私がハワイ大学の大学院生のおろ、ハワイ人の講演があり、そういう話題が持ち上がったからだ。

サイード自身は「説得力のあるかたちで考えぬかれたものであるならば、なんであれどこかで他の場所で、他の人々によって思考されるに違いない」(アドルノ)という確信をもちうる。だから、真に敗北した大義などは存在しないと結論づける。

サイードは安易にこのような結論に至っているのではない。その途中で、スウィフト、フローベール、セルバンテス、ハーディ等が、敗北をどのように表象してきたのかに言及するのだ。それらに共通するのは、「作家生活の終わりの近くになって執筆されたということだ」(284頁) あるいは「若い頃に抱いた野心や大望がはたして成就したのかどうか、締めくくりをつけ、判断を下し、得失を勘定すべき時期である」(同頁)。

ジーン・リースが最晩年まで拘った「サルガッソーの広い海」のもの悲しさを、サイードの指摘とともに考えてみたいと思う。


なお、私のような文学素人として、特別な驚きだったことをもう一つ付け加えておきたい。というのは、昔、J.M.Coetzeeの自伝的的小説Youth を読んでいると、 Ford Madox Fordに若い頃憧れたと書かれてある。それから藤永 茂先生のコンラッド批判の文章を読んでいると、コンラッドがFord Madox Fordと共著(短編)を書いている。どんな人なのかと思って調べてみると、ジーン・リースを愛人にしていたモダニズム文学者・編集者であることが分かった。これらの白人文学者たちは、いずれもポストコロニアル文学としてよく論じられているのだが、互いに知的に人的に深くつながっているのである。文学研究者がでどのように論じているのか(あるいは論じていないのか知らないが、大変面白いと思った。

2009年10月28日水曜日

池澤夏樹の「ポストコロニアリズム文学」批判(1)

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池澤夏樹は、戦後日本作家の中では、ポストコロニアル的な問題意識について早くから目覚めた希有な作家であると前から思っていた。彼の小説作品には、一般にポストコロニアル文学として流通してよさそうなものも何冊があるのだ。だから、彼が新しい世界文学全集を編集するにあたって、ポストコロニアル文学全集と呼べるようなものを造り出してしまったことについてはあまり驚かない。

池澤は、2009年の10月からNHK教育テレビの月曜日夜10:25から「探究この世界 池澤夏樹の世界文学ワンダーランド」という放送を始めた。同時にNHK出版から『世界文学ワンダーランド』 というテキストも出版した。そこには、「世界文学を再定義する」いう言葉があり、さらに、「『ポストコロニアリズムとフェミニズム』の視点から世界を見直す」といった、氏の基調論点がはっきりと明示されている。事実、選ばれている小説も、ポストコロニアル文学的なものが多い。従来の世界文学全集とは異なって、旧植民地やヨーロッパの小国出身の作家、あるいは中国・ベトナムの作家も含まれている。私はその選び方についてはとくに大きな異論はないし、むしろ、魅力に充ちた、ぜひとも読んでみたい全集だと言いたい。ところが、半ば予想できてはいたのだが、池澤のポストコロニアル文学の提示の仕方は、自己欺瞞と教条主義に彩られているのである。

私は、それでも興味津々で、ジーン・リース『サルガッソーの広い海』 について池澤がTVでどのように語るのか、伝えようとするのか、聴いてみた。2009年10月19日(月)の放送だ。この小説はシャーロット・ブロンテ『ジェーン・エアー』にほんの少しだけその声が聞こえてくるカリブ海出身の凶女について、カリブ出身の女流作家リースが書き直したパロディ小説として有名である。ポストコロニアル批評家のスピヴァックも大いに論じているもので、ポストコロニアル文学に興味のある人の必読書となっている作品だ。

案の定、残念すぎる内容だった。一部の英文学(あるいはフランス文学)関係者を除けば、ポストコロニアル文学について詳しい人はあまりいないだろうが、予備知識のない一般視聴者を誤った理解に導くような、きわめて欺瞞サヨク的な、あるいは「戦後知識人的」見解を、池澤は安易に語ってしまっていたからある。

ポイントを端的に言おう。ジーン・リースの作品、あるいはポストコロニアル文学について、「植民地の独立ともに生まれた文学である」とか「(文学作品を通じて)植民地の人たちを偏見から解放したのです」とNHKのアナウンサーに語らせてしまったのである。あるいはNHKの読本では次のように書かれてある。

『サルガッソーの広い海』はポストコロニアリズムとフェミニズムの両方の原理が濃く入っている作品ですが、とりわけ本国による支配に対する文学的反逆として非常にうまくいった例です。結局、あなたたち本国は自分に都合のいいように植民地を扱ってきた。経済貿易の面では植民地を大いに利用し、余情人口のはけ口にしたけれども、人間の面では植民地生まれだからだめなやつだと決めつけて、『ジェイン・エア』のバーサのように悪役・嫌われ役をふってきたでしょう、とジーン・リースは言いたいのです(55頁)

さらには、ジーン・リースの置かれた立場を沖縄・朝鮮・アイヌの人々と対比したり、挙げ句の果てには日本には西欧のような差別があまりないとかいった話にまで至ってしまうのだ。

常識的判断力があるのならば、池澤の議論がちょっと変であることに気付くかも知れない。そうだろう、いくらジーン・リースが旧英領ドミニカ(現在はドミニカ国)の植民地出身者であり、イギリス本国で貧しかったり、つまはじきになっていたとしても、所詮は白人支配階級出身の作家ではないか。植民地出身の白人支配階級の文学が、「植民地の人々を偏見から解放」したりするのであろうか? あるいは、むしろ、植民地における異民族支配を正当化する書き物かもしれないではないか。実際、カリブの島々の過酷な搾取や支配に対する批判的文章は、ほとんど『サルガッソーの広い海』からは読みとることはできない。もちろん反植民地主義だとか被支配民族解放を示唆するような箇所は一つもない。なにしろ主人公は植民地生まれでイギリス人に凶女にされてしまった女かもしれないが、要するに、奴隷農園で大儲けした民族の側にいるのだ。

植民地主義や帝国主義の暴力批判の洗礼を受けた人ならば、さらに疑問は広がっていくはずだ。というのは池澤の文学選集の作品をちょっと調べてみるとわかるのことだが、書き手はほとんどの場合植民地の支配者民族に属しているのだ。選集の中での唯一の例外といえるのは、アフリカのチュツオーラによる『やし酒飲み』だけなのだが、これも英語で書かれたものだし、何だかオバカで不思議なアフリカン落語という風である。文学的な評価はさておき、ファノンやリサールが描いたような反植民地主義的思想に裏打ちされた書き物を期待すると、完全に肩透かしを食らう。ましてや「植民地の人たちを偏見から解放する」ものとしてはあまり役に立ちそうにない。

それ以外の作品はとなると、さらに戸惑うことになるだろう。たとえば、池澤はデュラスの『太平洋の防波堤』『愛人』を選んでいる。デュラスはフランス帝国支配下のベトナムで若い時代を過ごしたフランス人女性作家なのだが、彼女の作品が被支配民族であるベトナム人を解放する文学では断じてあり得ない。それどころか、むしろ「帝国的ノスタルジア」(ロザルド)に満ちた差別的作品だし、保守的な篠沢秀夫も『篠沢フランス文学講義』で証言しているように東洋人を見下しすオリエンタリズムが盛りだくさんという作風なのである。

「ポストコロニアル文学」というのは、本当のところ、植民地の被支配者のための文学なのか。むしろ、植民者支配者のための文化と文学にすぎないのではないか。そういう問が当然生まれても良いではないか。当然のことながら、なぜ池澤は我々にそういう怪しげな作品を勧めるのか問いただしたくなるはずだ。これはなにも池澤個人に問いかけるべき問ではない。他のポストコロニアル文学の作家や研究者やのひとり一人独りに投げかけたい問なのだ。たとえば故サイードに対しては、なぜコンラッドの保守的でケシカラン小説などを褒めるのか、と。(コンラッドについては藤永 茂『「闇の奥」の奥―コンラッド/植民地主義/アフリカの重荷』を参照のこと。すくなくとも、ベン・アンダーソンのような文化主義的東南アジア研究者は、サイード=コンラッドのような文学的スタンスは取らなかった。たとえば、Anderson, Under Three Flags: Anarchism And the Anti-colonial Imaginationを参照のこと。なお、サイードとアンダーソンのスタンスの違いについては、別の機会に書いておきたい)。

結論的に述べれば、ポストコロニアル文学およびポストコロニアル批評と言われる一群の読み物=書き物は、政治的には至極曖昧なのである。植民地の側からの対抗的書き物ではあるが、決して政治的進歩を代弁しているとは限らないのだ。このことは、再三繰り返して言明しておいた方がよいだろう。ポストコロニアルは反コロニアリズムでも反帝国主義でもないいのだ。また、白人植民者の文学的遺産を受け継いだという意味では、支配的文学でもあるのである。したがって、ポストコロニアル文学を論じるに当たっては、政治的進歩主義の尺度に照らして評価してはならない。

逆に言えば、政治的右翼・保守主義者が誤解しているように、サヨク主義の生き残り戦略に過ぎないから「ポスコロ」はダメだという議論は、完全に勘違いしている。たとえば、「東は東、西は西」という警句と『ジャングル・ブック』でよく知られるキプリングは、イギリス帝国主義の支持者として知られる作家だ。彼の政治的スタンスには辟易するのに、作品を読むと「うーん」とうなって論じたり引用したりすること。これが、もっともポストコロニアル文学的なのでだから。

池澤に帰れば、「うーん」と唸るべきところを、妙な政治的進歩主義で隠蔽しようとした点に最大の罪がある。素晴らしいポストコロニアル文学は、植民地の人を侮辱するケシカラン書き物かも知れないのだが、それにもかかわらず、読者をうならせる確かな何かがある。それを追求することが両義的で曖昧な文学作品の楽しみではないか。

池澤の進歩的知識人的発言にはまらず、池澤の選んだ文学作品をもっと真っ正面から読んでいこうではないか。 池澤夏樹には、くれぐれもご用心!

コロン作家の自己欺瞞を超えて(池澤夏樹批判)

そろそろブログを再開させよう。というのはNHK教育テレビにおいて、池澤夏樹がきわめてバイアスのかかった、ナイーブな論調を展開していたので、ちょっとムカツイテいるからである。

池澤はあたかもポストコロニアル文学なるものが、植民地住民の解放の文学であるかのように宣言しているのだ。しかも、そこで紹介されている小説が植民地の支配者の白人文学だったりするのだから、呆れて物が言えない。先週は『サルガッソー』について紋切り型の紹介をしたかと思うと、先日は『フライデー』についてこれもまた教条的な説明をしているのだ。彼は、本読みとして、あるいは一人の知識人として、大いに間違いを犯してしまったのだと言わざるを得ないのである。

自分が、いや我々が、本当は植民者(コロン)であるのに、そしてその立場を簡単に放棄できないのに、あたかも反植民地主義の先端を切ることができるかのような自己欺瞞が、池澤夏樹にはある。沖縄社会学者の野村ーー私は批判的に言及したがーーに、「お前は沖縄を植民化したコロン作家だろう!」と言われて、「NO!」と言ってしまった池澤だ。おそらくは相当お目出度いところがあるのだ。

よって、以降では、池澤の議論と、彼のアイヌ小説(北海道コロン小説)について論じようと思う。