2009年11月7日土曜日

ポストコロニアリズムの二つの顔(1)ーーサイード『オリエンタリズム』は読んではいけない!

ポストコロニアリズムには、なぜかくも誤解やら対立が多いのだろうか。二つの理由があると思う。一つの理由はサイード自身にある。サイードの本を何冊かちょっと吟味してみると分かるのだが、『オリエンタリズム』だけは突出して読みやすく単調な議論で埋め尽くされているのだ。これが本当にサイードの著作だといえるのだろうか?

とくに注目したいのが『オリエンタリズム』と『文化と帝国主義』の前半部との間にあるギャップである。どちらも主著なのであろうが、前者をポストコロニアリズムの基本書と理解する人と、後者をポストコロニアリズム的思索の事例と考える人とでは、ポストコロニアリズムの解釈が大きく異なってきてしまうのだ。私の立場はどうなのかといえば、『オリエンタリズム』のナイーブで単純な議論を真に受けてはいけないし、初学者は読んではいけない本であるとすら思う。ポストコロニアル理論を理解したかったら、サイードでいえば『文化と帝国主義』と『パレスチナとは何か(After the Lasy Sky)』を読まなければならないと打った鋳掛けたい。

もう一つは、前回示唆したように、朝鮮が植民地化してしまったと思っている人と、朝鮮は植民地化されていないと思っている人との間の隔たりである。すなわち、朝鮮がポストコロニアリズムの射程にあるはずだという解釈と、ポストコロニアリズムの射程の外にあるという解釈が存在するのである。前者の立場の人からすれば、後者の見解は信じられないほどケシカラヌ暴言(!)に聞こえるかも知れない。だが、至極真面目な見解であり、全然暴言ではない。いずれにせよ、ポストコロニアリズムやポストコロニアル文学についての見解の合意を得ることはほとんど不可能であることは容易に察することが出来るだろう。


(1)サイードの二つの顔ー『オリエンタリズム』はサイードの主著ではない

以前書いたことだが、「帝国意識」をテーマ化する歴史学者とサイードらとでは問題意識が大いに異なっていて噛み合わない。なぜ彼らのギャップの根本理由は、サイードは本来的には文学者(芸術研究者)であるのに対し、帝国意識論の歴史学者は悪の表象には関心があっても、芸術には関心がないからである。ところが、歴史学者はサイードの『オリエンタリズム』を読んで、ちょっと大きな勘違いしてしまったのだ。

文学者サイードにとって『オリエンタリズム』はそれほど大事な著作ではなかったのだ。むしろ、あまりにも一本調子で退屈な著作とみなされるべきだったのだ。(他のサイードの著作を読むと、あまりにも反響が大きかったのでサイード自身がびっくりしているということが分かる)。

サイードに言及する書き手(出版物・ネット)の大半は、サイードといえば「オリエンタリズム」と『知識人とは何か』だと思っているしその2冊しか読んでいないように思われる。この2冊だけは、アマゾンのレビューが異様に多いことからもわかるだろう。たしかにエドワード・サイードの『オリエンタリズム』といえば、ポストコロニアリズムの先駆けであると見なされるし、前述の中井亜佐子も、そう書かざるをえない(16頁)。

だが、サイード=「オリエンタリズム」という「常識」は、一般読書人もそろそろ捨てるべきではないのか。最大の根拠は、『オリエンタリズム』においてはサイード本来の専門である文学作品についてほとんど触れられていないからである。仮に『オリエンタリズム』の手法で文学作品を論じることが「ポストコロニアル批判」だとしたら、芸術的価値のある作品としての文学を扱うのではなく、単なるイデオロギー文書として論じることになるだろう。つまり、帝国意識研究の実証的歴史学者が採用する方法論を採用するだろうし、文学作品は単なる差別発言の集積であり、糾弾すべき単なる過去の遺物となってしまうだろう。これでは対位法的(Kontrapunkt, contrapuntal)な方法論ではありえない。もし「オリエンタリズム」の名前を借りた、そのような「文芸批評」があるとしたら、それは野蛮なる文化的遺産への暴力でしかない。たとえば、民主主義や人権を理解していないからといって、『源氏物語』を糾弾するようなものなのである。要するに、「オリエンタリズム」的な見方というのは、文学や学問を認識し評価する際の一つの契機すぎないのであって、「オリエンタリズム」一本槍で勝負できるような視点とはなりえないのである。

もちろん、ポストコロニアリズムは文学や芸術学とは必ずしも関係ないという反論も予期しうる。たしかに、その通りだ。だが、そういった理解の仕方は、サイードの多面的な著作、とりわけ文学、芸術学を中心として展開される多くの専門的著作とは異なった観点に立っていること、またバーバやスピヴァックといった他の主要な論客とも大きな隔たりがあることを知るべきだ。


他方、詩や小説を論じた『文化と帝国主義』、とくにその前半部こそが彼の本当の主著であると私は言いたい(*)。残念ながら、この本を読んだ人はあまりいない。たとえばbk1のレビューアーの佐々木力(東大教授・科学史) や 小林浩のように、全く読んだ形跡がないで文章を書いている者もいるのだ。はっきり言って読むのは容易ではない。というのは、西欧とアジア・アフリカの出会いを扱った様々な小説が論じられるわけで、そういった小説を読み、文学に親しんでおく必要があるからだ。

だが、文学でしか表現できないような異文化と異人との出会いが、キプリングやコンラッドの小説では描かれている。そして、サイードも『オリエンタリズム』のように、そういった小説を一方的に糾弾していくのではなく、むしろ、帝国主義的あるいは植民地主義的作家に対しても優しく丁寧に論評が加えられている。たとえばキプリングは、大英帝国主義を支持した作家であるが、その作品の分析は糾弾とはほど遠い。事実、『サイード自身が語るサイードでは次のようにも語っているのだ

「彼[キプリング]は、いろいろな種類の住民たちを信じられないくらい細かく描き分けられる。また彼は若者と老人とを描写することにかけて、すばらしい才能を発揮している」(87頁)

「彼[キプリング]のインドについての感じ方はわたし[サイード]のカイロについての感じ方と同じだよ。つまりわたしはエジプト人ではないので、政治については思い悩むことなく、カイロの地に居座れるのだが、キプリングのインドについてそんなふうに感じていたはずだ」(87頁)
ここでは詳しくは説明できないが、サイードが作家を「批判」するときと、非文学者を「批判」するというのでは、その姿勢が全く異なるのである。一言で言えば、偉大なる芸術家であり作家であるのに、なぜ同時に帝国主義者でありえたのかという問によって、サイードはいつも彼らと向き合っていたように私には思われる。

キプリングばかりではなく、サイード vs ナイポールの対立も、同じような複雑で微妙な対立として理解しなくてはならない。ナイポールは、もしかしたら旧植民地をコケにする反動的文学者だと思われているかも知れないが、左翼サイード vs 反動ナイポールというふうな単純な枠組みで理解しては絶対にならないのだ。サイードであるが、いつでもナイポールの文学的才能を高く評価していたのである。つまり、ナイポールの旧植民地に対する辛辣な観察と記述を、反感を持ちながらもある意味では共感を持って読んでいたのである。彼らは、全面的に相対立するというよりは、共通の土俵の上で対立しながら共存していた。こういう微妙なところにポストコロニアリズムの真の意味があるのだともいえるのだ。

どちらをサイードの主著と取るかによって、サイードとポストコロニアリズムの解釈論議は大きく分かれるだろう。私は『文化と帝国主義』こそが主著であり、『オリエンタリズム』を過大評価しないことを訴えたい。もちろん、『オリエンタリズム』がサイードでありポストコロニアリズムだという人が大多数である現状は動かないだろう。だが、そういう多数派の人だとしても、『オリエンタリズム』を認めないサイード読者がいること、そして、そういう読者のポストコロニアル認識が多数派とは根本的に異なっているということくらいは、わかってくれるのではないのか。

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私の書いたことは、(今回も)まことに荒っぽい議論だと思う。だが、このことは、誰かが書くべきではなかったのか。文学研究者はこういう乱暴な文章は書けないだろうし、非文学者はサイードの文学研究に無関心である。だから、誰もサイードの二つの側面について言及できないのである。よって、文学には関心があるが、文学とはほど遠い完全にアマチュアの私が、敢えてこのような単純明快な二分法を提起してみたのである。


注釈
(*) さらに言えば、『文化と帝国主義』の最終部のいくつかの章は、ポレミカルなだけの無内容な発言集だった。あれも文学者サイードにとっては、ちょっと痛かった。おそらくは、「サイードって有名だけれども、学問的にはたいしたこと無さそうだね」と言われている。だからこそ、『文化と帝国主義』の前半部や、『パレスチナとは何か』ーーもう一つ別の主著であり、中井亜佐子も詳しく論じているーーについて、もっと語られてもらいたいと願う。

2009年11月6日金曜日

池澤夏樹のポストコロニアル文学批判(その4)

グーグルのようなもので検索しても、池澤夏樹に批判的な見解を書く人はほとんどいないですね。例の沖縄系社会学者あるいは運動家の人たちはともかくとして、池澤夏樹の見解に大賛成な人ばかりなのでしょうか。(沖縄系の池澤批判者が、彼の文学全集を議論してもよいのですが・・・)。反発を覚えないにせよ、彼の議論に何の疑問を感じないのは、あまり望ましくありません。あのさわやかで知的な感じに騙されて、安易に迎合したり、呑まれてしまってはいけないのです。というのは、池澤が語っていることは、ポストコロニアル文学論の観点の非常に重要な論点と関わっているからです。

(あらかじめ断っておきますと、わたくしは、池澤夏樹 (ポストコロニアリズム) vs 沖縄系学者(反帝国主義、反「ポストコロニアリズム」)の対立に関して言えば、どちらといえば池澤よりの立場です。(沖縄系や韓国系のポストコロニアリズム議論は、完全にその言葉の意味について誤解していると私は理解しているからです。彼らはポスコロじゃなくて、反帝主義なのです)。


まずは2008年における学習院大学での池澤の講演をみてみましょう。

僕は今回新たに編んだ文学全集には、ふたつの顕著な特徴があります。ひとつはポストコロニアリズム。①元植民地に住んでいた人たちが、宗主国の言葉で書いている、②もしくは宗主国から植民地に行ったひとが書く。 (番号はshaktiによる)。 (中略) 
ポストコロニアルの作家の例でいえば、マルグリット・デュラス。フランス人ですが旧仏領インドシナのベトナムやカンボジアで育ちました。彼女にはその土地について強い思い入れがあったのです。
それからジーン・リース。西インド諸島生まれの白人です。西インド諸島は、先住民、スペイン人、サトウキビ農場の労働力のために連れてこられたアフリカ人と、いろんな人種がたくさんいます。カリブ海のあたりでは「クレオール」とも呼びます。シャーロット・ブロンテ「ジェーン・エア」に、主人公ジェーンが出会うロチェスターの狂人の妻が登場しますが、ジーン・リースはその妻の側からの視点で書いているんです。従来、敵役とされたパーソナリティを置き換えると、まったく世界が違って見えます。
第二次世界大戦後の世界文学は、弱者の視点に変わった、抑圧された者にもペンを与えたと思います。今までの見方をひっくり返した。ジーン・リースはその典型です。すごみ、気迫があります。

実に簡潔で明快なポストコロニアル文学の定義です。しかし、再度繰り返しますが、池澤の議論に対して、あまりに簡単に、ふーん、そうなんだ、とか言って納得してしまっては絶対にいけない。日本のかつての植民地は台湾と朝鮮半島であったという普通に思っているような日本在住の人ならば、当然次のような疑問が浮かびあがらなければならないはずだからです。
  1. 元植民地出身の人は、宗主国の言葉で書かなければならないのか。それでは、この全集に含まれているような、中国やベトナムの作家の作品はポストコロニアル文学とは呼べないのか。また、元植民地の人は宗主国の言語で文学した場合のみポストコロニアル文学だといえるのか。
  2. 元植民地の支配者民族と被支配者民族の書き物が、同じポストコロニアル文学という枠組みにくくられてしまって良いのか。政治構造から考えれば、植民地の支配者民族と被支配民族は、互いに対立し合ったり、憎しみあったり、ときには互いに戦闘するかもしれない、究極の相反する極限にあるのではないのか。それなのに、旧支配民族の書き物もポストコロニアル文学に価するのか。

上記のような疑問が浮かんでこなかった人は、池澤の議論の斬新さときわどさを見逃してきたということになるわけです。しかし、結論的に言ってしまえば、ポストコロニアル文学というのは、この池澤の簡潔な定義で間違っていない。サイードやバーバ、とりわけアッシュクロフトの『ポストコロニアルの文学』といった論客の議論を整理すると、そう断言するしかない。この議論に賛成だろうと反対だろうと、それがポストコロニアル文学と文学批評の立場なのだとしか言いようがないわけです。もしこのヴィジョンが気にくわないのならば、むしろポストコロニアリズムを批判すべきだと言い換えることも出来る。(ポストコロニアル文学とポストコロニアル費用の違いはないかとか、他にもさまざまな問題が含まれているが、ここでは省略する)。

さらに、ポストコロニアル文学論の命題は、次のような非常に重要な議論へと展開されるはずです。



①韓国あるいは中国は植民地化ないしは半植民地化した民族ではない。

②ポストコロニアル文学の観点から言えば、植民地の支配者と被支配者が、「周辺」的な領土において空間と時間を共有していたことに多大な意味がある。つまり、支配と被支配者の対立関係は絶対的なものではない。


韓国が日本の植民地ではなかったという議論をすると、韓国系の人間・研究者が猛反発することが予想されます。また、現に私は何度もそういう体験はしている。その気持ちは分からないわけではない。というのは、彼らの考える植民地支配とは、異民族に対し物理的ないしは文化的社会的な暴力的支配を行うことであると定義しているからである。したがって、もしかつての朝鮮半島は植民地化されてなかっと指摘すれば、日本帝国主義の非人間的な暴力を無かったことにしてしまうとする良からぬ動機を勝手に想定してしまうからだ。

朝鮮・韓国系の立場の人たちの気持ちが分からないわけでは無い。だが、私の議論は、帝国主義的暴力の存在を否定する議論とは全く無関係である。日本は、他の列強と比べて相対的によいことをしたとか、近代化に貢献したとかという話ではない。そうではなく、大日本帝国の物理的文化的暴力にもかかわらず、朝鮮半島は根本的な文化変容(=植民地化)しなかったという議論であり、むしろ民族の文化的力量を称える立場なのである。(続く)


参考文献


P.S. このブログでは、本橋哲也の「ポストコロニアリズム」は、誤解と思いこみに基づいた議論の積み重ねをしてしまっているという立場を取っています。文学者が未熟に政治化したなれの果てなのでしょう。良い本を沢山翻訳している先生なのですが。

2009年11月4日水曜日

A Hero of our Time - The New York Review of Books

A Hero of our Time - The New York Review of Books

レビーストロースがなくなったそうだ。
1963年のスーザン・ソンタグのレビーストロースの構造人類学の書評が、最新号のNYRBに掲載された。

2009年11月3日火曜日

池澤夏樹の批判(3)ーー文学と社会科学

昨夜というか今晩というべきですか、2009年11月2日の池澤夏樹の放送は熱がこもっていて良かった。良い文学や小説を味わった感激がよく伝わってきました。私も、バオ・ニンの『戦争の悲しみ』は購入してしまいました。

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しかし、先週のはちょっといただけなかったな。フランスの作家トゥルニエの『フライデーあるいは太平洋の冥界』の紹介なんだけれども、はっきり言って稚拙な図式主義を振りかざしていたように思う。

私自身が読んだのは『フライデー』と全く同じものではなく、彼が子供向けに書いた『新・ロビンソンクルーソー』(榊原晃三訳、岩波書店/岩波少年少女の本24)のほうです。しかしその本の解説によると、セックスの部分だけを削除したのが子供版だったはずですので、大きな違いはないでしょう。(「印象的だったのは、二人だけなのに口で話をするのは面倒だから、たがいに手話でやりとりしようとフライデー(というかヴァンドラディ)が提案したこと、そして、手話記号の一覧表のイラストが詳しく掲載されていたことでした)。


さて、先週の池澤の何が不満だったかというと、またしても、文学の輩が社会科学者のナイーブな単純化の受け売りをしてしまったということです。

ああ、良かったら岩波文庫の『ロビンソン』の翻訳者の解説を見てください。東大英文科の英文学者平井 正穂教授が、大塚久雄のロビンソン解釈の受け売りをしているのです。大塚久雄の近代主義的な解釈が、原作を強引にねじ曲げた誤読であることは、たとえば岩尾 龍太郎だとか、正木 恒夫植民地幻想』といった著作をご覧いただきたい。問題は、大塚近代主義だけではなないのは明白でしょう。(上)(下)二冊の翻訳まで引き受けた東大の文学部教授が、たとえ当時多大なる影響力があったとはいえ、英文学の解釈について、一経済史研究者の受け売りをしてしまったと言うことです。こういうことは、独り平井教授のみならず、日本の文学研究の本質に関わる大問題ではないかと密かに思っています。

話が少々脱線してしまいました。要するに作家・池澤夏樹がテレビで述べたのは、平井教授と同じような単純な二分法に陥っていた訳です。つまり、デフォーの『ロビンソン・クルーソー』は、実に勤勉なプロティスタンティズムの精神の具現化でありましたとか、原住民のフライデーを従者と扱っていました、しかしトゥルニエとなると、レビー・ストロースの『野生の思考』の影響も受けて、全然違っていますよ、というのです。

つまるところ、

  デフォー:トゥルニエ
=モダニズム:ポスト・モダニズム
=プロ倫禁欲主義:脱宗教的な「遊び」
=原住民奴隷思想:原住民友愛思想

だというのです。

池澤のトゥルニエの説明はそんなに的を外しているとは思いません。だが、デフォーの『ロビンソン』はちょっと違うだろうと言いたいのです。まず、正木が説得的に主張していますが、デフォーはプロ倫(Max Weber)的な勤勉人ではなく、重商主義的発想が強いギャンブラーなのだ。それから、ロビンソンはかなり柔軟な思考力があって、案外良い奴なんだ(笑)。僕自身、デフォーの帝国主義・植民地主義の精神を暴露してやるぞという気持ちで『ロビンソン』を読んでみたのだが、どうもそれは私の偏見でしかないと思い知らされたのだ。むしろロビンソンは優柔不断で、あれやこれやと思い悩む奴なのである。

もちろん、小説の中でロビンソンはフライデーの反論にも耳を傾けているのだ。いま手元にあるのは、Dover Thrift Editionsの米2ドルのRobinsonなのだが、その160頁にはこんなことが書いてある。

[Robinson ]’Friday, God is stronger than the devil, God is above the devil, and therefore we pray to God to tread him down under our feet, and enable us to resist his temptations and quench his fiery darts'.

[Friday] 'But if God much strong, much might as the devil, why God no kill the devil, so make him no more do wicked?'

I was strrangely surpursed at his question・・・
フライデーの鋭いつっこみで、ロビンソンはもうタジタジとなってしまうのである。こんな具合で終始しているから、デフォーの古典的名作は決して簡単に侮れるような代物ではないのだ。まあ池澤だって本当は分かっているとは思うが、そういう単純な二分法の枠組みにぴったりと当てはまらないからこそ、文学の古典として生き残っているのだ。だからこそ、パロディを作りたくるというものなのであろう。


そういうわけで、先週(2009年10月)のは、ちょっと残念でした。なお、デフォーの『ロビンソン』は東大の文化人類学教授でもあり、現在は文学翻訳家としても活躍している増田義郎先生による新訳が出ている。完訳 ロビンソン・クルーソー』である私は未読であるが、ぜひとも読んでみたい。(余談だが、ロビンソン・クルーソーが28年間滞在したとされるトバゴ島というのは、V.S.ナイポールの出身地トリニダード島とともにトリニダード・トバゴという国を作っている)。

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2009年11月2日月曜日

池澤夏樹のポストコロニアリズム文学批判(2)ーーその偉大なる功績

私はさんざん池澤夏樹の書いていることについて文句を書いたし、これからそういうことになるかもしれない。だが、それにしても一度は功績を大いに褒めておきたい。ポストコロニアル文学が読んでおもしろいものだとハッキリ断言し、しかも商業的にも大きく成功せしめたこと(成功したと思うが)、多くの読者を獲得したということは、称賛に値する。これだけで十分文学史に残る作家となったと言いたいくらいだ。

作家と言うのは学者ではないので、分かり易い書き方でハッキリとが書くことが出来る。狭い学者の枠組みに閉じこめられないのである。池澤の真価もそこにある

たとえば、ある非常に優れた学者、ポストコロニアル英文学については日本を代表すると思われる英文学者・中井亜佐子の著作を例に考えてみよう。氏は最近ポストコロニアル文学について、日本語で最も重要な研究書であり教科書である『他者の自伝』―これから少なくとも10年は日本の英文学徒の間で読み継がれるであろう―を書いて出版した。だが、非常に残念なことだが、英文学という専門家世界の領域をほとんど一歩も超えようとはしなかったのである。一般読者の知りたい素朴な疑問といのは、つまり、その本が面白いのか、わざわざ英語で読むに値するのか、その本が古典的評価を得ているのは何故なのか。もし重要だったり感動的なモノだとするなら、それがどのように素晴らしいのか。また、我々日本人が、言及されたようなポストコロニアル英語文学を読むことによって、どんな意味や意義があるのか。さらに言えば、地域研究系・社会科学系の読者にとっての最大の関心事だとおもうが、ポストコロニアル文学を研究をすることによって、お前はどのような政治的見解をとっているのか、ということだ。しかし、そういったナイーブで切実な問について、学者的な幻惑でしか応答するだけだったのである。(とくにナイポール論においては、重要な議論となるべきはずだ)。

要するに中井氏は、英文学という学界の中で共有された土俵の中でのみ議論を展開してみせたのだ。それは致命的な問題ではない。だが、やはり残念に思う。文学というのは、文学研究者のためにだけあるものでなないからだ。書評ではありえない、専門家的研究というのは、寂しい限りではないか。

より深刻な問題は、ポストコロニアルという問題意識が、たとえば政治学・社会学、あるいは、地域研究やエスニック・スタディーズのような領域を含みこんでいることに由来する。いったい異なる専門分野の人のどれほどが、中井の声に耳を傾けるだろうか。おそくらは、日本でポストコロニアリズムを研究していると自称している朝鮮(韓国)や沖縄関連の研究者の大半は、中井亜佐子ーー繰り返すが、中村 和恵と並ぶ日本語圏の代表的ポストコロニアル英語文学研究者だと思うーー氏の名前を知らないのが現状ではないか。

「ポストコロニアル」とか「ポストコロニアリズム」といった専門用語(?)が、事実上、文学研究者(とその周辺)と地域社会研究(とその周辺)とに分断されてしまっているのだが、中井氏の書物はそのギャップを埋めるものにはならなかったのである。


以上のような状況があるからこそ、池澤夏樹が光ってくる。読むに値する文学であると一般読者に語りかけ、紹介の労を引き受ける著名人がいるということは、ポストコロニアリズムやポストコロニアル文学にとっては、実に貴重で、有り難いことだ。

では池澤の選んだ選集は、氏の説明を超えて、どのような波紋を投げかける潜在的可能性があるのか。まず、指摘しておきたいのが、いわゆる「ポストコロニアリズム」とか「ポスコロ」とかいうとき、一般読書人は文学的な用語だとは解していないということだ。サイードやバーバが文学研究者だと知らない人がいても不思議ではないくらいだ。そこでちょっとWikipediaの「ポストコロニアル理論」を引用する。

20世紀後半、第二次世界大戦によりヨーロッパが没落し、世界が脱植民地化時代に突入すると、それまで植民地だった地域は次々に独立を果たしたが、こうした旧植民地に残る様々な課題を把握するために始まった文化研究がポストコロニアリズムである。ポストコロニアリズムの旗手エドワード・サイードが著した『オリエンタリズム』(1978年)の視点がポストコロニアル理論を確立した。

例えば、ヨーロッパで書かれた小説に、アジア・アフリカなど植民地の国々がどのように描かれているか、あるいは旧植民地の国々の文学ではどのように旧宗主国が描かれているか、旧植民地の文化がいかに抑圧されてきたかといった視点で研究する。一般に、旧植民地と旧宗主国またはその他の国との関係性に着目し、西欧中心史観への疑問を投げかけ、旧植民地文化の再評価のみならず、西欧の文化を問い直す視座を提供する。日本の場合、ヨーロッパとの関係、アジアの植民地との関係においても考察の対象になる。

上記の説明は、おそらくは、英文学や仏文学専門の人をのぞけば、大多数の人がポストコロニアリズムに抱いているイメージと近い。「ポスコロっていうのは、従来親しんできた西欧文学について、「オリエンタリズム」の観点から批判(糾弾)していくんだろう」というものだ。たとえば、フランス人作家カミュはアルジェリア出身なのでアラブ人に偏見のある描き方をしたとか、ドリトル先生やシャーロック・ホームズ、オーギュスト・デュパンには、英米の旧宗主国的偏見が見え隠れしているとか、そういった点を洗い出そうとするのがポストコロニアリズムなんだろうという理解である。

ところが池澤夏樹が「現代的で面白い」という観点から選んでしまった全集は、黒人やアジア人を差別する立場の書き手が盛りだくさんだ。しかも、帝国主義や植民地主義を自己批判するような作品であるとは限らない。それなのに、黒人差別をする側の民族の書き手と、黒人の書き手を、「面白い」という尺度で褒めあげてしまうのが池澤夏樹である。

池澤はWikipediaに代表されるような「ポスコロ」理解を真っ正面から否定してしいることになるのだ。池澤の最大の功績はここにある。そして、池澤の提示した政治的曖昧さこそが、ポストコロニアル文学的発想なのだと私は強調したい。(続く)


P.S 今日の放送(『戦争の悲しみ』)は良かった。先週はちょっと酷いと思ったけれど・・・。

2009年11月1日日曜日

BBC World Book Clubは必聴Podcastだ

この2009年9月にはApple社から新しいiPodが発売されたので、さっそく購入しました。すると自然にPodcastなるもの、あるいは、iTunesUなどに興味を寄せることになった。いずれもパソコンがあれば視聴できるものなのだが、いままでは無関心でいただけのものだ。だが、それにしても、すばらしい財宝が無料で放映されていることに気がついて驚いた。たとえば、コナン・ドイルのインタビュー映像とかがいつでも好きなときに見ることが出来るわけだ。

さてポストコロニアル文学愛好家となれば、次のPodcastは絶対に聞き逃してはならない。
BBCのWorld Book Clubである。(私のiTUnesではうまくiPodに取り込めないが、今回は技術的な話は書かない。私が詳しくないからなのだが)。

近くの散策のお供にと何気なく持ち運び聴いてみたら、なんとギュンター・グラスが生登場しているじゃないですか。もちろん英語です。そして、「『ブリキの太鼓』の太鼓はどういう意味なのか?」とか、世界の一般読者(?)が電話や手紙で質問攻めにするという趣旨の放送なのでした。面白いのが読者がパキスタン人だとかエジプト人(?)だとかで旧英植民地などの世界中の人だったことだが、その件はさておき、調べてみるとこのWorld Book Clubの他の出演する作家さんたちが実にポストコロニアル文学的な作家名が並んでいること。(実はまだ聴いていません)
Chimamanda Ngozi Adichie--池澤夏樹が週刊誌で翻訳本を絶賛していたナイジェリア人若手女流家。久保田のぞみ先生の翻訳である。
他にも Nawal El Sadaawi, Moshin Hamid, Toni Morrison, Derek Walcott, Alice Walkerと並ぶのだ。

まずはBBC World Book Clubの紹介まで。(iTuensでの同期はちょっと難しいみたいですが、mp3音源をダウンロードすることは簡単です。時間は1時間近くあります)。