2008年7月13日日曜日

笙野頼子とポストコロニアリズム

議論を展開する前に笙野頼子とポストコロニアル文学との関係について書いておかなければならないということに気がついた。

笙野頼子はポストコロニアル文学なのか?端的に回答してしまえば、NOであろう。私自身、ポストコロニアル文学と笙野頼子の両方に興味を持っているし、安部公房はポストコロニアル文学であると主張している。だが、笙野をポストコロニアル文学とは言い難い。もし笙野頼子自身に問いただしてみれば、「俺はポストコロニアル文学というものをよく知らない。いや、もし李良枝がポストコロニアル文学だというのならば、全く知らないわけではないが・・・」と答えるのではないだろうか。(李良枝と笙野頼子というのは、ポストコロニアル文学の視点からいえば、最も重要なテーマに違いない! だが、私にはまだ扱うことができないのである)。

笙野頼子がポストコロニアル文学ではないとしても、共通のテーマに取り組んでいると言っても良いだろう。とりわけ、歪められた言語と宗教に対する取り組みがそれである。そして、ここでは当初、ポストコロニアル文学におけるサバルタン表象と、笙野頼子の火星人および火星人落語の描き方について比較するつもりだったが、もっと大きな枠組みで対比できるように思われてきた。そこで、予定を変更を変更して概略をのべてみる。

[ポストコロニアル文学と笙野頼子を大枠で比較するという試みは、もちろん危険性もある。笙野頼子をネオ・リベラリズム批判の枠組みで論じるのが不味いのと同じ意味で、矮小化する危険があるからだ。しかし、私以外の人が笙野頼子とポストコロニアリズムを比較しようとは考えついていない様子なので、こういった試みにも一定の意義はあるのではないか]。

ポストコロニアリズムの4類型(3類型ではなくて4類型にしてみました)。

①対抗国家あるいはナショナリズムと民族文学
②保守派ポストコロニアル文学
③リベラル・ラジカル派ポストコロニアル文学
④エリート主義的ポストコロニアリズム(≠文学)



①はポストコロニアリズムだとかポストコロニアル文学ではない。要するに、ポストコロニアルではなくてアンチ・コロニアリズム。また、その延長線上にありながら、帝国全体を書き直そうとするのではなく、ローカルな土地に自閉し、独自の対抗国家を築こうとしているする。文化・文学的に言えば、ナショナリズムや国家主義、あるいは対抗神話を志向することになる。あるいは、民族文学を樹立することになるのでしょうか。ポストコロニアリズムがハイブリッドな非同一性の理論なのに対し、こちらは均一的で排他的な同一性の理論であると言うこともできる。

②保守派ポストコロニアル文学―サイードが厳しく批判したナイポールやカミュなどがこの保守派だ。ここで重要なのは、その保守的・反動的見解にもかかわらず、優れた文学でありうるということ。また、サイードのようなポストコロニアルの批判的知識人たちとの距離も、意外にそれほど大きくないということも注目に値する。言い換えれば、サイードがポストコロニアリズムのチャンピオンで、ナイポールは反ポストコロニアリズムだといったような議論は、ポストコロニアル文学の概念を誤解したものだと言えます。

③リベラル・ラジカル派ポストコロニアル文学―ここでとりあえず、②との差異は思ったほど大きくないと強調しておきましょう。エジプト時代のサイードの境地は、帝国主義作家キプリングのインド体験と共通した物だそうだが、全然驚くべきではないだろう。政治的には対立関係にあるように見えても、実は彼らは同じ土俵にいるのである。

④エリート主義的ポストコロニアリズム―サバルタンあるいはネイティブ・インフォーマントを代弁すると称するインテリ学者たち。彼らは、左翼的あるいはPC的反体制的なポーズをとっているが、被抑圧者を利用しているだけにすぎない学者・知識人・評論家たち。もちろん彼らの書き物は文学とは言わない。③のリベラル派・radical派ポストコロニアル文学は、④に転落する危険性もある。


ポストコロニアル文学についての日本語の解説本はいくつかありますが、このような類型は多分新しいはずです。もちろん前々から私にはこういう認識はあったわけですが、笙野頼子の小説の類型にも役立つのではないかと思って書いてみたです。つまり_、

①対抗国家(対抗神話)を選んだ人々というテーマ、ウラミズモと『水晶内制度』
②江藤淳と保守的評論家
③ 笙野?
④「おんたこ」(ニセ知識人)と火星人(対抗神話を持たない被抑圧者)との共生関係 『だいにっほん』

1 件のコメント:

shakti さんのコメント...

文体が統一されていませんが、とりあえず。