2008年7月3日木曜日

ポストコロニアル文学のサバルタン表象①

サイードの『オリエンタリズム』が過度にヒットしてしまった結果だろうが、ポストコロニアリズムはしばしば誤解されることになった。わたしの知人でも誤解している人はかなり多いのだ。簡単に言ってしまえば、左翼・反植民地主義だからサイードとポストコロニアリズムが好きだという風に誤解する人と、その反対に左翼の生き残りにすぎないから嫌いだと誤解してしまう人に分かれてしまうのである。(希に、左翼として不徹底であるからサイードやポストコロニアリズムはダメだと批判するものがいる。これは誤解ではなくて一つの正論である)。

じつは、私のブログに言及しながら、ある人がポストコロニアリズムについて、まるで見当違いの文章を書いていたのを発見した。おそらく、ポストコロニアル文学とかその研究本を全く読んだことがないのだろう。毎度のことなのでやむをえないとは思うが、やっぱり残念なことである。(もっとも重要な参考書をあげると、オーストラリアの白人文学研究者アッシュクラフト他による『ポストコロニアルの文学』(青土社)。1番最近の興味深い研究本は、中井亜佐子『他者の自伝―ポストコロニアル文学を読む』(研究社)である。また、詩人・エッセイストでもある中村和恵(明治大学)の書くものは、ほとんど必読のものばかりである)。

しかも、笙野頼子のだいにっほん三部作の戦闘的文学について、稚拙なまでのパーフェクトな誤解している。こういうのは全くの勘違いなので、残念ながら批判する価値はない。(だが、文学・思想関係では、こういった誤解がしばしばあるから不思議である。決して頭の悪い人ではないはずなのだが、・・・。でも、大変ケシカランことです)。

さて、その人のポストコロニアリズムおよび笙野批判は、こんな文章であった。

自らの権力者である部分が見えていない故に進めない。それは笙野本人にも感じられることだ。笙野あるいはこの筆者に欠けているもの。それは、それこそスピヴァクの言葉である『サバルタンは語ることができるか』という問いである。何故サバルタンは自らを語れないのか。何故サバルタンは歴史を奪われてしまうのか。こういった問いがないとは言えないが、その存在感が薄いために、笙野は火星人主人公たるいぶきに歴史を語らせようとする。

もう一度言う。そんな簡単な話なのか? そんなに「わかりやすい」話なのか?こういった問いの答えを、それこそポスコロがやっているように、社会 体制に求めるのもよかろう。しかし歴史上の幻想にそれを求めると、歴史幻想における権力者の分析になり、自らの権力者である部分には何も影響が生じない。 自他未分 化的なおぞましくも魅惑的な領域に辿り着けない。サバルタンは非サバルタン化されることが「正しい」という固定観念から抜け出せない。


こういった考え方ほどポストコロニアル文学や理論からほど遠いものはない。というのは、書き手が語る言葉や文学の権力性についてもっとも自覚的なのが、サバルタンを主題化しようとするポストコロニアル文学だからである。端的な例は南アフリカの白人作家J.M.Coetzee のFoe(邦訳『敵あるいはフォー』)だ。この小説はDefoeの『ロビンソン・クルーソー』のパロディーだが、ここでは原住民フライデーは舌を抜かれて全く発話できなくなっている。そして、好き勝手に小説を書く作家デフォーは彼の敵(=フォー)となっているのだ。アパルトヘイト政策の南アフリカでアフリカーナー系白人作家が文学をやっていることの批判的言及になっているのはいうまでもない。(クッツェー文学というのは実は、クッツェーの「分身」や「祖先」が強姦親父になってしまう作品が多いのである。たとえば『恥辱』では、白人の英文学教授がカラードの女子学生を無理やりベッドに連れ込んでしまう。彼自身も南アの白人大学教授であったことも付け加えておこう)。

そもそもポストコロニアル文学の起源というのは、植民地官僚や植民地旅行者の記録なのだ。世代を下るにつれ、植民地生まれの白人クレオールたちだとか、原住民エリートたちが文学を執筆するようになる。そして、今日よく知られたポストコロニアル文学者や批評家というのは、実は、白人クレオールか文化的にイギリス化(フランス化)したような原住民エリートなのである。まもとめてしまうと、ポストコロニアル文学とは、①白人クレオールあるいは白人化した原住民の書き手によって執筆されたものであり、②宗主国の文化的・文学的伝統に則りながら、それを批判的に克服しようとする試みがなされたものである。断じて、サバルタン解放文学ではないのだ。

それではポストコロニアル文学の中では、植民地の中で発言権をもたない弱者について、どのように表現されているのか。意外に思われるかもしれないが、ポストコロニアル文学がサバルタンを好意的に論ずるとは限らない。(政治的非正義の代表的作家ナイポールがその代表だ)。もちろん、サバルタン対して好意的な作家もたくさんいる。しかし、まじめな作家である限り、サバルタン=被抑圧者を真正面から描きあげることはできない。何しろ書き手は、いくらリベラル・マインドで弱者にシンパシーを抱いたとしても、所詮は白人支配者の側にいるのだ。被抑圧者の文化や生活あるいは言語に通じてないのだ。というわけで、(ポスト)コロニアル文学においては、被抑圧者というものはどうしても主人公にとって恐怖の対象であるとか軽蔑の対象になりがちなのである。そういう文脈をよく考えないと、ポストコロニアル文学におけるサバルタンの表象の問題をよく理解することができないわけだ。

わたしが考えるに、ポストコロニアル文学のサバルタンの描き方には次の3通りの類型がある。

① 保守派のポストコロニアル文学――被抑圧者、弱者、被植民者、サバルタン、女、火星人、黒人といったものを恐怖の対象または軽蔑の対象としてとして描く文学である。

分かり易いのは、むしろコロニアル文学というべきであろうが、巽孝之の解釈するエドガー・アラン・ポーの『モルグ街の殺人事件』が挙げられるだろう。巽によれば、人間ばなれした怪力の殺人オラウータンは、南部アメリカ貴族ポーにとっての黒人なのだそうである。いわゆるポストコロニアル文学で言えば、カリブ出身の白人クレオール作家ジーン・リースの『サルガッソーの広い海』における、主人公の女性の黒人奴隷に対する恐怖をあげるのが適当だろうか。あるいは、カリブの小さな島トリニダード出身のインド系作家ナイポールの描く旧植民地社会(特にアフリカとインド)の描き方をあげてもよいかもしれない。

② エリート主義的的ポストコロニアリズム――保守派のポストコロニアル文学は文学だったが、これは文学と呼べる代物ではない。むしろ、アカデミズムの危険な潮流である。(笙野頼子の「おんたこ」とほとんど似通っていることに気づくであろう)。要するに、ポストコロニアル文学批評の難しい言葉を操ることができる植民地出身の知識官僚・エリートたちが、本当の弱者やサバルタンを「代弁」し、自分たちの特権を強化しようとするやり方である。

参考文献は、SpivakのA Critique of Postcolonial Reasonである。たとえば序文でSpivakは次の様に書いている。「わたくしは、ある種のポストコロニアルの主体が逆にコロニアル主体を再コード化し、〈ネイティヴ・インフォーマント〉[≒サバルタン]の立場を占有してきていたことに気づき始めた。グローバリゼーションがたけなわの今日では、テレコミュニケーションが〈ネイティヴ・インフォーマント〉から直接に土着の知識と称するものを盗み取りし」ていると述べている。詳しくは、この本の「文化」の章をよく読んでもらいたい。(邦訳がわかりやすいとは必ずしもいえない。原文でまずは読むことを薦める)。

③第3のポストコロニアル文学――これがいわゆるポストコロニアル文学のサバルタン表象である。じつは①保守派の文学との距離は案外近いのが興味深い。(明日また続きを書く)


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