そして、またまた脱線してしまいます。最近図書館で野村浩也の人が編集した『植民者へ―ポストコロニアリズムという挑発』(2007年)という本を借りてきました。この本についての総体的評価はここでは避けますが、側面的に2点だけ問題にしておきます。
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① 本書では「ポストコロニアリズム」という言葉がタイトルばかりでなくさまざまと箇所で用いられていますが、この言葉の使い方は間違っていると言わざるを得ない。なぜならば、サイードやバーバあるいはスピヴァックといったポストコロニアル批評家の文章をちゃんと読んでみれば分かることですが、ポストコロニアルという概念の政治的ポジションはきわめて曖昧な文学的なものであって、本書のような明確な指針をうちだすような性質のものではないからです。
たとえば、サイードが敬愛しているの英語作家にポーランド出身のコンラッドという人がいます。代表作は、コッポラの映画『地獄の黙示録』の原作として有名になった『闇の奥』ですが、この本はある意味では、黒人差別と大英帝国の植民地主義の礼賛になっている作品です。すでにアフリカ人作家アチュベが読んではいけない作品だと非難しております。また、コンラッドという人間に対する厳しい批判は、藤永 茂の『「闇の奥」の奥―コンラッド/植民地主義/アフリカの重荷』を読んでみれば理解が深まることでしょう。
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では野村たちはどうしたらよいのか。簡単なことです。サイードの人気だとか権威に媚びたりせず、「反帝国主義」だとか「ネオ・コロニアリズム」という昔ながらの概念を堂々と使うべきだったのです。そして、サイードらの政治的姿勢の曖昧さを糾弾すべきだったのです。左翼からのポストコロニアリズム批判は、在米フィリピン人の政治批評家San JuanのBeyond Postcolonialismがよく整理されていますと思います。
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②野村たちは、作家・池澤夏樹を植民地主義者であると非難しています。私も、ある意味で彼らに賛成で、たしかに池澤はコロン(植民者)の視点から物を書いているのだと思います。しかし、ポストコロニアル文学理論的にいえば、それだけで終わりにしてしまうのでは、ちょっとだけ残念でなりません。(野村たちはポストコロニアル文学理論的ではないから、別に構わないのでしょうが)。
どういう事かというと、池澤は日本の植民者(の末裔)の立場から、すでに旧植民地(北海道、南太平洋の島々など)を舞台にした小説を書いているのだから、それらの作品についての本格的論評をすべきではなかったのかと思うわけです。エッセイや発言ではなく、小説の中で植民地と人間がどのように描かれているのか。実はそれがポイントではないでしょうか。(この点に関しては、サイードのカミュ批判が先行例として興味深いと思われます)。
植民地的作家、あるいはポストコロニアル作家としての池澤夏樹の評価については、今後の私の課題とすることにしましょう。(池澤さんの惜しむべきは、おまえはコロンじゃないかと沖縄人に指摘されて、「そうかもしれない」と潔く認めなかったことである。それだけは間違いない!)
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