「弱者への愛には、いつも殺意がこめられているーー」
(安部公房『密会』より)
本当は野村浩也たちの『植民者へ』について、もっと正面切って論じなければならないんだろう。つまり、ポストコロニアリズムやサイードに関連する弱点については括弧に入れて、議論しなくてはいけないということだ。
厄介だが、少しだけ感想を書いておこう。
野村らの主張を強引に要約すれば、沖縄にシンパシーをもっているかのように演じている「リベラル」な日本人がインチキであること、そして、沖縄も日本の一部なのだから本当の平等を実現せよ、というメッセージである。
前者に関して言えば、一応の目的は達成できたのではないのかと思う。もう少し池澤夏樹の分析を丁寧に解読してもらいたかったし、坂本龍一の沖縄オリエンタリズム音楽の批判的分析だとか、芸能界における沖縄趣味等についても触れて欲しかったのだが。
個人的に言えば、私という一日本人が、フィリピンの人々や社会にどのようにシンパシーをもったり、関わったりしたらよいのかというジレンマ体験を大いに思い出させてくれた。シンパシーをもつというのは、弱者をパトロナイズするとか飼い慣らすという発想と紙一重なのだ。
後者のメッセージが有効になるためには、真正なる日本民族主義の蘇生が必要不可欠である。「真正な民族」とは、「一民族の成員という資格において平等な、ないし平等であろうとする人々」(関曠野『民族とは何か』講談社現代新書、225頁)のことである。
しかし、真正なる日本民族主義とは何かという問題提起はなされていないと思う。本書の課題ではないといえばそれまでだが、やはり残念だ。何故そんな風に思うのかと言えば、野村らの論法でフィリピンやインドの貧困や不公正を論じても、ほとんど誰にも相手にされないのは明白だからだ。「そんなこと、我々に関係ないだろ!」と、きっぱりと馬鹿にするのが、日本人の現実ではないか。つまり、彼らが本を出版したり、日本の大学で職を得ることができるのは、沖縄がやっぱり日本の一部だからなのだ。それならば、二項対立ばかり強調するのではなく、日本民族主義や日本改造論(e.g.改憲論)をも論じて欲しかったのだ。
他にも言いたいことはあるが、このへんにしておく。
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