2008年8月27日水曜日

水村美苗「日本語が亡びるとき」をめぐって


やはり水村美苗の「日本語が亡びるときーー英語の世紀の中で」『新潮』(2008年9月号)について書いておかなければならないと思う。mixi 上で紹介したら、私の知人・友人の多くが水村美苗の議論について、大いに関心を持ってくれたからだ。

さて、「日本語は亡びるとき」は日誌または小説の形態をとってはいるが、笙野やクッツェーの作品のような特別な「からくり」があるわけではなさそうだ。ここでは単なる評論とみなし、物語的展開についての言及は捨象しておこう

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さて、内容はといえば、ある意味では凡庸である。タイトルが示す内容そのままであり、必ずしも刺激的な評論とは言い難い。しかし、もちろんのことだが、この小説家独自の問題意識も散りばめられている。とくに興味深いのは、アメリカで教育を受けてきたにもかかわらず、「なぜ日本語の作家となったのか」というテーマ、あるいは、「なぜ私は英語の作家にならなかったのか」というテーマを水村美苗が抱いているからである(同書、171頁)。 英語と日本語の両方の世界に足を踏み入れた女性が、世界的に見ればマイナーな日本語という言語をあえて選び取ったのは何故か。こういうテーマを抱えている日本人作家が、日本語が亡びるときを論じるのだから、やはり読んでみないわけにはいかないだろう。何しろ水村美苗と言ったら、日本語と英語による本格的なバイリンガル小説『私小説 from left to right』の作者なのだ。


かつて村上春樹について、次のようなことを書いてみた事がある。村上春樹といえば、アメリカ文学を愛好し、グローバル化した社会に奉仕する、ネオリベ的で非国民的なケシカラン作家であるとしばしば批判されている。私はこの見解に半ば同意しつつも、村上春樹が彼なりの枠組みで日本語と日本語文学の枠組みにとどまっている事を論じたのだ。このグローバリゼーションの時代において、村上という作家はボーダーライン上にあるのだ。もしその気になれば、優秀なエディターを雇い、アメリカ語の売れっ子作家になることも可能だったではないか。それなのに日本人・日本語作家であることやめてないのだ。しかも、海外向けて作品を発表するばかりでなく、英語文学を日本語に翻訳するという地道な作業に取り組んでいる。彼なりにグローバリゼーションに対して抵抗をしているのだ、と。

しかし、村上春樹の後の世代が日本語文学にとどまるのか、たしかに心許ない。もし日本人の最大のベストセラー作家が英語で執筆する時代になってしまったならば、日本語と日本語文学は壊滅的なダメージを受けている時代の到来ではないか。

バイリンガル或いはフランス語を含めて三カ国語が堪能な作家・水村美苗は、どのようにして議論を展開しているのか。予想通りというべきか、水村美苗もベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』に言及している。しかも極めて批判的である。アンダーソンは、ヨーロッパ的な多言語主義の視点に立っているが、自分が英語を母語とする人間だから、英語が他の国語とは違う<普遍語>であることについて、十分検討していないというのである。<普遍語>に関しての思考の欠落があるのだ、というのだ。

水村美苗のアンダーソン批判は不当なものである。というよりは、アンダーソンとは異なる価値観の持ち主だと思うが、差し当たりその事について取り上げず、水村の論旨を追っていこう。水村の提案は、アンダーソンが探求を怠っていたという<普遍語>についての検討である。

水村は言う。<普遍語>とは、学問のための<書き言葉>であり、<読まれるべき言葉>以外の何ものでもない。<叡智を求める人>は、例えばガリレオやエラスムスは、ラテン語で書いたのだ。これに対して<現地語>というのは、下位のレベルにある言葉であり、<書き言葉>の有無は問わず、「女子供」と無教養の男のためのものでしかない。文学として意味を持つ散文が書かれる事は少ない。

他方、<国語>は<普遍語>でも<現地語>でもない。もとは<現地語>でしかなかった言葉が、<普遍語>を翻訳する過程において<普遍語>と同じレベルで機能するようになった言葉である。そして、近代の英仏独の<3大国語>は、<普遍語>と<現地語>を持ち合わせる言語となったのだ。そして19世紀になると、他の小国のヨーロッパ人たちも<自分たちの言葉>で書くべきだと考えるようになるのだ。<国語>の時代に入ったというべきであろうか。

ここで、水村はきわめて論争的な仮説をいくつか提示する。<国語>の時代に<学問>と<文学>とが別れるようになったのだ、そして、「人間とは何か」「いかに生きるか」といった問いは、専門化された<学問の言葉>には求められず、<文学の言葉>に求められるようになったのだ、と。もちろん文学、とくに小説の言葉を担うのは、<母語>あるいは<現地語>と<普遍語>の双方の性質を有することができた<国語>であった。

さらに追い打ちをかけるように、「この世に<真理>には二つの種類がある」(206頁)とまで述べる。テキストブックを読めばすむ<学問の真理>と、必ずテキストそのものにかえってそれを読まなければならない<文学の真理>があるというのだ。いわゆる科学の真理と、文体に宿る真理とがあるというわけだ。実にユニークな主張であることは誰も否定できまい。


以上のような前提で、水村美苗は日本近代文学が「亡びる」、いや、すでに亡びつつあると述べているのである。つまり、日本語で書かれた文学一般が消えて無くなってしまうというのではなく、<文学的真理>を備えた本物の日本近代文学が亡びつつあるのだと主張しているのだ。すなわち、英語が<普遍語>となり、<国語>の祝祭の時代が終焉すれば、<国語>はただの<現地語>と化す。そうなれば、<叡智を求める人>は<現地語>化したニホンゴ文学など読まなくなる。「<叡智を求める人>であればあるほど、日本語で書かれた文学だけは読もうとしなくなってきている」(209頁)、と。


水村の論旨をたどっていくと、そのキーワードは結局のところ、<真理><叡智を求める人>である。しかし、それでは日本の近代文学の<真理>とはなんだったのだろうか?おそらく、水村氏の考えでは、夏目漱石の小説に体現されているのであろう。だが、<文学の真理>なる概念によって評価される夏目漱石らの近代文学とは、いったいどういうようなものなのか。水村の今回の評論では、そういったことまでは論述されずに終わりになっている。一番肝心な議論のはずなのだが・・・。(続編は2008年秋というから、もう2-3ヶ月もすれば筑摩書房から刊行される予定である)


私が彼女の議論に少々違和感を覚えてしまうのには、いくつかの理由がある。まず、普遍語や国語で探求しようとしているのは、はたして彼女の論じるような<真理>だけなのだろうかなのかと思ってしまうからだ。たしかに水村は<学問的真理>とは別の次元の真理があると述べた。それは<文学の真理>である。だが、そうなると、たとえば信仰や美や愛の真理はいったいどこに属するのだろうか。水村はアンダーソンを批判して、普遍語の探求をしながらも、例にあげたのはガリレオやニュートンといったルネッサンス・近世以降の学者だけであった。逆に言えば、アウグスティヌスだとか、井筒俊彦が論じた諸賢人の名前は、全く取り上げれられなかった。だが、ラテン語やギリシャ語のような普遍語は、本来は神学や宗教的真理の探究のために学ばれたのではないか。要するに、近世・近代の世俗化した学問や近代文学(小説)の真理は、宗教的神秘的次元の真理についての探求は、禁欲したり括弧にくくったりしてしまったのであろう。そして、水村もまた安易に継承し、近世・近代的な思想に限界づけられている。私は中世的な信仰の世界に戻れと論じているのではない。だが、宗教的真理だとか祈り・信仰的次元を見ないできた近世以降の学問と文学を無条件に肯んじているのことを問題にしているのである。また、もちろんのことであるが、アメリカ語が<普遍語>になるとしても、信仰の次元において<普遍語>となるとは思われない。

私が今脳裏をかすめているのは、たとえば、笙野頼子の宗教的私小説がある。笙野は個々人が祈る心に焦点をあてつつ、日本近代(と明治政府ちゃん)を乗り越え、日本神話の再解釈・再構築というテーマにまで挑戦した。さらに国家語さえも根底から支えている神話の書き換えまで小説的に論じようとしている。あるいは、Ben Okriやターハル・ベン・ジェルーンのような小説。そういった現代の新しい小説は、水村の枠組みを挑戦するものなのではないのか。

もう一つの違和感――さきの違和感と大いにオーバーラップしてくるがーーは、ベネディクト・アンダーソンの解釈にも関わってくる。


水村は不遜なことに「アンダーソンは普遍語の意味を十分に考える必然性がなかった」(189頁) と述べ、アンダーソンをヨーロッパに典型的な多言語的知識人であると規定する。

だが、そうアンダーソンに保証されて、ワァーツと拍手をしても、家に戻ってきて正気に返ったとき、さあ、それではアンダーソンに倣ってインドネシアの言葉やフィリピンの言葉を学ぼうという気になる人がどれくらいいるであろうか(186ページ)
水村がどのような心づもりで書いたのかはわからない。だが、アンダーソンこそは、コーネル大学において長年多くの学生を魅了し、インドネシア語やジャワ語の世界にいざなってきた張本人ではないか。半世紀近くに及ぶでだろうベネディクト・アンダーソンの学問的・教育的業績を、水村美苗は真っ向から否定するつもりなのだろうか。もちろんのこと、水村はアンダーソンの東南アジアの言語内在的な文化主義的研究については完全に無視してしまうのだ(苦笑)。ポイントは何かといえば、水村美苗の方は<現地語>を余りに簡単に軽視しているということだ。つまり、ヨーロッパなどのマイナーな国語だとか、ジャワ語だとかのいわゆる現地語によって探求され明らかにされてきた様々な<真理>について、全く顧みようとしないのである

いとも簡単に、現地語の詩や小説などは、教養のない男や「女子供」の慰めでしかないつまらぬものであると決めつけてしまう水村美苗。女子供という言葉にカギカッコをつけても、結局は同じところであろう。要するに水村は、「教養のある西欧のブルジョア・インテリ男」の立場に立って物を語っているのである。私はここでも、笙野頼子を思い出す。
インテリから見たとき、今の私はもう見えないはずです。作品も読めない。今の私はいると困る存在です。だって金毘羅なんだし。メルロ・ポンティとドゥルーズ=ガタリのある本棚の中にある私の本を並べて楽しんでいた人達はきっと私を見て捨てるでしょう。熊楠と折口信夫が好きな人などはもとよりそうです。(『金毘羅』194ページ
この小市民の私、つまり、「戦後のロリコン達が口を極めて罵る凡庸な『私』」(『金毘羅』225ページ)の極私的物語は、水村美苗の中では取るに足らぬものと消されてしまうことになるのであろう。

「日本語は亡びる」という問題意識については、私が水村美苗に大いに共感する。<国語>から<現地語>に転落してしまうではないか、という議論もわからないではない。アンソニー・リードの『東南アジア史』を読めば、前植民地時代のフィリピンの詩と読み書きの伝統は、まさに「女」による「程度の低いもの」であるようにさえ思われることは否定できない。(注。ただしフィリピンは東南アジアの僻地であり、ジャワやタイのような独自の王朝文明が栄えた土地とは異なる。フィリピン諸語とインドネシア諸語とは文化の厚みが全然違うのである!なお、ベネディクト・アンダーソンにはジャワ語の古典文学の研究論文もある)。

しかし、明治近代文学を自明の前提とするような水村の議論の組み立て方には、やはり最後まで違和感を感じざるを得なかった。新しい時代を迎えようとするとき、近代主義的価値観に束縛された議論に終始してよかったのだろうか。



P.S. 水村美苗の危機意識、つまり日本語文学ばかりか、フランス文学のようなメジャーな民族文学までもが現地語文学に転落してしまうのではないかという恐怖についての論評を読んだ者は、ぜひとも小国文学者ミラン・クンデラの『カーテン』所収の「世界文学」を読んでみる必要がある。

欧州文学の先端を切っていたアイスランド文学の運命、国語消滅の危機におびえていたポーランド人と文学、ロシア支配のもとで本当に死滅する危機にあった中欧文学等々。翻訳の意義だとか、あるいは、大江健三郎の小説論だとか、刺激に富む議論ばかりである。大国主義者水村美苗とは異なる視点もうれしい。

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(注)クッツェー「アフリカの人文学」が大いにヒントになっている。この小説では、架空の女性作家で主人公のエリザベス・コステロ主人公がアフリカ在住の姉ブランチを訪ねるのだが、そのブランチが名誉博士号授賞式で、挑発的議論を展開するのである。私は、その挑発的議論に大いに示唆されてしまったのだ。



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