2008年8月7日木曜日

郭基煥の北朝鮮論と李良枝論(その1)

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郭基煥「責任としての抵抗」

野村浩也(編)『植民者へ』の中の郭基煥「責任としての抵抗」という論文は、李良枝の小説をとりあげ、ちょっと面白いと思いメモを取っておいた。取り上げられている作品は、「ナビ・タリョン」と「かずきめ」である。


①「北朝鮮表象」をめぐって

北朝鮮について日本で語るというのは、いかに難しいことであろうか。北朝鮮バッシングの恐ろしい圧力がある、客観的に見ても北朝鮮はちゃくちゃ国であることは否定できない。そういう状況のなかで、北朝鮮バッシングに組みせず、かといって、北朝鮮を礼賛するような愚かさに陥らないようにするには、どのような言語表現のスタイルや形式があるのだろうか。確かそんなことを、テリー・イーグルトン『表象のアイルランド』を読みながら考えていた。


イーグルトンはこんなこと書いている。

イギリス人がアイルランドのことを考えるとき、血で、気難しく、野暮な国民を思い浮かべるとすれば、このような不名誉な先入観を是正しようとするアイルランドの作家たちは、自分たちの社会秩序を消毒し、同国人たちを啓発し、さらには、甘美と崇高を兼ね備えたフィクションによって宗主国の読者層に感銘を与えなければならない。(中略)現状のままにアイルランド描写することによって、イングランドの読者の道徳的憤慨を喚起することは可能かもしれない。だが、その時は同時に、アイルランドがいかに堕落しているかに関する読者の思い込みを裏付けてしまうことにもなる。 イーグルトン「アングロ・アイリッシュ小説における形式とイデオロギー」(266-267ページ)




真理と傾向性、尊厳と本来生は、なかなか和解させることができない。それゆえ、植民地国民の文学芸術は、民衆を貶めることによってしか圧政者を告発することのできないリアリズムか、さもなければ、国民の自負の念を育成しながら植民地支配者に誤った安心感を与える危険をおかす理想主義かという、両極端の間で不安定に航行することを余儀なくさせるのである。(同上、268ページ)


当時の私は、フィリピン研究をしていたので、難解なジレンマの、この簡潔な提示に、大いに感激した。普通の日本人に対して、フィリピン社会について語るということは、いかに大変なことか。実際、ほとんどのフィリピン関係者は、二つのタイプに分裂せざるを得なかった。一方では、フィリッピン社会はいかに素晴らしいか、貧しくても人々が互いに助け合い、女性の力が強く、家父長制的な窮屈さからは自由であることを強調する理想主義のタイプがいた。他方には、フィリピン社会がいかに矛盾に充ち溢れ、文化的には極限的までに堕落し、ケチャップを塗りたくったような不味い飯しかないかを強調する現実主義のタイプがいる。前者は、フィリピン人とフィリピン関係者の自負の念を養い、自己満足を養うには良いのだが、本当の事をカッコに入れて、欺瞞に満ちた現実美化を行っている。例えば、女性の指導者は確かに日本よりははるかに多いのだが、圧力結婚はごく普通のことだし、実はレイプが頻繁で、レイプ婚だってけっして珍しくなかったりする。そういうことを都合よく忘れたり、或いは単に知らない人が、フィリピン社会は女性が強い社会であると報告文を作成してしまうのである。後者を後者で、もっと問題は深刻かもしれない。フィリピン社会の堕落と貧困を強調してしまうと、フィリピン人は、こんな国にても残っていても希望がない、俺はフィリピン人であることが恥ずかしい、と絶望的な気分に陥るしかない。冷淡で差別的な日本人はというと、自分の愚かさや醜さを棚に上げながら、そんなクダラナイ国は見捨ててしまえ、と単にバカにしだしたりしてしまうのだ。こういう悲しい両極端で、どのような表現が可能だというのか。

しかし、北朝鮮表象となると、フィリピン表象以上に困難極めることは予想がついた。日本人の帝国意識的思い上がりから距離を取り、かつ、北朝鮮礼賛のピエロにならないでいること。これほど難解な課題は、そうやたらにあるものではないあろう。(ピエロ路線を選択する在日朝鮮人の青年も知ってはいるが、政治的にナイーブで純粋培養だったためである)

大阪大学の在日韓国人研究者に対して、「北朝鮮問題」についてどのように表現するのかと私は質問してみたことがある。だが、K氏は簡単に私の問いは、どうでも良いことだと、あしらったのだ。おそらく在日韓国人の彼は、北朝鮮問題についてあまり考えていなかっただろうし、仮に考えていたとしても、それを日本人の私に論じるつもりなど全くなかったのだろう。(注、北朝鮮が唐突に出てきたのではない。私の参加していた研究グループは、朝鮮大学校の教員・大学生なども交じっていた共同研究だったからである)


しかし、郭基煥は北朝鮮表象について、全く逃げず、真正面から立ち向かおうとしているのだ。韓流ブームと北朝鮮バッシングの時流に乗って逃げようとする誘惑を、郭基煥は勇気を振り絞って断ち切ろうとしているのだ。


<責任としての抵抗>とは<対決>であり、そのことが意味するのは、決して支配者達に回収されない形で抵抗する、ということだ。(中略)たとえば自分の国籍が韓国であるという事情を利用して、韓国人であると日本人や同胞に向かって言ったり、戦後50年が経過したという歴史を意識の中で強調し、利用して、過去との差異を強調することではない。むしろ自分と北朝鮮との関係を強調することだ。北朝鮮を想起させる朝鮮人ということばで自らを語る。自分の親類に朝鮮総連の活動員がいることを語る。そういうやり方をとることだ。そういうやり方をとるとき、私は恐怖しないでは要られないだろう。だが、そのように恐怖の中で抵抗すること、つまり<対決>は、経験の構造が求めるものなのだ。(182ページ)



彼のような戦闘的姿勢について、いろいろな批判はあろう。たとえば、在日が日本国籍をとって韓国系日本人となったとして、いったい何が悪いのか。私だってそう思わないではない。だが、「責任としての抵抗」という一つの実存的決断について、我々は評価してもよいのではないのか、そんな気にさせられるのも本当のことなのである。

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