2008年8月6日水曜日

池澤夏樹は「おんたこ」か (現代日本のポストコロニアル文学?)

静かな大地
静かな大地池澤 夏樹

おすすめ平均
stars心にしみる、せつない物語
stars日本人は絶対に読んでおくべき一冊
stars出会えて本当に良かった小説
stars渦中に身を置くこと
stars読ませる内容

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日本のポストコロニアル文学的作家ということで、ぼくは当然池澤夏樹を重視し何冊か購入してみたわけです。残念ながらまだあまり読んでいない。その中でなぜか印象に残ってしまったのは、タイ・カンボジア国境のNGOで働く日本人少年と少女の恋愛物語でした。確か「タマリンドの木」ではないかと思います。しかし残念ながら好印象というよりは、池澤が現地を取材し、こういう短編小説を書いちゃったんだな、という感じでした。

アマゾンのレビューで触れた梁石日の『闇の子どもたち』だとか船戸与一『虹の谷の5月』、篠田節子『コンタクト・ゾーン』のような小説と同じような水準という印象でした。要するに、本格的小説に期待するものをそこに求めるならば、甘すぎるという印象です。私がある程度分かるのはフィリピンだけですが、それでも彼らの描くタイ、カンボジア、マレー世界は、ちょっとエキゾチックなだけで表面的な記述でしかないことがわかります。もちろん、現地事情に疎い人がブンガクしてもかまわないのですが、文学的にもあまり深くないのです。

ポストコロニアル文学として池澤を考えるならば、恐らくは代表作は「マシアスギリ」の失脚」と「静かな大地」ということになるのでしょう。これに恐らく、インドネシアを舞台にしたものだとか、南太平洋舞台にした児童文学だとか、いろいろと付け加える必要もあるかもしれません。残念ながら、私はどれも読んでいません。「静かな大地」は今年中には読んでしまおうと思いますが。

多分それなりに面白いものが書かれているのではないかと思います。当時の北海道を思い起こしながら、人間ドラマを楽しむことができるでしょう。最後に自殺せざるを得ない日本人の主人公のことを考えながら、日本とアイヌの歴史、日本人の植民地主義的な歴史について、考えることができるかもしません。

だが、読んでもいないのに池澤さんに大変失礼ですが、悪い予感がするのです。すごくノーテンキなリベラル・リアリズムの歴史小説じゃないかという感じがするのです。(こんなことは司馬遼太郎に向かって主張してもしょうがないでしょうが、池澤夏樹には許されるでしょう)。最後の年譜を見ても、こんな感じです。

本書は創作であるが、主役である宗形家の人々にはモデルがある。(中略)彼らの事績をなるべく曲げずに小説に仕立てるのが作者の意図だったし、彼の人生をたどりつつ時代相も再現するために、文献に残された主要な日付は出来る限り動かさないことにした。(中略)今となって正直に言うと、事実と創作が絡み合って作者にもほどけなくなったというのが本当のところで、だから北海道史や実在の人物については嘘はないけれども、登場人物については虚実ないまぜと思って見ていただきたい


(朝日文庫、654ページ)

この文章を読む限り、小説を読み慣れていない一般読者に向いている、極めて健全で読みやすい作品なのでしょう。だが、そんなリベラルで健全で分かりやすいリアリズムの小説が、本当に文学なのでしょうか。なんだか、ハリウッド映画の「アミスタッド」だとか「カラー・パープル」みたいじゃないだろうか。最後に主人公が自殺するというが、本当に作者と我々にとって切実さがあるのだろうか。そんなふうに思ってしまうんですね。



池澤夏樹の「静かな大地」について、作家の高橋源一郎は解説で次のように書いています。

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文学もまた、歴史と同様、過去を言葉によって記述しようと試みてきた。だが、そのやり方は、歴史と異なる。どんな風にか。池澤夏樹のこの「静かな大地」のように、である。
(666~667頁)。


(中略)
だが、それは、歴史が教えることのできる、ただの知識に過ぎない。

彼らを滅ぼすに至った「和人」とは誰か。我々のことだ。我々は、我々のものと異なる言葉と、我々のものと異なる文化持つ人々を滅ぼした者たちの末裔なのだ。

確かに、我々は「それは気の毒なことだが、みんな、我々の先祖はやったことだ。私は知らない」といえるのかもしれない。いや、そのようにいっても構わない、と教えるの歴史なのである。

作者は、そうは考えない。
(668ページ)。

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高橋源一郎の書いていることは、普通に正論である。もちろん、中高生や大学の教養課程の生徒が相手ならば、こういう内容の小説は必読書となるだろうし、高橋の解説も重要であろう。だが、高橋は肝心な内容に言及することを避けているのではないのか?

ポストコロニアリズムの時代に期待どおりに書かれている政治的に正しい小説、あえてそういう小説を読む価値があるのだろうか、という疑問すら浮かんでくるではないか。

強引に次のようにも問うてもみたい。なぜ池澤は、いわゆるポストコロニアル文学者とは異なのか。つまり、①マジックリアリズムやSFでもなく、②メタフィクション的私小説(偽自伝文学)でもないのか、と。つまり、なぜ、そんなにお気楽な小説を書けてしまうのか、と。

制度化された正義、政治的に正しい教科書風テキストを書く作家というのは、笙野頼子流に言えば、すでに「おんたこ」なのかもしれない・・・。


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