2009年11月2日月曜日

池澤夏樹のポストコロニアリズム文学批判(2)ーーその偉大なる功績

私はさんざん池澤夏樹の書いていることについて文句を書いたし、これからそういうことになるかもしれない。だが、それにしても一度は功績を大いに褒めておきたい。ポストコロニアル文学が読んでおもしろいものだとハッキリ断言し、しかも商業的にも大きく成功せしめたこと(成功したと思うが)、多くの読者を獲得したということは、称賛に値する。これだけで十分文学史に残る作家となったと言いたいくらいだ。

作家と言うのは学者ではないので、分かり易い書き方でハッキリとが書くことが出来る。狭い学者の枠組みに閉じこめられないのである。池澤の真価もそこにある

たとえば、ある非常に優れた学者、ポストコロニアル英文学については日本を代表すると思われる英文学者・中井亜佐子の著作を例に考えてみよう。氏は最近ポストコロニアル文学について、日本語で最も重要な研究書であり教科書である『他者の自伝』―これから少なくとも10年は日本の英文学徒の間で読み継がれるであろう―を書いて出版した。だが、非常に残念なことだが、英文学という専門家世界の領域をほとんど一歩も超えようとはしなかったのである。一般読者の知りたい素朴な疑問といのは、つまり、その本が面白いのか、わざわざ英語で読むに値するのか、その本が古典的評価を得ているのは何故なのか。もし重要だったり感動的なモノだとするなら、それがどのように素晴らしいのか。また、我々日本人が、言及されたようなポストコロニアル英語文学を読むことによって、どんな意味や意義があるのか。さらに言えば、地域研究系・社会科学系の読者にとっての最大の関心事だとおもうが、ポストコロニアル文学を研究をすることによって、お前はどのような政治的見解をとっているのか、ということだ。しかし、そういったナイーブで切実な問について、学者的な幻惑でしか応答するだけだったのである。(とくにナイポール論においては、重要な議論となるべきはずだ)。

要するに中井氏は、英文学という学界の中で共有された土俵の中でのみ議論を展開してみせたのだ。それは致命的な問題ではない。だが、やはり残念に思う。文学というのは、文学研究者のためにだけあるものでなないからだ。書評ではありえない、専門家的研究というのは、寂しい限りではないか。

より深刻な問題は、ポストコロニアルという問題意識が、たとえば政治学・社会学、あるいは、地域研究やエスニック・スタディーズのような領域を含みこんでいることに由来する。いったい異なる専門分野の人のどれほどが、中井の声に耳を傾けるだろうか。おそくらは、日本でポストコロニアリズムを研究していると自称している朝鮮(韓国)や沖縄関連の研究者の大半は、中井亜佐子ーー繰り返すが、中村 和恵と並ぶ日本語圏の代表的ポストコロニアル英語文学研究者だと思うーー氏の名前を知らないのが現状ではないか。

「ポストコロニアル」とか「ポストコロニアリズム」といった専門用語(?)が、事実上、文学研究者(とその周辺)と地域社会研究(とその周辺)とに分断されてしまっているのだが、中井氏の書物はそのギャップを埋めるものにはならなかったのである。


以上のような状況があるからこそ、池澤夏樹が光ってくる。読むに値する文学であると一般読者に語りかけ、紹介の労を引き受ける著名人がいるということは、ポストコロニアリズムやポストコロニアル文学にとっては、実に貴重で、有り難いことだ。

では池澤の選んだ選集は、氏の説明を超えて、どのような波紋を投げかける潜在的可能性があるのか。まず、指摘しておきたいのが、いわゆる「ポストコロニアリズム」とか「ポスコロ」とかいうとき、一般読書人は文学的な用語だとは解していないということだ。サイードやバーバが文学研究者だと知らない人がいても不思議ではないくらいだ。そこでちょっとWikipediaの「ポストコロニアル理論」を引用する。

20世紀後半、第二次世界大戦によりヨーロッパが没落し、世界が脱植民地化時代に突入すると、それまで植民地だった地域は次々に独立を果たしたが、こうした旧植民地に残る様々な課題を把握するために始まった文化研究がポストコロニアリズムである。ポストコロニアリズムの旗手エドワード・サイードが著した『オリエンタリズム』(1978年)の視点がポストコロニアル理論を確立した。

例えば、ヨーロッパで書かれた小説に、アジア・アフリカなど植民地の国々がどのように描かれているか、あるいは旧植民地の国々の文学ではどのように旧宗主国が描かれているか、旧植民地の文化がいかに抑圧されてきたかといった視点で研究する。一般に、旧植民地と旧宗主国またはその他の国との関係性に着目し、西欧中心史観への疑問を投げかけ、旧植民地文化の再評価のみならず、西欧の文化を問い直す視座を提供する。日本の場合、ヨーロッパとの関係、アジアの植民地との関係においても考察の対象になる。

上記の説明は、おそらくは、英文学や仏文学専門の人をのぞけば、大多数の人がポストコロニアリズムに抱いているイメージと近い。「ポスコロっていうのは、従来親しんできた西欧文学について、「オリエンタリズム」の観点から批判(糾弾)していくんだろう」というものだ。たとえば、フランス人作家カミュはアルジェリア出身なのでアラブ人に偏見のある描き方をしたとか、ドリトル先生やシャーロック・ホームズ、オーギュスト・デュパンには、英米の旧宗主国的偏見が見え隠れしているとか、そういった点を洗い出そうとするのがポストコロニアリズムなんだろうという理解である。

ところが池澤夏樹が「現代的で面白い」という観点から選んでしまった全集は、黒人やアジア人を差別する立場の書き手が盛りだくさんだ。しかも、帝国主義や植民地主義を自己批判するような作品であるとは限らない。それなのに、黒人差別をする側の民族の書き手と、黒人の書き手を、「面白い」という尺度で褒めあげてしまうのが池澤夏樹である。

池澤はWikipediaに代表されるような「ポスコロ」理解を真っ正面から否定してしいることになるのだ。池澤の最大の功績はここにある。そして、池澤の提示した政治的曖昧さこそが、ポストコロニアル文学的発想なのだと私は強調したい。(続く)


P.S 今日の放送(『戦争の悲しみ』)は良かった。先週はちょっと酷いと思ったけれど・・・。

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