2009年11月6日金曜日

池澤夏樹のポストコロニアル文学批判(その4)

グーグルのようなもので検索しても、池澤夏樹に批判的な見解を書く人はほとんどいないですね。例の沖縄系社会学者あるいは運動家の人たちはともかくとして、池澤夏樹の見解に大賛成な人ばかりなのでしょうか。(沖縄系の池澤批判者が、彼の文学全集を議論してもよいのですが・・・)。反発を覚えないにせよ、彼の議論に何の疑問を感じないのは、あまり望ましくありません。あのさわやかで知的な感じに騙されて、安易に迎合したり、呑まれてしまってはいけないのです。というのは、池澤が語っていることは、ポストコロニアル文学論の観点の非常に重要な論点と関わっているからです。

(あらかじめ断っておきますと、わたくしは、池澤夏樹 (ポストコロニアリズム) vs 沖縄系学者(反帝国主義、反「ポストコロニアリズム」)の対立に関して言えば、どちらといえば池澤よりの立場です。(沖縄系や韓国系のポストコロニアリズム議論は、完全にその言葉の意味について誤解していると私は理解しているからです。彼らはポスコロじゃなくて、反帝主義なのです)。


まずは2008年における学習院大学での池澤の講演をみてみましょう。

僕は今回新たに編んだ文学全集には、ふたつの顕著な特徴があります。ひとつはポストコロニアリズム。①元植民地に住んでいた人たちが、宗主国の言葉で書いている、②もしくは宗主国から植民地に行ったひとが書く。 (番号はshaktiによる)。 (中略) 
ポストコロニアルの作家の例でいえば、マルグリット・デュラス。フランス人ですが旧仏領インドシナのベトナムやカンボジアで育ちました。彼女にはその土地について強い思い入れがあったのです。
それからジーン・リース。西インド諸島生まれの白人です。西インド諸島は、先住民、スペイン人、サトウキビ農場の労働力のために連れてこられたアフリカ人と、いろんな人種がたくさんいます。カリブ海のあたりでは「クレオール」とも呼びます。シャーロット・ブロンテ「ジェーン・エア」に、主人公ジェーンが出会うロチェスターの狂人の妻が登場しますが、ジーン・リースはその妻の側からの視点で書いているんです。従来、敵役とされたパーソナリティを置き換えると、まったく世界が違って見えます。
第二次世界大戦後の世界文学は、弱者の視点に変わった、抑圧された者にもペンを与えたと思います。今までの見方をひっくり返した。ジーン・リースはその典型です。すごみ、気迫があります。

実に簡潔で明快なポストコロニアル文学の定義です。しかし、再度繰り返しますが、池澤の議論に対して、あまりに簡単に、ふーん、そうなんだ、とか言って納得してしまっては絶対にいけない。日本のかつての植民地は台湾と朝鮮半島であったという普通に思っているような日本在住の人ならば、当然次のような疑問が浮かびあがらなければならないはずだからです。
  1. 元植民地出身の人は、宗主国の言葉で書かなければならないのか。それでは、この全集に含まれているような、中国やベトナムの作家の作品はポストコロニアル文学とは呼べないのか。また、元植民地の人は宗主国の言語で文学した場合のみポストコロニアル文学だといえるのか。
  2. 元植民地の支配者民族と被支配者民族の書き物が、同じポストコロニアル文学という枠組みにくくられてしまって良いのか。政治構造から考えれば、植民地の支配者民族と被支配民族は、互いに対立し合ったり、憎しみあったり、ときには互いに戦闘するかもしれない、究極の相反する極限にあるのではないのか。それなのに、旧支配民族の書き物もポストコロニアル文学に価するのか。

上記のような疑問が浮かんでこなかった人は、池澤の議論の斬新さときわどさを見逃してきたということになるわけです。しかし、結論的に言ってしまえば、ポストコロニアル文学というのは、この池澤の簡潔な定義で間違っていない。サイードやバーバ、とりわけアッシュクロフトの『ポストコロニアルの文学』といった論客の議論を整理すると、そう断言するしかない。この議論に賛成だろうと反対だろうと、それがポストコロニアル文学と文学批評の立場なのだとしか言いようがないわけです。もしこのヴィジョンが気にくわないのならば、むしろポストコロニアリズムを批判すべきだと言い換えることも出来る。(ポストコロニアル文学とポストコロニアル費用の違いはないかとか、他にもさまざまな問題が含まれているが、ここでは省略する)。

さらに、ポストコロニアル文学論の命題は、次のような非常に重要な議論へと展開されるはずです。



①韓国あるいは中国は植民地化ないしは半植民地化した民族ではない。

②ポストコロニアル文学の観点から言えば、植民地の支配者と被支配者が、「周辺」的な領土において空間と時間を共有していたことに多大な意味がある。つまり、支配と被支配者の対立関係は絶対的なものではない。


韓国が日本の植民地ではなかったという議論をすると、韓国系の人間・研究者が猛反発することが予想されます。また、現に私は何度もそういう体験はしている。その気持ちは分からないわけではない。というのは、彼らの考える植民地支配とは、異民族に対し物理的ないしは文化的社会的な暴力的支配を行うことであると定義しているからである。したがって、もしかつての朝鮮半島は植民地化されてなかっと指摘すれば、日本帝国主義の非人間的な暴力を無かったことにしてしまうとする良からぬ動機を勝手に想定してしまうからだ。

朝鮮・韓国系の立場の人たちの気持ちが分からないわけでは無い。だが、私の議論は、帝国主義的暴力の存在を否定する議論とは全く無関係である。日本は、他の列強と比べて相対的によいことをしたとか、近代化に貢献したとかという話ではない。そうではなく、大日本帝国の物理的文化的暴力にもかかわらず、朝鮮半島は根本的な文化変容(=植民地化)しなかったという議論であり、むしろ民族の文化的力量を称える立場なのである。(続く)


参考文献


P.S. このブログでは、本橋哲也の「ポストコロニアリズム」は、誤解と思いこみに基づいた議論の積み重ねをしてしまっているという立場を取っています。文学者が未熟に政治化したなれの果てなのでしょう。良い本を沢山翻訳している先生なのですが。

0 件のコメント: