2009年11月7日土曜日

ポストコロニアリズムの二つの顔(1)ーーサイード『オリエンタリズム』は読んではいけない!

ポストコロニアリズムには、なぜかくも誤解やら対立が多いのだろうか。二つの理由があると思う。一つの理由はサイード自身にある。サイードの本を何冊かちょっと吟味してみると分かるのだが、『オリエンタリズム』だけは突出して読みやすく単調な議論で埋め尽くされているのだ。これが本当にサイードの著作だといえるのだろうか?

とくに注目したいのが『オリエンタリズム』と『文化と帝国主義』の前半部との間にあるギャップである。どちらも主著なのであろうが、前者をポストコロニアリズムの基本書と理解する人と、後者をポストコロニアリズム的思索の事例と考える人とでは、ポストコロニアリズムの解釈が大きく異なってきてしまうのだ。私の立場はどうなのかといえば、『オリエンタリズム』のナイーブで単純な議論を真に受けてはいけないし、初学者は読んではいけない本であるとすら思う。ポストコロニアル理論を理解したかったら、サイードでいえば『文化と帝国主義』と『パレスチナとは何か(After the Lasy Sky)』を読まなければならないと打った鋳掛けたい。

もう一つは、前回示唆したように、朝鮮が植民地化してしまったと思っている人と、朝鮮は植民地化されていないと思っている人との間の隔たりである。すなわち、朝鮮がポストコロニアリズムの射程にあるはずだという解釈と、ポストコロニアリズムの射程の外にあるという解釈が存在するのである。前者の立場の人からすれば、後者の見解は信じられないほどケシカラヌ暴言(!)に聞こえるかも知れない。だが、至極真面目な見解であり、全然暴言ではない。いずれにせよ、ポストコロニアリズムやポストコロニアル文学についての見解の合意を得ることはほとんど不可能であることは容易に察することが出来るだろう。


(1)サイードの二つの顔ー『オリエンタリズム』はサイードの主著ではない

以前書いたことだが、「帝国意識」をテーマ化する歴史学者とサイードらとでは問題意識が大いに異なっていて噛み合わない。なぜ彼らのギャップの根本理由は、サイードは本来的には文学者(芸術研究者)であるのに対し、帝国意識論の歴史学者は悪の表象には関心があっても、芸術には関心がないからである。ところが、歴史学者はサイードの『オリエンタリズム』を読んで、ちょっと大きな勘違いしてしまったのだ。

文学者サイードにとって『オリエンタリズム』はそれほど大事な著作ではなかったのだ。むしろ、あまりにも一本調子で退屈な著作とみなされるべきだったのだ。(他のサイードの著作を読むと、あまりにも反響が大きかったのでサイード自身がびっくりしているということが分かる)。

サイードに言及する書き手(出版物・ネット)の大半は、サイードといえば「オリエンタリズム」と『知識人とは何か』だと思っているしその2冊しか読んでいないように思われる。この2冊だけは、アマゾンのレビューが異様に多いことからもわかるだろう。たしかにエドワード・サイードの『オリエンタリズム』といえば、ポストコロニアリズムの先駆けであると見なされるし、前述の中井亜佐子も、そう書かざるをえない(16頁)。

だが、サイード=「オリエンタリズム」という「常識」は、一般読書人もそろそろ捨てるべきではないのか。最大の根拠は、『オリエンタリズム』においてはサイード本来の専門である文学作品についてほとんど触れられていないからである。仮に『オリエンタリズム』の手法で文学作品を論じることが「ポストコロニアル批判」だとしたら、芸術的価値のある作品としての文学を扱うのではなく、単なるイデオロギー文書として論じることになるだろう。つまり、帝国意識研究の実証的歴史学者が採用する方法論を採用するだろうし、文学作品は単なる差別発言の集積であり、糾弾すべき単なる過去の遺物となってしまうだろう。これでは対位法的(Kontrapunkt, contrapuntal)な方法論ではありえない。もし「オリエンタリズム」の名前を借りた、そのような「文芸批評」があるとしたら、それは野蛮なる文化的遺産への暴力でしかない。たとえば、民主主義や人権を理解していないからといって、『源氏物語』を糾弾するようなものなのである。要するに、「オリエンタリズム」的な見方というのは、文学や学問を認識し評価する際の一つの契機すぎないのであって、「オリエンタリズム」一本槍で勝負できるような視点とはなりえないのである。

もちろん、ポストコロニアリズムは文学や芸術学とは必ずしも関係ないという反論も予期しうる。たしかに、その通りだ。だが、そういった理解の仕方は、サイードの多面的な著作、とりわけ文学、芸術学を中心として展開される多くの専門的著作とは異なった観点に立っていること、またバーバやスピヴァックといった他の主要な論客とも大きな隔たりがあることを知るべきだ。


他方、詩や小説を論じた『文化と帝国主義』、とくにその前半部こそが彼の本当の主著であると私は言いたい(*)。残念ながら、この本を読んだ人はあまりいない。たとえばbk1のレビューアーの佐々木力(東大教授・科学史) や 小林浩のように、全く読んだ形跡がないで文章を書いている者もいるのだ。はっきり言って読むのは容易ではない。というのは、西欧とアジア・アフリカの出会いを扱った様々な小説が論じられるわけで、そういった小説を読み、文学に親しんでおく必要があるからだ。

だが、文学でしか表現できないような異文化と異人との出会いが、キプリングやコンラッドの小説では描かれている。そして、サイードも『オリエンタリズム』のように、そういった小説を一方的に糾弾していくのではなく、むしろ、帝国主義的あるいは植民地主義的作家に対しても優しく丁寧に論評が加えられている。たとえばキプリングは、大英帝国主義を支持した作家であるが、その作品の分析は糾弾とはほど遠い。事実、『サイード自身が語るサイードでは次のようにも語っているのだ

「彼[キプリング]は、いろいろな種類の住民たちを信じられないくらい細かく描き分けられる。また彼は若者と老人とを描写することにかけて、すばらしい才能を発揮している」(87頁)

「彼[キプリング]のインドについての感じ方はわたし[サイード]のカイロについての感じ方と同じだよ。つまりわたしはエジプト人ではないので、政治については思い悩むことなく、カイロの地に居座れるのだが、キプリングのインドについてそんなふうに感じていたはずだ」(87頁)
ここでは詳しくは説明できないが、サイードが作家を「批判」するときと、非文学者を「批判」するというのでは、その姿勢が全く異なるのである。一言で言えば、偉大なる芸術家であり作家であるのに、なぜ同時に帝国主義者でありえたのかという問によって、サイードはいつも彼らと向き合っていたように私には思われる。

キプリングばかりではなく、サイード vs ナイポールの対立も、同じような複雑で微妙な対立として理解しなくてはならない。ナイポールは、もしかしたら旧植民地をコケにする反動的文学者だと思われているかも知れないが、左翼サイード vs 反動ナイポールというふうな単純な枠組みで理解しては絶対にならないのだ。サイードであるが、いつでもナイポールの文学的才能を高く評価していたのである。つまり、ナイポールの旧植民地に対する辛辣な観察と記述を、反感を持ちながらもある意味では共感を持って読んでいたのである。彼らは、全面的に相対立するというよりは、共通の土俵の上で対立しながら共存していた。こういう微妙なところにポストコロニアリズムの真の意味があるのだともいえるのだ。

どちらをサイードの主著と取るかによって、サイードとポストコロニアリズムの解釈論議は大きく分かれるだろう。私は『文化と帝国主義』こそが主著であり、『オリエンタリズム』を過大評価しないことを訴えたい。もちろん、『オリエンタリズム』がサイードでありポストコロニアリズムだという人が大多数である現状は動かないだろう。だが、そういう多数派の人だとしても、『オリエンタリズム』を認めないサイード読者がいること、そして、そういう読者のポストコロニアル認識が多数派とは根本的に異なっているということくらいは、わかってくれるのではないのか。

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私の書いたことは、(今回も)まことに荒っぽい議論だと思う。だが、このことは、誰かが書くべきではなかったのか。文学研究者はこういう乱暴な文章は書けないだろうし、非文学者はサイードの文学研究に無関心である。だから、誰もサイードの二つの側面について言及できないのである。よって、文学には関心があるが、文学とはほど遠い完全にアマチュアの私が、敢えてこのような単純明快な二分法を提起してみたのである。


注釈
(*) さらに言えば、『文化と帝国主義』の最終部のいくつかの章は、ポレミカルなだけの無内容な発言集だった。あれも文学者サイードにとっては、ちょっと痛かった。おそらくは、「サイードって有名だけれども、学問的にはたいしたこと無さそうだね」と言われている。だからこそ、『文化と帝国主義』の前半部や、『パレスチナとは何か』ーーもう一つ別の主著であり、中井亜佐子も詳しく論じているーーについて、もっと語られてもらいたいと願う。

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