以上の議論を端的にまとめてしまえば、サイードのようなポストコロニアリズムは人文学の解釈学的伝統にのっとっているのであり、実証的な歴史学とは対照的であるということが分かる。(なぜ今までこういう単純なことが、イギリス文学研究者によって解説されなかったのであろうか。異なるディスプリンの研究者のあいだでは、しばしばこういうことが起き、いつも時間の浪費に終わってしまうようにに思われるのだが)。
言い換えれば、サイードの文化概念とは、成典とされた作品(Canon)を現代の観点から再解釈し新しく蘇らせる不断の試みである。ここでは、成典は過去の遺物ではありえず、常に新しい意味が付与される。現代の新しい観点から意味が与えられないのであれば、それは成典あるいは古典として読み受け継がれていかないことを意味する。仮にキプリングの小説を帝国主義時代の典型的な言説でしかないと決めつけた場合、あるいは、『源氏物語』を平安王朝時代のイデオロギーでしかないと位置づけるような議論があるとするならば、人文学の議論としてはふさわしいものではない。歴史学者の関心とは異なり、人文学者にとっての関心の中心は、文学作品を歴史解釈の単なる資料として用いるというよりは、むしろ、その芸術作品をどのように解釈するかが重要なのだ。
ここで、簡単に人文学のポストコロニアリズムと歴史学の帝国主義論との違いをまとめてみよう。
| 主題 | 文化 | 時間 | 文化の認識 | 自我論 |
人文学 | 成典 | 読み継がれる古典芸術 | 解釈学的に循環する時間 | 芸術家の認識と表現の評価、および相対的自立性 | 脱アイデンティティと引き裂かれた自己 (植民地出身者) |
歴史学 | 歴史 | 社会意識の歴史資料としての文化 | 直線的時間、歴史的ダイナミズム | 文化の反映論的認識 | 状況から超越するできる学者(アルキメデスの支点) |
サイードの議論は、西欧の偉大な成典文学について新解釈を目論むという英文学者のそれである。こういう理解が一般に共有化されていたならば、木畑洋一教授だとか、オンライン書店のBK1の越知氏のようなサイード批判は、おそらくなされなかったであろう。彼らの議論には、少々無い物ねだりが目立つのである。(このあたりの解説本としては、サイードの最新作『サイード自身が語るサイード』あるいは『人文学と批評の使命―デモクラシーのために』などをお読みいただきたい。 http://www.bk1.co.jp/product/2734408 など。なお、わたくしは、木畑氏や越知氏のサイード批判については批判的な立場をとっているが、サイードの『文化と帝国主義』に誠実につきあった上で批判したもので、傾聴すべき貴重な指摘も多いと考えている)。
サイードの立つ位置について、誤解がただされる機会は、いまだ少ない。それには、サイード自身の責任もあろうし、サイードを称賛したりあるいは非難したりするものの責任もある。また、サイード自身が試みた知的冒険にも、原因があると言える。次回はこの問題ついて考察を加える。
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