2007年3月8日木曜日

文学と非文学とのあいだで (その1)

はじめにーーポストコロニアリズムとは何だろうかーー

ポストコロニアルだとかポストコロニアリズムという言葉が日本語で頻繁に使われるようになったのは、1990年代以降であろうか。サイードのオリエンタリズムが翻訳出版されたのが1986年だから、すでに20年以上たっていると考えることもできる。しかし、この言葉の意味や定義となると、いまだ明瞭ではないように思われる。多くの人は、旧植民地諸国が主張する新しいイデオロギーとして受け止めているようであるが、あくまでも印象論にすぎない。学問的にはといえば、すでにポストコロニアル理論の御三家とされるサイード・スピヴァック・バーバは全員翻訳されるようにもなった。だが、かなり難解で分かりにくい場合が多いし、サイードの『オリエンタリズム』以外は、本当の読者はどれだけいるのかどうかも疑問である。

最初に指摘しておかなければならないのは、ポストコロニアリズムは反植民地主義だとか、植民地主義時代以降あるいは政治的独立以降といった言葉に置き換えることができないということである。いわゆる反植民地主義的イデオロギーであるならば分かりやすい概念となるはずだが、ポストコロニアリズムの政治的スタンスは、実はそれほど旗幟鮮明なものではないのだ。だが、もしそうだとすると、ポストコロニアリズムを左翼や中国・韓国のイデオロギーとみなすような、我が国でよく浸透した理解とは大いに異なってくるであろう。ここに、ポストコロニアル理論の分かりにくいところがあるといっても言い過ぎではなかろう。

端的に結論を先取りして述べてしまえば、ポストコロニアリズムには実は二つの顔があり、サイードを含む多くの書き手が、その二つのあいだで揺れ動いているのである。つまり、いわゆるポストコロニアリズムの文書の中には、政治的にはより微妙な境界線を揺れ動く文学理論の側面と、反植民地主義・反帝国主義的な政治イデオロギー的な側面の二つが含まれており、それらが明瞭に区別されることないまま混じり合っているわけである。(例えば、サイードの主著である『文化と帝国主義』の前半部はおもに文学的側面が押し出されて、後半部は政治的イデオロギーが展開されていることがわかる)。

二つの側面をより自覚的に区別していくことが、ポストコロニアル理論の受容のためにも重要な課題となるであろう。そこでまず、歴史学者木畑洋一氏の文学者サイード批判について検討していくことにしよう。

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