2007年3月13日火曜日

文学と非文学とのあいだで(その2) (木畑洋一のサイード批判をめぐって)

 木畑洋一のサイード批判

前回いわゆるポストコロニアリズムには二つの顔があること、すなわち、政治的にはより曖昧な文学理論的な側面と、政治的正義を強調する反帝国主義イデオロギーの側面があると述べておいた。一般によく広まっているポスコロだとかポストコロニアリズムが後者の側面であることは言うまでもないだろう。要するに、マルクス主義亡き現代において左翼思想を継承し、植民地主義や帝国主義の文化を非難する論調であると考えられているからだ。しかし、こういったポストコロニアリズムだとかポストコロニアル理論の受容の仕方では、その文学的な側面が見落とされてしまうことになる。

今回取り上げる木畑洋一(歴史学者、イギリス現代史)のサイード批判は、後者の立場から前者を率直かつ厳しく批判したものである。『思想』(1999年3月 NO.87. pp1-3)の「思想の言葉」のために書かれたきわめて短い文章「ポストコロニアリズムと歴史学」なのだが、おそらくは多くの歴史学者や社会思想・社会学者のあいだでも共感を持って読まれているに違いない。(直接伺ったわけではありませんが、おそらくは東京外国語大学の中野敏男[現在サイードの『文化と帝国主義』をゼミの教材として用いているそうである]教授も、同様の見解を持っているに相違ないと想像している)。私は木畑に同調するものではないが、このエッセイが方法論的な核心に関わり、ある種の説得力を持つことについて、全く疑うことができないと考える。要するに、文芸理論家サイードと、歴史学者・木畑洋一の興味関心のすれ違いなのではあるが、ポストコロニアリズムという概念に決定的な重要性をもつ論点を突いているのだ。まずは、木畑の議論に耳を傾けるよう。

木畑洋一は、近代イギリスの帝国主義を支える「帝国意識」を研究する立場から、ポストコロニアル批評について、政治的ポジションとしては好ましいが違和感を感じていると述べる。ここでは、はっきりと名指しはしていないが、要するに、ホミ・バーバに代表される「言説」分析の議論は問題外だとも述べる。しかしサイードならば、歴史学を豊かにする志向性があり、大学院の演習テクストで『文化と帝国主義』を取り上げてみたくらいなのであるが、木畑や大学院生は大いに「物足りなさが残った」のだそうだ。

サイードにはどのような問題点があるのか。木畑の論点は、次の三つにまとめることができる。

① 

「西欧と「他者」との二分法的認識に向けられており、西欧と非西欧のあいだにあるダイナミックな相互関係が、サイード的理論のもとでは消し去られていること」 

「歴史的コンテクストにあまり注意を払わずに、多様なテクストを「コロニアルな言説」として一様に読み解いていく体の作品においては、歴史のダイナミズムを求めるべくもない。ポストコロニアリズムというからには、植民地支配の確立の過程、支配をめぐるさまざまな闘争の過程、脱植民地化(政治的独立という意味での狭義の脱植民地化)の過程、さらに独立後の変化の過程を見通す視座が必要であろう」

難解な表現ばかりでメッセージが伝わりにくい。

「ポストコロニアリズムがめざすものが、植民地権力にからまる支配-被支配の思想・文化の構造の暴露と最終的解体であるならば、そのメッセージはいまだに植民地主義的枠組みが出し切れない広範囲な人々に届くものでなくてはならない。小林よしのりに対抗するような、ポストコロニアリズムの語り部は出てこないのだろうか」

ここで大いに問題となるのは②と③、とくに②の議論である。(続く)

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