私が文学研究から出発したのではないから、木畑や他の歴史学者・社会学者らのいらだちがよく分かるつもりだ。だが、木畑らの議論はサイードの文化研究の方法論だとか主題について、一つ大きな誤解をしているので、正していかなければならない。
木畑はポストコロニアリズムについて、①植民地支配の確立過程、②支配をめぐるさまざまな闘争の過程、③脱植民地化あるいは政治的独立の過程、④独立後の変化の過程を見通す視座が必要であると論じる。そしてその研究が意図するものは、植民地主義的支配を支えるような支配の構造の暴露とその解体であろうと規定している。この問題意識を私なりに言い換えれば、帝国主義あるいは植民地主義的な政治経済的支配の構造を支えてきた、文化的ヘゲモニーの歴史的ダイナミズムを記述することがポストコロニアリズムあるいは帝国意識論の課題だというものなので、これはこれで大変分かり易い。適切かつ妥当な問題意識であり、何ら問題点がないように思われる。(例えば、古典的名著である東大・西洋史の教授の柴田三千雄『近代世界と民衆運動』http://www.bk1.co.jp/product/2048553 などをご覧いただきたい)。
だが、学問の方法論は歴史学だけではない。サイードやポストコロニアル理論家たちは歴史学者ではないのだ。彼らと歴史学者とでは、文化の定義が異なっているし、学問の主題も大いに異なっている。議論がかみ合わないのは当然なのだ。(ただし、すての歴史学者が木畑や柴田のような文化概念を共有しているわけではない。また、サイードにしても、必ずしも常に同じような議論を展開しているとは限らない)。
あらかじめ強調しておきたいのは、ここで本当に論じたいのは、学問的方法論(ディスプリン)の違いといったテーマに限定されるものではなく、むしろ、ポストコロニアリズム全体にかかわる問題である。例えば、一般にポストコロニアリズムといえば、政治的正義の立場に立つ、マルクス主義以降の左翼的な見解であり、帝国主義的文化を告発する姿勢であると理解されることが多い。しかし、そういった見方は、ポストコロニアリズムの文学論的側面を無視した議論なのである。他者をレッテル張り(オリエンタリスト!)し告発したりするような政治的正義の立場どころか、政治的にはむしろ両義的で曖昧な性格すら帯びているのである。私は、ポストコロニアリズムに対して向けられた偏向したイメージを払拭し、新しい可能性を追求したいのである。
サイードの文化概念と歴史学者・帝国意識論の文化概念
サイードの『文化と帝国主義』は、しばしば絶賛されている。だが、その多くは、レビューをした人が見栄を張って、そう書いているにすぎないのではないだろうか。本当は『文化と帝国主義』をちゃんと読んではないのではないだろうか。私はいつもそんなふうに思っている。例えば、東京大学の科学史の佐々木力教授も、そういった見栄っ張りの一人に思えてならないのだ。(http://www.bk1.co.jp/product/1659401/review/48379)
その中で、木畑教授の率直なサイード批判は、まことに貴重だった。大学院の演習テキストとして選定し、「たしかに読み応えがあったものの、やはりもある物足りなさが残った」とか、「筆者よりもっと不満を覚えた大学院生が多かったことは、正直のところ驚かされた」とも書いている。だが教授は、まだまだ率直に正直に語ってはいないのではないか。『文化と帝国主義』を実際に手に取り、本当に挑戦したことがある人ならば誰でも知っているはずだが、この本は西欧帝国主義の文化的基盤について論じたものでは無い。多くの一般読書人は『オリエンタリズム』の続編だとか、「帝国主義の文化ヘゲモニー論」を期待しただろうが、はたして、英仏の文学論だったのである。決してヘーゲルやデリダのような、あるいは、ホミ・バーバのような難解な文章ではない。だが、英仏の近代文学についての広範な素養がなければ、まともに読むことができない、そういった類の書物なのだ。すなわち、オースティン、コンラッド、キプリング、フォースター、オーウェル、カミュ、ジッド、ヴェルディ(音楽)、イェーツといった著作、あるいは、アチュベ、ナイポール、ラシュディといった著作。これらの小説のうち少なくとも数冊は、あらかじめ熟読吟味していなければならなかったのである。
歴史学や社会思想などを研究する学者・大学院生の大半は、そういった英仏文学の基礎的教養がないだろうから、まともに読むことはできなかったはずだ。ところが、日本語の書き手のほとんどは、正直にそのことを告白せず、『オリエンタリズム』と『知識人とは何か』ーーサイードの著作でよく言及されるのはこの二冊であるーーをちょっと読んだだけで、ポストコロニアリズムが何であるのか分かっているフリをしてしまうように見える。(私はといえば、必読リストの小説の一部をいくつか読み終えたという段階で、『文化と帝国主義』を完全に読みこなしたとはいえない。たぶんかなり健闘していびる部類に入るだろう)。しかしながら、英語で書かれた小説や詩を読まなければ、サイードの文化の概念は到底理解出来ない。なぜならば、サイードが強調してやまない文化とは、まずは物語的小説のことだからだ。「本書の読者は、これからすぐに気づかれると思うが、物語こそ、わたしの議論のかなめであり、わたくしの基本的な観点とは、探検家や小説家が世界の未知の領域について語ることの核心には、物語がひそむこと、また物語は、植民地化された人々が、自らのアイデンティティーと自らの歴史の存在を主張する時に使う手段ともなるということである」(訳書、第一巻、3ページ)。
サイードの文化の定義は、それほど特殊なものではない。かつてギアツやイレート(Ileto, Reynald)のような文化主義的人類学者・歴史学者がしたように、文化という概念について、(a)解釈学的な意味の領域と、(b)意味以外の領域とに区分し、(a)を主題化しているのだ。(もっともこの段階で、大方の歴史学者とは興味関心が異なっていることになるだろう)。さて、サイードが(a)の領域でも集中的に取り上げ論じているのは、英語・フランス語文化圏における重要な物語的小説なのである。
ところで、歴史学者でも、小説を取り上げる者はいると指摘する人もいるかもしれない。たとえば、杉本 淑彦『文明の帝国――ジュール・ヴェルヌとフランス帝国主義文化』、1995年(http://www.bk1.co.jp/product/1207547,本にとって、ヴェルヌの作品の芸術的価値の有無などは全く関知するところではないだろう。彼にとって重要なのは、ヴェルヌが帝国主義時代のフランスの人気作家だったということにつきるだろう。だから彼の仕事は、ヴェルヌの作品を貫く帝国意識や人種差別意識を単に析出してさえやれ良いのである。ところが、サイードはヴェルヌのような大衆作家は決して相手にしない。つまり、サイードが研究する文化とは、真に芸術に値すると考えられている偉大な作品だけなのである。
仮にサイードが、西欧文学や文化の中に、オリエンタリズムや帝国主義の要素を見いだそうと努めていたとするならば、彼の正典至上主義的手法は滑稽である。大学研究者が、古典的な文化概念にしがみついているにすぎないからだ。(たとえば、オンライン書店bk1の書評において、越知氏はそういったサイード解釈をしている。http://www.bk1.co.jp/product/1659401/review/431069) だが、断じてそうではない。サイードはむしろ古典的文学の芸術的価値を信じ、その再解釈を試みているのである。古典文学を告発したり、あるいは、そこに邪悪な時代精神を読みとっているのではないのだ。実際、古典と言われる芸術作品を読んでみれば分かることだが、一筋縄でいかないものばかりなのだ。複雑で両義的でしばしば矛盾に充ち満ちている。むろんオリエンタリズムといった概念で単純に割り切れるものは存在しない。たとえば、『ロビンソン・クルーソー』は初期資本主義の精神を体現しているというよりは、資本主義と冒険的商人、勤勉な資本家と奴隷商人、敬虔なキリスト教徒と無神論者との間を行ったり来たりする優柔不断な男の物語である。偏見はあるかもしれないが、簡単に糾弾できる代物ではない。(大塚久雄が流布して影響力を持ったロビンソン=資本主義的な合理的なホモ・エコノミクス説は、ほとんどデマだと言っても良い。大塚のデマが社会学者や経済史学者の間で通用してしまったのは、デフォーの『ロビンソン』をほとんど誰もまともに読まず、大塚の権威を盲信してしまったからであろう。教訓として、後々まで残しておかなければならないほどの大事件だといえる。詳しくは、正木恒夫『殖民地幻想』を参照のこと。hサイードは、正統的英文学者として、そういった古典的芸術作品の可能性に賭けたのだ。
以上の議論から見えてくるのは、サイードの意図するプロジェクトの意外な方向性である。重要なので、ここでは結論だけ先取りしてまとめてみる。
- サイードらの文学的ポストコロニアリズムは正典の再解釈を促し、我々の精神・文化を形作っている領域を、内部から再編成しようと試みている。
- 『オリエンタリズム』の議論の単純な延長線上に、『文化と帝国主義』という著作があるのではない。ポストコロニアル文学批評という観点から見れば、『オリエンタリズム』はむしろ危険で有害ですらある。
- サイードが強烈に非難しているかのように見える「反動的」信条の芸術家(e.g.反ユダヤ主義のワーグナー、帝国主義者のキプリング、新帝国主義者のナイポール)についても、実は高い評価をくだしている。そして、この緊張関係こそが、サイードとポストコロニアリズム理解のかなめなのだ。
サイードらが以上のようなスタイルをとるならば、木畑洋一らの歴史学者の文化認識とは、かなり大きなギャップがあることが分かるだろう。(以下続く)
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