2010年2月6日土曜日
2009年12月31日木曜日
2009年11月7日土曜日
ポストコロニアリズムの二つの顔(1)ーーサイード『オリエンタリズム』は読んではいけない!
ポストコロニアリズムには、なぜかくも誤解やら対立が多いのだろうか。二つの理由があると思う。一つの理由はサイード自身にある。サイードの本を何冊かちょっと吟味してみると分かるのだが、『オリエンタリズム』だけは突出して読みやすく単調な議論で埋め尽くされているのだ。これが本当にサイードの著作だといえるのだろうか?
とくに注目したいのが『オリエンタリズム』と『文化と帝国主義』の前半部との間にあるギャップである。どちらも主著なのであろうが、前者をポストコロニアリズムの基本書と理解する人と、後者をポストコロニアリズム的思索の事例と考える人とでは、ポストコロニアリズムの解釈が大きく異なってきてしまうのだ。私の立場はどうなのかといえば、『オリエンタリズム』のナイーブで単純な議論を真に受けてはいけないし、初学者は読んではいけない本であるとすら思う。ポストコロニアル理論を理解したかったら、サイードでいえば『文化と帝国主義』と『パレスチナとは何か(After the Lasy Sky)』を読まなければならないと打った鋳掛けたい。
もう一つは、前回示唆したように、朝鮮が植民地化してしまったと思っている人と、朝鮮は植民地化されていないと思っている人との間の隔たりである。すなわち、朝鮮がポストコロニアリズムの射程にあるはずだという解釈と、ポストコロニアリズムの射程の外にあるという解釈が存在するのである。前者の立場の人からすれば、後者の見解は信じられないほどケシカラヌ暴言(!)に聞こえるかも知れない。だが、至極真面目な見解であり、全然暴言ではない。いずれにせよ、ポストコロニアリズムやポストコロニアル文学についての見解の合意を得ることはほとんど不可能であることは容易に察することが出来るだろう。
(1)サイードの二つの顔ー『オリエンタリズム』はサイードの主著ではない
以前書いたことだが、「帝国意識」をテーマ化する歴史学者とサイードらとでは問題意識が大いに異なっていて噛み合わない。なぜ彼らのギャップの根本理由は、サイードは本来的には文学者(芸術研究者)であるのに対し、帝国意識論の歴史学者は悪の表象には関心があっても、芸術には関心がないからである。ところが、歴史学者はサイードの『オリエンタリズム』を読んで、ちょっと大きな勘違いしてしまったのだ。
文学者サイードにとって『オリエンタリズム』はそれほど大事な著作ではなかったのだ。むしろ、あまりにも一本調子で退屈な著作とみなされるべきだったのだ。(他のサイードの著作を読むと、あまりにも反響が大きかったのでサイード自身がびっくりしているということが分かる)。
サイードに言及する書き手(出版物・ネット)の大半は、サイードといえば「オリエンタリズム」と『知識人とは何か』だと思っているしその2冊しか読んでいないように思われる。この2冊だけは、アマゾンのレビューが異様に多いことからもわかるだろう。たしかにエドワード・サイードの『オリエンタリズム』といえば、ポストコロニアリズムの先駆けであると見なされるし、前述の中井亜佐子も、そう書かざるをえない(16頁)。
だが、サイード=「オリエンタリズム」という「常識」は、一般読書人もそろそろ捨てるべきではないのか。最大の根拠は、『オリエンタリズム』においてはサイード本来の専門である文学作品についてほとんど触れられていないからである。仮に『オリエンタリズム』の手法で文学作品を論じることが「ポストコロニアル批判」だとしたら、芸術的価値のある作品としての文学を扱うのではなく、単なるイデオロギー文書として論じることになるだろう。つまり、帝国意識研究の実証的歴史学者が採用する方法論を採用するだろうし、文学作品は単なる差別発言の集積であり、糾弾すべき単なる過去の遺物となってしまうだろう。これでは対位法的(Kontrapunkt, contrapuntal)な方法論ではありえない。もし「オリエンタリズム」の名前を借りた、そのような「文芸批評」があるとしたら、それは野蛮なる文化的遺産への暴力でしかない。たとえば、民主主義や人権を理解していないからといって、『源氏物語』を糾弾するようなものなのである。要するに、「オリエンタリズム」的な見方というのは、文学や学問を認識し評価する際の一つの契機すぎないのであって、「オリエンタリズム」一本槍で勝負できるような視点とはなりえないのである。
どちらをサイードの主著と取るかによって、サイードとポストコロニアリズムの解釈論議は大きく分かれるだろう。私は『文化と帝国主義』こそが主著であり、『オリエンタリズム』を過大評価しないことを訴えたい。もちろん、『オリエンタリズム』がサイードでありポストコロニアリズムだという人が大多数である現状は動かないだろう。だが、そういう多数派の人だとしても、『オリエンタリズム』を認めないサイード読者がいること、そして、そういう読者のポストコロニアル認識が多数派とは根本的に異なっているということくらいは、わかってくれるのではないのか。
注釈
(*) さらに言えば、『文化と帝国主義』の最終部のいくつかの章は、ポレミカルなだけの無内容な発言集だった。あれも文学者サイードにとっては、ちょっと痛かった。おそらくは、「サイードって有名だけれども、学問的にはたいしたこと無さそうだね」と言われている。だからこそ、『文化と帝国主義』の前半部や、『パレスチナとは何か』ーーもう一つ別の主著であり、中井亜佐子も詳しく論じているーーについて、もっと語られてもらいたいと願う。
とくに注目したいのが『オリエンタリズム』と『文化と帝国主義』の前半部との間にあるギャップである。どちらも主著なのであろうが、前者をポストコロニアリズムの基本書と理解する人と、後者をポストコロニアリズム的思索の事例と考える人とでは、ポストコロニアリズムの解釈が大きく異なってきてしまうのだ。私の立場はどうなのかといえば、『オリエンタリズム』のナイーブで単純な議論を真に受けてはいけないし、初学者は読んではいけない本であるとすら思う。ポストコロニアル理論を理解したかったら、サイードでいえば『文化と帝国主義』と『パレスチナとは何か(After the Lasy Sky)』を読まなければならないと打った鋳掛けたい。
もう一つは、前回示唆したように、朝鮮が植民地化してしまったと思っている人と、朝鮮は植民地化されていないと思っている人との間の隔たりである。すなわち、朝鮮がポストコロニアリズムの射程にあるはずだという解釈と、ポストコロニアリズムの射程の外にあるという解釈が存在するのである。前者の立場の人からすれば、後者の見解は信じられないほどケシカラヌ暴言(!)に聞こえるかも知れない。だが、至極真面目な見解であり、全然暴言ではない。いずれにせよ、ポストコロニアリズムやポストコロニアル文学についての見解の合意を得ることはほとんど不可能であることは容易に察することが出来るだろう。
(1)サイードの二つの顔ー『オリエンタリズム』はサイードの主著ではない
以前書いたことだが、「帝国意識」をテーマ化する歴史学者とサイードらとでは問題意識が大いに異なっていて噛み合わない。なぜ彼らのギャップの根本理由は、サイードは本来的には文学者(芸術研究者)であるのに対し、帝国意識論の歴史学者は悪の表象には関心があっても、芸術には関心がないからである。ところが、歴史学者はサイードの『オリエンタリズム』を読んで、ちょっと大きな勘違いしてしまったのだ。
文学者サイードにとって『オリエンタリズム』はそれほど大事な著作ではなかったのだ。むしろ、あまりにも一本調子で退屈な著作とみなされるべきだったのだ。(他のサイードの著作を読むと、あまりにも反響が大きかったのでサイード自身がびっくりしているということが分かる)。
サイードに言及する書き手(出版物・ネット)の大半は、サイードといえば「オリエンタリズム」と『知識人とは何か』だと思っているしその2冊しか読んでいないように思われる。この2冊だけは、アマゾンのレビューが異様に多いことからもわかるだろう。たしかにエドワード・サイードの『オリエンタリズム』といえば、ポストコロニアリズムの先駆けであると見なされるし、前述の中井亜佐子も、そう書かざるをえない(16頁)。
だが、サイード=「オリエンタリズム」という「常識」は、一般読書人もそろそろ捨てるべきではないのか。最大の根拠は、『オリエンタリズム』においてはサイード本来の専門である文学作品についてほとんど触れられていないからである。仮に『オリエンタリズム』の手法で文学作品を論じることが「ポストコロニアル批判」だとしたら、芸術的価値のある作品としての文学を扱うのではなく、単なるイデオロギー文書として論じることになるだろう。つまり、帝国意識研究の実証的歴史学者が採用する方法論を採用するだろうし、文学作品は単なる差別発言の集積であり、糾弾すべき単なる過去の遺物となってしまうだろう。これでは対位法的(Kontrapunkt, contrapuntal)な方法論ではありえない。もし「オリエンタリズム」の名前を借りた、そのような「文芸批評」があるとしたら、それは野蛮なる文化的遺産への暴力でしかない。たとえば、民主主義や人権を理解していないからといって、『源氏物語』を糾弾するようなものなのである。要するに、「オリエンタリズム」的な見方というのは、文学や学問を認識し評価する際の一つの契機すぎないのであって、「オリエンタリズム」一本槍で勝負できるような視点とはなりえないのである。
もちろん、ポストコロニアリズムは文学や芸術学とは必ずしも関係ないという反論も予期しうる。たしかに、その通りだ。だが、そういった理解の仕方は、サイードの多面的な著作、とりわけ文学、芸術学を中心として展開される多くの専門的著作とは異なった観点に立っていること、またバーバやスピヴァックといった他の主要な論客とも大きな隔たりがあることを知るべきだ。
他方、詩や小説を論じた『文化と帝国主義』、とくにその前半部こそが彼の本当の主著であると私は言いたい(*)。残念ながら、この本を読んだ人はあまりいない。たとえばbk1のレビューアーの佐々木力(東大教授・科学史) や 小林浩のように、全く読んだ形跡がないで文章を書いている者もいるのだ。はっきり言って読むのは容易ではない。というのは、西欧とアジア・アフリカの出会いを扱った様々な小説が論じられるわけで、そういった小説を読み、文学に親しんでおく必要があるからだ。
だが、文学でしか表現できないような異文化と異人との出会いが、キプリングやコンラッドの小説では描かれている。そして、サイードも『オリエンタリズム』のように、そういった小説を一方的に糾弾していくのではなく、むしろ、帝国主義的あるいは植民地主義的作家に対しても優しく丁寧に論評が加えられている。たとえばキプリングは、大英帝国主義を支持した作家であるが、その作品の分析は糾弾とはほど遠い。事実、『サイード自身が語るサイード』では次のようにも語っているのだ。
「彼[キプリング]は、いろいろな種類の住民たちを信じられないくらい細かく描き分けられる。また彼は若者と老人とを描写することにかけて、すばらしい才能を発揮している」(87頁)「彼[キプリング]のインドについての感じ方はわたし[サイード]のカイロについての感じ方と同じだよ。つまりわたしはエジプト人ではないので、政治については思い悩むことなく、カイロの地に居座れるのだが、キプリングのインドについてそんなふうに感じていたはずだ」(87頁)
ここでは詳しくは説明できないが、サイードが作家を「批判」するときと、非文学者を「批判」するというのでは、その姿勢が全く異なるのである。一言で言えば、偉大なる芸術家であり作家であるのに、なぜ同時に帝国主義者でありえたのかという問によって、サイードはいつも彼らと向き合っていたように私には思われる。
キプリングばかりではなく、サイード vs ナイポールの対立も、同じような複雑で微妙な対立として理解しなくてはならない。ナイポールは、もしかしたら旧植民地をコケにする反動的文学者だと思われているかも知れないが、左翼サイード vs 反動ナイポールというふうな単純な枠組みで理解しては絶対にならないのだ。サイードであるが、いつでもナイポールの文学的才能を高く評価していたのである。つまり、ナイポールの旧植民地に対する辛辣な観察と記述を、反感を持ちながらもある意味では共感を持って読んでいたのである。彼らは、全面的に相対立するというよりは、共通の土俵の上で対立しながら共存していた。こういう微妙なところにポストコロニアリズムの真の意味があるのだともいえるのだ。
キプリングばかりではなく、サイード vs ナイポールの対立も、同じような複雑で微妙な対立として理解しなくてはならない。ナイポールは、もしかしたら旧植民地をコケにする反動的文学者だと思われているかも知れないが、左翼サイード vs 反動ナイポールというふうな単純な枠組みで理解しては絶対にならないのだ。サイードであるが、いつでもナイポールの文学的才能を高く評価していたのである。つまり、ナイポールの旧植民地に対する辛辣な観察と記述を、反感を持ちながらもある意味では共感を持って読んでいたのである。彼らは、全面的に相対立するというよりは、共通の土俵の上で対立しながら共存していた。こういう微妙なところにポストコロニアリズムの真の意味があるのだともいえるのだ。
どちらをサイードの主著と取るかによって、サイードとポストコロニアリズムの解釈論議は大きく分かれるだろう。私は『文化と帝国主義』こそが主著であり、『オリエンタリズム』を過大評価しないことを訴えたい。もちろん、『オリエンタリズム』がサイードでありポストコロニアリズムだという人が大多数である現状は動かないだろう。だが、そういう多数派の人だとしても、『オリエンタリズム』を認めないサイード読者がいること、そして、そういう読者のポストコロニアル認識が多数派とは根本的に異なっているということくらいは、わかってくれるのではないのか。
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私の書いたことは、(今回も)まことに荒っぽい議論だと思う。だが、このことは、誰かが書くべきではなかったのか。文学研究者はこういう乱暴な文章は書けないだろうし、非文学者はサイードの文学研究に無関心である。だから、誰もサイードの二つの側面について言及できないのである。よって、文学には関心があるが、文学とはほど遠い完全にアマチュアの私が、敢えてこのような単純明快な二分法を提起してみたのである。
注釈
(*) さらに言えば、『文化と帝国主義』の最終部のいくつかの章は、ポレミカルなだけの無内容な発言集だった。あれも文学者サイードにとっては、ちょっと痛かった。おそらくは、「サイードって有名だけれども、学問的にはたいしたこと無さそうだね」と言われている。だからこそ、『文化と帝国主義』の前半部や、『パレスチナとは何か』ーーもう一つ別の主著であり、中井亜佐子も詳しく論じているーーについて、もっと語られてもらいたいと願う。
2009年11月6日金曜日
池澤夏樹のポストコロニアル文学批判(その4)
グーグルのようなもので検索しても、池澤夏樹に批判的な見解を書く人はほとんどいないですね。例の沖縄系社会学者あるいは運動家の人たちはともかくとして、池澤夏樹の見解に大賛成な人ばかりなのでしょうか。(沖縄系の池澤批判者が、彼の文学全集を議論してもよいのですが・・・)。反発を覚えないにせよ、彼の議論に何の疑問を感じないのは、あまり望ましくありません。あのさわやかで知的な感じに騙されて、安易に迎合したり、呑まれてしまってはいけないのです。というのは、池澤が語っていることは、ポストコロニアル文学論の観点の非常に重要な論点と関わっているからです。
(あらかじめ断っておきますと、わたくしは、池澤夏樹 (ポストコロニアリズム) vs 沖縄系学者(反帝国主義、反「ポストコロニアリズム」)の対立に関して言えば、どちらといえば池澤よりの立場です。(沖縄系や韓国系のポストコロニアリズム議論は、完全にその言葉の意味について誤解していると私は理解しているからです。彼らはポスコロじゃなくて、反帝主義なのです)。
まずは2008年における学習院大学での池澤の講演をみてみましょう。
実に簡潔で明快なポストコロニアル文学の定義です。しかし、再度繰り返しますが、池澤の議論に対して、あまりに簡単に、ふーん、そうなんだ、とか言って納得してしまっては絶対にいけない。日本のかつての植民地は台湾と朝鮮半島であったという普通に思っているような日本在住の人ならば、当然次のような疑問が浮かびあがらなければならないはずだからです。
上記のような疑問が浮かんでこなかった人は、池澤の議論の斬新さときわどさを見逃してきたということになるわけです。しかし、結論的に言ってしまえば、ポストコロニアル文学というのは、この池澤の簡潔な定義で間違っていない。サイードやバーバ、とりわけアッシュクロフトの『ポストコロニアルの文学』といった論客の議論を整理すると、そう断言するしかない。この議論に賛成だろうと反対だろうと、それがポストコロニアル文学と文学批評の立場なのだとしか言いようがないわけです。もしこのヴィジョンが気にくわないのならば、むしろポストコロニアリズムを批判すべきだと言い換えることも出来る。(ポストコロニアル文学とポストコロニアル費用の違いはないかとか、他にもさまざまな問題が含まれているが、ここでは省略する)。
さらに、ポストコロニアル文学論の命題は、次のような非常に重要な議論へと展開されるはずです。
①韓国あるいは中国は植民地化ないしは半植民地化した民族ではない。
②ポストコロニアル文学の観点から言えば、植民地の支配者と被支配者が、「周辺」的な領土において空間と時間を共有していたことに多大な意味がある。つまり、支配と被支配者の対立関係は絶対的なものではない。
(あらかじめ断っておきますと、わたくしは、池澤夏樹 (ポストコロニアリズム) vs 沖縄系学者(反帝国主義、反「ポストコロニアリズム」)の対立に関して言えば、どちらといえば池澤よりの立場です。(沖縄系や韓国系のポストコロニアリズム議論は、完全にその言葉の意味について誤解していると私は理解しているからです。彼らはポスコロじゃなくて、反帝主義なのです)。
まずは2008年における学習院大学での池澤の講演をみてみましょう。
僕は今回新たに編んだ文学全集には、ふたつの顕著な特徴があります。ひとつはポストコロニアリズム。①元植民地に住んでいた人たちが、宗主国の言葉で書いている、②もしくは宗主国から植民地に行ったひとが書く。 (番号はshaktiによる)。 (中略)
ポストコロニアルの作家の例でいえば、マルグリット・デュラス。フランス人ですが旧仏領インドシナのベトナムやカンボジアで育ちました。彼女にはその土地について強い思い入れがあったのです。
それからジーン・リース。西インド諸島生まれの白人です。西インド諸島は、先住民、スペイン人、サトウキビ農場の労働力のために連れてこられたアフリカ人と、いろんな人種がたくさんいます。カリブ海のあたりでは「クレオール」とも呼びます。シャーロット・ブロンテの「ジェーン・エア」に、主人公ジェーンが出会うロチェスターの狂人の妻が登場しますが、ジーン・リースはその妻の側からの視点で書いているんです。従来、敵役とされたパーソナリティを置き換えると、まったく世界が違って見えます。
第二次世界大戦後の世界文学は、弱者の視点に変わった、抑圧された者にもペンを与えたと思います。今までの見方をひっくり返した。ジーン・リースはその典型です。すごみ、気迫があります。
実に簡潔で明快なポストコロニアル文学の定義です。しかし、再度繰り返しますが、池澤の議論に対して、あまりに簡単に、ふーん、そうなんだ、とか言って納得してしまっては絶対にいけない。日本のかつての植民地は台湾と朝鮮半島であったという普通に思っているような日本在住の人ならば、当然次のような疑問が浮かびあがらなければならないはずだからです。
- 元植民地出身の人は、宗主国の言葉で書かなければならないのか。それでは、この全集に含まれているような、中国やベトナムの作家の作品はポストコロニアル文学とは呼べないのか。また、元植民地の人は宗主国の言語で文学した場合のみポストコロニアル文学だといえるのか。
- 元植民地の支配者民族と被支配者民族の書き物が、同じポストコロニアル文学という枠組みにくくられてしまって良いのか。政治構造から考えれば、植民地の支配者民族と被支配民族は、互いに対立し合ったり、憎しみあったり、ときには互いに戦闘するかもしれない、究極の相反する極限にあるのではないのか。それなのに、旧支配民族の書き物もポストコロニアル文学に価するのか。
上記のような疑問が浮かんでこなかった人は、池澤の議論の斬新さときわどさを見逃してきたということになるわけです。しかし、結論的に言ってしまえば、ポストコロニアル文学というのは、この池澤の簡潔な定義で間違っていない。サイードやバーバ、とりわけアッシュクロフトの『ポストコロニアルの文学』といった論客の議論を整理すると、そう断言するしかない。この議論に賛成だろうと反対だろうと、それがポストコロニアル文学と文学批評の立場なのだとしか言いようがないわけです。もしこのヴィジョンが気にくわないのならば、むしろポストコロニアリズムを批判すべきだと言い換えることも出来る。(ポストコロニアル文学とポストコロニアル費用の違いはないかとか、他にもさまざまな問題が含まれているが、ここでは省略する)。
さらに、ポストコロニアル文学論の命題は、次のような非常に重要な議論へと展開されるはずです。
①韓国あるいは中国は植民地化ないしは半植民地化した民族ではない。
②ポストコロニアル文学の観点から言えば、植民地の支配者と被支配者が、「周辺」的な領土において空間と時間を共有していたことに多大な意味がある。つまり、支配と被支配者の対立関係は絶対的なものではない。
韓国が日本の植民地ではなかったという議論をすると、韓国系の人間・研究者が猛反発することが予想されます。また、現に私は何度もそういう体験はしている。その気持ちは分からないわけではない。というのは、彼らの考える植民地支配とは、異民族に対し物理的ないしは文化的社会的な暴力的支配を行うことであると定義しているからである。したがって、もしかつての朝鮮半島は植民地化されてなかっと指摘すれば、日本帝国主義の非人間的な暴力を無かったことにしてしまうとする良からぬ動機を勝手に想定してしまうからだ。
朝鮮・韓国系の立場の人たちの気持ちが分からないわけでは無い。だが、私の議論は、帝国主義的暴力の存在を否定する議論とは全く無関係である。日本は、他の列強と比べて相対的によいことをしたとか、近代化に貢献したとかという話ではない。そうではなく、大日本帝国の物理的文化的暴力にもかかわらず、朝鮮半島は根本的な文化変容(=植民地化)しなかったという議論であり、むしろ民族の文化的力量を称える立場なのである。(続く)
朝鮮・韓国系の立場の人たちの気持ちが分からないわけでは無い。だが、私の議論は、帝国主義的暴力の存在を否定する議論とは全く無関係である。日本は、他の列強と比べて相対的によいことをしたとか、近代化に貢献したとかという話ではない。そうではなく、大日本帝国の物理的文化的暴力にもかかわらず、朝鮮半島は根本的な文化変容(=植民地化)しなかったという議論であり、むしろ民族の文化的力量を称える立場なのである。(続く)
参考文献
P.S. このブログでは、本橋哲也の「ポストコロニアリズム」は、誤解と思いこみに基づいた議論の積み重ねをしてしまっているという立場を取っています。文学者が未熟に政治化したなれの果てなのでしょう。良い本を沢山翻訳している先生なのですが。
2009年11月5日木曜日
2009年11月4日水曜日
A Hero of our Time - The New York Review of Books
A Hero of our Time - The New York Review of Books
レビーストロースがなくなったそうだ。
1963年のスーザン・ソンタグのレビーストロースの構造人類学の書評が、最新号のNYRBに掲載された。
レビーストロースがなくなったそうだ。
1963年のスーザン・ソンタグのレビーストロースの構造人類学の書評が、最新号のNYRBに掲載された。
2009年11月3日火曜日
池澤夏樹の批判(3)ーー文学と社会科学
昨夜というか今晩というべきですか、2009年11月2日の池澤夏樹の放送は熱がこもっていて良かった。良い文学や小説を味わった感激がよく伝わってきました。私も、バオ・ニンの『戦争の悲しみ』は購入してしまいました。
しかし、先週のはちょっといただけなかったな。フランスの作家トゥルニエの『フライデーあるいは太平洋の冥界』の紹介なんだけれども、はっきり言って稚拙な図式主義を振りかざしていたように思う。
私自身が読んだのは『フライデー』と全く同じものではなく、彼が子供向けに書いた『『新・ロビンソンクルーソー』(榊原晃三訳、岩波書店/岩波少年少女の本24)のほうです。しかしその本の解説によると、セックスの部分だけを削除したのが子供版だったはずですので、大きな違いはないでしょう。(「印象的だったのは、二人だけなのに口で話をするのは面倒だから、たがいに手話でやりとりしようとフライデー(というかヴァンドラディ)が提案したこと、そして、手話記号の一覧表のイラストが詳しく掲載されていたことでした)。
さて、先週の池澤の何が不満だったかというと、またしても、文学の輩が社会科学者のナイーブな単純化の受け売りをしてしまったということです。
暗夜/戦争の悲しみ (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-6) | |
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しかし、先週のはちょっといただけなかったな。フランスの作家トゥルニエの『フライデーあるいは太平洋の冥界』の紹介なんだけれども、はっきり言って稚拙な図式主義を振りかざしていたように思う。
私自身が読んだのは『フライデー』と全く同じものではなく、彼が子供向けに書いた『『新・ロビンソンクルーソー』(榊原晃三訳、岩波書店/岩波少年少女の本24)のほうです。しかしその本の解説によると、セックスの部分だけを削除したのが子供版だったはずですので、大きな違いはないでしょう。(「印象的だったのは、二人だけなのに口で話をするのは面倒だから、たがいに手話でやりとりしようとフライデー(というかヴァンドラディ)が提案したこと、そして、手話記号の一覧表のイラストが詳しく掲載されていたことでした)。
さて、先週の池澤の何が不満だったかというと、またしても、文学の輩が社会科学者のナイーブな単純化の受け売りをしてしまったということです。
ああ、良かったら岩波文庫の『ロビンソン』の翻訳者の解説を見てください。東大英文科の英文学者平井 正穂教授が、大塚久雄のロビンソン解釈の受け売りをしているのです。大塚久雄の近代主義的な解釈が、原作を強引にねじ曲げた誤読であることは、たとえば岩尾 龍太郎だとか、正木 恒夫『植民地幻想』といった著作をご覧いただきたい。問題は、大塚近代主義だけではなないのは明白でしょう。(上)(下)二冊の翻訳まで引き受けた東大の文学部教授が、たとえ当時多大なる影響力があったとはいえ、英文学の解釈について、一経済史研究者の受け売りをしてしまったと言うことです。こういうことは、独り平井教授のみならず、日本の文学研究の本質に関わる大問題ではないかと密かに思っています。
話が少々脱線してしまいました。要するに作家・池澤夏樹がテレビで述べたのは、平井教授と同じような単純な二分法に陥っていた訳です。つまり、デフォーの『ロビンソン・クルーソー』は、実に勤勉なプロティスタンティズムの精神の具現化でありましたとか、原住民のフライデーを従者と扱っていました、しかしトゥルニエとなると、レビー・ストロースの『野生の思考』の影響も受けて、全然違っていますよ、というのです。
つまるところ、
デフォー:トゥルニエ
=モダニズム:ポスト・モダニズム
=プロ倫禁欲主義:脱宗教的な「遊び」
=原住民奴隷思想:原住民友愛思想
だというのです。
池澤のトゥルニエの説明はそんなに的を外しているとは思いません。だが、デフォーの『ロビンソン』はちょっと違うだろうと言いたいのです。まず、正木が説得的に主張していますが、デフォーはプロ倫(Max Weber)的な勤勉人ではなく、重商主義的発想が強いギャンブラーなのだ。それから、ロビンソンはかなり柔軟な思考力があって、案外良い奴なんだ(笑)。僕自身、デフォーの帝国主義・植民地主義の精神を暴露してやるぞという気持ちで『ロビンソン』を読んでみたのだが、どうもそれは私の偏見でしかないと思い知らされたのだ。むしろロビンソンは優柔不断で、あれやこれやと思い悩む奴なのである。
池澤のトゥルニエの説明はそんなに的を外しているとは思いません。だが、デフォーの『ロビンソン』はちょっと違うだろうと言いたいのです。まず、正木が説得的に主張していますが、デフォーはプロ倫(Max Weber)的な勤勉人ではなく、重商主義的発想が強いギャンブラーなのだ。それから、ロビンソンはかなり柔軟な思考力があって、案外良い奴なんだ(笑)。僕自身、デフォーの帝国主義・植民地主義の精神を暴露してやるぞという気持ちで『ロビンソン』を読んでみたのだが、どうもそれは私の偏見でしかないと思い知らされたのだ。むしろロビンソンは優柔不断で、あれやこれやと思い悩む奴なのである。
もちろん、小説の中でロビンソンはフライデーの反論にも耳を傾けているのだ。いま手元にあるのは、Dover Thrift Editionsの米2ドルのRobinsonなのだが、その160頁にはこんなことが書いてある。
[Robinson ]’Friday, God is stronger than the devil, God is above the devil, and therefore we pray to God to tread him down under our feet, and enable us to resist his temptations and quench his fiery darts'.[Friday] 'But if God much strong, much might as the devil, why God no kill the devil, so make him no more do wicked?'I was strrangely surpursed at his question・・・
フライデーの鋭いつっこみで、ロビンソンはもうタジタジとなってしまうのである。こんな具合で終始しているから、デフォーの古典的名作は決して簡単に侮れるような代物ではないのだ。まあ池澤だって本当は分かっているとは思うが、そういう単純な二分法の枠組みにぴったりと当てはまらないからこそ、文学の古典として生き残っているのだ。だからこそ、パロディを作りたくるというものなのであろう。
そういうわけで、先週(2009年10月)のは、ちょっと残念でした。なお、デフォーの『ロビンソン』は東大の文化人類学教授でもあり、現在は文学翻訳家としても活躍している増田義郎先生による新訳が出ている。『完訳 ロビンソン・クルーソー』である。私は未読であるが、ぜひとも読んでみたい。(余談だが、ロビンソン・クルーソーが28年間滞在したとされるトバゴ島というのは、V.S.ナイポールの出身地トリニダード島とともにトリニダード・トバゴという国を作っている)。
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2009年11月2日月曜日
池澤夏樹のポストコロニアリズム文学批判(2)ーーその偉大なる功績
私はさんざん池澤夏樹の書いていることについて文句を書いたし、これからそういうことになるかもしれない。だが、それにしても一度は功績を大いに褒めておきたい。ポストコロニアル文学が読んでおもしろいものだとハッキリ断言し、しかも商業的にも大きく成功せしめたこと(成功したと思うが)、多くの読者を獲得したということは、称賛に値する。これだけで十分文学史に残る作家となったと言いたいくらいだ。
作家と言うのは学者ではないので、分かり易い書き方でハッキリとが書くことが出来る。狭い学者の枠組みに閉じこめられないのである。池澤の真価もそこにある
たとえば、ある非常に優れた学者、ポストコロニアル英文学については日本を代表すると思われる英文学者・中井亜佐子の著作を例に考えてみよう。氏は最近ポストコロニアル文学について、日本語で最も重要な研究書であり教科書である『他者の自伝』―これから少なくとも10年は日本の英文学徒の間で読み継がれるであろう―を書いて出版した。だが、非常に残念なことだが、英文学という専門家世界の領域をほとんど一歩も超えようとはしなかったのである。一般読者の知りたい素朴な疑問といのは、つまり、その本が面白いのか、わざわざ英語で読むに値するのか、その本が古典的評価を得ているのは何故なのか。もし重要だったり感動的なモノだとするなら、それがどのように素晴らしいのか。また、我々日本人が、言及されたようなポストコロニアル英語文学を読むことによって、どんな意味や意義があるのか。さらに言えば、地域研究系・社会科学系の読者にとっての最大の関心事だとおもうが、ポストコロニアル文学を研究をすることによって、お前はどのような政治的見解をとっているのか、ということだ。しかし、そういったナイーブで切実な問について、学者的な幻惑でしか応答するだけだったのである。(とくにナイポール論においては、重要な議論となるべきはずだ)。
要するに中井氏は、英文学という学界の中で共有された土俵の中でのみ議論を展開してみせたのだ。それは致命的な問題ではない。だが、やはり残念に思う。文学というのは、文学研究者のためにだけあるものでなないからだ。書評ではありえない、専門家的研究というのは、寂しい限りではないか。
ところが池澤夏樹が「現代的で面白い」という観点から選んでしまった全集は、黒人やアジア人を差別する立場の書き手が盛りだくさんだ。しかも、帝国主義や植民地主義を自己批判するような作品であるとは限らない。それなのに、黒人差別をする側の民族の書き手と、黒人の書き手を、「面白い」という尺度で褒めあげてしまうのが池澤夏樹である。
P.S 今日の放送(『戦争の悲しみ』)は良かった。先週はちょっと酷いと思ったけれど・・・。
作家と言うのは学者ではないので、分かり易い書き方でハッキリとが書くことが出来る。狭い学者の枠組みに閉じこめられないのである。池澤の真価もそこにある
たとえば、ある非常に優れた学者、ポストコロニアル英文学については日本を代表すると思われる英文学者・中井亜佐子の著作を例に考えてみよう。氏は最近ポストコロニアル文学について、日本語で最も重要な研究書であり教科書である『他者の自伝』―これから少なくとも10年は日本の英文学徒の間で読み継がれるであろう―を書いて出版した。だが、非常に残念なことだが、英文学という専門家世界の領域をほとんど一歩も超えようとはしなかったのである。一般読者の知りたい素朴な疑問といのは、つまり、その本が面白いのか、わざわざ英語で読むに値するのか、その本が古典的評価を得ているのは何故なのか。もし重要だったり感動的なモノだとするなら、それがどのように素晴らしいのか。また、我々日本人が、言及されたようなポストコロニアル英語文学を読むことによって、どんな意味や意義があるのか。さらに言えば、地域研究系・社会科学系の読者にとっての最大の関心事だとおもうが、ポストコロニアル文学を研究をすることによって、お前はどのような政治的見解をとっているのか、ということだ。しかし、そういったナイーブで切実な問について、学者的な幻惑でしか応答するだけだったのである。(とくにナイポール論においては、重要な議論となるべきはずだ)。
要するに中井氏は、英文学という学界の中で共有された土俵の中でのみ議論を展開してみせたのだ。それは致命的な問題ではない。だが、やはり残念に思う。文学というのは、文学研究者のためにだけあるものでなないからだ。書評ではありえない、専門家的研究というのは、寂しい限りではないか。
より深刻な問題は、ポストコロニアルという問題意識が、たとえば政治学・社会学、あるいは、地域研究やエスニック・スタディーズのような領域を含みこんでいることに由来する。いったい異なる専門分野の人のどれほどが、中井の声に耳を傾けるだろうか。おそくらは、日本でポストコロニアリズムを研究していると自称している朝鮮(韓国)や沖縄関連の研究者の大半は、中井亜佐子ーー繰り返すが、中村 和恵と並ぶ日本語圏の代表的ポストコロニアル英語文学研究者だと思うーー氏の名前を知らないのが現状ではないか。
「ポストコロニアル」とか「ポストコロニアリズム」といった専門用語(?)が、事実上、文学研究者(とその周辺)と地域社会研究(とその周辺)とに分断されてしまっているのだが、中井氏の書物はそのギャップを埋めるものにはならなかったのである。
以上のような状況があるからこそ、池澤夏樹が光ってくる。読むに値する文学であると一般読者に語りかけ、紹介の労を引き受ける著名人がいるということは、ポストコロニアリズムやポストコロニアル文学にとっては、実に貴重で、有り難いことだ。
以上のような状況があるからこそ、池澤夏樹が光ってくる。読むに値する文学であると一般読者に語りかけ、紹介の労を引き受ける著名人がいるということは、ポストコロニアリズムやポストコロニアル文学にとっては、実に貴重で、有り難いことだ。
では池澤の選んだ選集は、氏の説明を超えて、どのような波紋を投げかける潜在的可能性があるのか。まず、指摘しておきたいのが、いわゆる「ポストコロニアリズム」とか「ポスコロ」とかいうとき、一般読書人は文学的な用語だとは解していないということだ。サイードやバーバが文学研究者だと知らない人がいても不思議ではないくらいだ。そこでちょっとWikipediaの「ポストコロニアル理論」を引用する。
20世紀後半、第二次世界大戦によりヨーロッパが没落し、世界が脱植民地化時代に突入すると、それまで植民地だった地域は次々に独立を果たしたが、こうした旧植民地に残る様々な課題を把握するために始まった文化研究がポストコロニアリズムである。ポストコロニアリズムの旗手エドワード・サイードが著した『オリエンタリズム』(1978年)の視点がポストコロニアル理論を確立した。上記の説明は、おそらくは、英文学や仏文学専門の人をのぞけば、大多数の人がポストコロニアリズムに抱いているイメージと近い。「ポスコロっていうのは、従来親しんできた西欧文学について、「オリエンタリズム」の観点から批判(糾弾)していくんだろう」というものだ。たとえば、フランス人作家カミュはアルジェリア出身なのでアラブ人に偏見のある描き方をしたとか、ドリトル先生やシャーロック・ホームズ、オーギュスト・デュパンには、英米の旧宗主国的偏見が見え隠れしているとか、そういった点を洗い出そうとするのがポストコロニアリズムなんだろうという理解である。
例えば、ヨーロッパで書かれた小説に、アジア・アフリカなど植民地の国々がどのように描かれているか、あるいは旧植民地の国々の文学ではどのように旧宗主国が描かれているか、旧植民地の文化がいかに抑圧されてきたかといった視点で研究する。一般に、旧植民地と旧宗主国またはその他の国との関係性に着目し、西欧中心史観への疑問を投げかけ、旧植民地文化の再評価のみならず、西欧の文化を問い直す視座を提供する。日本の場合、ヨーロッパとの関係、アジアの植民地との関係においても考察の対象になる。
ところが池澤夏樹が「現代的で面白い」という観点から選んでしまった全集は、黒人やアジア人を差別する立場の書き手が盛りだくさんだ。しかも、帝国主義や植民地主義を自己批判するような作品であるとは限らない。それなのに、黒人差別をする側の民族の書き手と、黒人の書き手を、「面白い」という尺度で褒めあげてしまうのが池澤夏樹である。
池澤はWikipediaに代表されるような「ポスコロ」理解を真っ正面から否定してしいることになるのだ。池澤の最大の功績はここにある。そして、池澤の提示した政治的曖昧さこそが、ポストコロニアル文学的発想なのだと私は強調したい。(続く)
P.S 今日の放送(『戦争の悲しみ』)は良かった。先週はちょっと酷いと思ったけれど・・・。
2009年11月1日日曜日
BBC World Book Clubは必聴Podcastだ
この2009年9月にはApple社から新しいiPodが発売されたので、さっそく購入しました。すると自然にPodcastなるもの、あるいは、iTunesUなどに興味を寄せることになった。いずれもパソコンがあれば視聴できるものなのだが、いままでは無関心でいただけのものだ。だが、それにしても、すばらしい財宝が無料で放映されていることに気がついて驚いた。たとえば、コナン・ドイルのインタビュー映像とかがいつでも好きなときに見ることが出来るわけだ。
さてポストコロニアル文学愛好家となれば、次のPodcastは絶対に聞き逃してはならない。
BBCのWorld Book Clubである。(私のiTUnesではうまくiPodに取り込めないが、今回は技術的な話は書かない。私が詳しくないからなのだが)。
近くの散策のお供にと何気なく持ち運び聴いてみたら、なんとギュンター・グラスが生登場しているじゃないですか。もちろん英語です。そして、「『ブリキの太鼓』の太鼓はどういう意味なのか?」とか、世界の一般読者(?)が電話や手紙で質問攻めにするという趣旨の放送なのでした。面白いのが読者がパキスタン人だとかエジプト人(?)だとかで旧英植民地などの世界中の人だったことだが、その件はさておき、調べてみるとこのWorld Book Clubの他の出演する作家さんたちが実にポストコロニアル文学的な作家名が並んでいること。(実はまだ聴いていません)
Chimamanda Ngozi Adichie--池澤夏樹が週刊誌で翻訳本を絶賛していたナイジェリア人若手女流家。久保田のぞみ先生の翻訳である。
他にも Nawal El Sadaawi, Moshin Hamid, Toni Morrison, Derek Walcott, Alice Walkerと並ぶのだ。
まずはBBC World Book Clubの紹介まで。(iTuensでの同期はちょっと難しいみたいですが、mp3音源をダウンロードすることは簡単です。時間は1時間近くあります)。
2009年10月29日木曜日
サイードとリース『サルガッソーの広い海』
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ところでジーン・リース『サルガッソーの広い海』について、一言だけ書いておきたいことがある。池澤は、ポストコロニアリズムやフェミニズムいった理論的枠組みでのみ優れているだけではなく、小説技術においても見事であると述べている。なるほど、もしかしたらそうなのかもしれない。しかし、そういうことは脇においておくと、基本的にはスカッとする小説などではなく、物悲しい、不安定ななかに溺れて消えていくような小説だ。最後は自殺していくが、小川未明の「人魚姫」を思い起こさせる。
決して、魅力のある女性主人公が、イギリス宗主国の暴力の前に打ちのめされれたという話ではない。最初から軽くてふわふわした女性が、消えていく悲劇なのである。そして、作者が76歳で完成させた小説である。まさに晩年の小説ではあるまいか。このことをもっと考えてみたいと思う。
いま、思い浮かべるのが、最近翻訳出版されたサイードの『故国喪失についての省察2』(みすず書房)に所収されている最も興味深いエッセイ「敗北とは何か」だ。このエッセイは、「ハワイ原住民の権利といった大義を信奉するのに、いまは相応しい時機ではないと感じる」(p270)という話から始まり、私にはしびれるモノだった。なぜならば、私がハワイ大学の大学院生のおろ、ハワイ人の講演があり、そういう話題が持ち上がったからだ。
サイード自身は「説得力のあるかたちで考えぬかれたものであるならば、なんであれどこかで他の場所で、他の人々によって思考されるに違いない」(アドルノ)という確信をもちうる。だから、真に敗北した大義などは存在しないと結論づける。
サイードは安易にこのような結論に至っているのではない。その途中で、スウィフト、フローベール、セルバンテス、ハーディ等が、敗北をどのように表象してきたのかに言及するのだ。それらに共通するのは、「作家生活の終わりの近くになって執筆されたということだ」(284頁) あるいは「若い頃に抱いた野心や大望がはたして成就したのかどうか、締めくくりをつけ、判断を下し、得失を勘定すべき時期である」(同頁)。
ジーン・リースが最晩年まで拘った「サルガッソーの広い海」のもの悲しさを、サイードの指摘とともに考えてみたいと思う。
なお、私のような文学素人として、特別な驚きだったことをもう一つ付け加えておきたい。というのは、昔、J.M.Coetzeeの自伝的的小説Youth を読んでいると、 Ford Madox Fordに若い頃憧れたと書かれてある。それから藤永 茂先生のコンラッド批判の文章を読んでいると、コンラッドがFord Madox Fordと共著(短編)を書いている。どんな人なのかと思って調べてみると、ジーン・リースを愛人にしていたモダニズム文学者・編集者であることが分かった。これらの白人文学者たちは、いずれもポストコロニアル文学としてよく論じられているのだが、互いに知的に人的に深くつながっているのである。文学研究者がでどのように論じているのか(あるいは論じていないのか知らないが、大変面白いと思った。
2009年10月28日水曜日
池澤夏樹の「ポストコロニアリズム文学」批判(1)
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池澤は、2009年の10月からNHK教育テレビの月曜日夜10:25から「探究この世界 池澤夏樹の世界文学ワンダーランド」という放送を始めた。同時にNHK出版から『世界文学ワンダーランド』 というテキストも出版した。そこには、「世界文学を再定義する」いう言葉があり、さらに、「『ポストコロニアリズムとフェミニズム』の視点から世界を見直す」といった、氏の基調論点がはっきりと明示されている。事実、選ばれている小説も、ポストコロニアル文学的なものが多い。従来の世界文学全集とは異なって、旧植民地やヨーロッパの小国出身の作家、あるいは中国・ベトナムの作家も含まれている。私はその選び方についてはとくに大きな異論はないし、むしろ、魅力に充ちた、ぜひとも読んでみたい全集だと言いたい。ところが、半ば予想できてはいたのだが、池澤のポストコロニアル文学の提示の仕方は、自己欺瞞と教条主義に彩られているのである。
私は、それでも興味津々で、ジーン・リース『サルガッソーの広い海』 について池澤がTVでどのように語るのか、伝えようとするのか、聴いてみた。2009年10月19日(月)の放送だ。この小説はシャーロット・ブロンテ『ジェーン・エアー』にほんの少しだけその声が聞こえてくるカリブ海出身の凶女について、カリブ出身の女流作家リースが書き直したパロディ小説として有名である。ポストコロニアル批評家のスピヴァックも大いに論じているもので、ポストコロニアル文学に興味のある人の必読書となっている作品だ。
案の定、残念すぎる内容だった。一部の英文学(あるいはフランス文学)関係者を除けば、ポストコロニアル文学について詳しい人はあまりいないだろうが、予備知識のない一般視聴者を誤った理解に導くような、きわめて欺瞞サヨク的な、あるいは「戦後知識人的」見解を、池澤は安易に語ってしまっていたからある。
ポイントを端的に言おう。ジーン・リースの作品、あるいはポストコロニアル文学について、「植民地の独立ともに生まれた文学である」とか「(文学作品を通じて)植民地の人たちを偏見から解放したのです」とNHKのアナウンサーに語らせてしまったのである。あるいはNHKの読本では次のように書かれてある。
さらには、ジーン・リースの置かれた立場を沖縄・朝鮮・アイヌの人々と対比したり、挙げ句の果てには日本には西欧のような差別があまりないとかいった話にまで至ってしまうのだ。
常識的判断力があるのならば、池澤の議論がちょっと変であることに気付くかも知れない。そうだろう、いくらジーン・リースが旧英領ドミニカ(現在はドミニカ国)の植民地出身者であり、イギリス本国で貧しかったり、つまはじきになっていたとしても、所詮は白人支配階級出身の作家ではないか。植民地出身の白人支配階級の文学が、「植民地の人々を偏見から解放」したりするのであろうか? あるいは、むしろ、植民地における異民族支配を正当化する書き物かもしれないではないか。実際、カリブの島々の過酷な搾取や支配に対する批判的文章は、ほとんど『サルガッソーの広い海』からは読みとることはできない。もちろん反植民地主義だとか被支配民族解放を示唆するような箇所は一つもない。なにしろ主人公は植民地生まれでイギリス人に凶女にされてしまった女かもしれないが、要するに、奴隷農園で大儲けした民族の側にいるのだ。
『サルガッソーの広い海』はポストコロニアリズムとフェミニズムの両方の原理が濃く入っている作品ですが、とりわけ本国による支配に対する文学的反逆として非常にうまくいった例です。結局、あなたたち本国は自分に都合のいいように植民地を扱ってきた。経済貿易の面では植民地を大いに利用し、余情人口のはけ口にしたけれども、人間の面では植民地生まれだからだめなやつだと決めつけて、『ジェイン・エア』のバーサのように悪役・嫌われ役をふってきたでしょう、とジーン・リースは言いたいのです(55頁)
さらには、ジーン・リースの置かれた立場を沖縄・朝鮮・アイヌの人々と対比したり、挙げ句の果てには日本には西欧のような差別があまりないとかいった話にまで至ってしまうのだ。
常識的判断力があるのならば、池澤の議論がちょっと変であることに気付くかも知れない。そうだろう、いくらジーン・リースが旧英領ドミニカ(現在はドミニカ国)の植民地出身者であり、イギリス本国で貧しかったり、つまはじきになっていたとしても、所詮は白人支配階級出身の作家ではないか。植民地出身の白人支配階級の文学が、「植民地の人々を偏見から解放」したりするのであろうか? あるいは、むしろ、植民地における異民族支配を正当化する書き物かもしれないではないか。実際、カリブの島々の過酷な搾取や支配に対する批判的文章は、ほとんど『サルガッソーの広い海』からは読みとることはできない。もちろん反植民地主義だとか被支配民族解放を示唆するような箇所は一つもない。なにしろ主人公は植民地生まれでイギリス人に凶女にされてしまった女かもしれないが、要するに、奴隷農園で大儲けした民族の側にいるのだ。
植民地主義や帝国主義の暴力批判の洗礼を受けた人ならば、さらに疑問は広がっていくはずだ。というのは池澤の文学選集の作品をちょっと調べてみるとわかるのことだが、書き手はほとんどの場合植民地の支配者民族に属しているのだ。選集の中での唯一の例外といえるのは、アフリカのチュツオーラによる『やし酒飲み』だけなのだが、これも英語で書かれたものだし、何だかオバカで不思議なアフリカン落語という風である。文学的な評価はさておき、ファノンやリサールが描いたような反植民地主義的思想に裏打ちされた書き物を期待すると、完全に肩透かしを食らう。ましてや「植民地の人たちを偏見から解放する」ものとしてはあまり役に立ちそうにない。
それ以外の作品はとなると、さらに戸惑うことになるだろう。たとえば、池澤はデュラスの『太平洋の防波堤』『愛人』を選んでいる。デュラスはフランス帝国支配下のベトナムで若い時代を過ごしたフランス人女性作家なのだが、彼女の作品が被支配民族であるベトナム人を解放する文学では断じてあり得ない。それどころか、むしろ「帝国的ノスタルジア」(ロザルド)に満ちた差別的作品だし、保守的な篠沢秀夫も『篠沢フランス文学講義』で証言しているように東洋人を見下しすオリエンタリズムが盛りだくさんという作風なのである。
「ポストコロニアル文学」というのは、本当のところ、植民地の被支配者のための文学なのか。むしろ、植民者支配者のための文化と文学にすぎないのではないか。そういう問が当然生まれても良いではないか。当然のことながら、なぜ池澤は我々にそういう怪しげな作品を勧めるのか問いただしたくなるはずだ。これはなにも池澤個人に問いかけるべき問ではない。他のポストコロニアル文学の作家や研究者やのひとり一人独りに投げかけたい問なのだ。たとえば故サイードに対しては、なぜコンラッドの保守的でケシカラン小説などを褒めるのか、と。(コンラッドについては藤永 茂『「闇の奥」の奥―コンラッド/植民地主義/アフリカの重荷』を参照のこと。すくなくとも、ベン・アンダーソンのような文化主義的東南アジア研究者は、サイード=コンラッドのような文学的スタンスは取らなかった。たとえば、Anderson, Under Three Flags: Anarchism And the Anti-colonial Imaginationを参照のこと。なお、サイードとアンダーソンのスタンスの違いについては、別の機会に書いておきたい)。
結論的に述べれば、ポストコロニアル文学およびポストコロニアル批評と言われる一群の読み物=書き物は、政治的には至極曖昧なのである。植民地の側からの対抗的書き物ではあるが、決して政治的進歩を代弁しているとは限らないのだ。このことは、再三繰り返して言明しておいた方がよいだろう。ポストコロニアルは反コロニアリズムでも反帝国主義でもないいのだ。また、白人植民者の文学的遺産を受け継いだという意味では、支配的文学でもあるのである。したがって、ポストコロニアル文学を論じるに当たっては、政治的進歩主義の尺度に照らして評価してはならない。
逆に言えば、政治的右翼・保守主義者が誤解しているように、サヨク主義の生き残り戦略に過ぎないから「ポスコロ」はダメだという議論は、完全に勘違いしている。たとえば、「東は東、西は西」という警句と『ジャングル・ブック』でよく知られるキプリングは、イギリス帝国主義の支持者として知られる作家だ。彼の政治的スタンスには辟易するのに、作品を読むと「うーん」とうなって論じたり引用したりすること。これが、もっともポストコロニアル文学的なのでだから。
池澤に帰れば、「うーん」と唸るべきところを、妙な政治的進歩主義で隠蔽しようとした点に最大の罪がある。素晴らしいポストコロニアル文学は、植民地の人を侮辱するケシカラン書き物かも知れないのだが、それにもかかわらず、読者をうならせる確かな何かがある。それを追求することが両義的で曖昧な文学作品の楽しみではないか。
池澤の進歩的知識人的発言にはまらず、池澤の選んだ文学作品をもっと真っ正面から読んでいこうではないか。 池澤夏樹には、くれぐれもご用心!
コロン作家の自己欺瞞を超えて(池澤夏樹批判)
そろそろブログを再開させよう。というのはNHK教育テレビにおいて、池澤夏樹がきわめてバイアスのかかった、ナイーブな論調を展開していたので、ちょっとムカツイテいるからである。
池澤はあたかもポストコロニアル文学なるものが、植民地住民の解放の文学であるかのように宣言しているのだ。しかも、そこで紹介されている小説が植民地の支配者の白人文学だったりするのだから、呆れて物が言えない。先週は『サルガッソー』について紋切り型の紹介をしたかと思うと、先日は『フライデー』についてこれもまた教条的な説明をしているのだ。彼は、本読みとして、あるいは一人の知識人として、大いに間違いを犯してしまったのだと言わざるを得ないのである。
自分が、いや我々が、本当は植民者(コロン)であるのに、そしてその立場を簡単に放棄できないのに、あたかも反植民地主義の先端を切ることができるかのような自己欺瞞が、池澤夏樹にはある。沖縄社会学者の野村ーー私は批判的に言及したがーーに、「お前は沖縄を植民化したコロン作家だろう!」と言われて、「NO!」と言ってしまった池澤だ。おそらくは相当お目出度いところがあるのだ。
よって、以降では、池澤の議論と、彼のアイヌ小説(北海道コロン小説)について論じようと思う。
池澤はあたかもポストコロニアル文学なるものが、植民地住民の解放の文学であるかのように宣言しているのだ。しかも、そこで紹介されている小説が植民地の支配者の白人文学だったりするのだから、呆れて物が言えない。先週は『サルガッソー』について紋切り型の紹介をしたかと思うと、先日は『フライデー』についてこれもまた教条的な説明をしているのだ。彼は、本読みとして、あるいは一人の知識人として、大いに間違いを犯してしまったのだと言わざるを得ないのである。
自分が、いや我々が、本当は植民者(コロン)であるのに、そしてその立場を簡単に放棄できないのに、あたかも反植民地主義の先端を切ることができるかのような自己欺瞞が、池澤夏樹にはある。沖縄社会学者の野村ーー私は批判的に言及したがーーに、「お前は沖縄を植民化したコロン作家だろう!」と言われて、「NO!」と言ってしまった池澤だ。おそらくは相当お目出度いところがあるのだ。
よって、以降では、池澤の議論と、彼のアイヌ小説(北海道コロン小説)について論じようと思う。
2009年5月12日火曜日
脱植民地化の展望(木畑再考)
以前、このブログは始めた頃、歴史学者・木畑の文学研究者サイードの批判をとりあげた。そのうち、とくに重要だったのは、次の箇所だった。
歴史的コンテクストにあまり注意を払わずに、多様なテクストを「コロニアルな言説」として一様に読み解いていく体の作品においては、歴史のダイナミズムを求めるべくもない。ポストコロニアリズムというからには、植民地支配の確立の過程、支配をめぐるさまざまな闘争の過程、脱植民地化(政治的独立という意味での狭義の脱植民地化)の過程、さらに独立後の変化の過程を見通す視座が必要であろう
あらためて考えてみるが、木畑は自覚していなかった(!)にもかからず、非常に重要な論点だからである。なぜか
木畑の議論を敷延すれば、(1)植民地化の過程 (2)支配をめぐる諸闘争の過程 (3)脱植民地化と独立の過程についての視座が必要である、それなのに、サイードはそれを怠っているというのである。
よろしい。その通りである。だが、歴史学者たちのほうは、文化の脱植民地化の過程を射程にいれ、実証的に研究する準備ができたといえるのだろうか? いや、そういう意地悪な問いかけはもうやめて率直に問おう。文化が脱植民地化した適当な歴史的事例が存在するだろうか? 脱植民地化というのは、空しい夢だったのではないのか?
たしかに、たとえば、アイルランドが独立しアイルランド語が公用語になった。あるいは、フィリピンが独立してフィリピーノ語が公用語になった。だが、脱植民地化と言いうるような文化的変動にたどり着いたと言えるのだろうか? あるいは内的植民地となったアイヌ人やチャモロ人にはどのような展望があるというのだろうか?
実のところ我々は、不幸にも植民地化されてしまった文化について、その脱植民地化とはいかなる事態なのかということさえ見当もつかないのである。(なお、私は韓国やジャワのような民族については歴史的な被抑圧民族であったとおもうが、植民地化されたとは考えていない)。
植民地化された文化は脱植民地化されることはないと言い切って良いのだろうか。私には判らない。ただ言えるのは、いまのところ、植民地化してしまった社会は、その既成事実を前提のうえで、新たな世界の模索をしつづけてるかしかなかったということだった。ポストコロニアル理論家や文学者というのは、まさに植民地人が、植民地人でありながら文化的に貢献しようとする姿勢にすぎないのである。
たとえば、イレートの19世紀末フィリピン革命研究も、そういった作品の一つであった。要するに文化的に植民地化してしまった人々、すなわちカトリシズムの宗教と言語を受け入れてしまった人たちが、脱植民地化(あるいは脱カトリシズム化)することなしに、抵抗の論理を構築していったという事例研究であった。(イレートの研究について、フィリピン人の脱植民地化の試みであると誤読する研究者が多かったのだが、どう考えても甘かったのだ。決して脱植民地化できなかった人々が、彼らなりの努力をしていたという記録なのである。その証拠に、今なおフィリピン人は植民地的である)。
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2009年2月19日木曜日
村上春樹のエレサレム
村上春樹のエルサレム文学賞の授賞式でのスピーチについて、多くの人が発言をしている。もしかしたら私がこれから書くことも、他の大部分の人と全く同じ見解なるかもしれないが、とりあえずの記録として記しておきたいと思う。
http://www.haaretz.com/hasen/spages/1064909.html
村上は次のように述べた。
抗しがたいシステムである「壁」と、魂を持つ個々という意味での「卵」と区別し、人間「卵」の側にコミットするというのだ。それがどんな意味を持つのかといえば、ある意味で明白である。
「壁」とはイスラエル国家が行使している軍事行動、すなわち爆撃機であり、戦車であり、ロケット砲であり、白リン弾を示唆する。これに対して、「卵」とは、そういった武力によって殺されていく非武装のパレスチナ市民のことである。
しかしながら、村上の言いたいことは、おそらくそういうことだけではなかった。いやむしろ、別のことに関心があったのかもしれないと思う。現に村上は、急いで次のように付け加えるの忘れない。
"a deeper meaning"とは何だろうか。
抽象的で分かりにくく読めるかも知れない。しかし、私にはきわめて明快な事実を指摘しているにほかならないと思われる。
ここでは、「壁」をイスラエル国家とみなしておこう。だが、この時「卵」と言うのは、イスラエルによって攻撃されているパレスチナ市民だけではないのだ。なぜならば、イスラエル国家の内側にあるユダヤ教徒のイスラエル市民も、全く同じように「壁」に囲まれているからである。イスラエル人はパレスチナ人を壁に囲い込んだかのように考えているかもしれないが、実は彼らも、その「壁」によって囲まれてしまった「卵」なのである。
村上は、何度も何度もme, each of you, each of usといった表現を持ちながら、次のように続けた。
私の理解するところでは、「卵」と言うのは決して非武装の市民だけではない。武器を持って非武装市民を虐殺していくイスラエルの兵士に対しても向けられている。だからここで何度も、「あなた達一人一人」が強調されているわけである。
そして村上は、若い頃に中国戦線に送られていった、亡き父親の話に転ずる。村上のお父さんは、毎朝、戦争で亡くなった敵と味方の双方に対して祈りを捧げていたのだそうだ。このお父さん話は、イスラエルという国家の中で生きるイスラエルの市民と兵士を念頭においているに違いない。イスラエルの「卵」が、イスラエルの「壁」に押しつぶされないことを祈ってものでもあろう。
だが、村上春樹の「壁」の概念には、少々疑問に思うところがないわけではない。
村上の「壁」あるいはシステムの説明は、彼の今までの小説の認識とよく通じ合っているように見える。だが、これほどまでに抽象的で、神秘的な「壁」は存在するのだろうか。たとえば問題を、パレスチナにおける虐殺問題のようなものに限定してしまえば、その軍事行動を指揮する何人かの政府要人を絞り込むことができる。彼らは決して、『ねじまき鳥』や『羊』のなかの、不思議な権力者のような存在ではない。むしろ、村上の前にはっきりと姿を現す普通の人間である。そして、彼らが実際に軍事行動を決定したのではないのか。言い換えれば、「壁」はそんなに神秘的でもないだろうし、それほど強固で高いわけではない。むしろ、現実に崩壊することを予期することさえもできるのではないのか。
村上の世界観と、村上の小説は、いたずらに権力とsystemを神秘化としているのではないか。村上春樹の世界観と、例えば司馬遼太郎の世界観とか絶対に交叉しないところであるが、この大いなるギャップがむしろ問題ではなかろうか。(司馬遼太郎に代表されるような、権力者を描く歴史小説が、歴史とシステムの人間化を目論んでいるのに対し、村上は歴史とシステムを「あまりにも高く、強く、冷たい」壁としてしまったのである。ある意味では、司馬的世界ーーあるいは司馬遼太郎の「世代」というのだろうかーーがサルトルと的な実存主義的歴史観、村上春樹はレビーストロース的な構造主義的な歴史観を反映していると言えなくもないではない。もっとも、あまりにも図式的な理解であることは否めないが)。
最後にもうひとつだけ疑問点を書いておきたい。それは村上スピーチの結びの言葉である。
村上の小説は、確かに世界中にたくさんの読者を持っている。しかし、アラブやイスラムの読者はどれだけいるのだろうか。また、彼の発言は、イスラエルの人には届くかもしれないが、パレスチナの側には、全く届いていないのではないだろうか。すでにこういう村上に対する批判は多いと思うが、やはり一言述べておかずにはいかない。
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【英語全文】村上春樹さん「エルサレム賞」授賞式講演全文
以下の英文は村上春樹さんが講演を終えたあと共同通信エルサレム支局の長谷川健司特派員(支局長)がエルサレム賞主催者から入手したテキストが基になっています。しかし、実際の講演はこれに少し修正が加えられていました。当日、長谷川特派員が授賞式会場の取材で録音したレコーダーを聞きなおし、実際に村上さんが話した通りに再現したものです。
“Jerusalem Prize” Remarks
Good evening. I have come to Jerusalem today as a novelist, which is to say as a professional spinner of lies.
Of course, novelists are not the only ones who tell lies. Politicians do it, too, as we all know. Diplomats and generals tell their own kinds of lies on occasion, as do used car salesmen, butchers and builders. The lies of novelists differ from others, however, in that no one criticizes the novelist as immoral for telling lies. Indeed, the bigger and better his lies and the more ingeniously he creates them, the more he is likely to be praised by the public and the critics. Why should that be?
My answer would be this: namely, that by telling skilful lies--which is to say, by making up fictions that appear to be true--the novelist can bring a truth out to a new place and shine a new light on it. In most cases, it is virtually impossible to grasp a truth in its original form and depict it accurately. This is why we try to grab its tail by luring the truth from its hiding place, transferring it to a fictional location, and replacing it with a fictional form. In order to accomplish this, however, we first have to clarify where the truth-lies within us, within ourselves. This is an important qualification for making up good lies.
Today, however, I have no intention of lying. I will try to be as honest as I can. There are only a few days in the year when I do not engage in telling lies, and today happens to be one of them.
So let me tell you the truth. In Japan a fair number of people advised me not to come here to accept the Jerusalem Prize. Some even warned me they would instigate a boycott of my books if I came. The reason for this, of course, was the fierce fighting that was raging in Gaza. The U.N. reported that more than a thousand people had lost their lives in the blockaded city of Gaza, many of them unarmed citizens--children and old people.
Any number of times after receiving notice of the award, I asked myself whether traveling to Israel at a time like this and accepting a literary prize was the proper thing to do, whether this would create the impression that I supported one side in the conflict, that I endorsed the policies of a nation that chose to unleash its overwhelming military power. Neither, of course, do I wish to see my books subjected to a boycott.
Finally, however, after careful consideration, I made up my mind to come here. One reason for my decision was that all too many people advised me not to do it. Perhaps, like many other novelists, I tend to do the exact opposite of what I am told. If people are telling me-- and especially if they are warning me-- “Don’t go there,” “Don’t do that,” I tend to want to “go there” and “do that”. It’s in my nature, you might say, as a novelist. Novelists are a special breed. They cannot genuinely trust anything they have not seen with their own eyes or touched with their own hands.
And that is why I am here. I chose to come here rather than stay away. I chose to see for myself rather than not to see. I chose to speak to you rather than to say nothing.
Please do allow me to deliver a message, one very personal message. It is something that I always keep in mind while I am writing fiction. I have never gone so far as to write it on a piece of paper and paste it to the wall: rather, it is carved into the wall of my mind, and it goes something like this:
“Between a high, solid wall and an egg that breaks against it, I will always stand on the side of the egg.”
Yes, no matter how right the wall may be and how wrong the egg, I will stand with the egg. Someone else will have to decide what is right and what is wrong; perhaps time or history will do it. But if there were a novelist who, for whatever reason, wrote works standing with the wall, of what value would such works be?
What is the meaning of this metaphor? In some cases, it is all too simple and clear. Bombers and tanks and rockets and white phosphorus shells are that high wall. The eggs are the unarmed civilians who are crushed and burned and shot by them. This is one meaning of the metaphor.
But this is not all. It carries a deeper meaning. Think of it this way. Each of us is, more or less, an egg. Each of us is a unique, irreplaceable soul enclosed in a fragile shell. This is true of me, and it is true of each of you. And each of us, to a greater or lesser degree, is confronting a high, solid wall. The wall has a name: it is “The System.” The System is supposed to protect us, but sometimes it takes on a life of its own, and then it begins to kill us and cause us to kill others--coldly, efficiently, systematically.
I have only one reason to write novels, and that is to bring the dignity of the individual soul to the surface and shine a light upon it. The purpose of a story is to sound an alarm, to keep a light trained on the System in order to prevent it from tangling our souls in its web and demeaning them. I truly believe it is the novelist’s job to keep trying to clarify the uniqueness of each individual soul by writing stories--stories of life and death, stories of love, stories that make people cry and quake with fear and shake with laughter. This is why we go on, day after day, concocting fictions with utter seriousness.
My father passed away last year at the age of ninety. He was a retired teacher and a part-time Buddhist priest. When he was in graduate school in Kyoto, he was drafted into the army and sent to fight in China. As a child born after the war, I used to see him every morning before breakfast offering up long, deeply-felt prayers at the small Buddhist altar in our house. One time I asked him why he did this, and he told me he was praying for the people who had died in the battlefield. He was praying for all the people who died, he said, both ally and enemy alike. Staring at his back as he knelt at the altar, I seemed to feel the shadow of death hovering around him.
My father died, and with him he took his memories, memories that I can never know. But the presence of death that lurked about him remains in my own memory. It is one of the few things I carry on from him, and one of the most important.
I have only one thing I hope to convey to you today. We are all human beings, individuals transcending nationality and race and religion, and we are all fragile eggs faced with a solid wall called The System. To all appearances, we have no hope of winning. The wall is too high, too strong--and too cold. If we have any hope of victory at all, it will have to come from our believing in the utter uniqueness and irreplaceability of our own and others’ souls and from our believing in the warmth we gain by joining souls together.
Take a moment to think about this. Each of us possesses a tangible, living soul. The System has no such thing. We must not allow the System to exploit us. We must not allow the System to take on a life of its own. The System did not make us: we made the System.
That is all I have to say to you.
I am grateful to have been awarded the Jerusalem Prize. I am grateful that my books are being read by people in many parts of the world. And I would like to express my gratitude to the readers in Israel. You are the biggest reason why I am here. And I hope we are sharing something, something very meaningful. And I am glad to have had the opportunity to speak to you here today. Thank you very much.
http://www.haaretz.com/hasen/spages/1064909.html
村上は次のように述べた。
"Between a high, solid wall and an egg that breaks against it, I will always stand on the side of the egg."Yes, no matter how right the wall may be and how wrong the egg, I will stand with the egg.
抗しがたいシステムである「壁」と、魂を持つ個々という意味での「卵」と区別し、人間「卵」の側にコミットするというのだ。それがどんな意味を持つのかといえば、ある意味で明白である。
What is the meaning of this metaphor? In some cases, it is all too simple and clear. Bombers and tanks and rockets and white phosphorus shells are that high, solid wall. The eggs are the unarmed civilians who are crushed and burned and shot by them. This is one meaning of the metaphor.
「壁」とはイスラエル国家が行使している軍事行動、すなわち爆撃機であり、戦車であり、ロケット砲であり、白リン弾を示唆する。これに対して、「卵」とは、そういった武力によって殺されていく非武装のパレスチナ市民のことである。
しかしながら、村上の言いたいことは、おそらくそういうことだけではなかった。いやむしろ、別のことに関心があったのかもしれないと思う。現に村上は、急いで次のように付け加えるの忘れない。
.
This is not all, though. It carries a deeper meaning
"a deeper meaning"とは何だろうか。
Each of us is, more or less, an egg. Each of us is a unique, irreplaceable soul enclosed in a fragile shell. This is true of me, and it is true of each of you. And each of us, to a greater or lesser degree, is confronting a high, solid wall.
抽象的で分かりにくく読めるかも知れない。しかし、私にはきわめて明快な事実を指摘しているにほかならないと思われる。
ここでは、「壁」をイスラエル国家とみなしておこう。だが、この時「卵」と言うのは、イスラエルによって攻撃されているパレスチナ市民だけではないのだ。なぜならば、イスラエル国家の内側にあるユダヤ教徒のイスラエル市民も、全く同じように「壁」に囲まれているからである。イスラエル人はパレスチナ人を壁に囲い込んだかのように考えているかもしれないが、実は彼らも、その「壁」によって囲まれてしまった「卵」なのである。
村上は、何度も何度もme, each of you, each of usといった表現を持ちながら、次のように続けた。
Each of us is, more or less, an egg. Each of us is a unique, irreplaceable soul enclosed in a fragile shell. This is true of me, and it is true of each of you. And each of us, to a greater or lesser degree, is confronting a high, solid wall.
私の理解するところでは、「卵」と言うのは決して非武装の市民だけではない。武器を持って非武装市民を虐殺していくイスラエルの兵士に対しても向けられている。だからここで何度も、「あなた達一人一人」が強調されているわけである。
そして村上は、若い頃に中国戦線に送られていった、亡き父親の話に転ずる。村上のお父さんは、毎朝、戦争で亡くなった敵と味方の双方に対して祈りを捧げていたのだそうだ。このお父さん話は、イスラエルという国家の中で生きるイスラエルの市民と兵士を念頭においているに違いない。イスラエルの「卵」が、イスラエルの「壁」に押しつぶされないことを祈ってものでもあろう。
The System in order to prevent it from tangling our souls in its web and demeaning them. I fully believe it is the novelist's job to keep trying to clarify the uniqueness of each individual soul by writing stories - stories of life and death, stories of love, stories that make people cry and quake with fear and shake with laughter. This is why we go on, day after day, concocting fictions with utter seriousness.
だが、村上春樹の「壁」の概念には、少々疑問に思うところがないわけではない。
To all appearances, we have no hope of winning. The wall is too high, too strong - and too cold. If we have any hope of victory at all, it will have to come from our believing in the utter uniqueness and irreplaceability of our own and others' souls and from the warmth we gain by joining souls together.
Take a moment to think about this. Each of us possesses a tangible, living soul. The System has no such thing. We must not allow The System to exploit us. We must not allow The System to take on a life of its own. The System did not make us: We made The System.
村上の「壁」あるいはシステムの説明は、彼の今までの小説の認識とよく通じ合っているように見える。だが、これほどまでに抽象的で、神秘的な「壁」は存在するのだろうか。たとえば問題を、パレスチナにおける虐殺問題のようなものに限定してしまえば、その軍事行動を指揮する何人かの政府要人を絞り込むことができる。彼らは決して、『ねじまき鳥』や『羊』のなかの、不思議な権力者のような存在ではない。むしろ、村上の前にはっきりと姿を現す普通の人間である。そして、彼らが実際に軍事行動を決定したのではないのか。言い換えれば、「壁」はそんなに神秘的でもないだろうし、それほど強固で高いわけではない。むしろ、現実に崩壊することを予期することさえもできるのではないのか。
村上の世界観と、村上の小説は、いたずらに権力とsystemを神秘化としているのではないか。村上春樹の世界観と、例えば司馬遼太郎の世界観とか絶対に交叉しないところであるが、この大いなるギャップがむしろ問題ではなかろうか。(司馬遼太郎に代表されるような、権力者を描く歴史小説が、歴史とシステムの人間化を目論んでいるのに対し、村上は歴史とシステムを「あまりにも高く、強く、冷たい」壁としてしまったのである。ある意味では、司馬的世界ーーあるいは司馬遼太郎の「世代」というのだろうかーーがサルトルと的な実存主義的歴史観、村上春樹はレビーストロース的な構造主義的な歴史観を反映していると言えなくもないではない。もっとも、あまりにも図式的な理解であることは否めないが)。
最後にもうひとつだけ疑問点を書いておきたい。それは村上スピーチの結びの言葉である。
I am grateful that my books are being read by people in many parts of the world. And I am glad to have had the opportunity to speak to you here today.
村上の小説は、確かに世界中にたくさんの読者を持っている。しかし、アラブやイスラムの読者はどれだけいるのだろうか。また、彼の発言は、イスラエルの人には届くかもしれないが、パレスチナの側には、全く届いていないのではないだろうか。すでにこういう村上に対する批判は多いと思うが、やはり一言述べておかずにはいかない。
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【英語全文】村上春樹さん「エルサレム賞」授賞式講演全文
以下の英文は村上春樹さんが講演を終えたあと共同通信エルサレム支局の長谷川健司特派員(支局長)がエルサレム賞主催者から入手したテキストが基になっています。しかし、実際の講演はこれに少し修正が加えられていました。当日、長谷川特派員が授賞式会場の取材で録音したレコーダーを聞きなおし、実際に村上さんが話した通りに再現したものです。
“Jerusalem Prize” Remarks
Good evening. I have come to Jerusalem today as a novelist, which is to say as a professional spinner of lies.
Of course, novelists are not the only ones who tell lies. Politicians do it, too, as we all know. Diplomats and generals tell their own kinds of lies on occasion, as do used car salesmen, butchers and builders. The lies of novelists differ from others, however, in that no one criticizes the novelist as immoral for telling lies. Indeed, the bigger and better his lies and the more ingeniously he creates them, the more he is likely to be praised by the public and the critics. Why should that be?
My answer would be this: namely, that by telling skilful lies--which is to say, by making up fictions that appear to be true--the novelist can bring a truth out to a new place and shine a new light on it. In most cases, it is virtually impossible to grasp a truth in its original form and depict it accurately. This is why we try to grab its tail by luring the truth from its hiding place, transferring it to a fictional location, and replacing it with a fictional form. In order to accomplish this, however, we first have to clarify where the truth-lies within us, within ourselves. This is an important qualification for making up good lies.
Today, however, I have no intention of lying. I will try to be as honest as I can. There are only a few days in the year when I do not engage in telling lies, and today happens to be one of them.
So let me tell you the truth. In Japan a fair number of people advised me not to come here to accept the Jerusalem Prize. Some even warned me they would instigate a boycott of my books if I came. The reason for this, of course, was the fierce fighting that was raging in Gaza. The U.N. reported that more than a thousand people had lost their lives in the blockaded city of Gaza, many of them unarmed citizens--children and old people.
Any number of times after receiving notice of the award, I asked myself whether traveling to Israel at a time like this and accepting a literary prize was the proper thing to do, whether this would create the impression that I supported one side in the conflict, that I endorsed the policies of a nation that chose to unleash its overwhelming military power. Neither, of course, do I wish to see my books subjected to a boycott.
Finally, however, after careful consideration, I made up my mind to come here. One reason for my decision was that all too many people advised me not to do it. Perhaps, like many other novelists, I tend to do the exact opposite of what I am told. If people are telling me-- and especially if they are warning me-- “Don’t go there,” “Don’t do that,” I tend to want to “go there” and “do that”. It’s in my nature, you might say, as a novelist. Novelists are a special breed. They cannot genuinely trust anything they have not seen with their own eyes or touched with their own hands.
And that is why I am here. I chose to come here rather than stay away. I chose to see for myself rather than not to see. I chose to speak to you rather than to say nothing.
Please do allow me to deliver a message, one very personal message. It is something that I always keep in mind while I am writing fiction. I have never gone so far as to write it on a piece of paper and paste it to the wall: rather, it is carved into the wall of my mind, and it goes something like this:
“Between a high, solid wall and an egg that breaks against it, I will always stand on the side of the egg.”
Yes, no matter how right the wall may be and how wrong the egg, I will stand with the egg. Someone else will have to decide what is right and what is wrong; perhaps time or history will do it. But if there were a novelist who, for whatever reason, wrote works standing with the wall, of what value would such works be?
What is the meaning of this metaphor? In some cases, it is all too simple and clear. Bombers and tanks and rockets and white phosphorus shells are that high wall. The eggs are the unarmed civilians who are crushed and burned and shot by them. This is one meaning of the metaphor.
But this is not all. It carries a deeper meaning. Think of it this way. Each of us is, more or less, an egg. Each of us is a unique, irreplaceable soul enclosed in a fragile shell. This is true of me, and it is true of each of you. And each of us, to a greater or lesser degree, is confronting a high, solid wall. The wall has a name: it is “The System.” The System is supposed to protect us, but sometimes it takes on a life of its own, and then it begins to kill us and cause us to kill others--coldly, efficiently, systematically.
I have only one reason to write novels, and that is to bring the dignity of the individual soul to the surface and shine a light upon it. The purpose of a story is to sound an alarm, to keep a light trained on the System in order to prevent it from tangling our souls in its web and demeaning them. I truly believe it is the novelist’s job to keep trying to clarify the uniqueness of each individual soul by writing stories--stories of life and death, stories of love, stories that make people cry and quake with fear and shake with laughter. This is why we go on, day after day, concocting fictions with utter seriousness.
My father passed away last year at the age of ninety. He was a retired teacher and a part-time Buddhist priest. When he was in graduate school in Kyoto, he was drafted into the army and sent to fight in China. As a child born after the war, I used to see him every morning before breakfast offering up long, deeply-felt prayers at the small Buddhist altar in our house. One time I asked him why he did this, and he told me he was praying for the people who had died in the battlefield. He was praying for all the people who died, he said, both ally and enemy alike. Staring at his back as he knelt at the altar, I seemed to feel the shadow of death hovering around him.
My father died, and with him he took his memories, memories that I can never know. But the presence of death that lurked about him remains in my own memory. It is one of the few things I carry on from him, and one of the most important.
I have only one thing I hope to convey to you today. We are all human beings, individuals transcending nationality and race and religion, and we are all fragile eggs faced with a solid wall called The System. To all appearances, we have no hope of winning. The wall is too high, too strong--and too cold. If we have any hope of victory at all, it will have to come from our believing in the utter uniqueness and irreplaceability of our own and others’ souls and from our believing in the warmth we gain by joining souls together.
Take a moment to think about this. Each of us possesses a tangible, living soul. The System has no such thing. We must not allow the System to exploit us. We must not allow the System to take on a life of its own. The System did not make us: we made the System.
That is all I have to say to you.
I am grateful to have been awarded the Jerusalem Prize. I am grateful that my books are being read by people in many parts of the world. And I would like to express my gratitude to the readers in Israel. You are the biggest reason why I am here. And I hope we are sharing something, something very meaningful. And I am glad to have had the opportunity to speak to you here today. Thank you very much.
2009年2月10日火曜日
2008年10月2日木曜日
在日文学はやはりポストコロニアル文学ではなかった
リービ英雄の『越境の声』は大変刺激的で、様々なことに思いを馳せさせる本である。
例えば次のような箇所がある。リービが李良枝に一度だけ電話したことがあるのだそうだ。
なるほど!と思った。
以前、鄭大均の 『在日の耐えられない軽さ』というのを読んだことがある。鄭は保守的論客と見なされることが多いと思う。だが彼の議論が「保守的」に見えるのは、じつはアメリカンな発想を日韓の文脈に取り入れたからではないか。私はそんなふうになんとなく理解した。ただ、それをどう評価したらよいのか判らなかった。ところが、李良枝はアメリカンな発想をはっきりと否定し、どちらかといえば歴史的古層を重く捉えるのだ。鄭大均に対して政治主義的な批判をするより、こういう李良枝の言葉のほうが面白い。文化的文学的に深い見解だろう。
考えてみれば、ポストコロニアルといった言葉は実は地理的に限定された言葉だ。つまり、一般には新大陸のスペイン語文化圏の文学をポストコロニアル文学といわないし、USAやUSAの旧植民地の書き物もポストコロニアル文学とは呼ばない。要するに旧イギリス領と旧フランス領の書き物だけがポストコロニアルなのである。(USAの場合はたぶん「移民文学」である。では新大陸のスペイン語文学はなんだろう?クレオール文学だろうか)。
旧英米植民地文学はポストコロニアル文学、USA関係は移民文学と呼ぶとするならば、在日韓国人文学はポストコロニアル文学と呼ばない方がよいかもしれない。また、あとで自説を詳しく述べるつもりだが、私は韓国は日本の植民地ではなかったという見解であることも付け加えておこう。
ま、こんな具合にいろいろと考えてしまうのだ、この本。そういうわけでリーベ英雄の対談集は、絶対に「買い」である。
越境の声 リービ 英雄 岩波書店 2007-12 売り上げランキング : 136952 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
例えば次のような箇所がある。リービが李良枝に一度だけ電話したことがあるのだそうだ。
そのときに、なぜ自分のことを「韓国系日本人」と呼ばないのか、と聞いたのんです。彼女は「リービさん、あれはアメリカ的な発想なんですよ」と言った。つまり近代的な意味の段階、次元だけで自分の人生をとらえたくないということ言ったんです。じゃあ何なのかという答えは出ない。答えは出ないけれど、今いる文化と、もともと故国であった文化の間に永久にいるということが、自分の人生である。何々系何人とか国籍の問題ではなくて、言葉と言葉の間に生きるということは彼女の結論だったような気がします。(23-24ページ)
なるほど!と思った。
以前、鄭大均の 『在日の耐えられない軽さ』というのを読んだことがある。鄭は保守的論客と見なされることが多いと思う。だが彼の議論が「保守的」に見えるのは、じつはアメリカンな発想を日韓の文脈に取り入れたからではないか。私はそんなふうになんとなく理解した。ただ、それをどう評価したらよいのか判らなかった。ところが、李良枝はアメリカンな発想をはっきりと否定し、どちらかといえば歴史的古層を重く捉えるのだ。鄭大均に対して政治主義的な批判をするより、こういう李良枝の言葉のほうが面白い。文化的文学的に深い見解だろう。
考えてみれば、ポストコロニアルといった言葉は実は地理的に限定された言葉だ。つまり、一般には新大陸のスペイン語文化圏の文学をポストコロニアル文学といわないし、USAやUSAの旧植民地の書き物もポストコロニアル文学とは呼ばない。要するに旧イギリス領と旧フランス領の書き物だけがポストコロニアルなのである。(USAの場合はたぶん「移民文学」である。では新大陸のスペイン語文学はなんだろう?クレオール文学だろうか)。
旧英米植民地文学はポストコロニアル文学、USA関係は移民文学と呼ぶとするならば、在日韓国人文学はポストコロニアル文学と呼ばない方がよいかもしれない。また、あとで自説を詳しく述べるつもりだが、私は韓国は日本の植民地ではなかったという見解であることも付け加えておこう。
ま、こんな具合にいろいろと考えてしまうのだ、この本。そういうわけでリーベ英雄の対談集は、絶対に「買い」である。
2008年9月3日水曜日
水村美苗、村上春樹からみるアメリカ文化
MIXIで水村美苗の文章を議論していて思ったのは、水村(1951-)の世代にとって、日本語文学が米語の力によって本質的な変容を迫られていたのではないのかということである。水村と対比されるべき作家として、やはり村上春樹(1949-)があげられるべきなのだろう。いずれも、英語文学などの強い影響を受けつつも、米語作家になるのではなく日本語作家となった。おそらく、水村の方が村上よりも、はるかに「近代日本文学的」であり、かつ「近代英仏文学的」であるのに違いない。より大きな葛藤があっただろう。しかし、米国でマイノリティ英語作家になる可能性も、より大きかったであろう。そんなふうに想像する。
これに対して村上はもっと自然にアメリカ文学的だ(と思う)。三浦雅史の表現を使えば、「村上春樹がアメリカ文学にじかに接着してしまった」(『村上春樹と柴田元幸のもうひとつのアメリカ』)のである。
水村が「日本語が亡びるとき」を書いたときの感慨を味わい評価するには、村上を含めた他の作家との対比のうえで、日本語と日本文学の運命を考えてみる必要があるに思う。
私は、実のところ、嫌な予感がしないではない。ポストコロニアル文学のことを考えてみよう。これは、旧英領出身者または旧仏領出身者の文学のことだ。つまり、決して旧アメリカ領出身者の文学を意味していないのだ。アメリカの世界支配は文学と文化を死滅に追いやるのではないのか。たとえば、スペイン植民地のフィリピンからはホセ・リサールという偉大な文人が生み出された。が、アメリカ植民地以降は重要な文学者は一人もいないのだ。水村がアメリカ文学ではなく、近代イギリスとフランスの文学に焦点を定めていることも偶然ではないような気がする。
米語という普遍語が物語を窒息させてしまうのではないのか。そういう恐れを、水村と共有してみるのも悪くないのではないか。
これに対して村上はもっと自然にアメリカ文学的だ(と思う)。三浦雅史の表現を使えば、「村上春樹がアメリカ文学にじかに接着してしまった」(『村上春樹と柴田元幸のもうひとつのアメリカ』)のである。
水村が「日本語が亡びるとき」を書いたときの感慨を味わい評価するには、村上を含めた他の作家との対比のうえで、日本語と日本文学の運命を考えてみる必要があるに思う。
私は、実のところ、嫌な予感がしないではない。ポストコロニアル文学のことを考えてみよう。これは、旧英領出身者または旧仏領出身者の文学のことだ。つまり、決して旧アメリカ領出身者の文学を意味していないのだ。アメリカの世界支配は文学と文化を死滅に追いやるのではないのか。たとえば、スペイン植民地のフィリピンからはホセ・リサールという偉大な文人が生み出された。が、アメリカ植民地以降は重要な文学者は一人もいないのだ。水村がアメリカ文学ではなく、近代イギリスとフランスの文学に焦点を定めていることも偶然ではないような気がする。
米語という普遍語が物語を窒息させてしまうのではないのか。そういう恐れを、水村と共有してみるのも悪くないのではないか。
2008年9月2日火曜日
水村美苗「日本語」とクンデラの小国・大国論
水村美苗の「日本語が亡びるとき」は、インターネット検索してみるとかなり評判がよかった。確かに読みやすいし、退屈しない文章なのだから、さすが一流小説家だと思う。しかし、どうして皆そんな簡単に称賛できてしまうのだろうか。あるいは、「新鮮」(読売新聞)だと評価してしまうのだろうか。このあたりは、少々不思議に思う。
いくつかの理由を考えてみた。
①小国の運命についてあまり考えたことがない人が多かった。――ヨーロッパの小国では、自分の国の言葉が滅びてしまう危険性について、いつも身近な問題だったはずである。人口が少ない国、あるいは人口多くても強国に支配されてしまっていた国では、いつも隣り合わせだったであろう。ましてや近代的文学の言語として生き残るかどうかは、まさに生々しい問題だったに違いない。
例えば、辺境に蹂躙され、独立も維持できなくなったポーランドの言語と文学。人口が少なくロシアに従属してきた歴史を持つフィンランド。ヨーロッパ文学の最先端を切る文学作品を残したにもかかわらず、人口は少なくヨーロッパ中心域から遠く離れていたアイスランド。かつては大国だったものの人口も少なく、言語的劣等感もあったオランダ。20世紀において外国に占領されてしまった朝鮮。
②ミラン・クンデラの小説論を読んだことがなかった人が感動してしまった。――チェコ出身の偉大な作家クンデラのエッセイ『カーテン』のなかの「世界文学」を読んでみれば、水村よりももっと興味深いさまざまな指摘を見いだすはずである。例えば、水村はあたかもできるだけ多くの人々が<真理>に向けて、研鑽すればよいと信じている。だが、クンデラを読めばそれが間違っているかもしれない分かるだろう。「ヨーロッパ初の偉大な散文の手法が、その最も小さな国、現在でも30万人の住民しかいない国[=アイスランド]で作られたのだということを」(42ページ)。この文章を読むだけでも、水村の文学思想は、近代ヨーロッパの大国主義に縛られていることがわかるであろう。しかも、クンデラは次のように言う。「ジッドはロシア語を知らず、GBショーはノルウェー語知らず、サルトルはドス・パソスを原文で読んだわけではない」(47ページ)。要するに、少人数の人しか読み書きできないような言語でもって、偉大な文学が書かれたというのである。たしかにギリシャとアイスランドというヨーロッパの二つの偉大な小人口文明の歴史的意義を我々は想起せざるを得ないのだ。
クンデラの議論で最も興味深いのは、「小国の地方主義」と「大国の地方主義」という議論であった。(クンデラもちろん、文学を<真理>のためのものだと思ってない。芸術や、文化というものについて、この言葉はふさわしくないと考えているのであろう)。そのうえで、地方主義にとりつかれた小国の文学について、次の様に述べている。「小国民は自国の作家に、作家は自分たちにしか所属しないという信念を教え込んでしまっているのだ。まなざしを祖国の国境の彼方に定め、芸術という超国民的な領域で同輩たちの仲間に加わることは、思い上がって自国の同輩たちを馬鹿にするものとみなされる」「小国民にとって文学は【文学史にかかわる事柄】よりもむしろ【民族にかかわる事柄】なのである。
より興味深い指摘は、大国の地方主義においてみられる。ここでやり玉に上がっているのは、フランスである。クンデラによれば、フランスの知的エスタブリッシュメントに対してアンケートをし、フランス全史の中で最も傑出した10冊の本をあげることになったそうである。ところが驚くべきことに、文学史の観点からは一度も重要だと見なされたことがない通俗大衆小説(ユゴーの『レ・ミゼラブル』である)が1位に挙げられている。11位にドゴールの『回顧録』であり、クンデラが最も重要であると考えるフランス文学者のラブレーは14位でしかない。そして、『赤と黒』や『ボヴァリー夫人』がようやく20位代に来る。この部分はクンデラのエッセイの中で最もショッキングで落胆すべき箇所となっているわけだが、要するに、フランスにおいては、「美的全体[=世界史的な美の歴史への評価]への無関心が文化全体を不可避的に地方主義の中におし返すのだ」(54ページ)ということが確認される。言い換えれば、フランスの国民文学の偉大さは、フランス人が評価しているのではなく、世界の読者・作家が評価しているというわけである。フランス語によるフランス文学の偉大さは、翻訳でしか読んだことがないような世界の読者が理解できるというパラドックス! 水村美苗に読ませたいではないか。
③水村の文章のタイミングがよかった――それでは、どんなタイミングなんだろうか。ついに日本文化・文学が危機的状況を迎えたということなのだろうか。私には、よく分からない。
④ 評論というよりは一種の私小説であると受容され評価された。ーー水村の文章について、純粋な評論というよりは、評論的な要素を持つ私小説なのだという受け止め方があるはずです。そして美苗さんの私的経験に興味を持つ人も多いでしょう。これは私が捨象してしまった見方です。しかし、かなり的を射た見方でしょう。残念ながら、そのあたりについて、詳しく感動を論じている人はあまりいないかったような気がします。
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アイスランド文学についての言及として、下記の本は面白かった。
いくつかの理由を考えてみた。
①小国の運命についてあまり考えたことがない人が多かった。――ヨーロッパの小国では、自分の国の言葉が滅びてしまう危険性について、いつも身近な問題だったはずである。人口が少ない国、あるいは人口多くても強国に支配されてしまっていた国では、いつも隣り合わせだったであろう。ましてや近代的文学の言語として生き残るかどうかは、まさに生々しい問題だったに違いない。
例えば、辺境に蹂躙され、独立も維持できなくなったポーランドの言語と文学。人口が少なくロシアに従属してきた歴史を持つフィンランド。ヨーロッパ文学の最先端を切る文学作品を残したにもかかわらず、人口は少なくヨーロッパ中心域から遠く離れていたアイスランド。かつては大国だったものの人口も少なく、言語的劣等感もあったオランダ。20世紀において外国に占領されてしまった朝鮮。
②ミラン・クンデラの小説論を読んだことがなかった人が感動してしまった。――チェコ出身の偉大な作家クンデラのエッセイ『カーテン』のなかの「世界文学」を読んでみれば、水村よりももっと興味深いさまざまな指摘を見いだすはずである。例えば、水村はあたかもできるだけ多くの人々が<真理>に向けて、研鑽すればよいと信じている。だが、クンデラを読めばそれが間違っているかもしれない分かるだろう。「ヨーロッパ初の偉大な散文の手法が、その最も小さな国、現在でも30万人の住民しかいない国[=アイスランド]で作られたのだということを」(42ページ)。この文章を読むだけでも、水村の文学思想は、近代ヨーロッパの大国主義に縛られていることがわかるであろう。しかも、クンデラは次のように言う。「ジッドはロシア語を知らず、GBショーはノルウェー語知らず、サルトルはドス・パソスを原文で読んだわけではない」(47ページ)。要するに、少人数の人しか読み書きできないような言語でもって、偉大な文学が書かれたというのである。たしかにギリシャとアイスランドというヨーロッパの二つの偉大な小人口文明の歴史的意義を我々は想起せざるを得ないのだ。
クンデラの議論で最も興味深いのは、「小国の地方主義」と「大国の地方主義」という議論であった。(クンデラもちろん、文学を<真理>のためのものだと思ってない。芸術や、文化というものについて、この言葉はふさわしくないと考えているのであろう)。そのうえで、地方主義にとりつかれた小国の文学について、次の様に述べている。「小国民は自国の作家に、作家は自分たちにしか所属しないという信念を教え込んでしまっているのだ。まなざしを祖国の国境の彼方に定め、芸術という超国民的な領域で同輩たちの仲間に加わることは、思い上がって自国の同輩たちを馬鹿にするものとみなされる」「小国民にとって文学は【文学史にかかわる事柄】よりもむしろ【民族にかかわる事柄】なのである。
より興味深い指摘は、大国の地方主義においてみられる。ここでやり玉に上がっているのは、フランスである。クンデラによれば、フランスの知的エスタブリッシュメントに対してアンケートをし、フランス全史の中で最も傑出した10冊の本をあげることになったそうである。ところが驚くべきことに、文学史の観点からは一度も重要だと見なされたことがない通俗大衆小説(ユゴーの『レ・ミゼラブル』である)が1位に挙げられている。11位にドゴールの『回顧録』であり、クンデラが最も重要であると考えるフランス文学者のラブレーは14位でしかない。そして、『赤と黒』や『ボヴァリー夫人』がようやく20位代に来る。この部分はクンデラのエッセイの中で最もショッキングで落胆すべき箇所となっているわけだが、要するに、フランスにおいては、「美的全体[=世界史的な美の歴史への評価]への無関心が文化全体を不可避的に地方主義の中におし返すのだ」(54ページ)ということが確認される。言い換えれば、フランスの国民文学の偉大さは、フランス人が評価しているのではなく、世界の読者・作家が評価しているというわけである。フランス語によるフランス文学の偉大さは、翻訳でしか読んだことがないような世界の読者が理解できるというパラドックス! 水村美苗に読ませたいではないか。
カーテン―7部構成の小説論 Milan Kundera 西永 良成 集英社 2005-10 売り上げランキング : 245735 おすすめ平均 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
③水村の文章のタイミングがよかった――それでは、どんなタイミングなんだろうか。ついに日本文化・文学が危機的状況を迎えたということなのだろうか。私には、よく分からない。
④ 評論というよりは一種の私小説であると受容され評価された。ーー水村の文章について、純粋な評論というよりは、評論的な要素を持つ私小説なのだという受け止め方があるはずです。そして美苗さんの私的経験に興味を持つ人も多いでしょう。これは私が捨象してしまった見方です。しかし、かなり的を射た見方でしょう。残念ながら、そのあたりについて、詳しく感動を論じている人はあまりいないかったような気がします。
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アイスランド文学についての言及として、下記の本は面白かった。
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2008年8月28日木曜日
火星の人類学者(動物学者)の本 『動物感覚』
テンプル グランディン というのは、非常に重要な火星の人類学者あるいは火星人動物学者みたいですね。これも、笙野ファン必読でしょう。というか、俺だけ知らなかったのかもしれないな。 動物が大好きで、笙野頼子が好きな人、たとえばキムカナさんとかは、たぶん読破しているに違いない。まったく、うかつだった! こういう世界があるとは。さっそく、BetterWorld.comでペーパーバックを購入することにした。
なお、「三匹の猫」の竹下節子さんも必読かもしれない。まったくスゴイ世界があったものだ。
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『動物感覚―アニマル・マインドを読み解く』
著者のテンプル・グランディンについては、随分前にオリバー・サックスの「火星の人類学者」を読んで知った。自閉症でありながら動物科学者であり動物に深 い愛着を持っている。彼女が考案した食肉処理施設は、家畜に不安や苦痛を与えないように設計されており、世界中で使われている。彼女は人に抱きしめられる とパニックを起こしてしまうので、家畜を押さえる締め付け機を改良して使い、自分が気持ち良いだけの圧力をかけてリラックスする。こんな話が印象に残って いて、いつかこの人の自伝を読もう、とずっと思っていたら、この「動物感覚」が出た。
「動物感覚」を読んで、テンプル・グランディンの活躍が想像よりもはるかに凄いことが分かった。家畜が人道的に扱われているかチェックするため に世界中を走り回っている。監査方法も理路整然と無駄がなく効果的で惚れ惚れしてしまう。もちろん動物科学や自閉症の研究もしている。動物が世界をどう感 じているか、人間とどう違うのか、人間が動物にどう関わっているのか、実験、観察の結果を述べる研究者でありながら、まるで動物の代弁をしているようでも ある。自閉症患者と動物は似ているところがあるそうだ。やや専門的なところもあるが、たいていは理解できる。へぇ、そうなんだとビックリすることや哺乳類 の一員として妙に納得してしまうところもある。動物に関する蘊蓄が増えた。「哺乳動物と鳥はみな、自分たちを取りまく状況に好奇心と関心をもっていて、い いことが起こるのをほんとうに楽しみにしている。」という一文がとても気に入った。
作者は自閉症の動物学者。幼少の頃より動物好きだった彼女は、長じて、自閉症の人間と動物の認識世界に共通点があることに気付く。自らを「人間と動物の間に立つ者」と位置づけ、読者を動物たちの意識世界に案内する。いやー、面白かった。
面白いのは、彼女にとっては、健常者の思考回路こそが「ミステリー」だったということだ。アカデミズムの世界と役所関連の仕事を通して、彼女はむしろ健常者の「現実を捨象する思考回路」に驚愕をする。特に頭の良い、観念思考に長けた人間ほど現実を見ないという。よってラディカルになり易いと。自閉症の思考回路は「具体的な事象を全て捨象せずに取り込む」のだそうだ。過激な動物愛護団体へ苛立ちを表明し、食肉処理場への行政指導で発揮される「頭の良い人間の無能ぶり」を指摘する。きっと仕事上で「観念派」の人間に随分イライラさせられてきたんだろうなぁ(笑)。ともあれ、動物と健常者の間で、両者と もを「不思議」と眺め続けた著者の視点が大変に新鮮だ。
近年の動物学の研究成果も多く紹介されており、人間と狼の関係史や、人間の言語獲得過程への考察、感情と価値判断の関係etc、一般読者にはいずれも目から鱗の話が沢山だ。
例えば、イルカは大量虐殺から快楽殺人から性犯罪までなさる動物だそうだ。どこが「平和の使者」だって。
動物に興味のある方、のみならず、動物を通して見える人間の姿に興味のある方、凝った文章は全く書かない著者さんで、大変に読み易い一冊です。 (強調はshaktiによる)
なお、「三匹の猫」の竹下節子さんも必読かもしれない。まったくスゴイ世界があったものだ。
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『動物感覚―アニマル・マインドを読み解く』
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By | kingyo.K.K - レビューをすべて見る |
「動物感覚」を読んで、テンプル・グランディンの活躍が想像よりもはるかに凄いことが分かった。家畜が人道的に扱われているかチェックするため に世界中を走り回っている。監査方法も理路整然と無駄がなく効果的で惚れ惚れしてしまう。もちろん動物科学や自閉症の研究もしている。動物が世界をどう感 じているか、人間とどう違うのか、人間が動物にどう関わっているのか、実験、観察の結果を述べる研究者でありながら、まるで動物の代弁をしているようでも ある。自閉症患者と動物は似ているところがあるそうだ。やや専門的なところもあるが、たいていは理解できる。へぇ、そうなんだとビックリすることや哺乳類 の一員として妙に納得してしまうところもある。動物に関する蘊蓄が増えた。「哺乳動物と鳥はみな、自分たちを取りまく状況に好奇心と関心をもっていて、い いことが起こるのをほんとうに楽しみにしている。」という一文がとても気に入った。
人間と動物の狭間で, 2006/11/21
By | tomomori - レビューをすべて見る |
面白いのは、彼女にとっては、健常者の思考回路こそが「ミステリー」だったということだ。アカデミズムの世界と役所関連の仕事を通して、彼女はむしろ健常者の「現実を捨象する思考回路」に驚愕をする。特に頭の良い、観念思考に長けた人間ほど現実を見ないという。よってラディカルになり易いと。自閉症の思考回路は「具体的な事象を全て捨象せずに取り込む」のだそうだ。過激な動物愛護団体へ苛立ちを表明し、食肉処理場への行政指導で発揮される「頭の良い人間の無能ぶり」を指摘する。きっと仕事上で「観念派」の人間に随分イライラさせられてきたんだろうなぁ(笑)。ともあれ、動物と健常者の間で、両者と もを「不思議」と眺め続けた著者の視点が大変に新鮮だ。
近年の動物学の研究成果も多く紹介されており、人間と狼の関係史や、人間の言語獲得過程への考察、感情と価値判断の関係etc、一般読者にはいずれも目から鱗の話が沢山だ。
例えば、イルカは大量虐殺から快楽殺人から性犯罪までなさる動物だそうだ。どこが「平和の使者」だって。
動物に興味のある方、のみならず、動物を通して見える人間の姿に興味のある方、凝った文章は全く書かない著者さんで、大変に読み易い一冊です。 (強調はshaktiによる)
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2008年8月27日水曜日
帝国主義と植民地(その1)
帝国主義と植民地
ここでおそらく暫定的な試みとなるであろうが、帝国主義という言葉と、植民地という言葉について、わかりやすい区別をしていきたい。これはきわめて重要な提案となるはずだ。
私は、次のことを提案をするつもりである。
帝国主義と植民地主義にはしばしば区別されることなく使われることが多い。それでも次のサイードの定義はよく引用されている。
しかしながら、このサイードの簡単な区別では、ほとんどの人はその意味がよく分からないはずだ。 たとえば野村浩也の場合、「個別具体的な土地の住民に対して帝国主義が実践される場合のことを特に植民地主義という」(『植民者へ―ポストコロニアリズムという挑発』30ページ)と解釈している。つまり、帝国主義が「悪」で、植民地主義は「悪」を遂行するエージェントであるというわけだ。こういう解釈はもっともらしくもみえる。だが、これでは、「遠隔の地に居住区を定着させる」という契機を無視してしまうことになるだろう。また、植民地主義が終わったが、帝国主義は今なお存続しているというサイードの文章の意味を理解できなくなってしまうだろう。
それ以上に問題なのは、朝鮮系・沖縄系のいわゆる「ポスコロ」にありがちなのだが、帝国主義と植民地に関わる帝国側・植民地宗主国側が、すべて「悪一色」に染まってしまうことである。これではポストコロニアル文学・文化研究は非常に窮屈なものになってしまう。ここでは詳しい論評を避けるが、サイード、スピヴァック、バーバといった文学研究者あるいはクッツェー、ラシュディ、ナイポールといったポストコロニアル文学者たちの業績を否定してしまうことにもなるのだ。なにしろ、たとえばサイードの場合、帝国主義に荷担したり、レイシストでもある英語作家を敬愛しているときているのだ。あるいはサイードは南アフリカのアフリカーナ系白人作家なのだ。
ここで誤解なきように述べておくが、帝国主義を甘く評価するとか、部分的にでも承認したいというのではない。究極的には、サイード的に言えば対位法的に絡み合わせて理解するにせよ、帝国主義や植民地主義といったものから相対的に自律した社会的文化的空間を設定すべきだと主張しているのである。文学愛好家ならば、レイシストや帝国主義者が常に異人種を非人間的に描くとはかぎらないし、その反対に博愛主義者や平和主義者が異人種を人間として誠実に描くとは限らないことはご存知であろう。
さて、「帝国(主義)」と「植民地(主義)」の二つの言葉の性質の違いをよく考えてみてもらいたい。「植民地主義」(colonialism)という言葉が指示しているのは、「植民地」(colony)ないし「植民者」(colonistあるはフランス語でcolon)という言葉だ。ところが、「帝国主義」(imperialism)と「帝国」(Empire)との間には若干の距離がある。ましてや、「帝国者」という言葉は普通には存在しないのである。それはどういうことなのか。
次のように考えたらどうだろうか。帝国主義は宗主国中枢からの権力発動という抽象的なシステムに貫徹する力の諸傾向を示唆している。他方、植民地主義の植民という言葉は、いつも具体的な人間と、彼らの行為・実践を指し示しているのである。つまり、宗主国等の様々な人間が遠隔地に移住すること、そこで開発開拓・軍事行政・教育布教活動などの様々な産業に従事することである。もちろん植民地とは、宗主国が移民を送り出す遠隔の土地であり、植民者とはそこにおくりだされる農業開拓民、聖職者、教師、軍人、官吏、技術者、文化人たちのことである。つまり、植民地主義はそういった人間たちを膨張的に送り出す理念のことなのである。(つづく)
ここでおそらく暫定的な試みとなるであろうが、帝国主義という言葉と、植民地という言葉について、わかりやすい区別をしていきたい。これはきわめて重要な提案となるはずだ。
私は、次のことを提案をするつもりである。
- 帝国主義と植民地主義ないし植民地の区別をすること
- 植民地化とは文化と精神の支配であるとすること。
- 被植民地化した社会と、帝国主義に従属したにもかかわらず被植民地化されなかった社会との区別をすることである。
帝国主義と植民地主義にはしばしば区別されることなく使われることが多い。それでも次のサイードの定義はよく引用されている。
「帝国主義」という言葉は、遠隔の領土を支配するところの宗主国中枢における実践と理論、またそれがかかえる様々な姿勢を意味している。いっぽう「植民地主義」というのは、ほとんどいつも帝国主義の帰結であり、遠隔の地に居住区を定着させることである。(中略)私たちの時代において、あからさまな植民地主義はおおむね終わりを告げている。いっぽう帝国主義は、これからみているように、それがこれまであったところに、特定の政治的・イデオロギー的・経済的・社会的慣習実践のみならず文化一般にかかわる領域に、消えずにとどまっている。」(『文化と帝国主義1』40-41ページ)。
しかしながら、このサイードの簡単な区別では、ほとんどの人はその意味がよく分からないはずだ。 たとえば野村浩也の場合、「個別具体的な土地の住民に対して帝国主義が実践される場合のことを特に植民地主義という」(『植民者へ―ポストコロニアリズムという挑発』30ページ)と解釈している。つまり、帝国主義が「悪」で、植民地主義は「悪」を遂行するエージェントであるというわけだ。こういう解釈はもっともらしくもみえる。だが、これでは、「遠隔の地に居住区を定着させる」という契機を無視してしまうことになるだろう。また、植民地主義が終わったが、帝国主義は今なお存続しているというサイードの文章の意味を理解できなくなってしまうだろう。
それ以上に問題なのは、朝鮮系・沖縄系のいわゆる「ポスコロ」にありがちなのだが、帝国主義と植民地に関わる帝国側・植民地宗主国側が、すべて「悪一色」に染まってしまうことである。これではポストコロニアル文学・文化研究は非常に窮屈なものになってしまう。ここでは詳しい論評を避けるが、サイード、スピヴァック、バーバといった文学研究者あるいはクッツェー、ラシュディ、ナイポールといったポストコロニアル文学者たちの業績を否定してしまうことにもなるのだ。なにしろ、たとえばサイードの場合、帝国主義に荷担したり、レイシストでもある英語作家を敬愛しているときているのだ。あるいはサイードは南アフリカのアフリカーナ系白人作家なのだ。
ここで誤解なきように述べておくが、帝国主義を甘く評価するとか、部分的にでも承認したいというのではない。究極的には、サイード的に言えば対位法的に絡み合わせて理解するにせよ、帝国主義や植民地主義といったものから相対的に自律した社会的文化的空間を設定すべきだと主張しているのである。文学愛好家ならば、レイシストや帝国主義者が常に異人種を非人間的に描くとはかぎらないし、その反対に博愛主義者や平和主義者が異人種を人間として誠実に描くとは限らないことはご存知であろう。
さて、「帝国(主義)」と「植民地(主義)」の二つの言葉の性質の違いをよく考えてみてもらいたい。「植民地主義」(colonialism)という言葉が指示しているのは、「植民地」(colony)ないし「植民者」(colonistあるはフランス語でcolon)という言葉だ。ところが、「帝国主義」(imperialism)と「帝国」(Empire)との間には若干の距離がある。ましてや、「帝国者」という言葉は普通には存在しないのである。それはどういうことなのか。
次のように考えたらどうだろうか。帝国主義は宗主国中枢からの権力発動という抽象的なシステムに貫徹する力の諸傾向を示唆している。他方、植民地主義の植民という言葉は、いつも具体的な人間と、彼らの行為・実践を指し示しているのである。つまり、宗主国等の様々な人間が遠隔地に移住すること、そこで開発開拓・軍事行政・教育布教活動などの様々な産業に従事することである。もちろん植民地とは、宗主国が移民を送り出す遠隔の土地であり、植民者とはそこにおくりだされる農業開拓民、聖職者、教師、軍人、官吏、技術者、文化人たちのことである。つまり、植民地主義はそういった人間たちを膨張的に送り出す理念のことなのである。(つづく)
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水村美苗「日本語が亡びるとき」をめぐって
やはり水村美苗の「日本語が亡びるときーー英語の世紀の中で」『新潮』(2008年9月号)について書いておかなければならないと思う。mixi 上で紹介したら、私の知人・友人の多くが水村美苗の議論について、大いに関心を持ってくれたからだ。
さて、「日本語は亡びるとき」は日誌または小説の形態をとってはいるが、笙野やクッツェーの作品のような特別な「からくり」があるわけではなさそうだ。ここでは単なる評論とみなし、物語的展開についての言及は捨象しておこう。
さて、内容はといえば、ある意味では凡庸である。タイトルが示す内容そのままであり、必ずしも刺激的な評論とは言い難い。しかし、もちろんのことだが、この小説家独自の問題意識も散りばめられている。とくに興味深いのは、アメリカで教育を受けてきたにもかかわらず、「なぜ日本語の作家となったのか」というテーマ、あるいは、「なぜ私は英語の作家にならなかったのか」というテーマを水村美苗が抱いているからである(同書、171頁)。 英語と日本語の両方の世界に足を踏み入れた女性が、世界的に見ればマイナーな日本語という言語をあえて選び取ったのは何故か。こういうテーマを抱えている日本人作家が、日本語が亡びるときを論じるのだから、やはり読んでみないわけにはいかないだろう。何しろ水村美苗と言ったら、日本語と英語による本格的なバイリンガル小説『私小説 from left to right』の作者なのだ。
かつて村上春樹について、次のようなことを書いてみた事がある。村上春樹といえば、アメリカ文学を愛好し、グローバル化した社会に奉仕する、ネオリベ的で非国民的なケシカラン作家であるとしばしば批判されている。私はこの見解に半ば同意しつつも、村上春樹が彼なりの枠組みで日本語と日本語文学の枠組みにとどまっている事を論じたのだ。このグローバリゼーションの時代において、村上という作家はボーダーライン上にあるのだ。もしその気になれば、優秀なエディターを雇い、アメリカ語の売れっ子作家になることも可能だったではないか。それなのに日本人・日本語作家であることやめてないのだ。しかも、海外向けて作品を発表するばかりでなく、英語文学を日本語に翻訳するという地道な作業に取り組んでいる。彼なりにグローバリゼーションに対して抵抗をしているのだ、と。
しかし、村上春樹の後の世代が日本語文学にとどまるのか、たしかに心許ない。もし日本人の最大のベストセラー作家が英語で執筆する時代になってしまったならば、日本語と日本語文学は壊滅的なダメージを受けている時代の到来ではないか。
バイリンガル或いはフランス語を含めて三カ国語が堪能な作家・水村美苗は、どのようにして議論を展開しているのか。予想通りというべきか、水村美苗もベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』に言及している。しかも極めて批判的である。アンダーソンは、ヨーロッパ的な多言語主義の視点に立っているが、自分が英語を母語とする人間だから、英語が他の国語とは違う<普遍語>であることについて、十分検討していないというのである。<普遍語>に関しての思考の欠落があるのだ、というのだ。
水村美苗のアンダーソン批判は不当なものである。というよりは、アンダーソンとは異なる価値観の持ち主だと思うが、差し当たりその事について取り上げず、水村の論旨を追っていこう。水村の提案は、アンダーソンが探求を怠っていたという<普遍語>についての検討である。
水村は言う。<普遍語>とは、学問のための<書き言葉>であり、<読まれるべき言葉>以外の何ものでもない。<叡智を求める人>は、例えばガリレオやエラスムスは、ラテン語で書いたのだ。これに対して<現地語>というのは、下位のレベルにある言葉であり、<書き言葉>の有無は問わず、「女子供」と無教養の男のためのものでしかない。文学として意味を持つ散文が書かれる事は少ない。
他方、<国語>は<普遍語>でも<現地語>でもない。もとは<現地語>でしかなかった言葉が、<普遍語>を翻訳する過程において<普遍語>と同じレベルで機能するようになった言葉である。そして、近代の英仏独の<3大国語>は、<普遍語>と<現地語>を持ち合わせる言語となったのだ。そして19世紀になると、他の小国のヨーロッパ人たちも<自分たちの言葉>で書くべきだと考えるようになるのだ。<国語>の時代に入ったというべきであろうか。
ここで、水村はきわめて論争的な仮説をいくつか提示する。<国語>の時代に<学問>と<文学>とが別れるようになったのだ、そして、「人間とは何か」「いかに生きるか」といった問いは、専門化された<学問の言葉>には求められず、<文学の言葉>に求められるようになったのだ、と。もちろん文学、とくに小説の言葉を担うのは、<母語>あるいは<現地語>と<普遍語>の双方の性質を有することができた<国語>であった。
さらに追い打ちをかけるように、「この世に<真理>には二つの種類がある」(206頁)とまで述べる。テキストブックを読めばすむ<学問の真理>と、必ずテキストそのものにかえってそれを読まなければならない<文学の真理>があるというのだ。いわゆる科学の真理と、文体に宿る真理とがあるというわけだ。実にユニークな主張であることは誰も否定できまい。
以上のような前提で、水村美苗は日本近代文学が「亡びる」、いや、すでに亡びつつあると述べているのである。つまり、日本語で書かれた文学一般が消えて無くなってしまうというのではなく、<文学的真理>を備えた本物の日本近代文学が亡びつつあるのだと主張しているのだ。すなわち、英語が<普遍語>となり、<国語>の祝祭の時代が終焉すれば、<国語>はただの<現地語>と化す。そうなれば、<叡智を求める人>は<現地語>化したニホンゴ文学など読まなくなる。「<叡智を求める人>であればあるほど、日本語で書かれた文学だけは読もうとしなくなってきている」(209頁)、と。
水村の論旨をたどっていくと、そのキーワードは結局のところ、<真理>と<叡智を求める人>である。しかし、それでは日本の近代文学の<真理>とはなんだったのだろうか?おそらく、水村氏の考えでは、夏目漱石の小説に体現されているのであろう。だが、<文学の真理>なる概念によって評価される夏目漱石らの近代文学とは、いったいどういうようなものなのか。水村の今回の評論では、そういったことまでは論述されずに終わりになっている。一番肝心な議論のはずなのだが・・・。(続編は2008年秋というから、もう2-3ヶ月もすれば筑摩書房から刊行される予定である)
私が彼女の議論に少々違和感を覚えてしまうのには、いくつかの理由がある。まず、普遍語や国語で探求しようとしているのは、はたして彼女の論じるような<真理>だけなのだろうかなのかと思ってしまうからだ。たしかに水村は<学問的真理>とは別の次元の真理があると述べた。それは<文学の真理>である。だが、そうなると、たとえば信仰や美や愛の真理はいったいどこに属するのだろうか。水村はアンダーソンを批判して、普遍語の探求をしながらも、例にあげたのはガリレオやニュートンといったルネッサンス・近世以降の学者だけであった。逆に言えば、アウグスティヌスだとか、井筒俊彦が論じた諸賢人の名前は、全く取り上げれられなかった。だが、ラテン語やギリシャ語のような普遍語は、本来は神学や宗教的真理の探究のために学ばれたのではないか。要するに、近世・近代の世俗化した学問や近代文学(小説)の真理は、宗教的神秘的次元の真理についての探求は、禁欲したり括弧にくくったりしてしまったのであろう。そして、水村もまた安易に継承し、近世・近代的な思想に限界づけられている。私は中世的な信仰の世界に戻れと論じているのではない。だが、宗教的真理だとか祈り・信仰的次元を見ないできた近世以降の学問と文学を無条件に肯んじているのことを問題にしているのである。また、もちろんのことであるが、アメリカ語が<普遍語>になるとしても、信仰の次元において<普遍語>となるとは思われない。
私が今脳裏をかすめているのは、たとえば、笙野頼子の宗教的私小説がある。笙野は個々人が祈る心に焦点をあてつつ、日本近代(と明治政府ちゃん)を乗り越え、日本神話の再解釈・再構築というテーマにまで挑戦した。さらに国家語さえも根底から支えている神話の書き換えまで小説的に論じようとしている。あるいは、Ben Okriやターハル・ベン・ジェルーンのような小説。そういった現代の新しい小説は、水村の枠組みを挑戦するものなのではないのか。
もう一つの違和感――さきの違和感と大いにオーバーラップしてくるがーーは、ベネディクト・アンダーソンの解釈にも関わってくる。
水村は不遜なことに「アンダーソンは普遍語の意味を十分に考える必然性がなかった」(189頁) と述べ、アンダーソンをヨーロッパに典型的な多言語的知識人であると規定する。
いとも簡単に、現地語の詩や小説などは、教養のない男や「女子供」の慰めでしかないつまらぬものであると決めつけてしまう水村美苗。女子供という言葉にカギカッコをつけても、結局は同じところであろう。要するに水村は、「教養のある西欧のブルジョア・インテリ男」の立場に立って物を語っているのである。私はここでも、笙野頼子を思い出す。
「日本語は亡びる」という問題意識については、私が水村美苗に大いに共感する。<国語>から<現地語>に転落してしまうではないか、という議論もわからないではない。アンソニー・リードの『東南アジア史』を読めば、前植民地時代のフィリピンの詩と読み書きの伝統は、まさに「女」による「程度の低いもの」であるようにさえ思われることは否定できない。(注。ただしフィリピンは東南アジアの僻地であり、ジャワやタイのような独自の王朝文明が栄えた土地とは異なる。フィリピン諸語とインドネシア諸語とは文化の厚みが全然違うのである!なお、ベネディクト・アンダーソンにはジャワ語の古典文学の研究論文もある)。
しかし、明治近代文学を自明の前提とするような水村の議論の組み立て方には、やはり最後まで違和感を感じざるを得なかった。新しい時代を迎えようとするとき、近代主義的価値観に束縛された議論に終始してよかったのだろうか。
P.S. 水村美苗の危機意識、つまり日本語文学ばかりか、フランス文学のようなメジャーな民族文学までもが現地語文学に転落してしまうのではないかという恐怖についての論評を読んだ者は、ぜひとも小国文学者ミラン・クンデラの『カーテン』所収の「世界文学」を読んでみる必要がある。
欧州文学の先端を切っていたアイスランド文学の運命、国語消滅の危機におびえていたポーランド人と文学、ロシア支配のもとで本当に死滅する危機にあった中欧文学等々。翻訳の意義だとか、あるいは、大江健三郎の小説論だとか、刺激に富む議論ばかりである。大国主義者水村美苗とは異なる視点もうれしい。
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(注)クッツェー「アフリカの人文学」が大いにヒントになっている。この小説では、架空の女性作家で主人公のエリザベス・コステロ主人公がアフリカ在住の姉ブランチを訪ねるのだが、そのブランチが名誉博士号授賞式で、挑発的議論を展開するのである。私は、その挑発的議論に大いに示唆されてしまったのだ。
さて、「日本語は亡びるとき」は日誌または小説の形態をとってはいるが、笙野やクッツェーの作品のような特別な「からくり」があるわけではなさそうだ。ここでは単なる評論とみなし、物語的展開についての言及は捨象しておこう。
新潮 2008年 09月号 [雑誌] 新潮社 2008-08-07 売り上げランキング : Amazonで詳しく見る by G-Tools |
さて、内容はといえば、ある意味では凡庸である。タイトルが示す内容そのままであり、必ずしも刺激的な評論とは言い難い。しかし、もちろんのことだが、この小説家独自の問題意識も散りばめられている。とくに興味深いのは、アメリカで教育を受けてきたにもかかわらず、「なぜ日本語の作家となったのか」というテーマ、あるいは、「なぜ私は英語の作家にならなかったのか」というテーマを水村美苗が抱いているからである(同書、171頁)。 英語と日本語の両方の世界に足を踏み入れた女性が、世界的に見ればマイナーな日本語という言語をあえて選び取ったのは何故か。こういうテーマを抱えている日本人作家が、日本語が亡びるときを論じるのだから、やはり読んでみないわけにはいかないだろう。何しろ水村美苗と言ったら、日本語と英語による本格的なバイリンガル小説『私小説 from left to right』の作者なのだ。
かつて村上春樹について、次のようなことを書いてみた事がある。村上春樹といえば、アメリカ文学を愛好し、グローバル化した社会に奉仕する、ネオリベ的で非国民的なケシカラン作家であるとしばしば批判されている。私はこの見解に半ば同意しつつも、村上春樹が彼なりの枠組みで日本語と日本語文学の枠組みにとどまっている事を論じたのだ。このグローバリゼーションの時代において、村上という作家はボーダーライン上にあるのだ。もしその気になれば、優秀なエディターを雇い、アメリカ語の売れっ子作家になることも可能だったではないか。それなのに日本人・日本語作家であることやめてないのだ。しかも、海外向けて作品を発表するばかりでなく、英語文学を日本語に翻訳するという地道な作業に取り組んでいる。彼なりにグローバリゼーションに対して抵抗をしているのだ、と。
しかし、村上春樹の後の世代が日本語文学にとどまるのか、たしかに心許ない。もし日本人の最大のベストセラー作家が英語で執筆する時代になってしまったならば、日本語と日本語文学は壊滅的なダメージを受けている時代の到来ではないか。
バイリンガル或いはフランス語を含めて三カ国語が堪能な作家・水村美苗は、どのようにして議論を展開しているのか。予想通りというべきか、水村美苗もベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』に言及している。しかも極めて批判的である。アンダーソンは、ヨーロッパ的な多言語主義の視点に立っているが、自分が英語を母語とする人間だから、英語が他の国語とは違う<普遍語>であることについて、十分検討していないというのである。<普遍語>に関しての思考の欠落があるのだ、というのだ。
水村美苗のアンダーソン批判は不当なものである。というよりは、アンダーソンとは異なる価値観の持ち主だと思うが、差し当たりその事について取り上げず、水村の論旨を追っていこう。水村の提案は、アンダーソンが探求を怠っていたという<普遍語>についての検討である。
水村は言う。<普遍語>とは、学問のための<書き言葉>であり、<読まれるべき言葉>以外の何ものでもない。<叡智を求める人>は、例えばガリレオやエラスムスは、ラテン語で書いたのだ。これに対して<現地語>というのは、下位のレベルにある言葉であり、<書き言葉>の有無は問わず、「女子供」と無教養の男のためのものでしかない。文学として意味を持つ散文が書かれる事は少ない。
他方、<国語>は<普遍語>でも<現地語>でもない。もとは<現地語>でしかなかった言葉が、<普遍語>を翻訳する過程において<普遍語>と同じレベルで機能するようになった言葉である。そして、近代の英仏独の<3大国語>は、<普遍語>と<現地語>を持ち合わせる言語となったのだ。そして19世紀になると、他の小国のヨーロッパ人たちも<自分たちの言葉>で書くべきだと考えるようになるのだ。<国語>の時代に入ったというべきであろうか。
ここで、水村はきわめて論争的な仮説をいくつか提示する。<国語>の時代に<学問>と<文学>とが別れるようになったのだ、そして、「人間とは何か」「いかに生きるか」といった問いは、専門化された<学問の言葉>には求められず、<文学の言葉>に求められるようになったのだ、と。もちろん文学、とくに小説の言葉を担うのは、<母語>あるいは<現地語>と<普遍語>の双方の性質を有することができた<国語>であった。
さらに追い打ちをかけるように、「この世に<真理>には二つの種類がある」(206頁)とまで述べる。テキストブックを読めばすむ<学問の真理>と、必ずテキストそのものにかえってそれを読まなければならない<文学の真理>があるというのだ。いわゆる科学の真理と、文体に宿る真理とがあるというわけだ。実にユニークな主張であることは誰も否定できまい。
以上のような前提で、水村美苗は日本近代文学が「亡びる」、いや、すでに亡びつつあると述べているのである。つまり、日本語で書かれた文学一般が消えて無くなってしまうというのではなく、<文学的真理>を備えた本物の日本近代文学が亡びつつあるのだと主張しているのだ。すなわち、英語が<普遍語>となり、<国語>の祝祭の時代が終焉すれば、<国語>はただの<現地語>と化す。そうなれば、<叡智を求める人>は<現地語>化したニホンゴ文学など読まなくなる。「<叡智を求める人>であればあるほど、日本語で書かれた文学だけは読もうとしなくなってきている」(209頁)、と。
水村の論旨をたどっていくと、そのキーワードは結局のところ、<真理>と<叡智を求める人>である。しかし、それでは日本の近代文学の<真理>とはなんだったのだろうか?おそらく、水村氏の考えでは、夏目漱石の小説に体現されているのであろう。だが、<文学の真理>なる概念によって評価される夏目漱石らの近代文学とは、いったいどういうようなものなのか。水村の今回の評論では、そういったことまでは論述されずに終わりになっている。一番肝心な議論のはずなのだが・・・。(続編は2008年秋というから、もう2-3ヶ月もすれば筑摩書房から刊行される予定である)
私が彼女の議論に少々違和感を覚えてしまうのには、いくつかの理由がある。まず、普遍語や国語で探求しようとしているのは、はたして彼女の論じるような<真理>だけなのだろうかなのかと思ってしまうからだ。たしかに水村は<学問的真理>とは別の次元の真理があると述べた。それは<文学の真理>である。だが、そうなると、たとえば信仰や美や愛の真理はいったいどこに属するのだろうか。水村はアンダーソンを批判して、普遍語の探求をしながらも、例にあげたのはガリレオやニュートンといったルネッサンス・近世以降の学者だけであった。逆に言えば、アウグスティヌスだとか、井筒俊彦が論じた諸賢人の名前は、全く取り上げれられなかった。だが、ラテン語やギリシャ語のような普遍語は、本来は神学や宗教的真理の探究のために学ばれたのではないか。要するに、近世・近代の世俗化した学問や近代文学(小説)の真理は、宗教的神秘的次元の真理についての探求は、禁欲したり括弧にくくったりしてしまったのであろう。そして、水村もまた安易に継承し、近世・近代的な思想に限界づけられている。私は中世的な信仰の世界に戻れと論じているのではない。だが、宗教的真理だとか祈り・信仰的次元を見ないできた近世以降の学問と文学を無条件に肯んじているのことを問題にしているのである。また、もちろんのことであるが、アメリカ語が<普遍語>になるとしても、信仰の次元において<普遍語>となるとは思われない。
私が今脳裏をかすめているのは、たとえば、笙野頼子の宗教的私小説がある。笙野は個々人が祈る心に焦点をあてつつ、日本近代(と明治政府ちゃん)を乗り越え、日本神話の再解釈・再構築というテーマにまで挑戦した。さらに国家語さえも根底から支えている神話の書き換えまで小説的に論じようとしている。あるいは、Ben Okriやターハル・ベン・ジェルーンのような小説。そういった現代の新しい小説は、水村の枠組みを挑戦するものなのではないのか。
もう一つの違和感――さきの違和感と大いにオーバーラップしてくるがーーは、ベネディクト・アンダーソンの解釈にも関わってくる。
水村は不遜なことに「アンダーソンは普遍語の意味を十分に考える必然性がなかった」(189頁) と述べ、アンダーソンをヨーロッパに典型的な多言語的知識人であると規定する。
だが、そうアンダーソンに保証されて、ワァーツと拍手をしても、家に戻ってきて正気に返ったとき、さあ、それではアンダーソンに倣ってインドネシアの言葉やフィリピンの言葉を学ぼうという気になる人がどれくらいいるであろうか(186ページ)水村がどのような心づもりで書いたのかはわからない。だが、アンダーソンこそは、コーネル大学において長年多くの学生を魅了し、インドネシア語やジャワ語の世界にいざなってきた張本人ではないか。半世紀近くに及ぶでだろうベネディクト・アンダーソンの学問的・教育的業績を、水村美苗は真っ向から否定するつもりなのだろうか。もちろんのこと、水村はアンダーソンの東南アジアの言語内在的な文化主義的研究については完全に無視してしまうのだ(苦笑)。ポイントは何かといえば、水村美苗の方は<現地語>を余りに簡単に軽視しているということだ。つまり、ヨーロッパなどのマイナーな国語だとか、ジャワ語だとかのいわゆる現地語によって探求され明らかにされてきた様々な<真理>について、全く顧みようとしないのである。
いとも簡単に、現地語の詩や小説などは、教養のない男や「女子供」の慰めでしかないつまらぬものであると決めつけてしまう水村美苗。女子供という言葉にカギカッコをつけても、結局は同じところであろう。要するに水村は、「教養のある西欧のブルジョア・インテリ男」の立場に立って物を語っているのである。私はここでも、笙野頼子を思い出す。
インテリから見たとき、今の私はもう見えないはずです。作品も読めない。今の私はいると困る存在です。だって金毘羅なんだし。メルロ・ポンティとドゥルーズ=ガタリのある本棚の中にある私の本を並べて楽しんでいた人達はきっと私を見て捨てるでしょう。熊楠と折口信夫が好きな人などはもとよりそうです。(『金毘羅』194ページこの小市民の私、つまり、「戦後のロリコン達が口を極めて罵る凡庸な『私』」(『金毘羅』225ページ)の極私的物語は、水村美苗の中では取るに足らぬものと消されてしまうことになるのであろう。
「日本語は亡びる」という問題意識については、私が水村美苗に大いに共感する。<国語>から<現地語>に転落してしまうではないか、という議論もわからないではない。アンソニー・リードの『東南アジア史』を読めば、前植民地時代のフィリピンの詩と読み書きの伝統は、まさに「女」による「程度の低いもの」であるようにさえ思われることは否定できない。(注。ただしフィリピンは東南アジアの僻地であり、ジャワやタイのような独自の王朝文明が栄えた土地とは異なる。フィリピン諸語とインドネシア諸語とは文化の厚みが全然違うのである!なお、ベネディクト・アンダーソンにはジャワ語の古典文学の研究論文もある)。
しかし、明治近代文学を自明の前提とするような水村の議論の組み立て方には、やはり最後まで違和感を感じざるを得なかった。新しい時代を迎えようとするとき、近代主義的価値観に束縛された議論に終始してよかったのだろうか。
P.S. 水村美苗の危機意識、つまり日本語文学ばかりか、フランス文学のようなメジャーな民族文学までもが現地語文学に転落してしまうのではないかという恐怖についての論評を読んだ者は、ぜひとも小国文学者ミラン・クンデラの『カーテン』所収の「世界文学」を読んでみる必要がある。
欧州文学の先端を切っていたアイスランド文学の運命、国語消滅の危機におびえていたポーランド人と文学、ロシア支配のもとで本当に死滅する危機にあった中欧文学等々。翻訳の意義だとか、あるいは、大江健三郎の小説論だとか、刺激に富む議論ばかりである。大国主義者水村美苗とは異なる視点もうれしい。
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(注)クッツェー「アフリカの人文学」が大いにヒントになっている。この小説では、架空の女性作家で主人公のエリザベス・コステロ主人公がアフリカ在住の姉ブランチを訪ねるのだが、そのブランチが名誉博士号授賞式で、挑発的議論を展開するのである。私は、その挑発的議論に大いに示唆されてしまったのだ。
2008年8月23日土曜日
天才と障碍(その3,笙野の冗長と鋭さ)
おそらく真面目に笙野頼子の読解に取り組む者にとって、彼女がアスペルガーかどうかということは、あまり大事なことではないかもしれない。しかしそれでも、アスペルガーという補助線を行くことにより、いくつかの事が理解しやすくなるような気もする。根本的なテーマの解明についての助けにはならないが、周辺的な謎を理解するのには役に立つ、そんな感じじゃないだろうか。
例えば、いくつかの作品は、余りにも「ブス」についての言及が多すぎ、辟易してしまう。「そこんところ、もっと要領よくまとめてくれませんか」と思ったものだ。しかも、笙野が大してブスでないことが判ってしまい、しらけてしまう(笑)。
大塚某との「論争」などは、はっきり言って面倒くさい。なぜそう言った事に読者がいちいちつきあ合わなくてはならないのか。もちろん大塚某を読もうとは思わない。サイードの御本を理解するためにコンラッド、キプリング、カミュを読み込んだ私だが、笙野のために大塚は断じて読まないぞ! (当たり前である)
そういったイライラ感は、笙野がアスペルガー的性格だったということで、腑に落ちるし納得できてしまうのだ。(もっとも最近の作品群に関していうと、書くべき実に莫大なテーマをしっかりと見据え、あまり無駄がないように思われる。ときには繰り返し同じことを書くが、ご愛嬌というレベルだ)。
また、ある種の深読みが不要になる。例えば、近現代の恋愛至上主義的イデオロギーの批判を笙野に読み取る必要もなくなるだろう。笙野は、あくまでも私的な話をしているのであって、恋愛至上主義イデオロギーを批判しているつもりはないのに違いない。
或いは、次の文章などは、笙野をアスペルガー的性格とみなしていけば、判りやすく解釈できる。
しかし、次のような鋭い指摘は、笙野がアスペルガーかどうかということとは直接的には関係ない。とはいえ、アスペルガー的性格だからこそ、このように認識しそれを表現してくれたのかと感慨深い。
こういうことをしっかりと書いてくれる作家がいる事を、とてもうれしく思う。私の学生時代、柄谷も重要であったが、それ以上に重要な位置を占めていたのは、哲学者の廣松渉であった。廣松の議論は「共同主観的存在構造」であるから、いわゆるブルジョア的個人主義の哲学は否定される。そのことはよく理解できるのだが、どう考えても、心と体を持ち限界づけられた個々の観点を適切に論じているように思われなかった。そのことを広松派の友人たちに論じたりもしたのだが、誰も理解してくれる人はいなかったのだ。今考えてみると、私が抱いていたのは、哲学的領域というよりはむしろ文学や神学の主題に近いし、より文学的に論じるべきだったのだ。しかし、いずれにせよ広松的共同主観的存在論では、認知しえない課題があることは確かだったのだ。それを今、笙野頼子が引き受けてくれている! なるほど、ついに現れたか! しかも、柄谷派の傲慢な発想を端的に指摘しておるじゃないか!
これは痛快だ。(疑似科学批判のときに、オカルト批判の早稲田の教授を何度も何度も批判する事は、はっきり言って冗長すぎるのだが)。
要するに、言葉をいついかなる時であっても、雰囲気ではなくてロジックで理解しようとするから、こういう認識が可能になる。偽数学・偽科学によってごまかそうとする偽科学主義エリートをけっして笙野は許さないのだ。そのシツコサが偉い!
笙野アスペルガー説については、これまでとする。
例えば、いくつかの作品は、余りにも「ブス」についての言及が多すぎ、辟易してしまう。「そこんところ、もっと要領よくまとめてくれませんか」と思ったものだ。しかも、笙野が大してブスでないことが判ってしまい、しらけてしまう(笑)。
大塚某との「論争」などは、はっきり言って面倒くさい。なぜそう言った事に読者がいちいちつきあ合わなくてはならないのか。もちろん大塚某を読もうとは思わない。サイードの御本を理解するためにコンラッド、キプリング、カミュを読み込んだ私だが、笙野のために大塚は断じて読まないぞ! (当たり前である)
そういったイライラ感は、笙野がアスペルガー的性格だったということで、腑に落ちるし納得できてしまうのだ。(もっとも最近の作品群に関していうと、書くべき実に莫大なテーマをしっかりと見据え、あまり無駄がないように思われる。ときには繰り返し同じことを書くが、ご愛嬌というレベルだ)。
また、ある種の深読みが不要になる。例えば、近現代の恋愛至上主義的イデオロギーの批判を笙野に読み取る必要もなくなるだろう。笙野は、あくまでも私的な話をしているのであって、恋愛至上主義イデオロギーを批判しているつもりはないのに違いない。
或いは、次の文章などは、笙野をアスペルガー的性格とみなしていけば、判りやすく解釈できる。
モラルは人間の体にある。寄生している金毘羅はそのモラルを演ずるのだ。愛情も演じてみているのだ。演じついでに信じてしまわなくてはいけないのだ。というか本当に人間になりたいのです。でもできれば人権だけいただいてどこかに逃亡したい。(149ー150頁)
しかし、次のような鋭い指摘は、笙野がアスペルガーかどうかということとは直接的には関係ない。とはいえ、アスペルガー的性格だからこそ、このように認識しそれを表現してくれたのかと感慨深い。
私の、金毘羅の目からみれば、つまりたとえば文学の世界で語るべきことが何もないと言っている人間は新しく語るべき現実から目を背けているだけだと分かりました。または「私などない」と言っている人間は自分だけが絶対者で特別だと思っているからそういう抜けたことを言うんだと見抜けました。(中略)大量死で文学が無効になったという人間も爆撃テロで文学が無意味になったという人間も自分は死んでいません。それとも出家でもする気なんでしょうか。(110ページ)
こういうことをしっかりと書いてくれる作家がいる事を、とてもうれしく思う。私の学生時代、柄谷も重要であったが、それ以上に重要な位置を占めていたのは、哲学者の廣松渉であった。廣松の議論は「共同主観的存在構造」であるから、いわゆるブルジョア的個人主義の哲学は否定される。そのことはよく理解できるのだが、どう考えても、心と体を持ち限界づけられた個々の観点を適切に論じているように思われなかった。そのことを広松派の友人たちに論じたりもしたのだが、誰も理解してくれる人はいなかったのだ。今考えてみると、私が抱いていたのは、哲学的領域というよりはむしろ文学や神学の主題に近いし、より文学的に論じるべきだったのだ。しかし、いずれにせよ広松的共同主観的存在論では、認知しえない課題があることは確かだったのだ。それを今、笙野頼子が引き受けてくれている! なるほど、ついに現れたか! しかも、柄谷派の傲慢な発想を端的に指摘しておるじゃないか!
考えが「波動」になるだのお祈りが「粒子」になって万札を運んでくるだの。金毘羅は、むろん引っかかりませんでした。つまり金毘羅は言葉の中でしか生きられないがゆえに日本語というものいちいち言葉の通りに検討するからです。(115ページ)
これは痛快だ。(疑似科学批判のときに、オカルト批判の早稲田の教授を何度も何度も批判する事は、はっきり言って冗長すぎるのだが)。
要するに、言葉をいついかなる時であっても、雰囲気ではなくてロジックで理解しようとするから、こういう認識が可能になる。偽数学・偽科学によってごまかそうとする偽科学主義エリートをけっして笙野は許さないのだ。そのシツコサが偉い!
笙野アスペルガー説については、これまでとする。
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天才と障碍(その2)
以下は、笙野頼子の『金毘羅』のなかの文章である。
問題は実は私のほうにあるんだと思う。というのは要するに普通の家族というのは言葉なんかではコミュニケーションしてないからです。というよりそもそも日本国民の殆どはロジックに乗せてまともに日本語を使う能力などありません。矛盾した事をころころいいながら自分の感情だけ身振りだけを表現するのです。そして職場ならば力関係者で物事が決まります。家庭ならば言葉ただ身振りと感情でやりとりされて、愛情や調和があれば、それでいいのです。だから健全な子供は言葉なんかいちいち覚えていないのです。しかし金毘羅は言葉を全部辞書的に取るしかない。(106ページ)
家族はただこう言いたかっただけであった。「どうかこっちを見て、私達といて、現実に目を向けて」と。私には家族が見えていなかった。家族とは何かを判っていないのだし、家族とともに何かをしたり、そもそも一緒に何かを生きたりする能力がないのでした。(106~107ページ)
本当に人間のする事は判りません。何をするか判らないしそもそも人間にはまともな日本語を使えないのだ。金毘羅にとって、人間程恐ろしいものはありません。(108ページ)
日本特有の、「誰かとまずくなる」という事の問題でも買ってない。というかどうでもいいのです。また我慢強いと言われる事も多いのですが、自分が我慢している事を判っていないことも多いのでした。(108ページ)あまり大きな声で言うつもりはないが、この文章を素朴に読む限り、笙野も、加藤一二三同様にある種の発達障害、とりわけ高機能自閉症またはアスペルガー症候群の可能性が高いのではないのか。決して笙野という作家を貶める意図はない。むしろ、アスペルガー的であることによって、作家として得難い才能を発揮したとも言いたい。
私は「コモドドラゴンのようにしつこい」と生前の母から話言われていたのです。(中略)もともと金毘羅とは生存競争に弱いものなのです。ただ言葉や考えに容赦なく制限がないだけです。(中略)どんなに相手にしろ私が怖くしつこいのはしうちや金銭に対してではなくて、言葉に対してでした。(108ー109ページ)
しょせん、金毘羅は言葉やロジックでしか社会、人間と触れ合うことができないです。どうしてかというと人間のする事があまりわからないからだ。だから一言でいえば金毘羅とは迷惑なものです。しかしその一方言葉で触れ合うというのは実は非常に大切で主要なことでもしもこの国に1人もそういう能力のある人がなければ困るはずです。金毘羅はそういう世界こそ必要な「人材」でした。(109~110ページ)
とりあえず、 オリバー・サックス著「火星の人類学者」というのを読んでみなくては。(続く)
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天才と発達障害(加藤一二三とADHD)
将棋の世界に加藤一二三という天才棋士がいる。18歳でA級八段にまで登り、神武以来の天才と言われた男だ。私は最近のプロ将棋の動向はよく知らないが、18段歳A級8段の記録はまだ破られていないと思う。また、60歳過ぎて加藤程活躍している棋士は極めて稀である。加藤のかつてのライバルたちは、殆どが引退したり、引退に近い成績に陥っている。例えば米長は加藤よりも年下なのに実質的引退だ。加藤より大分若い中原誠も、かつての精彩は全くない。ところが加藤は70歳近いのにまだまだ元気で現役なのだ。おそらく、将棋界始まって以来の大老人棋士となるであろう。
加藤は、同時に奇人変人として知られている。
ご飯をかつ丼ばかりを食べるとか、友達が1人もいないクリスチャンだとか、対局中に相手の棋士の背面に回って将棋盤をのぞくとか、あまり良くない噂ばかりである。しかし大きくまとめると、彼の奇癖は次の三つに分類できた。
①常識的に見たら必要もない序盤や中盤の局面で、超長考をしてしまう。(もちろん将棋指しにとっては、客観的に望ましくない習慣である。加藤一二三が今ひとつ成績が振るわなかったのはこれが原因であると言われている)。それでいて、長考の結果持ち時間が途中でなくなり1分将棋になったとき、正確な読みで異様に強くなる。
②しつこく同じ作戦にこだわる。(中原名人に名人戦で挑戦したとき、全部相矢倉で4連敗してしまった事がある)。
③対局中、貧乏ゆすりがひどかったりとか、落ち着きがない行動をする。
様々な棋士たちが加藤の悪口や批判を口にしていた。それはまあ、もっともなことかもしれないと思う。だが、21世紀の現在振り返ってみれば、加藤の奇癖は、 ADHD(注意散漫・多動症候群)にほかならない。貧乏ゆすりが多動性なのは言うまでもないが、とりわけ重要なのが、加藤の時間感覚のなさと超集中力である。
もし加藤が ADHD でなく、適切な時間配分が可能な棋士だったらどうなったのであろうか。もっと簡単に名人になれたのであろうか。或いは、むしろ、凡庸な普通のプロ棋士だったのだろうか。
加藤は、同時に奇人変人として知られている。
ご飯をかつ丼ばかりを食べるとか、友達が1人もいないクリスチャンだとか、対局中に相手の棋士の背面に回って将棋盤をのぞくとか、あまり良くない噂ばかりである。しかし大きくまとめると、彼の奇癖は次の三つに分類できた。
①常識的に見たら必要もない序盤や中盤の局面で、超長考をしてしまう。(もちろん将棋指しにとっては、客観的に望ましくない習慣である。加藤一二三が今ひとつ成績が振るわなかったのはこれが原因であると言われている)。それでいて、長考の結果持ち時間が途中でなくなり1分将棋になったとき、正確な読みで異様に強くなる。
②しつこく同じ作戦にこだわる。(中原名人に名人戦で挑戦したとき、全部相矢倉で4連敗してしまった事がある)。
③対局中、貧乏ゆすりがひどかったりとか、落ち着きがない行動をする。
様々な棋士たちが加藤の悪口や批判を口にしていた。それはまあ、もっともなことかもしれないと思う。だが、21世紀の現在振り返ってみれば、加藤の奇癖は、 ADHD(注意散漫・多動症候群)にほかならない。貧乏ゆすりが多動性なのは言うまでもないが、とりわけ重要なのが、加藤の時間感覚のなさと超集中力である。
もし加藤が ADHD でなく、適切な時間配分が可能な棋士だったらどうなったのであろうか。もっと簡単に名人になれたのであろうか。或いは、むしろ、凡庸な普通のプロ棋士だったのだろうか。
2008年8月22日金曜日
野村たちの「ポスコロ」本の率直な感想
「弱者への愛には、いつも殺意がこめられているーー」
(安部公房『密会』より)
本当は野村浩也たちの『植民者へ』について、もっと正面切って論じなければならないんだろう。つまり、ポストコロニアリズムやサイードに関連する弱点については括弧に入れて、議論しなくてはいけないということだ。
厄介だが、少しだけ感想を書いておこう。
野村らの主張を強引に要約すれば、沖縄にシンパシーをもっているかのように演じている「リベラル」な日本人がインチキであること、そして、沖縄も日本の一部なのだから本当の平等を実現せよ、というメッセージである。
前者に関して言えば、一応の目的は達成できたのではないのかと思う。もう少し池澤夏樹の分析を丁寧に解読してもらいたかったし、坂本龍一の沖縄オリエンタリズム音楽の批判的分析だとか、芸能界における沖縄趣味等についても触れて欲しかったのだが。
個人的に言えば、私という一日本人が、フィリピンの人々や社会にどのようにシンパシーをもったり、関わったりしたらよいのかというジレンマ体験を大いに思い出させてくれた。シンパシーをもつというのは、弱者をパトロナイズするとか飼い慣らすという発想と紙一重なのだ。
後者のメッセージが有効になるためには、真正なる日本民族主義の蘇生が必要不可欠である。「真正な民族」とは、「一民族の成員という資格において平等な、ないし平等であろうとする人々」(関曠野『民族とは何か』講談社現代新書、225頁)のことである。
しかし、真正なる日本民族主義とは何かという問題提起はなされていないと思う。本書の課題ではないといえばそれまでだが、やはり残念だ。何故そんな風に思うのかと言えば、野村らの論法でフィリピンやインドの貧困や不公正を論じても、ほとんど誰にも相手にされないのは明白だからだ。「そんなこと、我々に関係ないだろ!」と、きっぱりと馬鹿にするのが、日本人の現実ではないか。つまり、彼らが本を出版したり、日本の大学で職を得ることができるのは、沖縄がやっぱり日本の一部だからなのだ。それならば、二項対立ばかり強調するのではなく、日本民族主義や日本改造論(e.g.改憲論)をも論じて欲しかったのだ。
他にも言いたいことはあるが、このへんにしておく。
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ポストコロニアリズムの誤用を批判する
アマゾンにレビューを書いた。
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あえて断言してしまえば、学問的良心の欠如した「悪書」である。
そもそも『ポストコロニアリズムという挑発』というタイトルが最悪である。サイードやバーバの文学的・学問的著作を本当に読んでみればわかることだが、ポストコロニアリズムの政治的立場はきわめて曖昧で、日和見的にすら見えるかもしれないものなのだ。たとえば、帝国主義や人種主義を信奉する作家を高く評価したのがサイードである。また、ファノン解釈においては、「偏狭な民族主義に満足するようなものでなく、ヨーロッパ人と原住民とがひとつにまとまって新しい反帝国主義共同体に参加する」ことを促す理論であると評価したのもサイードなのだ。要するに、野村たちの政治的立場とは明らかに異なっている。だから彼らに求められていた仕事は、むしろサイード批判であり、ポストコロニアルリズム批判のはずだったのである。もちろん本書のタイトルも、『ポストコロニアリズムからアンチーネオ・コロニアリズムへ』とすべきだったのだ。
私の議論が信じられないものは、フィリピン人の左翼文芸理論家Epifanio San JuanのBeyond Postcolonial Theory を読んでみるがよい。あるいは、アーニャ・ ルーンバ『ポストコロニアル理論入門』でもある程度は触れられている。
もうひとつの問題は、「日本本土」を一枚岩的に扱い、植民地=沖縄と対比させている点である。私見では、東京とアメリカが共謀して作り上げた真の植民地は、沖縄県というよりは神奈川県のほうだからである。たとえば、横浜開港は香港やカルカッタの開港と対比されるべきだし、横須賀市と相模原市は日本の軍都として建設され、今では米軍基地となっている。極めつけは、県民がペリー来航を大いに祝い、東京とアメリカに郷愁の念を抱いていることだろう。ちなみに相模原南部に私は住んでいるが、祭りの踊りは「阿波踊り」である。こういう土地こそ植民地と呼ぶのに相応しい。沖縄植民地論を展開している学者たちがそろいもそろって、東京のお膝元が植民地であることを何故見抜けないのか。なかには、神奈川で暮らしたり勉学したりした「無意識のコロン学者」がいるのではないか。
以上、多くの欠点があるが、部分的には興味深い題材はいくつもある。たとえば、コロン作家・池澤夏樹を批判したり、在日朝鮮人作家・李良枝を取り上げた点である。サイードという虎の威を借る狐の論法を捨て去れば、さまざまな可能性が開かれてくるだろう。
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あえて断言してしまえば、学問的良心の欠如した「悪書」である。
そもそも『ポストコロニアリズムという挑発』というタイトルが最悪である。サイードやバーバの文学的・学問的著作を本当に読んでみればわかることだが、ポストコロニアリズムの政治的立場はきわめて曖昧で、日和見的にすら見えるかもしれないものなのだ。たとえば、帝国主義や人種主義を信奉する作家を高く評価したのがサイードである。また、ファノン解釈においては、「偏狭な民族主義に満足するようなものでなく、ヨーロッパ人と原住民とがひとつにまとまって新しい反帝国主義共同体に参加する」ことを促す理論であると評価したのもサイードなのだ。要するに、野村たちの政治的立場とは明らかに異なっている。だから彼らに求められていた仕事は、むしろサイード批判であり、ポストコロニアルリズム批判のはずだったのである。もちろん本書のタイトルも、『ポストコロニアリズムからアンチーネオ・コロニアリズムへ』とすべきだったのだ。
私の議論が信じられないものは、フィリピン人の左翼文芸理論家Epifanio San JuanのBeyond Postcolonial Theory を読んでみるがよい。あるいは、アーニャ・ ルーンバ『ポストコロニアル理論入門』でもある程度は触れられている。
もうひとつの問題は、「日本本土」を一枚岩的に扱い、植民地=沖縄と対比させている点である。私見では、東京とアメリカが共謀して作り上げた真の植民地は、沖縄県というよりは神奈川県のほうだからである。たとえば、横浜開港は香港やカルカッタの開港と対比されるべきだし、横須賀市と相模原市は日本の軍都として建設され、今では米軍基地となっている。極めつけは、県民がペリー来航を大いに祝い、東京とアメリカに郷愁の念を抱いていることだろう。ちなみに相模原南部に私は住んでいるが、祭りの踊りは「阿波踊り」である。こういう土地こそ植民地と呼ぶのに相応しい。沖縄植民地論を展開している学者たちがそろいもそろって、東京のお膝元が植民地であることを何故見抜けないのか。なかには、神奈川で暮らしたり勉学したりした「無意識のコロン学者」がいるのではないか。
以上、多くの欠点があるが、部分的には興味深い題材はいくつもある。たとえば、コロン作家・池澤夏樹を批判したり、在日朝鮮人作家・李良枝を取り上げた点である。サイードという虎の威を借る狐の論法を捨て去れば、さまざまな可能性が開かれてくるだろう。
2008年8月20日水曜日
郭基煥の北朝鮮論と李良枝論(その2)
郭氏は驚くほど率直に、彼の思想の偏狭性と日本人対する警戒心をむき出しに率直に語っている。たとえば、こんな具合だ。(この本の読者に対しては、あまりに過剰な警戒心であるようにも思われる。しかし、日本社会のなかでこのような警戒心を持たざるを得ないということについては、啓蒙的な意義があることは同意できる)。
さて残念ながら、郭氏の李良枝論については、あまり深入りすることはできない。私がまだその作品を読んだことないからである。だが、最低限の紹介として、次のことを述べておく。氏は、李良枝より前の世代の在日の評論家が李良枝の作品の「非政治性」を批判的に言及するのに対し、彼女を擁護する。そして、自我の安定を前提する不条理文学であり、「日本のかつての植民地に対する宗主国意識、それを保護し正当化するための様々な言説やイデオロギーを暴き、動揺させ、分解するという意図が明瞭に現れている」(195ページ)と評価しているのである。
李良枝という日本語作家を、氏のような偏狭な発想で、はたしてよく評価できるものだろうか。私はそんな危惧を抱く。だが、ここではそういった批判をするつもりはない。実際、日本人の宗主国意識あるいは帝国意識批判といった側面を李良枝から読みとるのは一つの正当な解釈にちがいない。
しかしながら、次の議論は根本的に批判しておく必要がある。というのは、ポストコロニアル文学とは何なのかということについて、無知と独善を露呈してしまっているからである。
民族の言葉を奪われ日本語で文章の読み書きしなければならなかったら在日朝鮮人の文学について、ポストコロニアル文学と評価することには賛成である。だが、郭の独善的予想とは正反対に、世界のポストコロニアル文学と言われるものは、「戦闘的・非妥協的性質」のものだったり、植民地主義や帝国主義をストレートに告発する文学作品などではないのだ。少なくとも私は、そういった戦闘的な文学作品をほとんど思い浮かべることはできない(*)。おそらく郭は、いわゆるポストコロニアル文学だとかポストコロニアル文学理論について、まったく知らないし読んだことがないのである。
私は、郭の議論のすべてが無意味だと言っているのではない。だが、いわゆるポストコロニアル文学の発想と、氏の議論には大きなギャップがあることだけは強調しておく。
もちろん、これは郭氏個人の責任ではありえない。日本の朝鮮・中国・沖縄系の社会学系研究者が、意図的かどうかはともかくとして、共謀的にポストコロニアリズムという言葉を「倒錯的に」借用してきたこと、それが氏の勘違いの原因であることは、あまりにも明白なのだ。
おそらく彼らに求められているのは、サイード、スピヴァックといったポストコロニアリルの文学批評家との根本的対決なのである。西欧的な権威に照らして、自分の議論の正当性を確保しようとするような発想から脱却することなのである。サイードだとかラシュディを否定する勇気がないので、議論がおかしくなってしまうのだ。
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(*)おそらくAchebeあたりが議論されるべきなのでしょう。Achebeは厳しいConrad批判で知られていますからね。しかし、彼の文学作品が「戦闘的・非妥協的性質」をもつといえるのでしょうか? あるいはGordimerでしょうか? しかし、Gordimerはそもそも白人植民者の文学ですし、氏の想定外でしょう。また、アパルトヘイト政策の南アと、現代日本とを比較する議論を私は受け入れることはできませんね。(ナチス・ドイツのユダヤ人と現代の在日朝鮮人とを比較する人もいるようですが、これも少々誇張しすぎでしょう)。
在日同士の交流は、何かしらやよそよそしいものになる。私は会話が監視されているの感じる。ともかく、在日同士のコミュニケーションは、ほとんど常に日本人が聞き取り、日本人が割り込んでいくことができる体制の中でしかなしえなくなっている。
この文章は在日に向かってのみ語ることはできない。日本語で書かれている以上、日本人が割り込んでくる可能性がある体制の中でしか書くことはできない。だとすれば、強調されている者達がやるやり方をまねるしかない。盗聴器に聞かれてることを予想した上で話すことだ。そしてそれはこの文章の義務であろう。(152ー153ページ)
さて残念ながら、郭氏の李良枝論については、あまり深入りすることはできない。私がまだその作品を読んだことないからである。だが、最低限の紹介として、次のことを述べておく。氏は、李良枝より前の世代の在日の評論家が李良枝の作品の「非政治性」を批判的に言及するのに対し、彼女を擁護する。そして、自我の安定を前提する不条理文学であり、「日本のかつての植民地に対する宗主国意識、それを保護し正当化するための様々な言説やイデオロギーを暴き、動揺させ、分解するという意図が明瞭に現れている」(195ページ)と評価しているのである。
李良枝という日本語作家を、氏のような偏狭な発想で、はたしてよく評価できるものだろうか。私はそんな危惧を抱く。だが、ここではそういった批判をするつもりはない。実際、日本人の宗主国意識あるいは帝国意識批判といった側面を李良枝から読みとるのは一つの正当な解釈にちがいない。
しかしながら、次の議論は根本的に批判しておく必要がある。というのは、ポストコロニアル文学とは何なのかということについて、無知と独善を露呈してしまっているからである。
「日本のかつての植民地に対する宗主国意識、それを保護し正当化するための様々な言説やイデオロギーを暴き、動揺させ、分解するという意図が明瞭に現れているという意味で、彼女の小説の中でも、[「かずきめ」という作品は]もっともポストコロニアル文学と呼ぶにふさわしい。」(195ページ)
一般に在日朝鮮人文学と言われる一群の作品は「朝鮮発のポストコロニアル文学」と言っていいはずであろう。在日朝鮮人文学は、世界の他のポストコロニアル文学と直接的・持続的に交流することはなかったが、一方でそれらといわば共鳴ししあっているとみなすことができる。あるいは、世界のポストコロニアル文学、もっと言えば、世界中の被植民者達とコミュニケーションすることなく連帯しあっている、と言ってよいかもしれない。そういった事情を踏まえて、私が李良枝の『かきずめ』にポストコロニアル文学性を強く見いだすのは、なによりもその戦闘的・非妥協的性質のためである。(195-196ページ)
民族の言葉を奪われ日本語で文章の読み書きしなければならなかったら在日朝鮮人の文学について、ポストコロニアル文学と評価することには賛成である。だが、郭の独善的予想とは正反対に、世界のポストコロニアル文学と言われるものは、「戦闘的・非妥協的性質」のものだったり、植民地主義や帝国主義をストレートに告発する文学作品などではないのだ。少なくとも私は、そういった戦闘的な文学作品をほとんど思い浮かべることはできない(*)。おそらく郭は、いわゆるポストコロニアル文学だとかポストコロニアル文学理論について、まったく知らないし読んだことがないのである。
私は、郭の議論のすべてが無意味だと言っているのではない。だが、いわゆるポストコロニアル文学の発想と、氏の議論には大きなギャップがあることだけは強調しておく。
もちろん、これは郭氏個人の責任ではありえない。日本の朝鮮・中国・沖縄系の社会学系研究者が、意図的かどうかはともかくとして、共謀的にポストコロニアリズムという言葉を「倒錯的に」借用してきたこと、それが氏の勘違いの原因であることは、あまりにも明白なのだ。
おそらく彼らに求められているのは、サイード、スピヴァックといったポストコロニアリルの文学批評家との根本的対決なのである。西欧的な権威に照らして、自分の議論の正当性を確保しようとするような発想から脱却することなのである。サイードだとかラシュディを否定する勇気がないので、議論がおかしくなってしまうのだ。
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(*)おそらくAchebeあたりが議論されるべきなのでしょう。Achebeは厳しいConrad批判で知られていますからね。しかし、彼の文学作品が「戦闘的・非妥協的性質」をもつといえるのでしょうか? あるいはGordimerでしょうか? しかし、Gordimerはそもそも白人植民者の文学ですし、氏の想定外でしょう。また、アパルトヘイト政策の南アと、現代日本とを比較する議論を私は受け入れることはできませんね。(ナチス・ドイツのユダヤ人と現代の在日朝鮮人とを比較する人もいるようですが、これも少々誇張しすぎでしょう)。
2008年8月8日金曜日
AmiVoiceはけっこう使えるソフトです。
しばらく、 AmiVoice で音声認識をしてます。最初はちょっと使いにくいという印象でした。しかし、使っているうちにかなり実用的ではないかと思うようになってきました。パソコンソフトに対するトレーニングは不要ですが、ユーザーがよく使うボキャブラリーを登録することは重要です。例えば、この文章で言えば「ボキャブラリー」という単語です。それを丁寧にやっていけば、かなり便利な文書作成ソフトとなることでしょう。(以上、Amivoiceによる)。
この何日かは、2ちゃんねるのビジネスソフトのところで、Amivoiceの成果を披露してみました。
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