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2008年8月28日木曜日

火星の人類学者(動物学者)の本 『動物感覚』

テンプル グランディン というのは、非常に重要な火星の人類学者あるいは火星人動物学者みたいですね。これも、笙野ファン必読でしょう。というか、俺だけ知らなかったのかもしれないな。 動物が大好きで、笙野頼子が好きな人、たとえばキムカナさんとかは、たぶん読破しているに違いない。まったく、うかつだった! こういう世界があるとは。さっそく、BetterWorld.comでペーパーバックを購入することにした。

なお、「三匹の猫」の竹下節子さんも必読かもしれない。まったくスゴイ世界があったものだ。

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『動物感覚―アニマル・マインドを読み解く』

動物感覚―アニマル・マインドを読み解く動物感覚―アニマル・マインドを読み解く
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著者のテンプル・グランディンについては、随分前にオリバー・サックスの「火星の人類学者」を読んで知った。自閉症でありながら動物科学者であり動物に深 い愛着を持っている。彼女が考案した食肉処理施設は、家畜に不安や苦痛を与えないように設計されており、世界中で使われている。彼女は人に抱きしめられる とパニックを起こしてしまうので、家畜を押さえる締め付け機を改良して使い、自分が気持ち良いだけの圧力をかけてリラックスする。こんな話が印象に残って いて、いつかこの人の自伝を読もう、とずっと思っていたら、この「動物感覚」が出た。
「動物感覚」を読んで、テンプル・グランディンの活躍が想像よりもはるかに凄いことが分かった。家畜が人道的に扱われているかチェックするため に世界中を走り回っている。監査方法も理路整然と無駄がなく効果的で惚れ惚れしてしまう。もちろん動物科学や自閉症の研究もしている。動物が世界をどう感 じているか、人間とどう違うのか、人間が動物にどう関わっているのか、実験、観察の結果を述べる研究者でありながら、まるで動物の代弁をしているようでも ある。自閉症患者と動物は似ているところがあるそうだ。やや専門的なところもあるが、たいていは理解できる。へぇ、そうなんだとビックリすることや哺乳類 の一員として妙に納得してしまうところもある。動物に関する蘊蓄が増えた。「哺乳動物と鳥はみな、自分たちを取りまく状況に好奇心と関心をもっていて、い いことが起こるのをほんとうに楽しみにしている。」という一文がとても気に入った。

5つ星のうち 5.0 人間と動物の狭間で, 2006/11/21
作者は自閉症の動物学者。幼少の頃より動物好きだった彼女は、長じて、自閉症の人間と動物の認識世界に共通点があることに気付く。自らを「人間と動物の間に立つ者」と位置づけ、読者を動物たちの意識世界に案内する。いやー、面白かった。

面白いのは、彼女にとっては、健常者の思考回路こそが「ミステリー」だったということだ。アカデミズムの世界と役所関連の仕事を通して、彼女はむしろ健常者の「現実を捨象する思考回路」に驚愕をする。特に頭の良い、観念思考に長けた人間ほど現実を見ないという。よってラディカルになり易いと。自閉症の思考回路は「具体的な事象を全て捨象せずに取り込む」のだそうだ。過激な動物愛護団体へ苛立ちを表明し、食肉処理場への行政指導で発揮される「頭の良い人間の無能ぶり」を指摘する。きっと仕事上で「観念派」の人間に随分イライラさせられてきたんだろうなぁ(笑)。ともあれ、動物と健常者の間で、両者と もを「不思議」と眺め続けた著者の視点が大変に新鮮だ。

近年の動物学の研究成果も多く紹介されており、人間と狼の関係史や、人間の言語獲得過程への考察、感情と価値判断の関係etc、一般読者にはいずれも目から鱗の話が沢山だ。
例えば、イルカは大量虐殺から快楽殺人から性犯罪までなさる動物だそうだ。どこが「平和の使者」だって。
動物に興味のある方、のみならず、動物を通して見える人間の姿に興味のある方、凝った文章は全く書かない著者さんで、大変に読み易い一冊です。 (強調はshaktiによる)


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2008年8月27日水曜日

水村美苗「日本語が亡びるとき」をめぐって


やはり水村美苗の「日本語が亡びるときーー英語の世紀の中で」『新潮』(2008年9月号)について書いておかなければならないと思う。mixi 上で紹介したら、私の知人・友人の多くが水村美苗の議論について、大いに関心を持ってくれたからだ。

さて、「日本語は亡びるとき」は日誌または小説の形態をとってはいるが、笙野やクッツェーの作品のような特別な「からくり」があるわけではなさそうだ。ここでは単なる評論とみなし、物語的展開についての言及は捨象しておこう

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さて、内容はといえば、ある意味では凡庸である。タイトルが示す内容そのままであり、必ずしも刺激的な評論とは言い難い。しかし、もちろんのことだが、この小説家独自の問題意識も散りばめられている。とくに興味深いのは、アメリカで教育を受けてきたにもかかわらず、「なぜ日本語の作家となったのか」というテーマ、あるいは、「なぜ私は英語の作家にならなかったのか」というテーマを水村美苗が抱いているからである(同書、171頁)。 英語と日本語の両方の世界に足を踏み入れた女性が、世界的に見ればマイナーな日本語という言語をあえて選び取ったのは何故か。こういうテーマを抱えている日本人作家が、日本語が亡びるときを論じるのだから、やはり読んでみないわけにはいかないだろう。何しろ水村美苗と言ったら、日本語と英語による本格的なバイリンガル小説『私小説 from left to right』の作者なのだ。


かつて村上春樹について、次のようなことを書いてみた事がある。村上春樹といえば、アメリカ文学を愛好し、グローバル化した社会に奉仕する、ネオリベ的で非国民的なケシカラン作家であるとしばしば批判されている。私はこの見解に半ば同意しつつも、村上春樹が彼なりの枠組みで日本語と日本語文学の枠組みにとどまっている事を論じたのだ。このグローバリゼーションの時代において、村上という作家はボーダーライン上にあるのだ。もしその気になれば、優秀なエディターを雇い、アメリカ語の売れっ子作家になることも可能だったではないか。それなのに日本人・日本語作家であることやめてないのだ。しかも、海外向けて作品を発表するばかりでなく、英語文学を日本語に翻訳するという地道な作業に取り組んでいる。彼なりにグローバリゼーションに対して抵抗をしているのだ、と。

しかし、村上春樹の後の世代が日本語文学にとどまるのか、たしかに心許ない。もし日本人の最大のベストセラー作家が英語で執筆する時代になってしまったならば、日本語と日本語文学は壊滅的なダメージを受けている時代の到来ではないか。

バイリンガル或いはフランス語を含めて三カ国語が堪能な作家・水村美苗は、どのようにして議論を展開しているのか。予想通りというべきか、水村美苗もベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』に言及している。しかも極めて批判的である。アンダーソンは、ヨーロッパ的な多言語主義の視点に立っているが、自分が英語を母語とする人間だから、英語が他の国語とは違う<普遍語>であることについて、十分検討していないというのである。<普遍語>に関しての思考の欠落があるのだ、というのだ。

水村美苗のアンダーソン批判は不当なものである。というよりは、アンダーソンとは異なる価値観の持ち主だと思うが、差し当たりその事について取り上げず、水村の論旨を追っていこう。水村の提案は、アンダーソンが探求を怠っていたという<普遍語>についての検討である。

水村は言う。<普遍語>とは、学問のための<書き言葉>であり、<読まれるべき言葉>以外の何ものでもない。<叡智を求める人>は、例えばガリレオやエラスムスは、ラテン語で書いたのだ。これに対して<現地語>というのは、下位のレベルにある言葉であり、<書き言葉>の有無は問わず、「女子供」と無教養の男のためのものでしかない。文学として意味を持つ散文が書かれる事は少ない。

他方、<国語>は<普遍語>でも<現地語>でもない。もとは<現地語>でしかなかった言葉が、<普遍語>を翻訳する過程において<普遍語>と同じレベルで機能するようになった言葉である。そして、近代の英仏独の<3大国語>は、<普遍語>と<現地語>を持ち合わせる言語となったのだ。そして19世紀になると、他の小国のヨーロッパ人たちも<自分たちの言葉>で書くべきだと考えるようになるのだ。<国語>の時代に入ったというべきであろうか。

ここで、水村はきわめて論争的な仮説をいくつか提示する。<国語>の時代に<学問>と<文学>とが別れるようになったのだ、そして、「人間とは何か」「いかに生きるか」といった問いは、専門化された<学問の言葉>には求められず、<文学の言葉>に求められるようになったのだ、と。もちろん文学、とくに小説の言葉を担うのは、<母語>あるいは<現地語>と<普遍語>の双方の性質を有することができた<国語>であった。

さらに追い打ちをかけるように、「この世に<真理>には二つの種類がある」(206頁)とまで述べる。テキストブックを読めばすむ<学問の真理>と、必ずテキストそのものにかえってそれを読まなければならない<文学の真理>があるというのだ。いわゆる科学の真理と、文体に宿る真理とがあるというわけだ。実にユニークな主張であることは誰も否定できまい。


以上のような前提で、水村美苗は日本近代文学が「亡びる」、いや、すでに亡びつつあると述べているのである。つまり、日本語で書かれた文学一般が消えて無くなってしまうというのではなく、<文学的真理>を備えた本物の日本近代文学が亡びつつあるのだと主張しているのだ。すなわち、英語が<普遍語>となり、<国語>の祝祭の時代が終焉すれば、<国語>はただの<現地語>と化す。そうなれば、<叡智を求める人>は<現地語>化したニホンゴ文学など読まなくなる。「<叡智を求める人>であればあるほど、日本語で書かれた文学だけは読もうとしなくなってきている」(209頁)、と。


水村の論旨をたどっていくと、そのキーワードは結局のところ、<真理><叡智を求める人>である。しかし、それでは日本の近代文学の<真理>とはなんだったのだろうか?おそらく、水村氏の考えでは、夏目漱石の小説に体現されているのであろう。だが、<文学の真理>なる概念によって評価される夏目漱石らの近代文学とは、いったいどういうようなものなのか。水村の今回の評論では、そういったことまでは論述されずに終わりになっている。一番肝心な議論のはずなのだが・・・。(続編は2008年秋というから、もう2-3ヶ月もすれば筑摩書房から刊行される予定である)


私が彼女の議論に少々違和感を覚えてしまうのには、いくつかの理由がある。まず、普遍語や国語で探求しようとしているのは、はたして彼女の論じるような<真理>だけなのだろうかなのかと思ってしまうからだ。たしかに水村は<学問的真理>とは別の次元の真理があると述べた。それは<文学の真理>である。だが、そうなると、たとえば信仰や美や愛の真理はいったいどこに属するのだろうか。水村はアンダーソンを批判して、普遍語の探求をしながらも、例にあげたのはガリレオやニュートンといったルネッサンス・近世以降の学者だけであった。逆に言えば、アウグスティヌスだとか、井筒俊彦が論じた諸賢人の名前は、全く取り上げれられなかった。だが、ラテン語やギリシャ語のような普遍語は、本来は神学や宗教的真理の探究のために学ばれたのではないか。要するに、近世・近代の世俗化した学問や近代文学(小説)の真理は、宗教的神秘的次元の真理についての探求は、禁欲したり括弧にくくったりしてしまったのであろう。そして、水村もまた安易に継承し、近世・近代的な思想に限界づけられている。私は中世的な信仰の世界に戻れと論じているのではない。だが、宗教的真理だとか祈り・信仰的次元を見ないできた近世以降の学問と文学を無条件に肯んじているのことを問題にしているのである。また、もちろんのことであるが、アメリカ語が<普遍語>になるとしても、信仰の次元において<普遍語>となるとは思われない。

私が今脳裏をかすめているのは、たとえば、笙野頼子の宗教的私小説がある。笙野は個々人が祈る心に焦点をあてつつ、日本近代(と明治政府ちゃん)を乗り越え、日本神話の再解釈・再構築というテーマにまで挑戦した。さらに国家語さえも根底から支えている神話の書き換えまで小説的に論じようとしている。あるいは、Ben Okriやターハル・ベン・ジェルーンのような小説。そういった現代の新しい小説は、水村の枠組みを挑戦するものなのではないのか。

もう一つの違和感――さきの違和感と大いにオーバーラップしてくるがーーは、ベネディクト・アンダーソンの解釈にも関わってくる。


水村は不遜なことに「アンダーソンは普遍語の意味を十分に考える必然性がなかった」(189頁) と述べ、アンダーソンをヨーロッパに典型的な多言語的知識人であると規定する。

だが、そうアンダーソンに保証されて、ワァーツと拍手をしても、家に戻ってきて正気に返ったとき、さあ、それではアンダーソンに倣ってインドネシアの言葉やフィリピンの言葉を学ぼうという気になる人がどれくらいいるであろうか(186ページ)
水村がどのような心づもりで書いたのかはわからない。だが、アンダーソンこそは、コーネル大学において長年多くの学生を魅了し、インドネシア語やジャワ語の世界にいざなってきた張本人ではないか。半世紀近くに及ぶでだろうベネディクト・アンダーソンの学問的・教育的業績を、水村美苗は真っ向から否定するつもりなのだろうか。もちろんのこと、水村はアンダーソンの東南アジアの言語内在的な文化主義的研究については完全に無視してしまうのだ(苦笑)。ポイントは何かといえば、水村美苗の方は<現地語>を余りに簡単に軽視しているということだ。つまり、ヨーロッパなどのマイナーな国語だとか、ジャワ語だとかのいわゆる現地語によって探求され明らかにされてきた様々な<真理>について、全く顧みようとしないのである

いとも簡単に、現地語の詩や小説などは、教養のない男や「女子供」の慰めでしかないつまらぬものであると決めつけてしまう水村美苗。女子供という言葉にカギカッコをつけても、結局は同じところであろう。要するに水村は、「教養のある西欧のブルジョア・インテリ男」の立場に立って物を語っているのである。私はここでも、笙野頼子を思い出す。
インテリから見たとき、今の私はもう見えないはずです。作品も読めない。今の私はいると困る存在です。だって金毘羅なんだし。メルロ・ポンティとドゥルーズ=ガタリのある本棚の中にある私の本を並べて楽しんでいた人達はきっと私を見て捨てるでしょう。熊楠と折口信夫が好きな人などはもとよりそうです。(『金毘羅』194ページ
この小市民の私、つまり、「戦後のロリコン達が口を極めて罵る凡庸な『私』」(『金毘羅』225ページ)の極私的物語は、水村美苗の中では取るに足らぬものと消されてしまうことになるのであろう。

「日本語は亡びる」という問題意識については、私が水村美苗に大いに共感する。<国語>から<現地語>に転落してしまうではないか、という議論もわからないではない。アンソニー・リードの『東南アジア史』を読めば、前植民地時代のフィリピンの詩と読み書きの伝統は、まさに「女」による「程度の低いもの」であるようにさえ思われることは否定できない。(注。ただしフィリピンは東南アジアの僻地であり、ジャワやタイのような独自の王朝文明が栄えた土地とは異なる。フィリピン諸語とインドネシア諸語とは文化の厚みが全然違うのである!なお、ベネディクト・アンダーソンにはジャワ語の古典文学の研究論文もある)。

しかし、明治近代文学を自明の前提とするような水村の議論の組み立て方には、やはり最後まで違和感を感じざるを得なかった。新しい時代を迎えようとするとき、近代主義的価値観に束縛された議論に終始してよかったのだろうか。



P.S. 水村美苗の危機意識、つまり日本語文学ばかりか、フランス文学のようなメジャーな民族文学までもが現地語文学に転落してしまうのではないかという恐怖についての論評を読んだ者は、ぜひとも小国文学者ミラン・クンデラの『カーテン』所収の「世界文学」を読んでみる必要がある。

欧州文学の先端を切っていたアイスランド文学の運命、国語消滅の危機におびえていたポーランド人と文学、ロシア支配のもとで本当に死滅する危機にあった中欧文学等々。翻訳の意義だとか、あるいは、大江健三郎の小説論だとか、刺激に富む議論ばかりである。大国主義者水村美苗とは異なる視点もうれしい。

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(注)クッツェー「アフリカの人文学」が大いにヒントになっている。この小説では、架空の女性作家で主人公のエリザベス・コステロ主人公がアフリカ在住の姉ブランチを訪ねるのだが、そのブランチが名誉博士号授賞式で、挑発的議論を展開するのである。私は、その挑発的議論に大いに示唆されてしまったのだ。



2008年8月23日土曜日

天才と障碍(その3,笙野の冗長と鋭さ)

おそらく真面目に笙野頼子の読解に取り組む者にとって、彼女がアスペルガーかどうかということは、あまり大事なことではないかもしれない。しかしそれでも、アスペルガーという補助線を行くことにより、いくつかの事が理解しやすくなるような気もする。根本的なテーマの解明についての助けにはならないが、周辺的な謎を理解するのには役に立つ、そんな感じじゃないだろうか。

例えば、いくつかの作品は、余りにも「ブス」についての言及が多すぎ、辟易してしまう。「そこんところ、もっと要領よくまとめてくれませんか」と思ったものだ。しかも、笙野が大してブスでないことが判ってしまい、しらけてしまう(笑)。

大塚某との「論争」などは、はっきり言って面倒くさい。なぜそう言った事に読者がいちいちつきあ合わなくてはならないのか。もちろん大塚某を読もうとは思わない。サイードの御本を理解するためにコンラッド、キプリング、カミュを読み込んだ私だが、笙野のために大塚は断じて読まないぞ! (当たり前である)

そういったイライラ感は、笙野がアスペルガー的性格だったということで、腑に落ちるし納得できてしまうのだ。(もっとも最近の作品群に関していうと、書くべき実に莫大なテーマをしっかりと見据え、あまり無駄がないように思われる。ときには繰り返し同じことを書くが、ご愛嬌というレベルだ)。

また、ある種の深読みが不要になる。例えば、近現代の恋愛至上主義的イデオロギーの批判を笙野に読み取る必要もなくなるだろう。笙野は、あくまでも私的な話をしているのであって、恋愛至上主義イデオロギーを批判しているつもりはないのに違いない。


或いは、次の文章などは、笙野をアスペルガー的性格とみなしていけば、判りやすく解釈できる。

モラルは人間の体にある。寄生している金毘羅はそのモラルを演ずるのだ。愛情も演じてみているのだ。演じついでに信じてしまわなくてはいけないのだ。というか本当に人間になりたいのです。でもできれば人権だけいただいてどこかに逃亡したい。(149ー150頁)



しかし、次のような鋭い指摘は、笙野がアスペルガーかどうかということとは直接的には関係ない。とはいえ、アスペルガー的性格だからこそ、このように認識しそれを表現してくれたのかと感慨深い。


私の、金毘羅の目からみれば、つまりたとえば文学の世界で語るべきことが何もないと言っている人間は新しく語るべき現実から目を背けているだけだと分かりました。または「私などない」と言っている人間は自分だけが絶対者で特別だと思っているからそういう抜けたことを言うんだと見抜けました。(中略)大量死で文学が無効になったという人間も爆撃テロで文学が無意味になったという人間も自分は死んでいません。それとも出家でもする気なんでしょうか。(110ページ)

こういうことをしっかりと書いてくれる作家がいる事を、とてもうれしく思う。私の学生時代、柄谷も重要であったが、それ以上に重要な位置を占めていたのは、哲学者の廣松渉であった。廣松の議論は「共同主観的存在構造」であるから、いわゆるブルジョア的個人主義の哲学は否定される。そのことはよく理解できるのだが、どう考えても、心と体を持ち限界づけられた個々の観点を適切に論じているように思われなかった。そのことを広松派の友人たちに論じたりもしたのだが、誰も理解してくれる人はいなかったのだ。今考えてみると、私が抱いていたのは、哲学的領域というよりはむしろ文学や神学の主題に近いし、より文学的に論じるべきだったのだ。しかし、いずれにせよ広松的共同主観的存在論では、認知しえない課題があることは確かだったのだ。それを今、笙野頼子が引き受けてくれている!  なるほど、ついに現れたか! しかも、柄谷派の傲慢な発想を端的に指摘しておるじゃないか!


考えが「波動」になるだのお祈りが「粒子」になって万札を運んでくるだの。金毘羅は、むろん引っかかりませんでした。つまり金毘羅は言葉の中でしか生きられないがゆえに日本語というものいちいち言葉の通りに検討するからです。(115ページ)


これは痛快だ。(疑似科学批判のときに、オカルト批判の早稲田の教授を何度も何度も批判する事は、はっきり言って冗長すぎるのだが)。

要するに、言葉をいついかなる時であっても、雰囲気ではなくてロジックで理解しようとするから、こういう認識が可能になる。偽数学・偽科学によってごまかそうとする偽科学主義エリートをけっして笙野は許さないのだ。そのシツコサが偉い!


笙野アスペルガー説については、これまでとする。

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天才と障碍(その2)





以下は、笙野頼子の『金毘羅』のなかの文章である。

問題は実は私のほうにあるんだと思う。というのは要するに普通の家族というのは言葉なんかではコミュニケーションしてないからです。というよりそもそも日本国民の殆どはロジックに乗せてまともに日本語を使う能力などありません。矛盾した事をころころいいながら自分の感情だけ身振りだけを表現するのです。そして職場ならば力関係者で物事が決まります。家庭ならば言葉ただ身振りと感情でやりとりされて、愛情や調和があれば、それでいいのです。だから健全な子供は言葉なんかいちいち覚えていないのです。しかし金毘羅は言葉を全部辞書的に取るしかない。(106ページ)

家族はただこう言いたかっただけであった。「どうかこっちを見て、私達といて、現実に目を向けて」と。私には家族が見えていなかった。家族とは何かを判っていないのだし、家族とともに何かをしたり、そもそも一緒に何かを生きたりする能力がないのでした。(106~107ページ)

本当に人間のする事は判りません。何をするか判らないしそもそも人間にはまともな日本語を使えないのだ。金毘羅にとって、人間程恐ろしいものはありません。(108ページ)

日本特有の、「誰かとまずくなる」という事の問題でも買ってない。というかどうでもいいのです。また我慢強いと言われる事も多いのですが、自分が我慢している事を判っていないことも多いのでした。(108ページ)

私は「コモドドラゴンのようにしつこい」と生前の母から話言われていたのです。(中略)もともと金毘羅とは生存競争に弱いものなのです。ただ言葉や考えに容赦なく制限がないだけです。(中略)どんなに相手にしろ私が怖くしつこいのはしうちや金銭に対してではなくて、言葉に対してでした。(108ー109ページ)

しょせん、金毘羅は言葉やロジックでしか社会、人間と触れ合うことができないです。どうしてかというと人間のする事があまりわからないからだ。だから一言でいえば金毘羅とは迷惑なものです。しかしその一方言葉で触れ合うというのは実は非常に大切で主要なことでもしもこの国に1人もそういう能力のある人がなければ困るはずです。金毘羅はそういう世界こそ必要な「人材」でした。(109~110ページ)

あまり大きな声で言うつもりはないが、この文章を素朴に読む限り、笙野も、加藤一二三同様にある種の発達障害、とりわけ高機能自閉症またはアスペルガー症候群の可能性が高いのではないのか。決して笙野という作家を貶める意図はない。むしろ、アスペルガー的であることによって、作家として得難い才能を発揮したとも言いたい。

とりあえず、 オリバー・サックス著「火星の人類学者」というのを読んでみなくては。(続く)

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2008年7月26日土曜日

笙野ファンはエミリー展に急げ







http://www.emily2008.jp/

笙野ファンは、7月28日(月)までで終了してしまうエミリー・カーメウングワレー展(東京)に急いだほうがよい。

笙野の処女作「極楽」あるいはバルザックの「知られざる傑作」(大学生の頃、フランス語で読まさせられた記憶がある)(=「絶対の探求」だと思っていたが、どうやら私の勘違いでした)と通じるような世界を作り出した、オーストラリアー先住民の芸術家の作品が、そこに展示されているのを発見するだろう。西欧近代からは全く自由に、太古の地下脈に耳を澄まして作り上げた芸術がそこにあるのだ。


2008年7月13日日曜日

笙野頼子とポストコロニアリズム

議論を展開する前に笙野頼子とポストコロニアル文学との関係について書いておかなければならないということに気がついた。

笙野頼子はポストコロニアル文学なのか?端的に回答してしまえば、NOであろう。私自身、ポストコロニアル文学と笙野頼子の両方に興味を持っているし、安部公房はポストコロニアル文学であると主張している。だが、笙野をポストコロニアル文学とは言い難い。もし笙野頼子自身に問いただしてみれば、「俺はポストコロニアル文学というものをよく知らない。いや、もし李良枝がポストコロニアル文学だというのならば、全く知らないわけではないが・・・」と答えるのではないだろうか。(李良枝と笙野頼子というのは、ポストコロニアル文学の視点からいえば、最も重要なテーマに違いない! だが、私にはまだ扱うことができないのである)。

笙野頼子がポストコロニアル文学ではないとしても、共通のテーマに取り組んでいると言っても良いだろう。とりわけ、歪められた言語と宗教に対する取り組みがそれである。そして、ここでは当初、ポストコロニアル文学におけるサバルタン表象と、笙野頼子の火星人および火星人落語の描き方について比較するつもりだったが、もっと大きな枠組みで対比できるように思われてきた。そこで、予定を変更を変更して概略をのべてみる。

[ポストコロニアル文学と笙野頼子を大枠で比較するという試みは、もちろん危険性もある。笙野頼子をネオ・リベラリズム批判の枠組みで論じるのが不味いのと同じ意味で、矮小化する危険があるからだ。しかし、私以外の人が笙野頼子とポストコロニアリズムを比較しようとは考えついていない様子なので、こういった試みにも一定の意義はあるのではないか]。

ポストコロニアリズムの4類型(3類型ではなくて4類型にしてみました)。

①対抗国家あるいはナショナリズムと民族文学
②保守派ポストコロニアル文学
③リベラル・ラジカル派ポストコロニアル文学
④エリート主義的ポストコロニアリズム(≠文学)



①はポストコロニアリズムだとかポストコロニアル文学ではない。要するに、ポストコロニアルではなくてアンチ・コロニアリズム。また、その延長線上にありながら、帝国全体を書き直そうとするのではなく、ローカルな土地に自閉し、独自の対抗国家を築こうとしているする。文化・文学的に言えば、ナショナリズムや国家主義、あるいは対抗神話を志向することになる。あるいは、民族文学を樹立することになるのでしょうか。ポストコロニアリズムがハイブリッドな非同一性の理論なのに対し、こちらは均一的で排他的な同一性の理論であると言うこともできる。

②保守派ポストコロニアル文学―サイードが厳しく批判したナイポールやカミュなどがこの保守派だ。ここで重要なのは、その保守的・反動的見解にもかかわらず、優れた文学でありうるということ。また、サイードのようなポストコロニアルの批判的知識人たちとの距離も、意外にそれほど大きくないということも注目に値する。言い換えれば、サイードがポストコロニアリズムのチャンピオンで、ナイポールは反ポストコロニアリズムだといったような議論は、ポストコロニアル文学の概念を誤解したものだと言えます。

③リベラル・ラジカル派ポストコロニアル文学―ここでとりあえず、②との差異は思ったほど大きくないと強調しておきましょう。エジプト時代のサイードの境地は、帝国主義作家キプリングのインド体験と共通した物だそうだが、全然驚くべきではないだろう。政治的には対立関係にあるように見えても、実は彼らは同じ土俵にいるのである。

④エリート主義的ポストコロニアリズム―サバルタンあるいはネイティブ・インフォーマントを代弁すると称するインテリ学者たち。彼らは、左翼的あるいはPC的反体制的なポーズをとっているが、被抑圧者を利用しているだけにすぎない学者・知識人・評論家たち。もちろん彼らの書き物は文学とは言わない。③のリベラル派・radical派ポストコロニアル文学は、④に転落する危険性もある。


ポストコロニアル文学についての日本語の解説本はいくつかありますが、このような類型は多分新しいはずです。もちろん前々から私にはこういう認識はあったわけですが、笙野頼子の小説の類型にも役立つのではないかと思って書いてみたです。つまり_、

①対抗国家(対抗神話)を選んだ人々というテーマ、ウラミズモと『水晶内制度』
②江藤淳と保守的評論家
③ 笙野?
④「おんたこ」(ニセ知識人)と火星人(対抗神話を持たない被抑圧者)との共生関係 『だいにっほん』

2008年7月3日木曜日

ポストコロニアル文学のサバルタン表象①

サイードの『オリエンタリズム』が過度にヒットしてしまった結果だろうが、ポストコロニアリズムはしばしば誤解されることになった。わたしの知人でも誤解している人はかなり多いのだ。簡単に言ってしまえば、左翼・反植民地主義だからサイードとポストコロニアリズムが好きだという風に誤解する人と、その反対に左翼の生き残りにすぎないから嫌いだと誤解してしまう人に分かれてしまうのである。(希に、左翼として不徹底であるからサイードやポストコロニアリズムはダメだと批判するものがいる。これは誤解ではなくて一つの正論である)。

じつは、私のブログに言及しながら、ある人がポストコロニアリズムについて、まるで見当違いの文章を書いていたのを発見した。おそらく、ポストコロニアル文学とかその研究本を全く読んだことがないのだろう。毎度のことなのでやむをえないとは思うが、やっぱり残念なことである。(もっとも重要な参考書をあげると、オーストラリアの白人文学研究者アッシュクラフト他による『ポストコロニアルの文学』(青土社)。1番最近の興味深い研究本は、中井亜佐子『他者の自伝―ポストコロニアル文学を読む』(研究社)である。また、詩人・エッセイストでもある中村和恵(明治大学)の書くものは、ほとんど必読のものばかりである)。

しかも、笙野頼子のだいにっほん三部作の戦闘的文学について、稚拙なまでのパーフェクトな誤解している。こういうのは全くの勘違いなので、残念ながら批判する価値はない。(だが、文学・思想関係では、こういった誤解がしばしばあるから不思議である。決して頭の悪い人ではないはずなのだが、・・・。でも、大変ケシカランことです)。

さて、その人のポストコロニアリズムおよび笙野批判は、こんな文章であった。

自らの権力者である部分が見えていない故に進めない。それは笙野本人にも感じられることだ。笙野あるいはこの筆者に欠けているもの。それは、それこそスピヴァクの言葉である『サバルタンは語ることができるか』という問いである。何故サバルタンは自らを語れないのか。何故サバルタンは歴史を奪われてしまうのか。こういった問いがないとは言えないが、その存在感が薄いために、笙野は火星人主人公たるいぶきに歴史を語らせようとする。

もう一度言う。そんな簡単な話なのか? そんなに「わかりやすい」話なのか?こういった問いの答えを、それこそポスコロがやっているように、社会 体制に求めるのもよかろう。しかし歴史上の幻想にそれを求めると、歴史幻想における権力者の分析になり、自らの権力者である部分には何も影響が生じない。 自他未分 化的なおぞましくも魅惑的な領域に辿り着けない。サバルタンは非サバルタン化されることが「正しい」という固定観念から抜け出せない。


こういった考え方ほどポストコロニアル文学や理論からほど遠いものはない。というのは、書き手が語る言葉や文学の権力性についてもっとも自覚的なのが、サバルタンを主題化しようとするポストコロニアル文学だからである。端的な例は南アフリカの白人作家J.M.Coetzee のFoe(邦訳『敵あるいはフォー』)だ。この小説はDefoeの『ロビンソン・クルーソー』のパロディーだが、ここでは原住民フライデーは舌を抜かれて全く発話できなくなっている。そして、好き勝手に小説を書く作家デフォーは彼の敵(=フォー)となっているのだ。アパルトヘイト政策の南アフリカでアフリカーナー系白人作家が文学をやっていることの批判的言及になっているのはいうまでもない。(クッツェー文学というのは実は、クッツェーの「分身」や「祖先」が強姦親父になってしまう作品が多いのである。たとえば『恥辱』では、白人の英文学教授がカラードの女子学生を無理やりベッドに連れ込んでしまう。彼自身も南アの白人大学教授であったことも付け加えておこう)。

そもそもポストコロニアル文学の起源というのは、植民地官僚や植民地旅行者の記録なのだ。世代を下るにつれ、植民地生まれの白人クレオールたちだとか、原住民エリートたちが文学を執筆するようになる。そして、今日よく知られたポストコロニアル文学者や批評家というのは、実は、白人クレオールか文化的にイギリス化(フランス化)したような原住民エリートなのである。まもとめてしまうと、ポストコロニアル文学とは、①白人クレオールあるいは白人化した原住民の書き手によって執筆されたものであり、②宗主国の文化的・文学的伝統に則りながら、それを批判的に克服しようとする試みがなされたものである。断じて、サバルタン解放文学ではないのだ。

それではポストコロニアル文学の中では、植民地の中で発言権をもたない弱者について、どのように表現されているのか。意外に思われるかもしれないが、ポストコロニアル文学がサバルタンを好意的に論ずるとは限らない。(政治的非正義の代表的作家ナイポールがその代表だ)。もちろん、サバルタン対して好意的な作家もたくさんいる。しかし、まじめな作家である限り、サバルタン=被抑圧者を真正面から描きあげることはできない。何しろ書き手は、いくらリベラル・マインドで弱者にシンパシーを抱いたとしても、所詮は白人支配者の側にいるのだ。被抑圧者の文化や生活あるいは言語に通じてないのだ。というわけで、(ポスト)コロニアル文学においては、被抑圧者というものはどうしても主人公にとって恐怖の対象であるとか軽蔑の対象になりがちなのである。そういう文脈をよく考えないと、ポストコロニアル文学におけるサバルタンの表象の問題をよく理解することができないわけだ。

わたしが考えるに、ポストコロニアル文学のサバルタンの描き方には次の3通りの類型がある。

① 保守派のポストコロニアル文学――被抑圧者、弱者、被植民者、サバルタン、女、火星人、黒人といったものを恐怖の対象または軽蔑の対象としてとして描く文学である。

分かり易いのは、むしろコロニアル文学というべきであろうが、巽孝之の解釈するエドガー・アラン・ポーの『モルグ街の殺人事件』が挙げられるだろう。巽によれば、人間ばなれした怪力の殺人オラウータンは、南部アメリカ貴族ポーにとっての黒人なのだそうである。いわゆるポストコロニアル文学で言えば、カリブ出身の白人クレオール作家ジーン・リースの『サルガッソーの広い海』における、主人公の女性の黒人奴隷に対する恐怖をあげるのが適当だろうか。あるいは、カリブの小さな島トリニダード出身のインド系作家ナイポールの描く旧植民地社会(特にアフリカとインド)の描き方をあげてもよいかもしれない。

② エリート主義的的ポストコロニアリズム――保守派のポストコロニアル文学は文学だったが、これは文学と呼べる代物ではない。むしろ、アカデミズムの危険な潮流である。(笙野頼子の「おんたこ」とほとんど似通っていることに気づくであろう)。要するに、ポストコロニアル文学批評の難しい言葉を操ることができる植民地出身の知識官僚・エリートたちが、本当の弱者やサバルタンを「代弁」し、自分たちの特権を強化しようとするやり方である。

参考文献は、SpivakのA Critique of Postcolonial Reasonである。たとえば序文でSpivakは次の様に書いている。「わたくしは、ある種のポストコロニアルの主体が逆にコロニアル主体を再コード化し、〈ネイティヴ・インフォーマント〉[≒サバルタン]の立場を占有してきていたことに気づき始めた。グローバリゼーションがたけなわの今日では、テレコミュニケーションが〈ネイティヴ・インフォーマント〉から直接に土着の知識と称するものを盗み取りし」ていると述べている。詳しくは、この本の「文化」の章をよく読んでもらいたい。(邦訳がわかりやすいとは必ずしもいえない。原文でまずは読むことを薦める)。

③第3のポストコロニアル文学――これがいわゆるポストコロニアル文学のサバルタン表象である。じつは①保守派の文学との距離は案外近いのが興味深い。(明日また続きを書く)


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2008年7月1日火曜日

笙野頼子の火星人落語

笙野頼子の火星人落語とは、笙野が3部作を通じて何度も書いてあるように、「自分をひどい目にあわせた人間のまねをしながら、淡々と語って人を笑わせる」というものである。「取って食う芸」だともいう。

それはどういうことか。

被抑圧者である火星人たちは、自分たちの文化・歴史を持っていないと推測される

②したがって、火星人たちは何らかの言葉や声を出そうとするならば、自分たちを暴力的に支配したり殺してしまう人間たちの言葉に依存せざるを得ない。つまり、「自分をひどい目にあわせた人間のまね」から出発せざるを得ないのである。言い換えれば、火星人落語とは、支配者の言葉を「取って食う」ことによって、自分の言葉を獲得しようとする試みである。1種の本家取りと言ってよいだろう。 (このあたりの議論は、フィリピン革命を論じたIleto, Pasyon and Revolutionが大いに参考になる。要するに、植民地主義支配の道具であるカトリシズムが、革命的言語を準備することにもなったと論じたものだ)。

③火星人落語が面白くないと言うのは、半ば当然の帰結であろう。だが単に面白くないばかりか、危険と直面していることも分かるだろう。落語の語りに徹し「淡々と」しているならば良い。(「淡々と」語ることにより、いわゆる「反復強迫」を超えるのであろう)。だが、殺人者の言葉をそのまま語るのだから、被抑圧者が取って食うもりが、逆に支配者に食われてしまう危険がつきまとうのだ。このことについては、『だいにっほん』の第3部の168ページに次のように書かれてある。

でも実は死者にとって何かのきっかけで忘れた記憶を思い出してしまうことは危機だった。なぜなら死者はそうなるとそのときの記憶をいきなおしてしまうからだ。

④笙野の小説では、火星人少女は危ういところ我に返り、なんとか声を取り戻す(170-172ページ、219-220ページ)。そして、「あれほど否定した笙野理論の用語を単語だけ勝手に使い自己流で喋」(223ページ)たのである。ここで重要なのは、笙野と火星人少女とのあいだにある距離である。笙野は火星人に対してシンパシーを持つ立場であるが、決して火星人ではない。また、笙野は火星人少女に教え諭し、操作できるような関係ではない。火星人の少女は、笙野先生から言葉を習いながら、それを自分なりにつまみ食いし、自分の言葉を持つようになったのである。(南アフリカのJ.M.COTZEEの小説Foeは『ロビンソン・クルウソー』のパロディで、ここでは先住民のフライデーは舌を抜かれていて全く言葉を話すことはできなかった。同じように、火星人=サバルタンが全く言葉を話さないとか、話したところでわれわれには全く理解できないといった設定にすることも可能であっただろう。しかし、それはまた別の小説であり、笙野の今回のシリーズに大きな問題点があったとは思われない)。



⑤火星人落語は何を目指すのかと言えば、火星人神話である(219ページ)。
「火星人神話」と言うのは文化と歴史を喪失した被抑圧者たちがこれから作ると期待される希望の物語である。ただし、火星人神話がどのようなものであるのかは、本書では語られることは無い。火星人少女は、あくまでも火星人神話とどのようなものであるのかその概略を語るだけである。火星人神話が詳しく語られないのは当然であろう。作家・笙野頼子は、自分が火星人ではないのだから、語ることは許されていないのである。もっとも、遊郭について何も知らないのに遊郭に語ってしまったので、作家・笙野頼子はすでに罪を犯してしまっているのだ。(笙野の罪がどれほど大きいのかを論じるのは、別の課題としたい)。

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2008年5月28日水曜日

火星人と逆転劇ー安部公房と笙野頼子



(覚え書き)

笙野頼子ばかりでなく安部公房にも火星人が出てくるという指摘をしておいた。しかし、安部公房と笙野頼子の火星人は、小説注において全く異なる取扱いがなされている。

安部公房は晩年のエッセイ『死に急ぐ鯨たち』(新潮文庫)で次のように述べている。

もしあの島に、見えない原住民がいたとして、ロビンソン・クルーソーのすることなすこと、その原住民たちのいのちにかかわることだったとしたら、これはもう明白な犯罪小説じゃないか。ところで君はどっちの立場に立ってこの物語を読むことになるかな、ロビンソンの側か、原住民の側か。当然ロビンソンの側だろう、僕だって同じだよ、我々は植民地氏が民族である日本人だし、作者も同じく支配民族だから最初からそんな風に読めるように書かれている。(104ページ)

そしてそのうえで、「ロビンソン・クルーソーの物語を、殺された見えない原住民の側から書いてみようというわけだ」(105ページ)と述べ、『方舟さくら丸』の執筆意図を説明する。

だが私たちは、安部公房の最後の言葉を慎重に受け止める必要がある。ここでは詳細に述べる手間を省くが、安部公房が書いてきた小説は、SF作品を含めて一貫して植民地の支配民族、あるいは帝国側の市民の立場から書かれてきたものだからである。大英帝国のイギリス人が植民地人や弱小国に恐怖心を抱きつつ、ドラキュラ物語や宇宙人来襲の物語を楽しんだように、安部公房作品においても、支配民族の日本人が、火星人やら水棲人、あるいは満州人の闖入者だとか腐った子象、貧しい砂丘に住む辺境人に関する物語や演劇を恐れ楽しんだのである。(「第四間氷期」「人間そっくり」「闖入者」「公然の秘密」「砂の女」といったもの)。つまり、「殺された見えない原住民の側から」というのは、あくまでも決意表明と考えるべきであり、現実には公房の小説は、殺す・見る書く・読み側から書き続けてきたということである。(注 安部公房の『砂の女』は、キプリングの「モロビー・ジュークスの不思議な旅」と比較されるべきである。どちらも植民地の砂穴の中に閉じこめられてしまう男の物語である)

そのうえで、「威圧するものと威圧されるもの、支配する者と支配される者というこの関係は、しかし最後に逆転したことが暗示的に語られる」(菅野昭正、『ユープケッチャ』新潮文庫、解説の254ページ)。つまり、安部公房の作品では、植民地世界において、植民者と被植民者との逆転劇や変身(願望)がテーマ化されるわけなのである。

安部公房は、被植民者やサバルタンについて、彼らを人間的に描いてみようとか、一つのまともな人格のあるものとして主題化してみることについては、結局あまり成功しなかったのではないか。たとえば「公然の秘密」あるいはその演劇作品である「仔象は死んだ」は、明らかに被抑圧者あるいはサバルタンを見つめる残酷な我々をテーマ化したわけだが、サバルタン自身に語らせることには至らなかったのではないだろうか。

私の見るところ、笙野頼子の火星人あるいは火星人落語というものは、サバルタンの変身劇のテーマを継承するものである。たとえば、『だいにっほん』の第3部の164ページ。火星人のいぶきが、変身を遂げるシーン。

どこかから聞こえているはずの自分の、いぶきの口調が変わった。というよりその声音になった時いぶきは「神」になっていた。自分を殺した男の口まねをして、いぶきは淡々としているのだ。それでもその男に似ているのだ。これこそは父師匠さえも生涯に何回か演ずる事がなかった、「自分をひどい目にあわせた人間の真似をしながら、淡々と語って人を笑わせる」という火星人落語の究極芸だった。「最高峰とって食う芸」である。

火星人いぶきの変身芸は、被支配者が支配者をとって食ういわゆる逆転劇というよりは、自虐劇の極まりにほかならない。素朴に逆転をかたれぬところに、火星人の悲しさがある。安部公房の変身劇との位相の違いが、興味深い。

2008年5月16日金曜日

植民地人としての火星人ーー笙野頼子と安部公房

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残念ながら、笙野頼子の小説には分かり難い言葉が多用されている。笙野の主張によれば、読者・ファンのブログで議論され検討されているということなのだが、世の中、そんなにディープなファンばかりではないし、やはりもう少し工夫してもらいたいものだと思うのだ。

さて、笙野の分かり難い言葉の一つに「火星人」があるのだが、これについては議論されているのだろうか? ネットで検索してもほとんど出てこない・・・。いやイヤ、よくみると、ある! 一つは私のブログだ(まだ本格的に議論していないが(苦笑)。もうひとつは、なんと「火星人クラブ」というHPだ。「火星人クラブ」は女性文学研究者たちが真面目に書いているものなのだ。だが、火星人を論じるのが火星人だったというのはちょっと笑える。議論としては、この人たちも、笙野の火星人を被植民地人と規定しているので、私の方向性とほとんど変わりないようだ。

ポストコロニアル文学を研究をしようという私が、笙野の火星人に被植民者またはサバルタンを見出し、火星人クラブが笙野の火星人を議論する。。。なんて、当たり前すぎる図式的展開なんだろう!だが、そういう枠組みを持たない普通の読者は、笙野作品の火星人をどのように受け止めたのだろうか?たんに戸惑っているだけではないのだろうか?

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ちなみにSFの火星人は植民地人のメタファーであることは、しばしばあるようです。たとえば、H.G.ウェルズの来襲してくる火星人にも、大英帝国の植民地主義の罪悪感が絡んでくるらしい。

また私は安部公房をポストコロニアル文学者とみなすと、より理解しやすくなると考えているのです。というのは、満州体験が反映した作品ばかりでなく、たとえばSF作品にも植民地という問題設定が読みとれるからです。ちなみに、『人間そっくり』の火星人の正体は、地球人クレオールであると説明しているところがあります。(したがって被植民者というよりは、開拓移住をするほうの植民地人ということですね)。また、『第四間氷期』の水棲人は、水中開拓植民地における人間の変形がテーマだと言えるのです。