ラベル ポストコロニアル文学 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル ポストコロニアル文学 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2009年11月7日土曜日

ポストコロニアリズムの二つの顔(1)ーーサイード『オリエンタリズム』は読んではいけない!

ポストコロニアリズムには、なぜかくも誤解やら対立が多いのだろうか。二つの理由があると思う。一つの理由はサイード自身にある。サイードの本を何冊かちょっと吟味してみると分かるのだが、『オリエンタリズム』だけは突出して読みやすく単調な議論で埋め尽くされているのだ。これが本当にサイードの著作だといえるのだろうか?

とくに注目したいのが『オリエンタリズム』と『文化と帝国主義』の前半部との間にあるギャップである。どちらも主著なのであろうが、前者をポストコロニアリズムの基本書と理解する人と、後者をポストコロニアリズム的思索の事例と考える人とでは、ポストコロニアリズムの解釈が大きく異なってきてしまうのだ。私の立場はどうなのかといえば、『オリエンタリズム』のナイーブで単純な議論を真に受けてはいけないし、初学者は読んではいけない本であるとすら思う。ポストコロニアル理論を理解したかったら、サイードでいえば『文化と帝国主義』と『パレスチナとは何か(After the Lasy Sky)』を読まなければならないと打った鋳掛けたい。

もう一つは、前回示唆したように、朝鮮が植民地化してしまったと思っている人と、朝鮮は植民地化されていないと思っている人との間の隔たりである。すなわち、朝鮮がポストコロニアリズムの射程にあるはずだという解釈と、ポストコロニアリズムの射程の外にあるという解釈が存在するのである。前者の立場の人からすれば、後者の見解は信じられないほどケシカラヌ暴言(!)に聞こえるかも知れない。だが、至極真面目な見解であり、全然暴言ではない。いずれにせよ、ポストコロニアリズムやポストコロニアル文学についての見解の合意を得ることはほとんど不可能であることは容易に察することが出来るだろう。


(1)サイードの二つの顔ー『オリエンタリズム』はサイードの主著ではない

以前書いたことだが、「帝国意識」をテーマ化する歴史学者とサイードらとでは問題意識が大いに異なっていて噛み合わない。なぜ彼らのギャップの根本理由は、サイードは本来的には文学者(芸術研究者)であるのに対し、帝国意識論の歴史学者は悪の表象には関心があっても、芸術には関心がないからである。ところが、歴史学者はサイードの『オリエンタリズム』を読んで、ちょっと大きな勘違いしてしまったのだ。

文学者サイードにとって『オリエンタリズム』はそれほど大事な著作ではなかったのだ。むしろ、あまりにも一本調子で退屈な著作とみなされるべきだったのだ。(他のサイードの著作を読むと、あまりにも反響が大きかったのでサイード自身がびっくりしているということが分かる)。

サイードに言及する書き手(出版物・ネット)の大半は、サイードといえば「オリエンタリズム」と『知識人とは何か』だと思っているしその2冊しか読んでいないように思われる。この2冊だけは、アマゾンのレビューが異様に多いことからもわかるだろう。たしかにエドワード・サイードの『オリエンタリズム』といえば、ポストコロニアリズムの先駆けであると見なされるし、前述の中井亜佐子も、そう書かざるをえない(16頁)。

だが、サイード=「オリエンタリズム」という「常識」は、一般読書人もそろそろ捨てるべきではないのか。最大の根拠は、『オリエンタリズム』においてはサイード本来の専門である文学作品についてほとんど触れられていないからである。仮に『オリエンタリズム』の手法で文学作品を論じることが「ポストコロニアル批判」だとしたら、芸術的価値のある作品としての文学を扱うのではなく、単なるイデオロギー文書として論じることになるだろう。つまり、帝国意識研究の実証的歴史学者が採用する方法論を採用するだろうし、文学作品は単なる差別発言の集積であり、糾弾すべき単なる過去の遺物となってしまうだろう。これでは対位法的(Kontrapunkt, contrapuntal)な方法論ではありえない。もし「オリエンタリズム」の名前を借りた、そのような「文芸批評」があるとしたら、それは野蛮なる文化的遺産への暴力でしかない。たとえば、民主主義や人権を理解していないからといって、『源氏物語』を糾弾するようなものなのである。要するに、「オリエンタリズム」的な見方というのは、文学や学問を認識し評価する際の一つの契機すぎないのであって、「オリエンタリズム」一本槍で勝負できるような視点とはなりえないのである。

もちろん、ポストコロニアリズムは文学や芸術学とは必ずしも関係ないという反論も予期しうる。たしかに、その通りだ。だが、そういった理解の仕方は、サイードの多面的な著作、とりわけ文学、芸術学を中心として展開される多くの専門的著作とは異なった観点に立っていること、またバーバやスピヴァックといった他の主要な論客とも大きな隔たりがあることを知るべきだ。


他方、詩や小説を論じた『文化と帝国主義』、とくにその前半部こそが彼の本当の主著であると私は言いたい(*)。残念ながら、この本を読んだ人はあまりいない。たとえばbk1のレビューアーの佐々木力(東大教授・科学史) や 小林浩のように、全く読んだ形跡がないで文章を書いている者もいるのだ。はっきり言って読むのは容易ではない。というのは、西欧とアジア・アフリカの出会いを扱った様々な小説が論じられるわけで、そういった小説を読み、文学に親しんでおく必要があるからだ。

だが、文学でしか表現できないような異文化と異人との出会いが、キプリングやコンラッドの小説では描かれている。そして、サイードも『オリエンタリズム』のように、そういった小説を一方的に糾弾していくのではなく、むしろ、帝国主義的あるいは植民地主義的作家に対しても優しく丁寧に論評が加えられている。たとえばキプリングは、大英帝国主義を支持した作家であるが、その作品の分析は糾弾とはほど遠い。事実、『サイード自身が語るサイードでは次のようにも語っているのだ

「彼[キプリング]は、いろいろな種類の住民たちを信じられないくらい細かく描き分けられる。また彼は若者と老人とを描写することにかけて、すばらしい才能を発揮している」(87頁)

「彼[キプリング]のインドについての感じ方はわたし[サイード]のカイロについての感じ方と同じだよ。つまりわたしはエジプト人ではないので、政治については思い悩むことなく、カイロの地に居座れるのだが、キプリングのインドについてそんなふうに感じていたはずだ」(87頁)
ここでは詳しくは説明できないが、サイードが作家を「批判」するときと、非文学者を「批判」するというのでは、その姿勢が全く異なるのである。一言で言えば、偉大なる芸術家であり作家であるのに、なぜ同時に帝国主義者でありえたのかという問によって、サイードはいつも彼らと向き合っていたように私には思われる。

キプリングばかりではなく、サイード vs ナイポールの対立も、同じような複雑で微妙な対立として理解しなくてはならない。ナイポールは、もしかしたら旧植民地をコケにする反動的文学者だと思われているかも知れないが、左翼サイード vs 反動ナイポールというふうな単純な枠組みで理解しては絶対にならないのだ。サイードであるが、いつでもナイポールの文学的才能を高く評価していたのである。つまり、ナイポールの旧植民地に対する辛辣な観察と記述を、反感を持ちながらもある意味では共感を持って読んでいたのである。彼らは、全面的に相対立するというよりは、共通の土俵の上で対立しながら共存していた。こういう微妙なところにポストコロニアリズムの真の意味があるのだともいえるのだ。

どちらをサイードの主著と取るかによって、サイードとポストコロニアリズムの解釈論議は大きく分かれるだろう。私は『文化と帝国主義』こそが主著であり、『オリエンタリズム』を過大評価しないことを訴えたい。もちろん、『オリエンタリズム』がサイードでありポストコロニアリズムだという人が大多数である現状は動かないだろう。だが、そういう多数派の人だとしても、『オリエンタリズム』を認めないサイード読者がいること、そして、そういう読者のポストコロニアル認識が多数派とは根本的に異なっているということくらいは、わかってくれるのではないのか。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
私の書いたことは、(今回も)まことに荒っぽい議論だと思う。だが、このことは、誰かが書くべきではなかったのか。文学研究者はこういう乱暴な文章は書けないだろうし、非文学者はサイードの文学研究に無関心である。だから、誰もサイードの二つの側面について言及できないのである。よって、文学には関心があるが、文学とはほど遠い完全にアマチュアの私が、敢えてこのような単純明快な二分法を提起してみたのである。


注釈
(*) さらに言えば、『文化と帝国主義』の最終部のいくつかの章は、ポレミカルなだけの無内容な発言集だった。あれも文学者サイードにとっては、ちょっと痛かった。おそらくは、「サイードって有名だけれども、学問的にはたいしたこと無さそうだね」と言われている。だからこそ、『文化と帝国主義』の前半部や、『パレスチナとは何か』ーーもう一つ別の主著であり、中井亜佐子も詳しく論じているーーについて、もっと語られてもらいたいと願う。

2009年11月6日金曜日

池澤夏樹のポストコロニアル文学批判(その4)

グーグルのようなもので検索しても、池澤夏樹に批判的な見解を書く人はほとんどいないですね。例の沖縄系社会学者あるいは運動家の人たちはともかくとして、池澤夏樹の見解に大賛成な人ばかりなのでしょうか。(沖縄系の池澤批判者が、彼の文学全集を議論してもよいのですが・・・)。反発を覚えないにせよ、彼の議論に何の疑問を感じないのは、あまり望ましくありません。あのさわやかで知的な感じに騙されて、安易に迎合したり、呑まれてしまってはいけないのです。というのは、池澤が語っていることは、ポストコロニアル文学論の観点の非常に重要な論点と関わっているからです。

(あらかじめ断っておきますと、わたくしは、池澤夏樹 (ポストコロニアリズム) vs 沖縄系学者(反帝国主義、反「ポストコロニアリズム」)の対立に関して言えば、どちらといえば池澤よりの立場です。(沖縄系や韓国系のポストコロニアリズム議論は、完全にその言葉の意味について誤解していると私は理解しているからです。彼らはポスコロじゃなくて、反帝主義なのです)。


まずは2008年における学習院大学での池澤の講演をみてみましょう。

僕は今回新たに編んだ文学全集には、ふたつの顕著な特徴があります。ひとつはポストコロニアリズム。①元植民地に住んでいた人たちが、宗主国の言葉で書いている、②もしくは宗主国から植民地に行ったひとが書く。 (番号はshaktiによる)。 (中略) 
ポストコロニアルの作家の例でいえば、マルグリット・デュラス。フランス人ですが旧仏領インドシナのベトナムやカンボジアで育ちました。彼女にはその土地について強い思い入れがあったのです。
それからジーン・リース。西インド諸島生まれの白人です。西インド諸島は、先住民、スペイン人、サトウキビ農場の労働力のために連れてこられたアフリカ人と、いろんな人種がたくさんいます。カリブ海のあたりでは「クレオール」とも呼びます。シャーロット・ブロンテ「ジェーン・エア」に、主人公ジェーンが出会うロチェスターの狂人の妻が登場しますが、ジーン・リースはその妻の側からの視点で書いているんです。従来、敵役とされたパーソナリティを置き換えると、まったく世界が違って見えます。
第二次世界大戦後の世界文学は、弱者の視点に変わった、抑圧された者にもペンを与えたと思います。今までの見方をひっくり返した。ジーン・リースはその典型です。すごみ、気迫があります。

実に簡潔で明快なポストコロニアル文学の定義です。しかし、再度繰り返しますが、池澤の議論に対して、あまりに簡単に、ふーん、そうなんだ、とか言って納得してしまっては絶対にいけない。日本のかつての植民地は台湾と朝鮮半島であったという普通に思っているような日本在住の人ならば、当然次のような疑問が浮かびあがらなければならないはずだからです。
  1. 元植民地出身の人は、宗主国の言葉で書かなければならないのか。それでは、この全集に含まれているような、中国やベトナムの作家の作品はポストコロニアル文学とは呼べないのか。また、元植民地の人は宗主国の言語で文学した場合のみポストコロニアル文学だといえるのか。
  2. 元植民地の支配者民族と被支配者民族の書き物が、同じポストコロニアル文学という枠組みにくくられてしまって良いのか。政治構造から考えれば、植民地の支配者民族と被支配民族は、互いに対立し合ったり、憎しみあったり、ときには互いに戦闘するかもしれない、究極の相反する極限にあるのではないのか。それなのに、旧支配民族の書き物もポストコロニアル文学に価するのか。

上記のような疑問が浮かんでこなかった人は、池澤の議論の斬新さときわどさを見逃してきたということになるわけです。しかし、結論的に言ってしまえば、ポストコロニアル文学というのは、この池澤の簡潔な定義で間違っていない。サイードやバーバ、とりわけアッシュクロフトの『ポストコロニアルの文学』といった論客の議論を整理すると、そう断言するしかない。この議論に賛成だろうと反対だろうと、それがポストコロニアル文学と文学批評の立場なのだとしか言いようがないわけです。もしこのヴィジョンが気にくわないのならば、むしろポストコロニアリズムを批判すべきだと言い換えることも出来る。(ポストコロニアル文学とポストコロニアル費用の違いはないかとか、他にもさまざまな問題が含まれているが、ここでは省略する)。

さらに、ポストコロニアル文学論の命題は、次のような非常に重要な議論へと展開されるはずです。



①韓国あるいは中国は植民地化ないしは半植民地化した民族ではない。

②ポストコロニアル文学の観点から言えば、植民地の支配者と被支配者が、「周辺」的な領土において空間と時間を共有していたことに多大な意味がある。つまり、支配と被支配者の対立関係は絶対的なものではない。


韓国が日本の植民地ではなかったという議論をすると、韓国系の人間・研究者が猛反発することが予想されます。また、現に私は何度もそういう体験はしている。その気持ちは分からないわけではない。というのは、彼らの考える植民地支配とは、異民族に対し物理的ないしは文化的社会的な暴力的支配を行うことであると定義しているからである。したがって、もしかつての朝鮮半島は植民地化されてなかっと指摘すれば、日本帝国主義の非人間的な暴力を無かったことにしてしまうとする良からぬ動機を勝手に想定してしまうからだ。

朝鮮・韓国系の立場の人たちの気持ちが分からないわけでは無い。だが、私の議論は、帝国主義的暴力の存在を否定する議論とは全く無関係である。日本は、他の列強と比べて相対的によいことをしたとか、近代化に貢献したとかという話ではない。そうではなく、大日本帝国の物理的文化的暴力にもかかわらず、朝鮮半島は根本的な文化変容(=植民地化)しなかったという議論であり、むしろ民族の文化的力量を称える立場なのである。(続く)


参考文献


P.S. このブログでは、本橋哲也の「ポストコロニアリズム」は、誤解と思いこみに基づいた議論の積み重ねをしてしまっているという立場を取っています。文学者が未熟に政治化したなれの果てなのでしょう。良い本を沢山翻訳している先生なのですが。

2009年11月3日火曜日

池澤夏樹の批判(3)ーー文学と社会科学

昨夜というか今晩というべきですか、2009年11月2日の池澤夏樹の放送は熱がこもっていて良かった。良い文学や小説を味わった感激がよく伝わってきました。私も、バオ・ニンの『戦争の悲しみ』は購入してしまいました。

暗夜/戦争の悲しみ (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-6)
暗夜/戦争の悲しみ (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-6)近藤 直子

おすすめ平均
stars『戦争の悲しみ』はオススメ
stars不思議な寓話と厳しい愛の物語

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

しかし、先週のはちょっといただけなかったな。フランスの作家トゥルニエの『フライデーあるいは太平洋の冥界』の紹介なんだけれども、はっきり言って稚拙な図式主義を振りかざしていたように思う。

私自身が読んだのは『フライデー』と全く同じものではなく、彼が子供向けに書いた『新・ロビンソンクルーソー』(榊原晃三訳、岩波書店/岩波少年少女の本24)のほうです。しかしその本の解説によると、セックスの部分だけを削除したのが子供版だったはずですので、大きな違いはないでしょう。(「印象的だったのは、二人だけなのに口で話をするのは面倒だから、たがいに手話でやりとりしようとフライデー(というかヴァンドラディ)が提案したこと、そして、手話記号の一覧表のイラストが詳しく掲載されていたことでした)。


さて、先週の池澤の何が不満だったかというと、またしても、文学の輩が社会科学者のナイーブな単純化の受け売りをしてしまったということです。

ああ、良かったら岩波文庫の『ロビンソン』の翻訳者の解説を見てください。東大英文科の英文学者平井 正穂教授が、大塚久雄のロビンソン解釈の受け売りをしているのです。大塚久雄の近代主義的な解釈が、原作を強引にねじ曲げた誤読であることは、たとえば岩尾 龍太郎だとか、正木 恒夫植民地幻想』といった著作をご覧いただきたい。問題は、大塚近代主義だけではなないのは明白でしょう。(上)(下)二冊の翻訳まで引き受けた東大の文学部教授が、たとえ当時多大なる影響力があったとはいえ、英文学の解釈について、一経済史研究者の受け売りをしてしまったと言うことです。こういうことは、独り平井教授のみならず、日本の文学研究の本質に関わる大問題ではないかと密かに思っています。

話が少々脱線してしまいました。要するに作家・池澤夏樹がテレビで述べたのは、平井教授と同じような単純な二分法に陥っていた訳です。つまり、デフォーの『ロビンソン・クルーソー』は、実に勤勉なプロティスタンティズムの精神の具現化でありましたとか、原住民のフライデーを従者と扱っていました、しかしトゥルニエとなると、レビー・ストロースの『野生の思考』の影響も受けて、全然違っていますよ、というのです。

つまるところ、

  デフォー:トゥルニエ
=モダニズム:ポスト・モダニズム
=プロ倫禁欲主義:脱宗教的な「遊び」
=原住民奴隷思想:原住民友愛思想

だというのです。

池澤のトゥルニエの説明はそんなに的を外しているとは思いません。だが、デフォーの『ロビンソン』はちょっと違うだろうと言いたいのです。まず、正木が説得的に主張していますが、デフォーはプロ倫(Max Weber)的な勤勉人ではなく、重商主義的発想が強いギャンブラーなのだ。それから、ロビンソンはかなり柔軟な思考力があって、案外良い奴なんだ(笑)。僕自身、デフォーの帝国主義・植民地主義の精神を暴露してやるぞという気持ちで『ロビンソン』を読んでみたのだが、どうもそれは私の偏見でしかないと思い知らされたのだ。むしろロビンソンは優柔不断で、あれやこれやと思い悩む奴なのである。

もちろん、小説の中でロビンソンはフライデーの反論にも耳を傾けているのだ。いま手元にあるのは、Dover Thrift Editionsの米2ドルのRobinsonなのだが、その160頁にはこんなことが書いてある。

[Robinson ]’Friday, God is stronger than the devil, God is above the devil, and therefore we pray to God to tread him down under our feet, and enable us to resist his temptations and quench his fiery darts'.

[Friday] 'But if God much strong, much might as the devil, why God no kill the devil, so make him no more do wicked?'

I was strrangely surpursed at his question・・・
フライデーの鋭いつっこみで、ロビンソンはもうタジタジとなってしまうのである。こんな具合で終始しているから、デフォーの古典的名作は決して簡単に侮れるような代物ではないのだ。まあ池澤だって本当は分かっているとは思うが、そういう単純な二分法の枠組みにぴったりと当てはまらないからこそ、文学の古典として生き残っているのだ。だからこそ、パロディを作りたくるというものなのであろう。


そういうわけで、先週(2009年10月)のは、ちょっと残念でした。なお、デフォーの『ロビンソン』は東大の文化人類学教授でもあり、現在は文学翻訳家としても活躍している増田義郎先生による新訳が出ている。完訳 ロビンソン・クルーソー』である私は未読であるが、ぜひとも読んでみたい。(余談だが、ロビンソン・クルーソーが28年間滞在したとされるトバゴ島というのは、V.S.ナイポールの出身地トリニダード島とともにトリニダード・トバゴという国を作っている)。

完訳 ロビンソン・クルーソー完訳 ロビンソン・クルーソー
Daniel Defoe

中央公論新社 2007-06
売り上げランキング : 336888

Amazonで詳しく見る
by G-Tools


Robinson Crusoe (Penguin Classics)
Robinson Crusoe (Penguin Classics)John Richetti

Penguin Classics 2003-04-29
売り上げランキング : 43491


Amazonで詳しく見る
by G-Tools

2009年11月2日月曜日

池澤夏樹のポストコロニアリズム文学批判(2)ーーその偉大なる功績

私はさんざん池澤夏樹の書いていることについて文句を書いたし、これからそういうことになるかもしれない。だが、それにしても一度は功績を大いに褒めておきたい。ポストコロニアル文学が読んでおもしろいものだとハッキリ断言し、しかも商業的にも大きく成功せしめたこと(成功したと思うが)、多くの読者を獲得したということは、称賛に値する。これだけで十分文学史に残る作家となったと言いたいくらいだ。

作家と言うのは学者ではないので、分かり易い書き方でハッキリとが書くことが出来る。狭い学者の枠組みに閉じこめられないのである。池澤の真価もそこにある

たとえば、ある非常に優れた学者、ポストコロニアル英文学については日本を代表すると思われる英文学者・中井亜佐子の著作を例に考えてみよう。氏は最近ポストコロニアル文学について、日本語で最も重要な研究書であり教科書である『他者の自伝』―これから少なくとも10年は日本の英文学徒の間で読み継がれるであろう―を書いて出版した。だが、非常に残念なことだが、英文学という専門家世界の領域をほとんど一歩も超えようとはしなかったのである。一般読者の知りたい素朴な疑問といのは、つまり、その本が面白いのか、わざわざ英語で読むに値するのか、その本が古典的評価を得ているのは何故なのか。もし重要だったり感動的なモノだとするなら、それがどのように素晴らしいのか。また、我々日本人が、言及されたようなポストコロニアル英語文学を読むことによって、どんな意味や意義があるのか。さらに言えば、地域研究系・社会科学系の読者にとっての最大の関心事だとおもうが、ポストコロニアル文学を研究をすることによって、お前はどのような政治的見解をとっているのか、ということだ。しかし、そういったナイーブで切実な問について、学者的な幻惑でしか応答するだけだったのである。(とくにナイポール論においては、重要な議論となるべきはずだ)。

要するに中井氏は、英文学という学界の中で共有された土俵の中でのみ議論を展開してみせたのだ。それは致命的な問題ではない。だが、やはり残念に思う。文学というのは、文学研究者のためにだけあるものでなないからだ。書評ではありえない、専門家的研究というのは、寂しい限りではないか。

より深刻な問題は、ポストコロニアルという問題意識が、たとえば政治学・社会学、あるいは、地域研究やエスニック・スタディーズのような領域を含みこんでいることに由来する。いったい異なる専門分野の人のどれほどが、中井の声に耳を傾けるだろうか。おそくらは、日本でポストコロニアリズムを研究していると自称している朝鮮(韓国)や沖縄関連の研究者の大半は、中井亜佐子ーー繰り返すが、中村 和恵と並ぶ日本語圏の代表的ポストコロニアル英語文学研究者だと思うーー氏の名前を知らないのが現状ではないか。

「ポストコロニアル」とか「ポストコロニアリズム」といった専門用語(?)が、事実上、文学研究者(とその周辺)と地域社会研究(とその周辺)とに分断されてしまっているのだが、中井氏の書物はそのギャップを埋めるものにはならなかったのである。


以上のような状況があるからこそ、池澤夏樹が光ってくる。読むに値する文学であると一般読者に語りかけ、紹介の労を引き受ける著名人がいるということは、ポストコロニアリズムやポストコロニアル文学にとっては、実に貴重で、有り難いことだ。

では池澤の選んだ選集は、氏の説明を超えて、どのような波紋を投げかける潜在的可能性があるのか。まず、指摘しておきたいのが、いわゆる「ポストコロニアリズム」とか「ポスコロ」とかいうとき、一般読書人は文学的な用語だとは解していないということだ。サイードやバーバが文学研究者だと知らない人がいても不思議ではないくらいだ。そこでちょっとWikipediaの「ポストコロニアル理論」を引用する。

20世紀後半、第二次世界大戦によりヨーロッパが没落し、世界が脱植民地化時代に突入すると、それまで植民地だった地域は次々に独立を果たしたが、こうした旧植民地に残る様々な課題を把握するために始まった文化研究がポストコロニアリズムである。ポストコロニアリズムの旗手エドワード・サイードが著した『オリエンタリズム』(1978年)の視点がポストコロニアル理論を確立した。

例えば、ヨーロッパで書かれた小説に、アジア・アフリカなど植民地の国々がどのように描かれているか、あるいは旧植民地の国々の文学ではどのように旧宗主国が描かれているか、旧植民地の文化がいかに抑圧されてきたかといった視点で研究する。一般に、旧植民地と旧宗主国またはその他の国との関係性に着目し、西欧中心史観への疑問を投げかけ、旧植民地文化の再評価のみならず、西欧の文化を問い直す視座を提供する。日本の場合、ヨーロッパとの関係、アジアの植民地との関係においても考察の対象になる。

上記の説明は、おそらくは、英文学や仏文学専門の人をのぞけば、大多数の人がポストコロニアリズムに抱いているイメージと近い。「ポスコロっていうのは、従来親しんできた西欧文学について、「オリエンタリズム」の観点から批判(糾弾)していくんだろう」というものだ。たとえば、フランス人作家カミュはアルジェリア出身なのでアラブ人に偏見のある描き方をしたとか、ドリトル先生やシャーロック・ホームズ、オーギュスト・デュパンには、英米の旧宗主国的偏見が見え隠れしているとか、そういった点を洗い出そうとするのがポストコロニアリズムなんだろうという理解である。

ところが池澤夏樹が「現代的で面白い」という観点から選んでしまった全集は、黒人やアジア人を差別する立場の書き手が盛りだくさんだ。しかも、帝国主義や植民地主義を自己批判するような作品であるとは限らない。それなのに、黒人差別をする側の民族の書き手と、黒人の書き手を、「面白い」という尺度で褒めあげてしまうのが池澤夏樹である。

池澤はWikipediaに代表されるような「ポスコロ」理解を真っ正面から否定してしいることになるのだ。池澤の最大の功績はここにある。そして、池澤の提示した政治的曖昧さこそが、ポストコロニアル文学的発想なのだと私は強調したい。(続く)


P.S 今日の放送(『戦争の悲しみ』)は良かった。先週はちょっと酷いと思ったけれど・・・。

2009年11月1日日曜日

BBC World Book Clubは必聴Podcastだ

この2009年9月にはApple社から新しいiPodが発売されたので、さっそく購入しました。すると自然にPodcastなるもの、あるいは、iTunesUなどに興味を寄せることになった。いずれもパソコンがあれば視聴できるものなのだが、いままでは無関心でいただけのものだ。だが、それにしても、すばらしい財宝が無料で放映されていることに気がついて驚いた。たとえば、コナン・ドイルのインタビュー映像とかがいつでも好きなときに見ることが出来るわけだ。

さてポストコロニアル文学愛好家となれば、次のPodcastは絶対に聞き逃してはならない。
BBCのWorld Book Clubである。(私のiTUnesではうまくiPodに取り込めないが、今回は技術的な話は書かない。私が詳しくないからなのだが)。

近くの散策のお供にと何気なく持ち運び聴いてみたら、なんとギュンター・グラスが生登場しているじゃないですか。もちろん英語です。そして、「『ブリキの太鼓』の太鼓はどういう意味なのか?」とか、世界の一般読者(?)が電話や手紙で質問攻めにするという趣旨の放送なのでした。面白いのが読者がパキスタン人だとかエジプト人(?)だとかで旧英植民地などの世界中の人だったことだが、その件はさておき、調べてみるとこのWorld Book Clubの他の出演する作家さんたちが実にポストコロニアル文学的な作家名が並んでいること。(実はまだ聴いていません)
Chimamanda Ngozi Adichie--池澤夏樹が週刊誌で翻訳本を絶賛していたナイジェリア人若手女流家。久保田のぞみ先生の翻訳である。
他にも Nawal El Sadaawi, Moshin Hamid, Toni Morrison, Derek Walcott, Alice Walkerと並ぶのだ。

まずはBBC World Book Clubの紹介まで。(iTuensでの同期はちょっと難しいみたいですが、mp3音源をダウンロードすることは簡単です。時間は1時間近くあります)。

2009年10月29日木曜日

サイードとリース『サルガッソーの広い海』

故国喪失についての省察 2故国喪失についての省察 2
大橋洋一

みすず書房  2009-06-26
売り上げランキング : 154579

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

ところでジーン・リース『サルガッソーの広い海』について、一言だけ書いておきたいことがある。池澤は、ポストコロニアリズムやフェミニズムいった理論的枠組みでのみ優れているだけではなく、小説技術においても見事であると述べている。なるほど、もしかしたらそうなのかもしれない。しかし、そういうことは脇においておくと、基本的にはスカッとする小説などではなく、物悲しい、不安定ななかに溺れて消えていくような小説だ。最後は自殺していくが、小川未明の「人魚姫」を思い起こさせる。

決して、魅力のある女性主人公が、イギリス宗主国の暴力の前に打ちのめされれたという話ではない。最初から軽くてふわふわした女性が、消えていく悲劇なのである。そして、作者が76歳で完成させた小説である。まさに晩年の小説ではあるまいか。このことをもっと考えてみたいと思う。

いま、思い浮かべるのが、最近翻訳出版されたサイードの『故国喪失についての省察2』(みすず書房)に所収されている最も興味深いエッセイ「敗北とは何か」だ。このエッセイは、「ハワイ原住民の権利といった大義を信奉するのに、いまは相応しい時機ではないと感じる」(p270)という話から始まり、私にはしびれるモノだった。なぜならば、私がハワイ大学の大学院生のおろ、ハワイ人の講演があり、そういう話題が持ち上がったからだ。

サイード自身は「説得力のあるかたちで考えぬかれたものであるならば、なんであれどこかで他の場所で、他の人々によって思考されるに違いない」(アドルノ)という確信をもちうる。だから、真に敗北した大義などは存在しないと結論づける。

サイードは安易にこのような結論に至っているのではない。その途中で、スウィフト、フローベール、セルバンテス、ハーディ等が、敗北をどのように表象してきたのかに言及するのだ。それらに共通するのは、「作家生活の終わりの近くになって執筆されたということだ」(284頁) あるいは「若い頃に抱いた野心や大望がはたして成就したのかどうか、締めくくりをつけ、判断を下し、得失を勘定すべき時期である」(同頁)。

ジーン・リースが最晩年まで拘った「サルガッソーの広い海」のもの悲しさを、サイードの指摘とともに考えてみたいと思う。


なお、私のような文学素人として、特別な驚きだったことをもう一つ付け加えておきたい。というのは、昔、J.M.Coetzeeの自伝的的小説Youth を読んでいると、 Ford Madox Fordに若い頃憧れたと書かれてある。それから藤永 茂先生のコンラッド批判の文章を読んでいると、コンラッドがFord Madox Fordと共著(短編)を書いている。どんな人なのかと思って調べてみると、ジーン・リースを愛人にしていたモダニズム文学者・編集者であることが分かった。これらの白人文学者たちは、いずれもポストコロニアル文学としてよく論じられているのだが、互いに知的に人的に深くつながっているのである。文学研究者がでどのように論じているのか(あるいは論じていないのか知らないが、大変面白いと思った。

2009年10月28日水曜日

池澤夏樹の「ポストコロニアリズム文学」批判(1)

探求この世界 2009年10-11月 (NHK知る楽/月)探求この世界 2009年10-11月 (NHK知る楽/月)
日本放送協会

日本放送出版協会  2009-09
売り上げランキング : 29571

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

池澤夏樹は、戦後日本作家の中では、ポストコロニアル的な問題意識について早くから目覚めた希有な作家であると前から思っていた。彼の小説作品には、一般にポストコロニアル文学として流通してよさそうなものも何冊があるのだ。だから、彼が新しい世界文学全集を編集するにあたって、ポストコロニアル文学全集と呼べるようなものを造り出してしまったことについてはあまり驚かない。

池澤は、2009年の10月からNHK教育テレビの月曜日夜10:25から「探究この世界 池澤夏樹の世界文学ワンダーランド」という放送を始めた。同時にNHK出版から『世界文学ワンダーランド』 というテキストも出版した。そこには、「世界文学を再定義する」いう言葉があり、さらに、「『ポストコロニアリズムとフェミニズム』の視点から世界を見直す」といった、氏の基調論点がはっきりと明示されている。事実、選ばれている小説も、ポストコロニアル文学的なものが多い。従来の世界文学全集とは異なって、旧植民地やヨーロッパの小国出身の作家、あるいは中国・ベトナムの作家も含まれている。私はその選び方についてはとくに大きな異論はないし、むしろ、魅力に充ちた、ぜひとも読んでみたい全集だと言いたい。ところが、半ば予想できてはいたのだが、池澤のポストコロニアル文学の提示の仕方は、自己欺瞞と教条主義に彩られているのである。

私は、それでも興味津々で、ジーン・リース『サルガッソーの広い海』 について池澤がTVでどのように語るのか、伝えようとするのか、聴いてみた。2009年10月19日(月)の放送だ。この小説はシャーロット・ブロンテ『ジェーン・エアー』にほんの少しだけその声が聞こえてくるカリブ海出身の凶女について、カリブ出身の女流作家リースが書き直したパロディ小説として有名である。ポストコロニアル批評家のスピヴァックも大いに論じているもので、ポストコロニアル文学に興味のある人の必読書となっている作品だ。

案の定、残念すぎる内容だった。一部の英文学(あるいはフランス文学)関係者を除けば、ポストコロニアル文学について詳しい人はあまりいないだろうが、予備知識のない一般視聴者を誤った理解に導くような、きわめて欺瞞サヨク的な、あるいは「戦後知識人的」見解を、池澤は安易に語ってしまっていたからある。

ポイントを端的に言おう。ジーン・リースの作品、あるいはポストコロニアル文学について、「植民地の独立ともに生まれた文学である」とか「(文学作品を通じて)植民地の人たちを偏見から解放したのです」とNHKのアナウンサーに語らせてしまったのである。あるいはNHKの読本では次のように書かれてある。

『サルガッソーの広い海』はポストコロニアリズムとフェミニズムの両方の原理が濃く入っている作品ですが、とりわけ本国による支配に対する文学的反逆として非常にうまくいった例です。結局、あなたたち本国は自分に都合のいいように植民地を扱ってきた。経済貿易の面では植民地を大いに利用し、余情人口のはけ口にしたけれども、人間の面では植民地生まれだからだめなやつだと決めつけて、『ジェイン・エア』のバーサのように悪役・嫌われ役をふってきたでしょう、とジーン・リースは言いたいのです(55頁)

さらには、ジーン・リースの置かれた立場を沖縄・朝鮮・アイヌの人々と対比したり、挙げ句の果てには日本には西欧のような差別があまりないとかいった話にまで至ってしまうのだ。

常識的判断力があるのならば、池澤の議論がちょっと変であることに気付くかも知れない。そうだろう、いくらジーン・リースが旧英領ドミニカ(現在はドミニカ国)の植民地出身者であり、イギリス本国で貧しかったり、つまはじきになっていたとしても、所詮は白人支配階級出身の作家ではないか。植民地出身の白人支配階級の文学が、「植民地の人々を偏見から解放」したりするのであろうか? あるいは、むしろ、植民地における異民族支配を正当化する書き物かもしれないではないか。実際、カリブの島々の過酷な搾取や支配に対する批判的文章は、ほとんど『サルガッソーの広い海』からは読みとることはできない。もちろん反植民地主義だとか被支配民族解放を示唆するような箇所は一つもない。なにしろ主人公は植民地生まれでイギリス人に凶女にされてしまった女かもしれないが、要するに、奴隷農園で大儲けした民族の側にいるのだ。

植民地主義や帝国主義の暴力批判の洗礼を受けた人ならば、さらに疑問は広がっていくはずだ。というのは池澤の文学選集の作品をちょっと調べてみるとわかるのことだが、書き手はほとんどの場合植民地の支配者民族に属しているのだ。選集の中での唯一の例外といえるのは、アフリカのチュツオーラによる『やし酒飲み』だけなのだが、これも英語で書かれたものだし、何だかオバカで不思議なアフリカン落語という風である。文学的な評価はさておき、ファノンやリサールが描いたような反植民地主義的思想に裏打ちされた書き物を期待すると、完全に肩透かしを食らう。ましてや「植民地の人たちを偏見から解放する」ものとしてはあまり役に立ちそうにない。

それ以外の作品はとなると、さらに戸惑うことになるだろう。たとえば、池澤はデュラスの『太平洋の防波堤』『愛人』を選んでいる。デュラスはフランス帝国支配下のベトナムで若い時代を過ごしたフランス人女性作家なのだが、彼女の作品が被支配民族であるベトナム人を解放する文学では断じてあり得ない。それどころか、むしろ「帝国的ノスタルジア」(ロザルド)に満ちた差別的作品だし、保守的な篠沢秀夫も『篠沢フランス文学講義』で証言しているように東洋人を見下しすオリエンタリズムが盛りだくさんという作風なのである。

「ポストコロニアル文学」というのは、本当のところ、植民地の被支配者のための文学なのか。むしろ、植民者支配者のための文化と文学にすぎないのではないか。そういう問が当然生まれても良いではないか。当然のことながら、なぜ池澤は我々にそういう怪しげな作品を勧めるのか問いただしたくなるはずだ。これはなにも池澤個人に問いかけるべき問ではない。他のポストコロニアル文学の作家や研究者やのひとり一人独りに投げかけたい問なのだ。たとえば故サイードに対しては、なぜコンラッドの保守的でケシカラン小説などを褒めるのか、と。(コンラッドについては藤永 茂『「闇の奥」の奥―コンラッド/植民地主義/アフリカの重荷』を参照のこと。すくなくとも、ベン・アンダーソンのような文化主義的東南アジア研究者は、サイード=コンラッドのような文学的スタンスは取らなかった。たとえば、Anderson, Under Three Flags: Anarchism And the Anti-colonial Imaginationを参照のこと。なお、サイードとアンダーソンのスタンスの違いについては、別の機会に書いておきたい)。

結論的に述べれば、ポストコロニアル文学およびポストコロニアル批評と言われる一群の読み物=書き物は、政治的には至極曖昧なのである。植民地の側からの対抗的書き物ではあるが、決して政治的進歩を代弁しているとは限らないのだ。このことは、再三繰り返して言明しておいた方がよいだろう。ポストコロニアルは反コロニアリズムでも反帝国主義でもないいのだ。また、白人植民者の文学的遺産を受け継いだという意味では、支配的文学でもあるのである。したがって、ポストコロニアル文学を論じるに当たっては、政治的進歩主義の尺度に照らして評価してはならない。

逆に言えば、政治的右翼・保守主義者が誤解しているように、サヨク主義の生き残り戦略に過ぎないから「ポスコロ」はダメだという議論は、完全に勘違いしている。たとえば、「東は東、西は西」という警句と『ジャングル・ブック』でよく知られるキプリングは、イギリス帝国主義の支持者として知られる作家だ。彼の政治的スタンスには辟易するのに、作品を読むと「うーん」とうなって論じたり引用したりすること。これが、もっともポストコロニアル文学的なのでだから。

池澤に帰れば、「うーん」と唸るべきところを、妙な政治的進歩主義で隠蔽しようとした点に最大の罪がある。素晴らしいポストコロニアル文学は、植民地の人を侮辱するケシカラン書き物かも知れないのだが、それにもかかわらず、読者をうならせる確かな何かがある。それを追求することが両義的で曖昧な文学作品の楽しみではないか。

池澤の進歩的知識人的発言にはまらず、池澤の選んだ文学作品をもっと真っ正面から読んでいこうではないか。 池澤夏樹には、くれぐれもご用心!

コロン作家の自己欺瞞を超えて(池澤夏樹批判)

そろそろブログを再開させよう。というのはNHK教育テレビにおいて、池澤夏樹がきわめてバイアスのかかった、ナイーブな論調を展開していたので、ちょっとムカツイテいるからである。

池澤はあたかもポストコロニアル文学なるものが、植民地住民の解放の文学であるかのように宣言しているのだ。しかも、そこで紹介されている小説が植民地の支配者の白人文学だったりするのだから、呆れて物が言えない。先週は『サルガッソー』について紋切り型の紹介をしたかと思うと、先日は『フライデー』についてこれもまた教条的な説明をしているのだ。彼は、本読みとして、あるいは一人の知識人として、大いに間違いを犯してしまったのだと言わざるを得ないのである。

自分が、いや我々が、本当は植民者(コロン)であるのに、そしてその立場を簡単に放棄できないのに、あたかも反植民地主義の先端を切ることができるかのような自己欺瞞が、池澤夏樹にはある。沖縄社会学者の野村ーー私は批判的に言及したがーーに、「お前は沖縄を植民化したコロン作家だろう!」と言われて、「NO!」と言ってしまった池澤だ。おそらくは相当お目出度いところがあるのだ。

よって、以降では、池澤の議論と、彼のアイヌ小説(北海道コロン小説)について論じようと思う。

2009年2月19日木曜日

村上春樹のエレサレム

村上春樹のエルサレム文学賞の授賞式でのスピーチについて、多くの人が発言をしている。もしかしたら私がこれから書くことも、他の大部分の人と全く同じ見解なるかもしれないが、とりあえずの記録として記しておきたいと思う。

http://www.haaretz.com/hasen/spages/1064909.html


村上は次のように述べた。
"Between a high, solid wall and an egg that breaks against it, I will always stand on the side of the egg."Yes, no matter how right the wall may be and how wrong the egg, I will stand with the egg.


抗しがたいシステムである「壁」と、魂を持つ個々という意味での「卵」と区別し、人間「卵」の側にコミットするというのだ。それがどんな意味を持つのかといえば、ある意味で明白である。

What is the meaning of this metaphor? In some cases, it is all too simple and clear. Bombers and tanks and rockets and white phosphorus shells are that high, solid wall. The eggs are the unarmed civilians who are crushed and burned and shot by them. This is one meaning of the metaphor.


「壁」とはイスラエル国家が行使している軍事行動、すなわち爆撃機であり、戦車であり、ロケット砲であり、白リン弾を示唆する。これに対して、「卵」とは、そういった武力によって殺されていく非武装のパレスチナ市民のことである。

しかしながら、村上の言いたいことは、おそらくそういうことだけではなかった。いやむしろ、別のことに関心があったのかもしれないと思う。現に村上は、急いで次のように付け加えるの忘れない。

This is not all, though. It carries a deeper meaning
.

"a deeper meaning"とは何だろうか。

Each of us is, more or less, an egg. Each of us is a unique, irreplaceable soul enclosed in a fragile shell. This is true of me, and it is true of each of you. And each of us, to a greater or lesser degree, is confronting a high, solid wall.

抽象的で分かりにくく読めるかも知れない。しかし、私にはきわめて明快な事実を指摘しているにほかならないと思われる。

ここでは、「壁」をイスラエル国家とみなしておこう。だが、この時「卵」と言うのは、イスラエルによって攻撃されているパレスチナ市民だけではないのだ。なぜならば、イスラエル国家の内側にあるユダヤ教徒のイスラエル市民も、全く同じように「壁」に囲まれているからである。イスラエル人はパレスチナ人を壁に囲い込んだかのように考えているかもしれないが、実は彼らも、その「壁」によって囲まれてしまった「卵」なのである。

村上は、何度も何度もme, each of you, each of usといった表現を持ちながら、次のように続けた。

Each of us is, more or less, an egg. Each of us is a unique, irreplaceable soul enclosed in a fragile shell. This is true of me, and it is true of each of you. And each of us, to a greater or lesser degree, is confronting a high, solid wall.


私の理解するところでは、「卵」と言うのは決して非武装の市民だけではない。武器を持って非武装市民を虐殺していくイスラエルの兵士に対しても向けられている。だからここで何度も、「あなた達一人一人」が強調されているわけである。

そして村上は、若い頃に中国戦線に送られていった、亡き父親の話に転ずる。村上のお父さんは、毎朝、戦争で亡くなった敵と味方の双方に対して祈りを捧げていたのだそうだ。このお父さん話は、イスラエルという国家の中で生きるイスラエルの市民と兵士を念頭においているに違いない。イスラエルの「卵」が、イスラエルの「壁」に押しつぶされないことを祈ってものでもあろう。

The System in order to prevent it from tangling our souls in its web and demeaning them. I fully believe it is the novelist's job to keep trying to clarify the uniqueness of each individual soul by writing stories - stories of life and death, stories of love, stories that make people cry and quake with fear and shake with laughter. This is why we go on, day after day, concocting fictions with utter seriousness.



だが、村上春樹の「壁」の概念には、少々疑問に思うところがないわけではない。

To all appearances, we have no hope of winning. The wall is too high, too strong - and too cold. If we have any hope of victory at all, it will have to come from our believing in the utter uniqueness and irreplaceability of our own and others' souls and from the warmth we gain by joining souls together.

Take a moment to think about this. Each of us possesses a tangible, living soul. The System has no such thing. We must not allow The System to exploit us. We must not allow The System to take on a life of its own. The System did not make us: We made The System.


村上の「壁」あるいはシステムの説明は、彼の今までの小説の認識とよく通じ合っているように見える。だが、これほどまでに抽象的で、神秘的な「壁」は存在するのだろうか。たとえば問題を、パレスチナにおける虐殺問題のようなものに限定してしまえば、その軍事行動を指揮する何人かの政府要人を絞り込むことができる。彼らは決して、『ねじまき鳥』や『羊』のなかの、不思議な権力者のような存在ではない。むしろ、村上の前にはっきりと姿を現す普通の人間である。そして、彼らが実際に軍事行動を決定したのではないのか。言い換えれば、「壁」はそんなに神秘的でもないだろうし、それほど強固で高いわけではない。むしろ、現実に崩壊することを予期することさえもできるのではないのか。

村上の世界観と、村上の小説は、いたずらに権力とsystemを神秘化としているのではないか。村上春樹の世界観と、例えば司馬遼太郎の世界観とか絶対に交叉しないところであるが、この大いなるギャップがむしろ問題ではなかろうか。(司馬遼太郎に代表されるような、権力者を描く歴史小説が、歴史とシステムの人間化を目論んでいるのに対し、村上は歴史とシステムを「あまりにも高く、強く、冷たい」壁としてしまったのである。ある意味では、司馬的世界ーーあるいは司馬遼太郎の「世代」というのだろうかーーがサルトルと的な実存主義的歴史観、村上春樹はレビーストロース的な構造主義的な歴史観を反映していると言えなくもないではない。もっとも、あまりにも図式的な理解であることは否めないが)。


最後にもうひとつだけ疑問点を書いておきたい。それは村上スピーチの結びの言葉である。

I am grateful that my books are being read by people in many parts of the world. And I am glad to have had the opportunity to speak to you here today.


村上の小説は、確かに世界中にたくさんの読者を持っている。しかし、アラブやイスラムの読者はどれだけいるのだろうか。また、彼の発言は、イスラエルの人には届くかもしれないが、パレスチナの側には、全く届いていないのではないだろうか。すでにこういう村上に対する批判は多いと思うが、やはり一言述べておかずにはいかない。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
【英語全文】村上春樹さん「エルサレム賞」授賞式講演全文


 以下の英文は村上春樹さんが講演を終えたあと共同通信エルサレム支局の長谷川健司特派員(支局長)がエルサレム賞主催者から入手したテキストが基になっています。しかし、実際の講演はこれに少し修正が加えられていました。当日、長谷川特派員が授賞式会場の取材で録音したレコーダーを聞きなおし、実際に村上さんが話した通りに再現したものです。

“Jerusalem Prize” Remarks

Good evening. I have come to Jerusalem today as a novelist, which is to say as a professional spinner of lies.
Of course, novelists are not the only ones who tell lies. Politicians do it, too, as we all know. Diplomats and generals tell their own kinds of lies on occasion, as do used car salesmen, butchers and builders. The lies of novelists differ from others, however, in that no one criticizes the novelist as immoral for telling lies. Indeed, the bigger and better his lies and the more ingeniously he creates them, the more he is likely to be praised by the public and the critics. Why should that be?

My answer would be this: namely, that by telling skilful lies--which is to say, by making up fictions that appear to be true--the novelist can bring a truth out to a new place and shine a new light on it. In most cases, it is virtually impossible to grasp a truth in its original form and depict it accurately. This is why we try to grab its tail by luring the truth from its hiding place, transferring it to a fictional location, and replacing it with a fictional form. In order to accomplish this, however, we first have to clarify where the truth-lies within us, within ourselves. This is an important qualification for making up good lies.

Today, however, I have no intention of lying. I will try to be as honest as I can. There are only a few days in the year when I do not engage in telling lies, and today happens to be one of them.
So let me tell you the truth. In Japan a fair number of people advised me not to come here to accept the Jerusalem Prize. Some even warned me they would instigate a boycott of my books if I came. The reason for this, of course, was the fierce fighting that was raging in Gaza. The U.N. reported that more than a thousand people had lost their lives in the blockaded city of Gaza, many of them unarmed citizens--children and old people.

Any number of times after receiving notice of the award, I asked myself whether traveling to Israel at a time like this and accepting a literary prize was the proper thing to do, whether this would create the impression that I supported one side in the conflict, that I endorsed the policies of a nation that chose to unleash its overwhelming military power. Neither, of course, do I wish to see my books subjected to a boycott.
Finally, however, after careful consideration, I made up my mind to come here. One reason for my decision was that all too many people advised me not to do it. Perhaps, like many other novelists, I tend to do the exact opposite of what I am told. If people are telling me-- and especially if they are warning me-- “Don’t go there,” “Don’t do that,” I tend to want to “go there” and “do that”. It’s in my nature, you might say, as a novelist. Novelists are a special breed. They cannot genuinely trust anything they have not seen with their own eyes or touched with their own hands.
And that is why I am here. I chose to come here rather than stay away. I chose to see for myself rather than not to see. I chose to speak to you rather than to say nothing.

Please do allow me to deliver a message, one very personal message. It is something that I always keep in mind while I am writing fiction. I have never gone so far as to write it on a piece of paper and paste it to the wall: rather, it is carved into the wall of my mind, and it goes something like this:

“Between a high, solid wall and an egg that breaks against it, I will always stand on the side of the egg.”

Yes, no matter how right the wall may be and how wrong the egg, I will stand with the egg. Someone else will have to decide what is right and what is wrong; perhaps time or history will do it. But if there were a novelist who, for whatever reason, wrote works standing with the wall, of what value would such works be?
What is the meaning of this metaphor? In some cases, it is all too simple and clear. Bombers and tanks and rockets and white phosphorus shells are that high wall. The eggs are the unarmed civilians who are crushed and burned and shot by them. This is one meaning of the metaphor.

But this is not all. It carries a deeper meaning. Think of it this way. Each of us is, more or less, an egg. Each of us is a unique, irreplaceable soul enclosed in a fragile shell. This is true of me, and it is true of each of you. And each of us, to a greater or lesser degree, is confronting a high, solid wall. The wall has a name: it is “The System.” The System is supposed to protect us, but sometimes it takes on a life of its own, and then it begins to kill us and cause us to kill others--coldly, efficiently, systematically.

I have only one reason to write novels, and that is to bring the dignity of the individual soul to the surface and shine a light upon it. The purpose of a story is to sound an alarm, to keep a light trained on the System in order to prevent it from tangling our souls in its web and demeaning them. I truly believe it is the novelist’s job to keep trying to clarify the uniqueness of each individual soul by writing stories--stories of life and death, stories of love, stories that make people cry and quake with fear and shake with laughter. This is why we go on, day after day, concocting fictions with utter seriousness.

My father passed away last year at the age of ninety. He was a retired teacher and a part-time Buddhist priest. When he was in graduate school in Kyoto, he was drafted into the army and sent to fight in China. As a child born after the war, I used to see him every morning before breakfast offering up long, deeply-felt prayers at the small Buddhist altar in our house. One time I asked him why he did this, and he told me he was praying for the people who had died in the battlefield. He was praying for all the people who died, he said, both ally and enemy alike. Staring at his back as he knelt at the altar, I seemed to feel the shadow of death hovering around him.
My father died, and with him he took his memories, memories that I can never know. But the presence of death that lurked about him remains in my own memory. It is one of the few things I carry on from him, and one of the most important.

I have only one thing I hope to convey to you today. We are all human beings, individuals transcending nationality and race and religion, and we are all fragile eggs faced with a solid wall called The System. To all appearances, we have no hope of winning. The wall is too high, too strong--and too cold. If we have any hope of victory at all, it will have to come from our believing in the utter uniqueness and irreplaceability of our own and others’ souls and from our believing in the warmth we gain by joining souls together.
Take a moment to think about this. Each of us possesses a tangible, living soul. The System has no such thing. We must not allow the System to exploit us. We must not allow the System to take on a life of its own. The System did not make us: we made the System.
That is all I have to say to you.

I am grateful to have been awarded the Jerusalem Prize. I am grateful that my books are being read by people in many parts of the world. And I would like to express my gratitude to the readers in Israel. You are the biggest reason why I am here. And I hope we are sharing something, something very meaningful. And I am glad to have had the opportunity to speak to you here today. Thank you very much.

2008年10月2日木曜日

在日文学はやはりポストコロニアル文学ではなかった

リービ英雄の『越境の声』は大変刺激的で、様々なことに思いを馳せさせる本である。
越境の声越境の声
リービ 英雄

岩波書店 2007-12
売り上げランキング : 136952

Amazonで詳しく見る
by G-Tools



例えば次のような箇所がある。リービが李良枝に一度だけ電話したことがあるのだそうだ。

そのときに、なぜ自分のことを「韓国系日本人」と呼ばないのか、と聞いたのんです。彼女は「リービさん、あれはアメリカ的な発想なんですよ」と言った。つまり近代的な意味の段階、次元だけで自分の人生をとらえたくないということ言ったんです。じゃあ何なのかという答えは出ない。答えは出ないけれど、今いる文化と、もともと故国であった文化の間に永久にいるということが、自分の人生である。何々系何人とか国籍の問題ではなくて、言葉と言葉の間に生きるということは彼女の結論だったような気がします。(23-24ページ)


なるほど!と思った。

以前、鄭大均の 『在日の耐えられない軽さ』というのを読んだことがある。鄭は保守的論客と見なされることが多いと思う。だが彼の議論が「保守的」に見えるのは、じつはアメリカンな発想を日韓の文脈に取り入れたからではないか。私はそんなふうになんとなく理解した。ただ、それをどう評価したらよいのか判らなかった。ところが、李良枝はアメリカンな発想をはっきりと否定し、どちらかといえば歴史的古層を重く捉えるのだ。鄭大均に対して政治主義的な批判をするより、こういう李良枝の言葉のほうが面白い。文化的文学的に深い見解だろう。

考えてみれば、ポストコロニアルといった言葉は実は地理的に限定された言葉だ。つまり、一般には新大陸のスペイン語文化圏の文学をポストコロニアル文学といわないし、USAやUSAの旧植民地の書き物もポストコロニアル文学とは呼ばない。要するに旧イギリス領と旧フランス領の書き物だけがポストコロニアルなのである。(USAの場合はたぶん「移民文学」である。では新大陸のスペイン語文学はなんだろう?クレオール文学だろうか)。

旧英米植民地文学はポストコロニアル文学、USA関係は移民文学と呼ぶとするならば、在日韓国人文学はポストコロニアル文学と呼ばない方がよいかもしれない。また、あとで自説を詳しく述べるつもりだが、私は韓国は日本の植民地ではなかったという見解であることも付け加えておこう。


ま、こんな具合にいろいろと考えてしまうのだ、この本。そういうわけでリーベ英雄の対談集は、絶対に「買い」である。


2008年9月3日水曜日

水村美苗、村上春樹からみるアメリカ文化

MIXIで水村美苗の文章を議論していて思ったのは、水村(1951-)の世代にとって、日本語文学が米語の力によって本質的な変容を迫られていたのではないのかということである。水村と対比されるべき作家として、やはり村上春樹(1949-)があげられるべきなのだろう。いずれも、英語文学などの強い影響を受けつつも、米語作家になるのではなく日本語作家となった。おそらく、水村の方が村上よりも、はるかに「近代日本文学的」であり、かつ「近代英仏文学的」であるのに違いない。より大きな葛藤があっただろう。しかし、米国でマイノリティ英語作家になる可能性も、より大きかったであろう。そんなふうに想像する。

これに対して村上はもっと自然にアメリカ文学的だ(と思う)。三浦雅史の表現を使えば、「村上春樹がアメリカ文学にじかに接着してしまった」(『村上春樹と柴田元幸のもうひとつのアメリカ』)のである。

水村が「日本語が亡びるとき」を書いたときの感慨を味わい評価するには、村上を含めた他の作家との対比のうえで、日本語と日本文学の運命を考えてみる必要があるに思う。

私は、実のところ、嫌な予感がしないではない。ポストコロニアル文学のことを考えてみよう。これは、旧英領出身者または旧仏領出身者の文学のことだ。つまり、決して旧アメリカ領出身者の文学を意味していないのだ。アメリカの世界支配は文学と文化を死滅に追いやるのではないのか。たとえば、スペイン植民地のフィリピンからはホセ・リサールという偉大な文人が生み出された。が、アメリカ植民地以降は重要な文学者は一人もいないのだ。水村がアメリカ文学ではなく、近代イギリスとフランスの文学に焦点を定めていることも偶然ではないような気がする。

米語という普遍語が物語を窒息させてしまうのではないのか。そういう恐れを、水村と共有してみるのも悪くないのではないか。

2008年9月2日火曜日

水村美苗「日本語」とクンデラの小国・大国論

水村美苗の「日本語が亡びるとき」は、インターネット検索してみるとかなり評判がよかった。確かに読みやすいし、退屈しない文章なのだから、さすが一流小説家だと思う。しかし、どうして皆そんな簡単に称賛できてしまうのだろうか。あるいは、「新鮮」(読売新聞)だと評価してしまうのだろうか。このあたりは、少々不思議に思う。

いくつかの理由を考えてみた。

①小国の運命についてあまり考えたことがない人が多かった。――ヨーロッパの小国では、自分の国の言葉が滅びてしまう危険性について、いつも身近な問題だったはずである。人口が少ない国、あるいは人口多くても強国に支配されてしまっていた国では、いつも隣り合わせだったであろう。ましてや近代的文学の言語として生き残るかどうかは、まさに生々しい問題だったに違いない。

例えば、辺境に蹂躙され、独立も維持できなくなったポーランドの言語と文学。人口が少なくロシアに従属してきた歴史を持つフィンランド。ヨーロッパ文学の最先端を切る文学作品を残したにもかかわらず、人口は少なくヨーロッパ中心域から遠く離れていたアイスランド。かつては大国だったものの人口も少なく、言語的劣等感もあったオランダ。20世紀において外国に占領されてしまった朝鮮。

②ミラン・クンデラの小説論を読んだことがなかった人が感動してしまった。――チェコ出身の偉大な作家クンデラのエッセイ『カーテン』のなかの「世界文学」を読んでみれば、水村よりももっと興味深いさまざまな指摘を見いだすはずである。例えば、水村はあたかもできるだけ多くの人々が<真理>に向けて、研鑽すればよいと信じている。だが、クンデラを読めばそれが間違っているかもしれない分かるだろう。「ヨーロッパ初の偉大な散文の手法が、その最も小さな国、現在でも30万人の住民しかいない国[=アイスランド]で作られたのだということを」(42ページ)。この文章を読むだけでも、水村の文学思想は、近代ヨーロッパの大国主義に縛られていることがわかるであろう。しかも、クンデラは次のように言う。「ジッドはロシア語を知らず、GBショーはノルウェー語知らず、サルトルはドス・パソスを原文で読んだわけではない」(47ページ)。要するに、少人数の人しか読み書きできないような言語でもって、偉大な文学が書かれたというのである。たしかにギリシャとアイスランドというヨーロッパの二つの偉大な小人口文明の歴史的意義を我々は想起せざるを得ないのだ。

クンデラの議論で最も興味深いのは、「小国の地方主義」と「大国の地方主義」という議論であった。(クンデラもちろん、文学を<真理>のためのものだと思ってない。芸術や、文化というものについて、この言葉はふさわしくないと考えているのであろう)。そのうえで、地方主義にとりつかれた小国の文学について、次の様に述べている。「小国民は自国の作家に、作家は自分たちにしか所属しないという信念を教え込んでしまっているのだ。まなざしを祖国の国境の彼方に定め、芸術という超国民的な領域で同輩たちの仲間に加わることは、思い上がって自国の同輩たちを馬鹿にするものとみなされる」「小国民にとって文学は【文学史にかかわる事柄】よりもむしろ【民族にかかわる事柄】なのである。

より興味深い指摘は、大国の地方主義においてみられる。ここでやり玉に上がっているのは、フランスである。クンデラによれば、フランスの知的エスタブリッシュメントに対してアンケートをし、フランス全史の中で最も傑出した10冊の本をあげることになったそうである。ところが驚くべきことに、文学史の観点からは一度も重要だと見なされたことがない通俗大衆小説(ユゴーの『レ・ミゼラブル』である)が1位に挙げられている。11位にドゴールの『回顧録』であり、クンデラが最も重要であると考えるフランス文学者のラブレーは14位でしかない。そして、『赤と黒』や『ボヴァリー夫人』がようやく20位代に来る。この部分はクンデラのエッセイの中で最もショッキングで落胆すべき箇所となっているわけだが、要するに、フランスにおいては、「美的全体[=世界史的な美の歴史への評価]への無関心が文化全体を不可避的に地方主義の中におし返すのだ」(54ページ)ということが確認される。言い換えれば、フランスの国民文学の偉大さは、フランス人が評価しているのではなく、世界の読者・作家が評価しているというわけである。フランス語によるフランス文学の偉大さは、翻訳でしか読んだことがないような世界の読者が理解できるというパラドックス! 水村美苗に読ませたいではないか。

カーテン―7部構成の小説論カーテン―7部構成の小説論
Milan Kundera 西永 良成

集英社 2005-10
売り上げランキング : 245735
おすすめ平均

Amazonで詳しく見る
by G-Tools





③水村の文章のタイミングがよかった――それでは、どんなタイミングなんだろうか。ついに日本文化・文学が危機的状況を迎えたということなのだろうか。私には、よく分からない。

評論というよりは一種の私小説であると受容され評価された。ーー水村の文章について、純粋な評論というよりは、評論的な要素を持つ私小説なのだという受け止め方があるはずです。そして美苗さんの私的経験に興味を持つ人も多いでしょう。これは私が捨象してしまった見方です。しかし、かなり的を射た見方でしょう。残念ながら、そのあたりについて、詳しく感動を論じている人はあまりいないかったような気がします。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
アイスランド文学についての言及として、下記の本は面白かった。
アメリカ文学史のキーワード (講談社現代新書)アメリカ文学史のキーワード (講談社現代新書)
巽 孝之

講談社 2000-09
売り上げランキング : 194164

Amazonで詳しく見る
by G-Tools



2008年8月27日水曜日

水村美苗「日本語が亡びるとき」をめぐって


やはり水村美苗の「日本語が亡びるときーー英語の世紀の中で」『新潮』(2008年9月号)について書いておかなければならないと思う。mixi 上で紹介したら、私の知人・友人の多くが水村美苗の議論について、大いに関心を持ってくれたからだ。

さて、「日本語は亡びるとき」は日誌または小説の形態をとってはいるが、笙野やクッツェーの作品のような特別な「からくり」があるわけではなさそうだ。ここでは単なる評論とみなし、物語的展開についての言及は捨象しておこう

新潮 2008年 09月号 [雑誌]新潮 2008年 09月号 [雑誌]

新潮社 2008-08-07
売り上げランキング :

Amazonで詳しく見る
by G-Tools



さて、内容はといえば、ある意味では凡庸である。タイトルが示す内容そのままであり、必ずしも刺激的な評論とは言い難い。しかし、もちろんのことだが、この小説家独自の問題意識も散りばめられている。とくに興味深いのは、アメリカで教育を受けてきたにもかかわらず、「なぜ日本語の作家となったのか」というテーマ、あるいは、「なぜ私は英語の作家にならなかったのか」というテーマを水村美苗が抱いているからである(同書、171頁)。 英語と日本語の両方の世界に足を踏み入れた女性が、世界的に見ればマイナーな日本語という言語をあえて選び取ったのは何故か。こういうテーマを抱えている日本人作家が、日本語が亡びるときを論じるのだから、やはり読んでみないわけにはいかないだろう。何しろ水村美苗と言ったら、日本語と英語による本格的なバイリンガル小説『私小説 from left to right』の作者なのだ。


かつて村上春樹について、次のようなことを書いてみた事がある。村上春樹といえば、アメリカ文学を愛好し、グローバル化した社会に奉仕する、ネオリベ的で非国民的なケシカラン作家であるとしばしば批判されている。私はこの見解に半ば同意しつつも、村上春樹が彼なりの枠組みで日本語と日本語文学の枠組みにとどまっている事を論じたのだ。このグローバリゼーションの時代において、村上という作家はボーダーライン上にあるのだ。もしその気になれば、優秀なエディターを雇い、アメリカ語の売れっ子作家になることも可能だったではないか。それなのに日本人・日本語作家であることやめてないのだ。しかも、海外向けて作品を発表するばかりでなく、英語文学を日本語に翻訳するという地道な作業に取り組んでいる。彼なりにグローバリゼーションに対して抵抗をしているのだ、と。

しかし、村上春樹の後の世代が日本語文学にとどまるのか、たしかに心許ない。もし日本人の最大のベストセラー作家が英語で執筆する時代になってしまったならば、日本語と日本語文学は壊滅的なダメージを受けている時代の到来ではないか。

バイリンガル或いはフランス語を含めて三カ国語が堪能な作家・水村美苗は、どのようにして議論を展開しているのか。予想通りというべきか、水村美苗もベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』に言及している。しかも極めて批判的である。アンダーソンは、ヨーロッパ的な多言語主義の視点に立っているが、自分が英語を母語とする人間だから、英語が他の国語とは違う<普遍語>であることについて、十分検討していないというのである。<普遍語>に関しての思考の欠落があるのだ、というのだ。

水村美苗のアンダーソン批判は不当なものである。というよりは、アンダーソンとは異なる価値観の持ち主だと思うが、差し当たりその事について取り上げず、水村の論旨を追っていこう。水村の提案は、アンダーソンが探求を怠っていたという<普遍語>についての検討である。

水村は言う。<普遍語>とは、学問のための<書き言葉>であり、<読まれるべき言葉>以外の何ものでもない。<叡智を求める人>は、例えばガリレオやエラスムスは、ラテン語で書いたのだ。これに対して<現地語>というのは、下位のレベルにある言葉であり、<書き言葉>の有無は問わず、「女子供」と無教養の男のためのものでしかない。文学として意味を持つ散文が書かれる事は少ない。

他方、<国語>は<普遍語>でも<現地語>でもない。もとは<現地語>でしかなかった言葉が、<普遍語>を翻訳する過程において<普遍語>と同じレベルで機能するようになった言葉である。そして、近代の英仏独の<3大国語>は、<普遍語>と<現地語>を持ち合わせる言語となったのだ。そして19世紀になると、他の小国のヨーロッパ人たちも<自分たちの言葉>で書くべきだと考えるようになるのだ。<国語>の時代に入ったというべきであろうか。

ここで、水村はきわめて論争的な仮説をいくつか提示する。<国語>の時代に<学問>と<文学>とが別れるようになったのだ、そして、「人間とは何か」「いかに生きるか」といった問いは、専門化された<学問の言葉>には求められず、<文学の言葉>に求められるようになったのだ、と。もちろん文学、とくに小説の言葉を担うのは、<母語>あるいは<現地語>と<普遍語>の双方の性質を有することができた<国語>であった。

さらに追い打ちをかけるように、「この世に<真理>には二つの種類がある」(206頁)とまで述べる。テキストブックを読めばすむ<学問の真理>と、必ずテキストそのものにかえってそれを読まなければならない<文学の真理>があるというのだ。いわゆる科学の真理と、文体に宿る真理とがあるというわけだ。実にユニークな主張であることは誰も否定できまい。


以上のような前提で、水村美苗は日本近代文学が「亡びる」、いや、すでに亡びつつあると述べているのである。つまり、日本語で書かれた文学一般が消えて無くなってしまうというのではなく、<文学的真理>を備えた本物の日本近代文学が亡びつつあるのだと主張しているのだ。すなわち、英語が<普遍語>となり、<国語>の祝祭の時代が終焉すれば、<国語>はただの<現地語>と化す。そうなれば、<叡智を求める人>は<現地語>化したニホンゴ文学など読まなくなる。「<叡智を求める人>であればあるほど、日本語で書かれた文学だけは読もうとしなくなってきている」(209頁)、と。


水村の論旨をたどっていくと、そのキーワードは結局のところ、<真理><叡智を求める人>である。しかし、それでは日本の近代文学の<真理>とはなんだったのだろうか?おそらく、水村氏の考えでは、夏目漱石の小説に体現されているのであろう。だが、<文学の真理>なる概念によって評価される夏目漱石らの近代文学とは、いったいどういうようなものなのか。水村の今回の評論では、そういったことまでは論述されずに終わりになっている。一番肝心な議論のはずなのだが・・・。(続編は2008年秋というから、もう2-3ヶ月もすれば筑摩書房から刊行される予定である)


私が彼女の議論に少々違和感を覚えてしまうのには、いくつかの理由がある。まず、普遍語や国語で探求しようとしているのは、はたして彼女の論じるような<真理>だけなのだろうかなのかと思ってしまうからだ。たしかに水村は<学問的真理>とは別の次元の真理があると述べた。それは<文学の真理>である。だが、そうなると、たとえば信仰や美や愛の真理はいったいどこに属するのだろうか。水村はアンダーソンを批判して、普遍語の探求をしながらも、例にあげたのはガリレオやニュートンといったルネッサンス・近世以降の学者だけであった。逆に言えば、アウグスティヌスだとか、井筒俊彦が論じた諸賢人の名前は、全く取り上げれられなかった。だが、ラテン語やギリシャ語のような普遍語は、本来は神学や宗教的真理の探究のために学ばれたのではないか。要するに、近世・近代の世俗化した学問や近代文学(小説)の真理は、宗教的神秘的次元の真理についての探求は、禁欲したり括弧にくくったりしてしまったのであろう。そして、水村もまた安易に継承し、近世・近代的な思想に限界づけられている。私は中世的な信仰の世界に戻れと論じているのではない。だが、宗教的真理だとか祈り・信仰的次元を見ないできた近世以降の学問と文学を無条件に肯んじているのことを問題にしているのである。また、もちろんのことであるが、アメリカ語が<普遍語>になるとしても、信仰の次元において<普遍語>となるとは思われない。

私が今脳裏をかすめているのは、たとえば、笙野頼子の宗教的私小説がある。笙野は個々人が祈る心に焦点をあてつつ、日本近代(と明治政府ちゃん)を乗り越え、日本神話の再解釈・再構築というテーマにまで挑戦した。さらに国家語さえも根底から支えている神話の書き換えまで小説的に論じようとしている。あるいは、Ben Okriやターハル・ベン・ジェルーンのような小説。そういった現代の新しい小説は、水村の枠組みを挑戦するものなのではないのか。

もう一つの違和感――さきの違和感と大いにオーバーラップしてくるがーーは、ベネディクト・アンダーソンの解釈にも関わってくる。


水村は不遜なことに「アンダーソンは普遍語の意味を十分に考える必然性がなかった」(189頁) と述べ、アンダーソンをヨーロッパに典型的な多言語的知識人であると規定する。

だが、そうアンダーソンに保証されて、ワァーツと拍手をしても、家に戻ってきて正気に返ったとき、さあ、それではアンダーソンに倣ってインドネシアの言葉やフィリピンの言葉を学ぼうという気になる人がどれくらいいるであろうか(186ページ)
水村がどのような心づもりで書いたのかはわからない。だが、アンダーソンこそは、コーネル大学において長年多くの学生を魅了し、インドネシア語やジャワ語の世界にいざなってきた張本人ではないか。半世紀近くに及ぶでだろうベネディクト・アンダーソンの学問的・教育的業績を、水村美苗は真っ向から否定するつもりなのだろうか。もちろんのこと、水村はアンダーソンの東南アジアの言語内在的な文化主義的研究については完全に無視してしまうのだ(苦笑)。ポイントは何かといえば、水村美苗の方は<現地語>を余りに簡単に軽視しているということだ。つまり、ヨーロッパなどのマイナーな国語だとか、ジャワ語だとかのいわゆる現地語によって探求され明らかにされてきた様々な<真理>について、全く顧みようとしないのである

いとも簡単に、現地語の詩や小説などは、教養のない男や「女子供」の慰めでしかないつまらぬものであると決めつけてしまう水村美苗。女子供という言葉にカギカッコをつけても、結局は同じところであろう。要するに水村は、「教養のある西欧のブルジョア・インテリ男」の立場に立って物を語っているのである。私はここでも、笙野頼子を思い出す。
インテリから見たとき、今の私はもう見えないはずです。作品も読めない。今の私はいると困る存在です。だって金毘羅なんだし。メルロ・ポンティとドゥルーズ=ガタリのある本棚の中にある私の本を並べて楽しんでいた人達はきっと私を見て捨てるでしょう。熊楠と折口信夫が好きな人などはもとよりそうです。(『金毘羅』194ページ
この小市民の私、つまり、「戦後のロリコン達が口を極めて罵る凡庸な『私』」(『金毘羅』225ページ)の極私的物語は、水村美苗の中では取るに足らぬものと消されてしまうことになるのであろう。

「日本語は亡びる」という問題意識については、私が水村美苗に大いに共感する。<国語>から<現地語>に転落してしまうではないか、という議論もわからないではない。アンソニー・リードの『東南アジア史』を読めば、前植民地時代のフィリピンの詩と読み書きの伝統は、まさに「女」による「程度の低いもの」であるようにさえ思われることは否定できない。(注。ただしフィリピンは東南アジアの僻地であり、ジャワやタイのような独自の王朝文明が栄えた土地とは異なる。フィリピン諸語とインドネシア諸語とは文化の厚みが全然違うのである!なお、ベネディクト・アンダーソンにはジャワ語の古典文学の研究論文もある)。

しかし、明治近代文学を自明の前提とするような水村の議論の組み立て方には、やはり最後まで違和感を感じざるを得なかった。新しい時代を迎えようとするとき、近代主義的価値観に束縛された議論に終始してよかったのだろうか。



P.S. 水村美苗の危機意識、つまり日本語文学ばかりか、フランス文学のようなメジャーな民族文学までもが現地語文学に転落してしまうのではないかという恐怖についての論評を読んだ者は、ぜひとも小国文学者ミラン・クンデラの『カーテン』所収の「世界文学」を読んでみる必要がある。

欧州文学の先端を切っていたアイスランド文学の運命、国語消滅の危機におびえていたポーランド人と文学、ロシア支配のもとで本当に死滅する危機にあった中欧文学等々。翻訳の意義だとか、あるいは、大江健三郎の小説論だとか、刺激に富む議論ばかりである。大国主義者水村美苗とは異なる視点もうれしい。

カーテン―7部構成の小説論カーテン―7部構成の小説論
Milan Kundera 西永 良成

集英社 2005-10
売り上げランキング : 245735
おすすめ平均

Amazonで詳しく見る
by G-Tools



---------------------------------------------------------------------------
金毘羅金毘羅
笙野 頼子

集英社 2004-10
売り上げランキング : 168874

Amazonで詳しく見る
by G-Tools



Under Three Flags: Anarchism and the Anti-Colonial ImaginationUnder Three Flags: Anarchism and the Anti-Colonial Imagination
Benedict Anderson

Verso Books 2007-11
売り上げランキング : 61670

Amazonで詳しく見る
by G-Tools


Elizabeth Costello (Wheeler Large Print Compass Series)Elizabeth Costello (Wheeler Large Print Compass Series)
J. M. Coetzee

Wheeler Pub Inc 2004-04
売り上げランキング :

Amazonで詳しく見る
by G-Tools


(注)クッツェー「アフリカの人文学」が大いにヒントになっている。この小説では、架空の女性作家で主人公のエリザベス・コステロ主人公がアフリカ在住の姉ブランチを訪ねるのだが、そのブランチが名誉博士号授賞式で、挑発的議論を展開するのである。私は、その挑発的議論に大いに示唆されてしまったのだ。



2008年8月20日水曜日

郭基煥の北朝鮮論と李良枝論(その2)

郭氏は驚くほど率直に、彼の思想の偏狭性と日本人対する警戒心をむき出しに率直に語っている。たとえば、こんな具合だ。(この本の読者に対しては、あまりに過剰な警戒心であるようにも思われる。しかし、日本社会のなかでこのような警戒心を持たざるを得ないということについては、啓蒙的な意義があることは同意できる)。



在日同士の交流は、何かしらやよそよそしいものになる。私は会話が監視されているの感じる。ともかく、在日同士のコミュニケーションは、ほとんど常に日本人が聞き取り、日本人が割り込んでいくことができる体制の中でしかなしえなくなっている。

この文章は在日に向かってのみ語ることはできない。日本語で書かれている以上、日本人が割り込んでくる可能性がある体制の中でしか書くことはできない。だとすれば、強調されている者達がやるやり方をまねるしかない。盗聴器に聞かれてることを予想した上で話すことだ。そしてそれはこの文章の義務であろう。(152ー153ページ)



さて残念ながら、郭氏の李良枝論については、あまり深入りすることはできない。私がまだその作品を読んだことないからである。だが、最低限の紹介として、次のことを述べておく。氏は、李良枝より前の世代の在日の評論家が李良枝の作品の「非政治性」を批判的に言及するのに対し、彼女を擁護する。そして、自我の安定を前提する不条理文学であり、「日本のかつての植民地に対する宗主国意識、それを保護し正当化するための様々な言説やイデオロギーを暴き、動揺させ、分解するという意図が明瞭に現れている」(195ページ)と評価しているのである。

李良枝という日本語作家を、氏のような偏狭な発想で、はたしてよく評価できるものだろうか。私はそんな危惧を抱く。だが、ここではそういった批判をするつもりはない。実際、日本人の宗主国意識あるいは帝国意識批判といった側面を李良枝から読みとるのは一つの正当な解釈にちがいない。

しかしながら、次の議論は根本的に批判しておく必要がある。というのは、ポストコロニアル文学とは何なのかということについて、無知と独善を露呈してしまっているからである。



「日本のかつての植民地に対する宗主国意識、それを保護し正当化するための様々な言説やイデオロギーを暴き、動揺させ、分解するという意図が明瞭に現れているという意味で、彼女の小説の中でも、[「かずきめ」という作品は]もっともポストコロニアル文学と呼ぶにふさわしい。」(195ページ)



一般に在日朝鮮人文学と言われる一群の作品は「朝鮮発のポストコロニアル文学」と言っていいはずであろう。在日朝鮮人文学は、世界の他のポストコロニアル文学と直接的・持続的に交流することはなかったが、一方でそれらといわば共鳴ししあっているとみなすことができる。あるいは、世界のポストコロニアル文学、もっと言えば、世界中の被植民者達とコミュニケーションすることなく連帯しあっている、と言ってよいかもしれない。そういった事情を踏まえて、私が李良枝の『かきずめ』にポストコロニアル文学性を強く見いだすのは、なによりもその戦闘的・非妥協的性質のためである。(195-196ページ)



民族の言葉を奪われ日本語で文章の読み書きしなければならなかったら在日朝鮮人の文学について、ポストコロニアル文学と評価することには賛成である。だが、郭の独善的予想とは正反対に、世界のポストコロニアル文学と言われるものは、「戦闘的・非妥協的性質」のものだったり、植民地主義や帝国主義をストレートに告発する文学作品などではないのだ。少なくとも私は、そういった戦闘的な文学作品をほとんど思い浮かべることはできない(*)。おそらく郭は、いわゆるポストコロニアル文学だとかポストコロニアル文学理論について、まったく知らないし読んだことがないのである。

私は、郭の議論のすべてが無意味だと言っているのではない。だが、いわゆるポストコロニアル文学の発想と、氏の議論には大きなギャップがあることだけは強調しておく。

もちろん、これは郭氏個人の責任ではありえない。日本の朝鮮・中国・沖縄系の社会学系研究者が、意図的かどうかはともかくとして、共謀的にポストコロニアリズムという言葉を「倒錯的に」借用してきたこと、それが氏の勘違いの原因であることは、あまりにも明白なのだ

おそらく彼らに求められているのは、サイード、スピヴァックといったポストコロニアリルの文学批評家との根本的対決なのである。西欧的な権威に照らして、自分の議論の正当性を確保しようとするような発想から脱却することなのである。サイードだとかラシュディを否定する勇気がないので、議論がおかしくなってしまうのだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

(*)おそらくAchebeあたりが議論されるべきなのでしょう。Achebeは厳しいConrad批判で知られていますからね。しかし、彼の文学作品が「戦闘的・非妥協的性質」をもつといえるのでしょうか? あるいはGordimerでしょうか? しかし、Gordimerはそもそも白人植民者の文学ですし、氏の想定外でしょう。また、アパルトヘイト政策の南アと、現代日本とを比較する議論を私は受け入れることはできませんね。(ナチス・ドイツのユダヤ人と現代の在日朝鮮人とを比較する人もいるようですが、これも少々誇張しすぎでしょう)。

2008年8月7日木曜日

郭基煥の北朝鮮論と李良枝論(その1)

表象のアイルランド表象のアイルランド
テリー・イーグルトン

紀伊國屋書店 1997-06
売り上げランキング : 483218
おすすめ平均

Amazonで詳しく見る
by G-Tools


ナビ・タリョン (講談社文庫)ナビ・タリョン (講談社文庫)
李 良枝

講談社 1989-03
売り上げランキング : 297559

Amazonで詳しく見る
by G-Tools



郭基煥「責任としての抵抗」

野村浩也(編)『植民者へ』の中の郭基煥「責任としての抵抗」という論文は、李良枝の小説をとりあげ、ちょっと面白いと思いメモを取っておいた。取り上げられている作品は、「ナビ・タリョン」と「かずきめ」である。


①「北朝鮮表象」をめぐって

北朝鮮について日本で語るというのは、いかに難しいことであろうか。北朝鮮バッシングの恐ろしい圧力がある、客観的に見ても北朝鮮はちゃくちゃ国であることは否定できない。そういう状況のなかで、北朝鮮バッシングに組みせず、かといって、北朝鮮を礼賛するような愚かさに陥らないようにするには、どのような言語表現のスタイルや形式があるのだろうか。確かそんなことを、テリー・イーグルトン『表象のアイルランド』を読みながら考えていた。


イーグルトンはこんなこと書いている。

イギリス人がアイルランドのことを考えるとき、血で、気難しく、野暮な国民を思い浮かべるとすれば、このような不名誉な先入観を是正しようとするアイルランドの作家たちは、自分たちの社会秩序を消毒し、同国人たちを啓発し、さらには、甘美と崇高を兼ね備えたフィクションによって宗主国の読者層に感銘を与えなければならない。(中略)現状のままにアイルランド描写することによって、イングランドの読者の道徳的憤慨を喚起することは可能かもしれない。だが、その時は同時に、アイルランドがいかに堕落しているかに関する読者の思い込みを裏付けてしまうことにもなる。 イーグルトン「アングロ・アイリッシュ小説における形式とイデオロギー」(266-267ページ)




真理と傾向性、尊厳と本来生は、なかなか和解させることができない。それゆえ、植民地国民の文学芸術は、民衆を貶めることによってしか圧政者を告発することのできないリアリズムか、さもなければ、国民の自負の念を育成しながら植民地支配者に誤った安心感を与える危険をおかす理想主義かという、両極端の間で不安定に航行することを余儀なくさせるのである。(同上、268ページ)


当時の私は、フィリピン研究をしていたので、難解なジレンマの、この簡潔な提示に、大いに感激した。普通の日本人に対して、フィリピン社会について語るということは、いかに大変なことか。実際、ほとんどのフィリピン関係者は、二つのタイプに分裂せざるを得なかった。一方では、フィリッピン社会はいかに素晴らしいか、貧しくても人々が互いに助け合い、女性の力が強く、家父長制的な窮屈さからは自由であることを強調する理想主義のタイプがいた。他方には、フィリピン社会がいかに矛盾に充ち溢れ、文化的には極限的までに堕落し、ケチャップを塗りたくったような不味い飯しかないかを強調する現実主義のタイプがいる。前者は、フィリピン人とフィリピン関係者の自負の念を養い、自己満足を養うには良いのだが、本当の事をカッコに入れて、欺瞞に満ちた現実美化を行っている。例えば、女性の指導者は確かに日本よりははるかに多いのだが、圧力結婚はごく普通のことだし、実はレイプが頻繁で、レイプ婚だってけっして珍しくなかったりする。そういうことを都合よく忘れたり、或いは単に知らない人が、フィリピン社会は女性が強い社会であると報告文を作成してしまうのである。後者を後者で、もっと問題は深刻かもしれない。フィリピン社会の堕落と貧困を強調してしまうと、フィリピン人は、こんな国にても残っていても希望がない、俺はフィリピン人であることが恥ずかしい、と絶望的な気分に陥るしかない。冷淡で差別的な日本人はというと、自分の愚かさや醜さを棚に上げながら、そんなクダラナイ国は見捨ててしまえ、と単にバカにしだしたりしてしまうのだ。こういう悲しい両極端で、どのような表現が可能だというのか。

しかし、北朝鮮表象となると、フィリピン表象以上に困難極めることは予想がついた。日本人の帝国意識的思い上がりから距離を取り、かつ、北朝鮮礼賛のピエロにならないでいること。これほど難解な課題は、そうやたらにあるものではないあろう。(ピエロ路線を選択する在日朝鮮人の青年も知ってはいるが、政治的にナイーブで純粋培養だったためである)

大阪大学の在日韓国人研究者に対して、「北朝鮮問題」についてどのように表現するのかと私は質問してみたことがある。だが、K氏は簡単に私の問いは、どうでも良いことだと、あしらったのだ。おそらく在日韓国人の彼は、北朝鮮問題についてあまり考えていなかっただろうし、仮に考えていたとしても、それを日本人の私に論じるつもりなど全くなかったのだろう。(注、北朝鮮が唐突に出てきたのではない。私の参加していた研究グループは、朝鮮大学校の教員・大学生なども交じっていた共同研究だったからである)


しかし、郭基煥は北朝鮮表象について、全く逃げず、真正面から立ち向かおうとしているのだ。韓流ブームと北朝鮮バッシングの時流に乗って逃げようとする誘惑を、郭基煥は勇気を振り絞って断ち切ろうとしているのだ。


<責任としての抵抗>とは<対決>であり、そのことが意味するのは、決して支配者達に回収されない形で抵抗する、ということだ。(中略)たとえば自分の国籍が韓国であるという事情を利用して、韓国人であると日本人や同胞に向かって言ったり、戦後50年が経過したという歴史を意識の中で強調し、利用して、過去との差異を強調することではない。むしろ自分と北朝鮮との関係を強調することだ。北朝鮮を想起させる朝鮮人ということばで自らを語る。自分の親類に朝鮮総連の活動員がいることを語る。そういうやり方をとることだ。そういうやり方をとるとき、私は恐怖しないでは要られないだろう。だが、そのように恐怖の中で抵抗すること、つまり<対決>は、経験の構造が求めるものなのだ。(182ページ)



彼のような戦闘的姿勢について、いろいろな批判はあろう。たとえば、在日が日本国籍をとって韓国系日本人となったとして、いったい何が悪いのか。私だってそう思わないではない。だが、「責任としての抵抗」という一つの実存的決断について、我々は評価してもよいのではないのか、そんな気にさせられるのも本当のことなのである。

植民者へ―ポストコロニアリズムという挑発植民者へ―ポストコロニアリズムという挑発
野村 浩也

松籟社 2007-11
売り上げランキング : 113269

Amazonで詳しく見る
by G-Tools



2008年8月6日水曜日

池澤夏樹は「おんたこ」か (現代日本のポストコロニアル文学?)

静かな大地
静かな大地池澤 夏樹

おすすめ平均
stars心にしみる、せつない物語
stars日本人は絶対に読んでおくべき一冊
stars出会えて本当に良かった小説
stars渦中に身を置くこと
stars読ませる内容

Amazonで詳しく見る
by G-Tools



日本のポストコロニアル文学的作家ということで、ぼくは当然池澤夏樹を重視し何冊か購入してみたわけです。残念ながらまだあまり読んでいない。その中でなぜか印象に残ってしまったのは、タイ・カンボジア国境のNGOで働く日本人少年と少女の恋愛物語でした。確か「タマリンドの木」ではないかと思います。しかし残念ながら好印象というよりは、池澤が現地を取材し、こういう短編小説を書いちゃったんだな、という感じでした。

アマゾンのレビューで触れた梁石日の『闇の子どもたち』だとか船戸与一『虹の谷の5月』、篠田節子『コンタクト・ゾーン』のような小説と同じような水準という印象でした。要するに、本格的小説に期待するものをそこに求めるならば、甘すぎるという印象です。私がある程度分かるのはフィリピンだけですが、それでも彼らの描くタイ、カンボジア、マレー世界は、ちょっとエキゾチックなだけで表面的な記述でしかないことがわかります。もちろん、現地事情に疎い人がブンガクしてもかまわないのですが、文学的にもあまり深くないのです。

ポストコロニアル文学として池澤を考えるならば、恐らくは代表作は「マシアスギリ」の失脚」と「静かな大地」ということになるのでしょう。これに恐らく、インドネシアを舞台にしたものだとか、南太平洋舞台にした児童文学だとか、いろいろと付け加える必要もあるかもしれません。残念ながら、私はどれも読んでいません。「静かな大地」は今年中には読んでしまおうと思いますが。

多分それなりに面白いものが書かれているのではないかと思います。当時の北海道を思い起こしながら、人間ドラマを楽しむことができるでしょう。最後に自殺せざるを得ない日本人の主人公のことを考えながら、日本とアイヌの歴史、日本人の植民地主義的な歴史について、考えることができるかもしません。

だが、読んでもいないのに池澤さんに大変失礼ですが、悪い予感がするのです。すごくノーテンキなリベラル・リアリズムの歴史小説じゃないかという感じがするのです。(こんなことは司馬遼太郎に向かって主張してもしょうがないでしょうが、池澤夏樹には許されるでしょう)。最後の年譜を見ても、こんな感じです。

本書は創作であるが、主役である宗形家の人々にはモデルがある。(中略)彼らの事績をなるべく曲げずに小説に仕立てるのが作者の意図だったし、彼の人生をたどりつつ時代相も再現するために、文献に残された主要な日付は出来る限り動かさないことにした。(中略)今となって正直に言うと、事実と創作が絡み合って作者にもほどけなくなったというのが本当のところで、だから北海道史や実在の人物については嘘はないけれども、登場人物については虚実ないまぜと思って見ていただきたい


(朝日文庫、654ページ)

この文章を読む限り、小説を読み慣れていない一般読者に向いている、極めて健全で読みやすい作品なのでしょう。だが、そんなリベラルで健全で分かりやすいリアリズムの小説が、本当に文学なのでしょうか。なんだか、ハリウッド映画の「アミスタッド」だとか「カラー・パープル」みたいじゃないだろうか。最後に主人公が自殺するというが、本当に作者と我々にとって切実さがあるのだろうか。そんなふうに思ってしまうんですね。



池澤夏樹の「静かな大地」について、作家の高橋源一郎は解説で次のように書いています。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
文学もまた、歴史と同様、過去を言葉によって記述しようと試みてきた。だが、そのやり方は、歴史と異なる。どんな風にか。池澤夏樹のこの「静かな大地」のように、である。
(666~667頁)。


(中略)
だが、それは、歴史が教えることのできる、ただの知識に過ぎない。

彼らを滅ぼすに至った「和人」とは誰か。我々のことだ。我々は、我々のものと異なる言葉と、我々のものと異なる文化持つ人々を滅ぼした者たちの末裔なのだ。

確かに、我々は「それは気の毒なことだが、みんな、我々の先祖はやったことだ。私は知らない」といえるのかもしれない。いや、そのようにいっても構わない、と教えるの歴史なのである。

作者は、そうは考えない。
(668ページ)。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

高橋源一郎の書いていることは、普通に正論である。もちろん、中高生や大学の教養課程の生徒が相手ならば、こういう内容の小説は必読書となるだろうし、高橋の解説も重要であろう。だが、高橋は肝心な内容に言及することを避けているのではないのか?

ポストコロニアリズムの時代に期待どおりに書かれている政治的に正しい小説、あえてそういう小説を読む価値があるのだろうか、という疑問すら浮かんでくるではないか。

強引に次のようにも問うてもみたい。なぜ池澤は、いわゆるポストコロニアル文学者とは異なのか。つまり、①マジックリアリズムやSFでもなく、②メタフィクション的私小説(偽自伝文学)でもないのか、と。つまり、なぜ、そんなにお気楽な小説を書けてしまうのか、と。

制度化された正義、政治的に正しい教科書風テキストを書く作家というのは、笙野頼子流に言えば、すでに「おんたこ」なのかもしれない・・・。


2008年7月26日土曜日

笙野ファンはエミリー展に急げ







http://www.emily2008.jp/

笙野ファンは、7月28日(月)までで終了してしまうエミリー・カーメウングワレー展(東京)に急いだほうがよい。

笙野の処女作「極楽」あるいはバルザックの「知られざる傑作」(大学生の頃、フランス語で読まさせられた記憶がある)(=「絶対の探求」だと思っていたが、どうやら私の勘違いでした)と通じるような世界を作り出した、オーストラリアー先住民の芸術家の作品が、そこに展示されているのを発見するだろう。西欧近代からは全く自由に、太古の地下脈に耳を澄まして作り上げた芸術がそこにあるのだ。


2008年7月16日水曜日

ポストコロニアルか反帝か(続々)

amazonで野村浩也のもう一つの本『無意識の植民地主義』のレビューも書いておきました。再録し、さらにコメントを付け加えておきます。


無意識の植民地主義―日本人の米軍基地と沖縄人無意識の植民地主義―日本人の米軍基地と沖縄人
野村 浩也

御茶の水書房 2005-05
売り上げランキング : 145711
おすすめ平均

Amazonで詳しく見る
by G-Tools



5つ星のうち 3.0 沖縄人による現代「日帝」批判, 2008/7/15
By shakti - レビューをすべて見る
沖縄支配を継続し、米軍基地を沖縄に強要し続ける現代日本人に対し、その帝国主義を厳しく告発する沖縄人社会学者による書物である。現代の日本帝国主義批判という意味で論旨はきわめて明快だ。また、容赦ない批判を「良心的日本人」にも加えていて興味深い。「良心的日本人」とは、要するに「無意識」の植民地主義者である。本書では、沖縄に在住し、沖縄を「自分の土地」と呼んでしまったコロン(植民者)作家・池澤夏樹に対し、痛烈な批判を浴びせている。

正論ばかりであると思うが、いくつか問題点を指摘しておく。

①野村は、サイードやポストコロニアリズムを彼の思想的道具として使っているが、これは学問的厳密性に欠く議論だと言わざるを得ない。サイードは、ハイブリッド性を重視し、キプリングやコンラッドのような白人の植民地主義・レイシスト作家をも高く評価する文芸批評家なのである。当然のことながら、彼は、サイードやポストコロニアリズムを厳しく批判せればならなかったはずである。(たとえば、San Juan, Beyond Postcolonialismなどを参照のこと)。また、日本人と沖縄人を常に二項対立させているのにもかかわらず、沖縄民族主義や沖縄独立について語ろうとしないのは、たいへん奇妙だ。

②沖縄を主題化するならば、植民地主義はあまり適切ではない概念ではあるように思われる。力をもちいて遠隔地(沖縄)を支配しようとする日帝の帝国主義こそが、最大の問題点のはずだからだ。

③沖縄人の立場から日帝批判をするのはよい。だが、他の被支配民族とか、日本の米軍基地周辺住民との連帯の回路があまり示されていないのは残念である。たとえば私の住む神奈川県相模原市は、日本とアメリカの植民地主義者・軍国主義者によって建設された軍都であり、深夜早朝でも米軍ジェット機の発着演習が繰り返されている。しかし本書を読む限り、相模原や大和市の基地住民が沖縄人と連帯することは難しいような印象すら与える。私には納得がいかない。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
このレビューではさらっと言及しただけですが、③の相模原市と沖縄との対比は実は重要な指摘を含んでいるつもりです。植民地の概念に関わる重大なテーマです。しかし、この件はしばしば感情的な大論争のテーマになりますから、別の機会に書くこととします。

ポストコロニアルか反帝か(続)ーー二つのポストコロニアリズム

ここで再確認するのは、ポストコロニアルというカテゴリーに近い書き手は、むしろ小説家・池澤夏樹の方だということです。これに対し、野田のような自称ポストコロニアリズムの社会学者たちは、ポストコロニアルという文学的視点からはかなり距離を保っていると言える。

ポストコロニアリズムは政治的にはさまざまなポジションを含み、非同一性の理論を堅持する。これに対して野村たち社会学者の見解は、ポストではなくアンチの思想であり、むしろ反植民地主義反帝国主義の視点と命名されるべきです。

例えば昨年翻訳出版されたキャリル・フィリップス『新しい世界のかたち』(明石書店)はカリブ商品の黒人小説家による文学評論集ですが、明らかに前者のポストコロニアリズムの立場に立っています。黒人であり、決して保守的な政治評論家ではないのですが、どう見てもアンチ・コロニアリズムだとか反白人の政治的アジテーターではない。植民者(コロン)の文学者(ゴーディマーやクッツェーなど)だとかナイポールに対しても、どちらかといえば肯定的に取り扱っているのが、この本の特徴です。(さらには、レイシズム的要素を含む作家コンラッドに対する高い評価があることも、注目すべきでしょう)。

なお、もう邦訳では副題として「黒人の歴史文化とディアスポラの世界地図」と書いてありますが、これはやや誤解を招くタイトルです。おそらく出版社になんらかの「意図」があったのでしょうが、ちょっと残念ですね。

新しい世界のかたち―黒人の歴史文化とディアスポラの世界地図新しい世界のかたち―黒人の歴史文化とディアスポラの世界地図
上野 直子

明石書店 2007-11
売り上げランキング : 158820

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

2008年7月15日火曜日

ポストコロニアリズムか反帝か、植民地作家池澤夏樹の評価

話が脱線してしまって、なかなか思うように主題に到達しません。

そして、またまた脱線してしまいます。最近図書館で野村浩也の人が編集した『植民者へ―ポストコロニアリズムという挑発』(2007年)という本を借りてきました。この本についての総体的評価はここでは避けますが、側面的に2点だけ問題にしておきます。

植民者へ―ポストコロニアリズムという挑発植民者へ―ポストコロニアリズムという挑発
野村 浩也

松籟社 2007-11
売り上げランキング : 260804

Amazonで詳しく見る
by G-Tools


① 本書では「ポストコロニアリズム」という言葉がタイトルばかりでなくさまざまと箇所で用いられていますが、この言葉の使い方は間違っていると言わざるを得ない。なぜならば、サイードやバーバあるいはスピヴァックといったポストコロニアル批評家の文章をちゃんと読んでみれば分かることですが、ポストコロニアルという概念の政治的ポジションはきわめて曖昧な文学的なものであって、本書のような明確な指針をうちだすような性質のものではないからです。

たとえば、サイードが敬愛しているの英語作家にポーランド出身のコンラッドという人がいます。代表作は、コッポラの映画『地獄の黙示録』の原作として有名になった『闇の奥』ですが、この本はある意味では、黒人差別と大英帝国の植民地主義の礼賛になっている作品です。すでにアフリカ人作家アチュベが読んではいけない作品だと非難しております。また、コンラッドという人間に対する厳しい批判は、藤永 茂の『「闇の奥」の奥―コンラッド/植民地主義/アフリカの重荷』を読んでみれば理解が深まることでしょう。

『闇の奥』の奥―コンラッド/植民地主義/アフリカの重荷『闇の奥』の奥―コンラッド/植民地主義/アフリカの重荷
藤永 茂

三交社 2006-12
売り上げランキング : 12990
おすすめ平均

Amazonで詳しく見る
by G-Tools


では野村たちはどうしたらよいのか。簡単なことです。サイードの人気だとか権威に媚びたりせず、「反帝国主義」だとか「ネオ・コロニアリズム」という昔ながらの概念を堂々と使うべきだったのです。そして、サイードらの政治的姿勢の曖昧さを糾弾すべきだったのです。左翼からのポストコロニアリズム批判は、在米フィリピン人の政治批評家San JuanのBeyond Postcolonialismがよく整理されていますと思います。

Beyond Postcolonial TheoryBeyond Postcolonial Theory
Epifanio San Juan

Palgrave Macmillan 1997-12-15
売り上げランキング :

Amazonで詳しく見る
by G-Tools


②野村たちは、作家・池澤夏樹を植民地主義者であると非難しています。私も、ある意味で彼らに賛成で、たしかに池澤はコロン(植民者)の視点から物を書いているのだと思います。しかし、ポストコロニアル文学理論的にいえば、それだけで終わりにしてしまうのでは、ちょっとだけ残念でなりません。(野村たちはポストコロニアル文学理論的ではないから、別に構わないのでしょうが)。

どういう事かというと、池澤は日本の植民者(の末裔)の立場から、すでに旧植民地(北海道、南太平洋の島々など)を舞台にした小説を書いているのだから、それらの作品についての本格的論評をすべきではなかったのかと思うわけです。エッセイや発言ではなく、小説の中で植民地と人間がどのように描かれているのか。実はそれがポイントではないでしょうか。(この点に関しては、サイードのカミュ批判が先行例として興味深いと思われます)。

植民地的作家、あるいはポストコロニアル作家としての池澤夏樹の評価については、今後の私の課題とすることにしましょう。(池澤さんの惜しむべきは、おまえはコロンじゃないかと沖縄人に指摘されて、「そうかもしれない」と潔く認めなかったことである。それだけは間違いない!)

南の島のティオ (文春文庫)南の島のティオ (文春文庫)
池澤 夏樹

文藝春秋 1996-08

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

静かな大地 (朝日文庫 い 38-5) (朝日文庫 い 38-5) (朝日文庫 い 38-5)静かな大地 (朝日文庫 い 38-5) (朝日文庫 い 38-5) (朝日文庫 い 38-5)
池澤 夏樹

朝日新聞社 2007-06-07
売り上げランキング : 149506

Amazonで詳しく見る
by G-Tools