2009年10月29日木曜日

サイードとリース『サルガッソーの広い海』

故国喪失についての省察 2故国喪失についての省察 2
大橋洋一

みすず書房  2009-06-26
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ところでジーン・リース『サルガッソーの広い海』について、一言だけ書いておきたいことがある。池澤は、ポストコロニアリズムやフェミニズムいった理論的枠組みでのみ優れているだけではなく、小説技術においても見事であると述べている。なるほど、もしかしたらそうなのかもしれない。しかし、そういうことは脇においておくと、基本的にはスカッとする小説などではなく、物悲しい、不安定ななかに溺れて消えていくような小説だ。最後は自殺していくが、小川未明の「人魚姫」を思い起こさせる。

決して、魅力のある女性主人公が、イギリス宗主国の暴力の前に打ちのめされれたという話ではない。最初から軽くてふわふわした女性が、消えていく悲劇なのである。そして、作者が76歳で完成させた小説である。まさに晩年の小説ではあるまいか。このことをもっと考えてみたいと思う。

いま、思い浮かべるのが、最近翻訳出版されたサイードの『故国喪失についての省察2』(みすず書房)に所収されている最も興味深いエッセイ「敗北とは何か」だ。このエッセイは、「ハワイ原住民の権利といった大義を信奉するのに、いまは相応しい時機ではないと感じる」(p270)という話から始まり、私にはしびれるモノだった。なぜならば、私がハワイ大学の大学院生のおろ、ハワイ人の講演があり、そういう話題が持ち上がったからだ。

サイード自身は「説得力のあるかたちで考えぬかれたものであるならば、なんであれどこかで他の場所で、他の人々によって思考されるに違いない」(アドルノ)という確信をもちうる。だから、真に敗北した大義などは存在しないと結論づける。

サイードは安易にこのような結論に至っているのではない。その途中で、スウィフト、フローベール、セルバンテス、ハーディ等が、敗北をどのように表象してきたのかに言及するのだ。それらに共通するのは、「作家生活の終わりの近くになって執筆されたということだ」(284頁) あるいは「若い頃に抱いた野心や大望がはたして成就したのかどうか、締めくくりをつけ、判断を下し、得失を勘定すべき時期である」(同頁)。

ジーン・リースが最晩年まで拘った「サルガッソーの広い海」のもの悲しさを、サイードの指摘とともに考えてみたいと思う。


なお、私のような文学素人として、特別な驚きだったことをもう一つ付け加えておきたい。というのは、昔、J.M.Coetzeeの自伝的的小説Youth を読んでいると、 Ford Madox Fordに若い頃憧れたと書かれてある。それから藤永 茂先生のコンラッド批判の文章を読んでいると、コンラッドがFord Madox Fordと共著(短編)を書いている。どんな人なのかと思って調べてみると、ジーン・リースを愛人にしていたモダニズム文学者・編集者であることが分かった。これらの白人文学者たちは、いずれもポストコロニアル文学としてよく論じられているのだが、互いに知的に人的に深くつながっているのである。文学研究者がでどのように論じているのか(あるいは論じていないのか知らないが、大変面白いと思った。

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