2008年8月20日水曜日

郭基煥の北朝鮮論と李良枝論(その2)

郭氏は驚くほど率直に、彼の思想の偏狭性と日本人対する警戒心をむき出しに率直に語っている。たとえば、こんな具合だ。(この本の読者に対しては、あまりに過剰な警戒心であるようにも思われる。しかし、日本社会のなかでこのような警戒心を持たざるを得ないということについては、啓蒙的な意義があることは同意できる)。



在日同士の交流は、何かしらやよそよそしいものになる。私は会話が監視されているの感じる。ともかく、在日同士のコミュニケーションは、ほとんど常に日本人が聞き取り、日本人が割り込んでいくことができる体制の中でしかなしえなくなっている。

この文章は在日に向かってのみ語ることはできない。日本語で書かれている以上、日本人が割り込んでくる可能性がある体制の中でしか書くことはできない。だとすれば、強調されている者達がやるやり方をまねるしかない。盗聴器に聞かれてることを予想した上で話すことだ。そしてそれはこの文章の義務であろう。(152ー153ページ)



さて残念ながら、郭氏の李良枝論については、あまり深入りすることはできない。私がまだその作品を読んだことないからである。だが、最低限の紹介として、次のことを述べておく。氏は、李良枝より前の世代の在日の評論家が李良枝の作品の「非政治性」を批判的に言及するのに対し、彼女を擁護する。そして、自我の安定を前提する不条理文学であり、「日本のかつての植民地に対する宗主国意識、それを保護し正当化するための様々な言説やイデオロギーを暴き、動揺させ、分解するという意図が明瞭に現れている」(195ページ)と評価しているのである。

李良枝という日本語作家を、氏のような偏狭な発想で、はたしてよく評価できるものだろうか。私はそんな危惧を抱く。だが、ここではそういった批判をするつもりはない。実際、日本人の宗主国意識あるいは帝国意識批判といった側面を李良枝から読みとるのは一つの正当な解釈にちがいない。

しかしながら、次の議論は根本的に批判しておく必要がある。というのは、ポストコロニアル文学とは何なのかということについて、無知と独善を露呈してしまっているからである。



「日本のかつての植民地に対する宗主国意識、それを保護し正当化するための様々な言説やイデオロギーを暴き、動揺させ、分解するという意図が明瞭に現れているという意味で、彼女の小説の中でも、[「かずきめ」という作品は]もっともポストコロニアル文学と呼ぶにふさわしい。」(195ページ)



一般に在日朝鮮人文学と言われる一群の作品は「朝鮮発のポストコロニアル文学」と言っていいはずであろう。在日朝鮮人文学は、世界の他のポストコロニアル文学と直接的・持続的に交流することはなかったが、一方でそれらといわば共鳴ししあっているとみなすことができる。あるいは、世界のポストコロニアル文学、もっと言えば、世界中の被植民者達とコミュニケーションすることなく連帯しあっている、と言ってよいかもしれない。そういった事情を踏まえて、私が李良枝の『かきずめ』にポストコロニアル文学性を強く見いだすのは、なによりもその戦闘的・非妥協的性質のためである。(195-196ページ)



民族の言葉を奪われ日本語で文章の読み書きしなければならなかったら在日朝鮮人の文学について、ポストコロニアル文学と評価することには賛成である。だが、郭の独善的予想とは正反対に、世界のポストコロニアル文学と言われるものは、「戦闘的・非妥協的性質」のものだったり、植民地主義や帝国主義をストレートに告発する文学作品などではないのだ。少なくとも私は、そういった戦闘的な文学作品をほとんど思い浮かべることはできない(*)。おそらく郭は、いわゆるポストコロニアル文学だとかポストコロニアル文学理論について、まったく知らないし読んだことがないのである。

私は、郭の議論のすべてが無意味だと言っているのではない。だが、いわゆるポストコロニアル文学の発想と、氏の議論には大きなギャップがあることだけは強調しておく。

もちろん、これは郭氏個人の責任ではありえない。日本の朝鮮・中国・沖縄系の社会学系研究者が、意図的かどうかはともかくとして、共謀的にポストコロニアリズムという言葉を「倒錯的に」借用してきたこと、それが氏の勘違いの原因であることは、あまりにも明白なのだ

おそらく彼らに求められているのは、サイード、スピヴァックといったポストコロニアリルの文学批評家との根本的対決なのである。西欧的な権威に照らして、自分の議論の正当性を確保しようとするような発想から脱却することなのである。サイードだとかラシュディを否定する勇気がないので、議論がおかしくなってしまうのだ。
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(*)おそらくAchebeあたりが議論されるべきなのでしょう。Achebeは厳しいConrad批判で知られていますからね。しかし、彼の文学作品が「戦闘的・非妥協的性質」をもつといえるのでしょうか? あるいはGordimerでしょうか? しかし、Gordimerはそもそも白人植民者の文学ですし、氏の想定外でしょう。また、アパルトヘイト政策の南アと、現代日本とを比較する議論を私は受け入れることはできませんね。(ナチス・ドイツのユダヤ人と現代の在日朝鮮人とを比較する人もいるようですが、これも少々誇張しすぎでしょう)。

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