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2009年11月7日土曜日

ポストコロニアリズムの二つの顔(1)ーーサイード『オリエンタリズム』は読んではいけない!

ポストコロニアリズムには、なぜかくも誤解やら対立が多いのだろうか。二つの理由があると思う。一つの理由はサイード自身にある。サイードの本を何冊かちょっと吟味してみると分かるのだが、『オリエンタリズム』だけは突出して読みやすく単調な議論で埋め尽くされているのだ。これが本当にサイードの著作だといえるのだろうか?

とくに注目したいのが『オリエンタリズム』と『文化と帝国主義』の前半部との間にあるギャップである。どちらも主著なのであろうが、前者をポストコロニアリズムの基本書と理解する人と、後者をポストコロニアリズム的思索の事例と考える人とでは、ポストコロニアリズムの解釈が大きく異なってきてしまうのだ。私の立場はどうなのかといえば、『オリエンタリズム』のナイーブで単純な議論を真に受けてはいけないし、初学者は読んではいけない本であるとすら思う。ポストコロニアル理論を理解したかったら、サイードでいえば『文化と帝国主義』と『パレスチナとは何か(After the Lasy Sky)』を読まなければならないと打った鋳掛けたい。

もう一つは、前回示唆したように、朝鮮が植民地化してしまったと思っている人と、朝鮮は植民地化されていないと思っている人との間の隔たりである。すなわち、朝鮮がポストコロニアリズムの射程にあるはずだという解釈と、ポストコロニアリズムの射程の外にあるという解釈が存在するのである。前者の立場の人からすれば、後者の見解は信じられないほどケシカラヌ暴言(!)に聞こえるかも知れない。だが、至極真面目な見解であり、全然暴言ではない。いずれにせよ、ポストコロニアリズムやポストコロニアル文学についての見解の合意を得ることはほとんど不可能であることは容易に察することが出来るだろう。


(1)サイードの二つの顔ー『オリエンタリズム』はサイードの主著ではない

以前書いたことだが、「帝国意識」をテーマ化する歴史学者とサイードらとでは問題意識が大いに異なっていて噛み合わない。なぜ彼らのギャップの根本理由は、サイードは本来的には文学者(芸術研究者)であるのに対し、帝国意識論の歴史学者は悪の表象には関心があっても、芸術には関心がないからである。ところが、歴史学者はサイードの『オリエンタリズム』を読んで、ちょっと大きな勘違いしてしまったのだ。

文学者サイードにとって『オリエンタリズム』はそれほど大事な著作ではなかったのだ。むしろ、あまりにも一本調子で退屈な著作とみなされるべきだったのだ。(他のサイードの著作を読むと、あまりにも反響が大きかったのでサイード自身がびっくりしているということが分かる)。

サイードに言及する書き手(出版物・ネット)の大半は、サイードといえば「オリエンタリズム」と『知識人とは何か』だと思っているしその2冊しか読んでいないように思われる。この2冊だけは、アマゾンのレビューが異様に多いことからもわかるだろう。たしかにエドワード・サイードの『オリエンタリズム』といえば、ポストコロニアリズムの先駆けであると見なされるし、前述の中井亜佐子も、そう書かざるをえない(16頁)。

だが、サイード=「オリエンタリズム」という「常識」は、一般読書人もそろそろ捨てるべきではないのか。最大の根拠は、『オリエンタリズム』においてはサイード本来の専門である文学作品についてほとんど触れられていないからである。仮に『オリエンタリズム』の手法で文学作品を論じることが「ポストコロニアル批判」だとしたら、芸術的価値のある作品としての文学を扱うのではなく、単なるイデオロギー文書として論じることになるだろう。つまり、帝国意識研究の実証的歴史学者が採用する方法論を採用するだろうし、文学作品は単なる差別発言の集積であり、糾弾すべき単なる過去の遺物となってしまうだろう。これでは対位法的(Kontrapunkt, contrapuntal)な方法論ではありえない。もし「オリエンタリズム」の名前を借りた、そのような「文芸批評」があるとしたら、それは野蛮なる文化的遺産への暴力でしかない。たとえば、民主主義や人権を理解していないからといって、『源氏物語』を糾弾するようなものなのである。要するに、「オリエンタリズム」的な見方というのは、文学や学問を認識し評価する際の一つの契機すぎないのであって、「オリエンタリズム」一本槍で勝負できるような視点とはなりえないのである。

もちろん、ポストコロニアリズムは文学や芸術学とは必ずしも関係ないという反論も予期しうる。たしかに、その通りだ。だが、そういった理解の仕方は、サイードの多面的な著作、とりわけ文学、芸術学を中心として展開される多くの専門的著作とは異なった観点に立っていること、またバーバやスピヴァックといった他の主要な論客とも大きな隔たりがあることを知るべきだ。


他方、詩や小説を論じた『文化と帝国主義』、とくにその前半部こそが彼の本当の主著であると私は言いたい(*)。残念ながら、この本を読んだ人はあまりいない。たとえばbk1のレビューアーの佐々木力(東大教授・科学史) や 小林浩のように、全く読んだ形跡がないで文章を書いている者もいるのだ。はっきり言って読むのは容易ではない。というのは、西欧とアジア・アフリカの出会いを扱った様々な小説が論じられるわけで、そういった小説を読み、文学に親しんでおく必要があるからだ。

だが、文学でしか表現できないような異文化と異人との出会いが、キプリングやコンラッドの小説では描かれている。そして、サイードも『オリエンタリズム』のように、そういった小説を一方的に糾弾していくのではなく、むしろ、帝国主義的あるいは植民地主義的作家に対しても優しく丁寧に論評が加えられている。たとえばキプリングは、大英帝国主義を支持した作家であるが、その作品の分析は糾弾とはほど遠い。事実、『サイード自身が語るサイードでは次のようにも語っているのだ

「彼[キプリング]は、いろいろな種類の住民たちを信じられないくらい細かく描き分けられる。また彼は若者と老人とを描写することにかけて、すばらしい才能を発揮している」(87頁)

「彼[キプリング]のインドについての感じ方はわたし[サイード]のカイロについての感じ方と同じだよ。つまりわたしはエジプト人ではないので、政治については思い悩むことなく、カイロの地に居座れるのだが、キプリングのインドについてそんなふうに感じていたはずだ」(87頁)
ここでは詳しくは説明できないが、サイードが作家を「批判」するときと、非文学者を「批判」するというのでは、その姿勢が全く異なるのである。一言で言えば、偉大なる芸術家であり作家であるのに、なぜ同時に帝国主義者でありえたのかという問によって、サイードはいつも彼らと向き合っていたように私には思われる。

キプリングばかりではなく、サイード vs ナイポールの対立も、同じような複雑で微妙な対立として理解しなくてはならない。ナイポールは、もしかしたら旧植民地をコケにする反動的文学者だと思われているかも知れないが、左翼サイード vs 反動ナイポールというふうな単純な枠組みで理解しては絶対にならないのだ。サイードであるが、いつでもナイポールの文学的才能を高く評価していたのである。つまり、ナイポールの旧植民地に対する辛辣な観察と記述を、反感を持ちながらもある意味では共感を持って読んでいたのである。彼らは、全面的に相対立するというよりは、共通の土俵の上で対立しながら共存していた。こういう微妙なところにポストコロニアリズムの真の意味があるのだともいえるのだ。

どちらをサイードの主著と取るかによって、サイードとポストコロニアリズムの解釈論議は大きく分かれるだろう。私は『文化と帝国主義』こそが主著であり、『オリエンタリズム』を過大評価しないことを訴えたい。もちろん、『オリエンタリズム』がサイードでありポストコロニアリズムだという人が大多数である現状は動かないだろう。だが、そういう多数派の人だとしても、『オリエンタリズム』を認めないサイード読者がいること、そして、そういう読者のポストコロニアル認識が多数派とは根本的に異なっているということくらいは、わかってくれるのではないのか。

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私の書いたことは、(今回も)まことに荒っぽい議論だと思う。だが、このことは、誰かが書くべきではなかったのか。文学研究者はこういう乱暴な文章は書けないだろうし、非文学者はサイードの文学研究に無関心である。だから、誰もサイードの二つの側面について言及できないのである。よって、文学には関心があるが、文学とはほど遠い完全にアマチュアの私が、敢えてこのような単純明快な二分法を提起してみたのである。


注釈
(*) さらに言えば、『文化と帝国主義』の最終部のいくつかの章は、ポレミカルなだけの無内容な発言集だった。あれも文学者サイードにとっては、ちょっと痛かった。おそらくは、「サイードって有名だけれども、学問的にはたいしたこと無さそうだね」と言われている。だからこそ、『文化と帝国主義』の前半部や、『パレスチナとは何か』ーーもう一つ別の主著であり、中井亜佐子も詳しく論じているーーについて、もっと語られてもらいたいと願う。

2009年11月6日金曜日

池澤夏樹のポストコロニアル文学批判(その4)

グーグルのようなもので検索しても、池澤夏樹に批判的な見解を書く人はほとんどいないですね。例の沖縄系社会学者あるいは運動家の人たちはともかくとして、池澤夏樹の見解に大賛成な人ばかりなのでしょうか。(沖縄系の池澤批判者が、彼の文学全集を議論してもよいのですが・・・)。反発を覚えないにせよ、彼の議論に何の疑問を感じないのは、あまり望ましくありません。あのさわやかで知的な感じに騙されて、安易に迎合したり、呑まれてしまってはいけないのです。というのは、池澤が語っていることは、ポストコロニアル文学論の観点の非常に重要な論点と関わっているからです。

(あらかじめ断っておきますと、わたくしは、池澤夏樹 (ポストコロニアリズム) vs 沖縄系学者(反帝国主義、反「ポストコロニアリズム」)の対立に関して言えば、どちらといえば池澤よりの立場です。(沖縄系や韓国系のポストコロニアリズム議論は、完全にその言葉の意味について誤解していると私は理解しているからです。彼らはポスコロじゃなくて、反帝主義なのです)。


まずは2008年における学習院大学での池澤の講演をみてみましょう。

僕は今回新たに編んだ文学全集には、ふたつの顕著な特徴があります。ひとつはポストコロニアリズム。①元植民地に住んでいた人たちが、宗主国の言葉で書いている、②もしくは宗主国から植民地に行ったひとが書く。 (番号はshaktiによる)。 (中略) 
ポストコロニアルの作家の例でいえば、マルグリット・デュラス。フランス人ですが旧仏領インドシナのベトナムやカンボジアで育ちました。彼女にはその土地について強い思い入れがあったのです。
それからジーン・リース。西インド諸島生まれの白人です。西インド諸島は、先住民、スペイン人、サトウキビ農場の労働力のために連れてこられたアフリカ人と、いろんな人種がたくさんいます。カリブ海のあたりでは「クレオール」とも呼びます。シャーロット・ブロンテ「ジェーン・エア」に、主人公ジェーンが出会うロチェスターの狂人の妻が登場しますが、ジーン・リースはその妻の側からの視点で書いているんです。従来、敵役とされたパーソナリティを置き換えると、まったく世界が違って見えます。
第二次世界大戦後の世界文学は、弱者の視点に変わった、抑圧された者にもペンを与えたと思います。今までの見方をひっくり返した。ジーン・リースはその典型です。すごみ、気迫があります。

実に簡潔で明快なポストコロニアル文学の定義です。しかし、再度繰り返しますが、池澤の議論に対して、あまりに簡単に、ふーん、そうなんだ、とか言って納得してしまっては絶対にいけない。日本のかつての植民地は台湾と朝鮮半島であったという普通に思っているような日本在住の人ならば、当然次のような疑問が浮かびあがらなければならないはずだからです。
  1. 元植民地出身の人は、宗主国の言葉で書かなければならないのか。それでは、この全集に含まれているような、中国やベトナムの作家の作品はポストコロニアル文学とは呼べないのか。また、元植民地の人は宗主国の言語で文学した場合のみポストコロニアル文学だといえるのか。
  2. 元植民地の支配者民族と被支配者民族の書き物が、同じポストコロニアル文学という枠組みにくくられてしまって良いのか。政治構造から考えれば、植民地の支配者民族と被支配民族は、互いに対立し合ったり、憎しみあったり、ときには互いに戦闘するかもしれない、究極の相反する極限にあるのではないのか。それなのに、旧支配民族の書き物もポストコロニアル文学に価するのか。

上記のような疑問が浮かんでこなかった人は、池澤の議論の斬新さときわどさを見逃してきたということになるわけです。しかし、結論的に言ってしまえば、ポストコロニアル文学というのは、この池澤の簡潔な定義で間違っていない。サイードやバーバ、とりわけアッシュクロフトの『ポストコロニアルの文学』といった論客の議論を整理すると、そう断言するしかない。この議論に賛成だろうと反対だろうと、それがポストコロニアル文学と文学批評の立場なのだとしか言いようがないわけです。もしこのヴィジョンが気にくわないのならば、むしろポストコロニアリズムを批判すべきだと言い換えることも出来る。(ポストコロニアル文学とポストコロニアル費用の違いはないかとか、他にもさまざまな問題が含まれているが、ここでは省略する)。

さらに、ポストコロニアル文学論の命題は、次のような非常に重要な議論へと展開されるはずです。



①韓国あるいは中国は植民地化ないしは半植民地化した民族ではない。

②ポストコロニアル文学の観点から言えば、植民地の支配者と被支配者が、「周辺」的な領土において空間と時間を共有していたことに多大な意味がある。つまり、支配と被支配者の対立関係は絶対的なものではない。


韓国が日本の植民地ではなかったという議論をすると、韓国系の人間・研究者が猛反発することが予想されます。また、現に私は何度もそういう体験はしている。その気持ちは分からないわけではない。というのは、彼らの考える植民地支配とは、異民族に対し物理的ないしは文化的社会的な暴力的支配を行うことであると定義しているからである。したがって、もしかつての朝鮮半島は植民地化されてなかっと指摘すれば、日本帝国主義の非人間的な暴力を無かったことにしてしまうとする良からぬ動機を勝手に想定してしまうからだ。

朝鮮・韓国系の立場の人たちの気持ちが分からないわけでは無い。だが、私の議論は、帝国主義的暴力の存在を否定する議論とは全く無関係である。日本は、他の列強と比べて相対的によいことをしたとか、近代化に貢献したとかという話ではない。そうではなく、大日本帝国の物理的文化的暴力にもかかわらず、朝鮮半島は根本的な文化変容(=植民地化)しなかったという議論であり、むしろ民族の文化的力量を称える立場なのである。(続く)


参考文献


P.S. このブログでは、本橋哲也の「ポストコロニアリズム」は、誤解と思いこみに基づいた議論の積み重ねをしてしまっているという立場を取っています。文学者が未熟に政治化したなれの果てなのでしょう。良い本を沢山翻訳している先生なのですが。

2008年8月27日水曜日

帝国主義と植民地(その1)

帝国主義と植民地

ここでおそらく暫定的な試みとなるであろうが、帝国主義という言葉と、植民地という言葉について、わかりやすい区別をしていきたい。これはきわめて重要な提案となるはずだ。

私は、次のことを提案をするつもりである。

  1. 帝国主義と植民地主義ないし植民地の区別をすること
  2. 植民地化とは文化と精神の支配であるとすること。
  3. 被植民地化した社会と、帝国主義に従属したにもかかわらず被植民地化されなかった社会との区別をすることである。


帝国主義と植民地主義にはしばしば区別されることなく使われることが多い。それでも次のサイードの定義はよく引用されている。

「帝国主義」という言葉は、遠隔の領土を支配するところの宗主国中枢における実践と理論、またそれがかかえる様々な姿勢を意味している。いっぽう「植民地主義」というのは、ほとんどいつも帝国主義の帰結であり、遠隔の地に居住区を定着させることである。(中略)私たちの時代において、あからさまな植民地主義はおおむね終わりを告げている。いっぽう帝国主義は、これからみているように、それがこれまであったところに、特定の政治的・イデオロギー的・経済的・社会的慣習実践のみならず文化一般にかかわる領域に、消えずにとどまっている。」(『文化と帝国主義1』40-41ページ)。


しかしながら、このサイードの簡単な区別では、ほとんどの人はその意味がよく分からないはずだ。 たとえば野村浩也の場合、「個別具体的な土地の住民に対して帝国主義が実践される場合のことを特に植民地主義という」(『植民者へ―ポストコロニアリズムという挑発』30ページ)と解釈している。つまり、帝国主義が「悪」で、植民地主義は「悪」を遂行するエージェントであるというわけだ。こういう解釈はもっともらしくもみえる。だが、これでは、「遠隔の地に居住区を定着させる」という契機を無視してしまうことになるだろう。また、植民地主義が終わったが、帝国主義は今なお存続しているというサイードの文章の意味を理解できなくなってしまうだろう。

それ以上に問題なのは、朝鮮系・沖縄系のいわゆる「ポスコロ」にありがちなのだが、帝国主義と植民地に関わる帝国側・植民地宗主国側が、すべて「悪一色」に染まってしまうことである。これではポストコロニアル文学・文化研究は非常に窮屈なものになってしまう。ここでは詳しい論評を避けるが、サイード、スピヴァック、バーバといった文学研究者あるいはクッツェー、ラシュディ、ナイポールといったポストコロニアル文学者たちの業績を否定してしまうことにもなるのだ。なにしろ、たとえばサイードの場合、帝国主義に荷担したり、レイシストでもある英語作家を敬愛しているときているのだ。あるいはサイードは南アフリカのアフリカーナ系白人作家なのだ。

ここで誤解なきように述べておくが、帝国主義を甘く評価するとか、部分的にでも承認したいというのではない。究極的には、サイード的に言えば対位法的に絡み合わせて理解するにせよ、帝国主義や植民地主義といったものから相対的に自律した社会的文化的空間を設定すべきだと主張しているのである。文学愛好家ならば、レイシストや帝国主義者が常に異人種を非人間的に描くとはかぎらないし、その反対に博愛主義者や平和主義者が異人種を人間として誠実に描くとは限らないことはご存知であろう。


て、「帝国(主義)」と「植民地(主義)」の二つの言葉の性質の違いをよく考えてみてもらいたい。「植民地主義」(colonialism)という言葉が指示しているのは、「植民地」(colony)ないし「植民者」(colonistあるはフランス語でcolon)という言葉だ。ところが、「帝国主義」(imperialism)と「帝国」(Empire)との間には若干の距離がある。ましてや、「帝国者」という言葉は普通には存在しないのである。それはどういうことなのか。

次のように考えたらどうだろうか。帝国主義は宗主国中枢からの権力発動という抽象的なシステムに貫徹する力の諸傾向を示唆している。他方、植民地主義の植民という言葉は、いつも具体的な人間と、彼らの行為・実践を指し示しているのである。つまり、宗主国等の様々な人間が遠隔地に移住すること、そこで開発開拓・軍事行政・教育布教活動などの様々な産業に従事することである。もちろん植民地とは、宗主国が移民を送り出す遠隔の土地であり、植民者とはそこにおくりだされる農業開拓民、聖職者、教師、軍人、官吏、技術者、文化人たちのことである。つまり、植民地主義はそういった人間たちを膨張的に送り出す理念のことなのである。(つづく)


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水村美苗「日本語が亡びるとき」をめぐって


やはり水村美苗の「日本語が亡びるときーー英語の世紀の中で」『新潮』(2008年9月号)について書いておかなければならないと思う。mixi 上で紹介したら、私の知人・友人の多くが水村美苗の議論について、大いに関心を持ってくれたからだ。

さて、「日本語は亡びるとき」は日誌または小説の形態をとってはいるが、笙野やクッツェーの作品のような特別な「からくり」があるわけではなさそうだ。ここでは単なる評論とみなし、物語的展開についての言及は捨象しておこう

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さて、内容はといえば、ある意味では凡庸である。タイトルが示す内容そのままであり、必ずしも刺激的な評論とは言い難い。しかし、もちろんのことだが、この小説家独自の問題意識も散りばめられている。とくに興味深いのは、アメリカで教育を受けてきたにもかかわらず、「なぜ日本語の作家となったのか」というテーマ、あるいは、「なぜ私は英語の作家にならなかったのか」というテーマを水村美苗が抱いているからである(同書、171頁)。 英語と日本語の両方の世界に足を踏み入れた女性が、世界的に見ればマイナーな日本語という言語をあえて選び取ったのは何故か。こういうテーマを抱えている日本人作家が、日本語が亡びるときを論じるのだから、やはり読んでみないわけにはいかないだろう。何しろ水村美苗と言ったら、日本語と英語による本格的なバイリンガル小説『私小説 from left to right』の作者なのだ。


かつて村上春樹について、次のようなことを書いてみた事がある。村上春樹といえば、アメリカ文学を愛好し、グローバル化した社会に奉仕する、ネオリベ的で非国民的なケシカラン作家であるとしばしば批判されている。私はこの見解に半ば同意しつつも、村上春樹が彼なりの枠組みで日本語と日本語文学の枠組みにとどまっている事を論じたのだ。このグローバリゼーションの時代において、村上という作家はボーダーライン上にあるのだ。もしその気になれば、優秀なエディターを雇い、アメリカ語の売れっ子作家になることも可能だったではないか。それなのに日本人・日本語作家であることやめてないのだ。しかも、海外向けて作品を発表するばかりでなく、英語文学を日本語に翻訳するという地道な作業に取り組んでいる。彼なりにグローバリゼーションに対して抵抗をしているのだ、と。

しかし、村上春樹の後の世代が日本語文学にとどまるのか、たしかに心許ない。もし日本人の最大のベストセラー作家が英語で執筆する時代になってしまったならば、日本語と日本語文学は壊滅的なダメージを受けている時代の到来ではないか。

バイリンガル或いはフランス語を含めて三カ国語が堪能な作家・水村美苗は、どのようにして議論を展開しているのか。予想通りというべきか、水村美苗もベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』に言及している。しかも極めて批判的である。アンダーソンは、ヨーロッパ的な多言語主義の視点に立っているが、自分が英語を母語とする人間だから、英語が他の国語とは違う<普遍語>であることについて、十分検討していないというのである。<普遍語>に関しての思考の欠落があるのだ、というのだ。

水村美苗のアンダーソン批判は不当なものである。というよりは、アンダーソンとは異なる価値観の持ち主だと思うが、差し当たりその事について取り上げず、水村の論旨を追っていこう。水村の提案は、アンダーソンが探求を怠っていたという<普遍語>についての検討である。

水村は言う。<普遍語>とは、学問のための<書き言葉>であり、<読まれるべき言葉>以外の何ものでもない。<叡智を求める人>は、例えばガリレオやエラスムスは、ラテン語で書いたのだ。これに対して<現地語>というのは、下位のレベルにある言葉であり、<書き言葉>の有無は問わず、「女子供」と無教養の男のためのものでしかない。文学として意味を持つ散文が書かれる事は少ない。

他方、<国語>は<普遍語>でも<現地語>でもない。もとは<現地語>でしかなかった言葉が、<普遍語>を翻訳する過程において<普遍語>と同じレベルで機能するようになった言葉である。そして、近代の英仏独の<3大国語>は、<普遍語>と<現地語>を持ち合わせる言語となったのだ。そして19世紀になると、他の小国のヨーロッパ人たちも<自分たちの言葉>で書くべきだと考えるようになるのだ。<国語>の時代に入ったというべきであろうか。

ここで、水村はきわめて論争的な仮説をいくつか提示する。<国語>の時代に<学問>と<文学>とが別れるようになったのだ、そして、「人間とは何か」「いかに生きるか」といった問いは、専門化された<学問の言葉>には求められず、<文学の言葉>に求められるようになったのだ、と。もちろん文学、とくに小説の言葉を担うのは、<母語>あるいは<現地語>と<普遍語>の双方の性質を有することができた<国語>であった。

さらに追い打ちをかけるように、「この世に<真理>には二つの種類がある」(206頁)とまで述べる。テキストブックを読めばすむ<学問の真理>と、必ずテキストそのものにかえってそれを読まなければならない<文学の真理>があるというのだ。いわゆる科学の真理と、文体に宿る真理とがあるというわけだ。実にユニークな主張であることは誰も否定できまい。


以上のような前提で、水村美苗は日本近代文学が「亡びる」、いや、すでに亡びつつあると述べているのである。つまり、日本語で書かれた文学一般が消えて無くなってしまうというのではなく、<文学的真理>を備えた本物の日本近代文学が亡びつつあるのだと主張しているのだ。すなわち、英語が<普遍語>となり、<国語>の祝祭の時代が終焉すれば、<国語>はただの<現地語>と化す。そうなれば、<叡智を求める人>は<現地語>化したニホンゴ文学など読まなくなる。「<叡智を求める人>であればあるほど、日本語で書かれた文学だけは読もうとしなくなってきている」(209頁)、と。


水村の論旨をたどっていくと、そのキーワードは結局のところ、<真理><叡智を求める人>である。しかし、それでは日本の近代文学の<真理>とはなんだったのだろうか?おそらく、水村氏の考えでは、夏目漱石の小説に体現されているのであろう。だが、<文学の真理>なる概念によって評価される夏目漱石らの近代文学とは、いったいどういうようなものなのか。水村の今回の評論では、そういったことまでは論述されずに終わりになっている。一番肝心な議論のはずなのだが・・・。(続編は2008年秋というから、もう2-3ヶ月もすれば筑摩書房から刊行される予定である)


私が彼女の議論に少々違和感を覚えてしまうのには、いくつかの理由がある。まず、普遍語や国語で探求しようとしているのは、はたして彼女の論じるような<真理>だけなのだろうかなのかと思ってしまうからだ。たしかに水村は<学問的真理>とは別の次元の真理があると述べた。それは<文学の真理>である。だが、そうなると、たとえば信仰や美や愛の真理はいったいどこに属するのだろうか。水村はアンダーソンを批判して、普遍語の探求をしながらも、例にあげたのはガリレオやニュートンといったルネッサンス・近世以降の学者だけであった。逆に言えば、アウグスティヌスだとか、井筒俊彦が論じた諸賢人の名前は、全く取り上げれられなかった。だが、ラテン語やギリシャ語のような普遍語は、本来は神学や宗教的真理の探究のために学ばれたのではないか。要するに、近世・近代の世俗化した学問や近代文学(小説)の真理は、宗教的神秘的次元の真理についての探求は、禁欲したり括弧にくくったりしてしまったのであろう。そして、水村もまた安易に継承し、近世・近代的な思想に限界づけられている。私は中世的な信仰の世界に戻れと論じているのではない。だが、宗教的真理だとか祈り・信仰的次元を見ないできた近世以降の学問と文学を無条件に肯んじているのことを問題にしているのである。また、もちろんのことであるが、アメリカ語が<普遍語>になるとしても、信仰の次元において<普遍語>となるとは思われない。

私が今脳裏をかすめているのは、たとえば、笙野頼子の宗教的私小説がある。笙野は個々人が祈る心に焦点をあてつつ、日本近代(と明治政府ちゃん)を乗り越え、日本神話の再解釈・再構築というテーマにまで挑戦した。さらに国家語さえも根底から支えている神話の書き換えまで小説的に論じようとしている。あるいは、Ben Okriやターハル・ベン・ジェルーンのような小説。そういった現代の新しい小説は、水村の枠組みを挑戦するものなのではないのか。

もう一つの違和感――さきの違和感と大いにオーバーラップしてくるがーーは、ベネディクト・アンダーソンの解釈にも関わってくる。


水村は不遜なことに「アンダーソンは普遍語の意味を十分に考える必然性がなかった」(189頁) と述べ、アンダーソンをヨーロッパに典型的な多言語的知識人であると規定する。

だが、そうアンダーソンに保証されて、ワァーツと拍手をしても、家に戻ってきて正気に返ったとき、さあ、それではアンダーソンに倣ってインドネシアの言葉やフィリピンの言葉を学ぼうという気になる人がどれくらいいるであろうか(186ページ)
水村がどのような心づもりで書いたのかはわからない。だが、アンダーソンこそは、コーネル大学において長年多くの学生を魅了し、インドネシア語やジャワ語の世界にいざなってきた張本人ではないか。半世紀近くに及ぶでだろうベネディクト・アンダーソンの学問的・教育的業績を、水村美苗は真っ向から否定するつもりなのだろうか。もちろんのこと、水村はアンダーソンの東南アジアの言語内在的な文化主義的研究については完全に無視してしまうのだ(苦笑)。ポイントは何かといえば、水村美苗の方は<現地語>を余りに簡単に軽視しているということだ。つまり、ヨーロッパなどのマイナーな国語だとか、ジャワ語だとかのいわゆる現地語によって探求され明らかにされてきた様々な<真理>について、全く顧みようとしないのである

いとも簡単に、現地語の詩や小説などは、教養のない男や「女子供」の慰めでしかないつまらぬものであると決めつけてしまう水村美苗。女子供という言葉にカギカッコをつけても、結局は同じところであろう。要するに水村は、「教養のある西欧のブルジョア・インテリ男」の立場に立って物を語っているのである。私はここでも、笙野頼子を思い出す。
インテリから見たとき、今の私はもう見えないはずです。作品も読めない。今の私はいると困る存在です。だって金毘羅なんだし。メルロ・ポンティとドゥルーズ=ガタリのある本棚の中にある私の本を並べて楽しんでいた人達はきっと私を見て捨てるでしょう。熊楠と折口信夫が好きな人などはもとよりそうです。(『金毘羅』194ページ
この小市民の私、つまり、「戦後のロリコン達が口を極めて罵る凡庸な『私』」(『金毘羅』225ページ)の極私的物語は、水村美苗の中では取るに足らぬものと消されてしまうことになるのであろう。

「日本語は亡びる」という問題意識については、私が水村美苗に大いに共感する。<国語>から<現地語>に転落してしまうではないか、という議論もわからないではない。アンソニー・リードの『東南アジア史』を読めば、前植民地時代のフィリピンの詩と読み書きの伝統は、まさに「女」による「程度の低いもの」であるようにさえ思われることは否定できない。(注。ただしフィリピンは東南アジアの僻地であり、ジャワやタイのような独自の王朝文明が栄えた土地とは異なる。フィリピン諸語とインドネシア諸語とは文化の厚みが全然違うのである!なお、ベネディクト・アンダーソンにはジャワ語の古典文学の研究論文もある)。

しかし、明治近代文学を自明の前提とするような水村の議論の組み立て方には、やはり最後まで違和感を感じざるを得なかった。新しい時代を迎えようとするとき、近代主義的価値観に束縛された議論に終始してよかったのだろうか。



P.S. 水村美苗の危機意識、つまり日本語文学ばかりか、フランス文学のようなメジャーな民族文学までもが現地語文学に転落してしまうのではないかという恐怖についての論評を読んだ者は、ぜひとも小国文学者ミラン・クンデラの『カーテン』所収の「世界文学」を読んでみる必要がある。

欧州文学の先端を切っていたアイスランド文学の運命、国語消滅の危機におびえていたポーランド人と文学、ロシア支配のもとで本当に死滅する危機にあった中欧文学等々。翻訳の意義だとか、あるいは、大江健三郎の小説論だとか、刺激に富む議論ばかりである。大国主義者水村美苗とは異なる視点もうれしい。

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(注)クッツェー「アフリカの人文学」が大いにヒントになっている。この小説では、架空の女性作家で主人公のエリザベス・コステロ主人公がアフリカ在住の姉ブランチを訪ねるのだが、そのブランチが名誉博士号授賞式で、挑発的議論を展開するのである。私は、その挑発的議論に大いに示唆されてしまったのだ。



2008年8月22日金曜日

野村たちの「ポスコロ」本の率直な感想

「弱者への愛には、いつも殺意がこめられているーー」
安部公房『密会』より)


本当は野村浩也たちの『植民者へ』について、もっと正面切って論じなければならないんだろう。つまり、ポストコロニアリズムやサイードに関連する弱点については括弧に入れて、議論しなくてはいけないということだ。

厄介だが、少しだけ感想を書いておこう。

野村らの主張を強引に要約すれば、沖縄にシンパシーをもっているかのように演じている「リベラル」な日本人がインチキであること、そして、沖縄も日本の一部なのだから本当の平等を実現せよ、というメッセージである。

前者に関して言えば、一応の目的は達成できたのではないのかと思う。もう少し池澤夏樹の分析を丁寧に解読してもらいたかったし、坂本龍一の沖縄オリエンタリズム音楽の批判的分析だとか、芸能界における沖縄趣味等についても触れて欲しかったのだが。

個人的に言えば、私という一日本人が、フィリピンの人々や社会にどのようにシンパシーをもったり、関わったりしたらよいのかというジレンマ体験を大いに思い出させてくれた。シンパシーをもつというのは、弱者をパトロナイズするとか飼い慣らすという発想と紙一重なのだ。

後者のメッセージが有効になるためには、真正なる日本民族主義の蘇生が必要不可欠である。「真正な民族」とは、「一民族の成員という資格において平等な、ないし平等であろうとする人々」(関曠野『民族とは何か』講談社現代新書、225頁)のことである。

しかし、真正なる日本民族主義とは何かという問題提起はなされていないと思う。本書の課題ではないといえばそれまでだが、やはり残念だ。何故そんな風に思うのかと言えば、野村らの論法でフィリピンやインドの貧困や不公正を論じても、ほとんど誰にも相手にされないのは明白だからだ。「そんなこと、我々に関係ないだろ!」と、きっぱりと馬鹿にするのが、日本人の現実ではないか。つまり、彼らが本を出版したり、日本の大学で職を得ることができるのは、沖縄がやっぱり日本の一部だからなのだ。それならば、二項対立ばかり強調するのではなく、日本民族主義や日本改造論(e.g.改憲論)をも論じて欲しかったのだ。

他にも言いたいことはあるが、このへんにしておく。

民族とは何か (講談社現代新書)民族とは何か (講談社現代新書)
関 曠野

講談社 2001-12
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ポストコロニアリズムの誤用を批判する

アマゾンにレビューを書いた。
植民者へ―ポストコロニアリズムという挑発植民者へ―ポストコロニアリズムという挑発
野村 浩也

松籟社 2007-11
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あえて断言してしまえば、学問的良心の欠如した「悪書」である。

そもそも『ポストコロニアリズムという挑発』というタイトルが最悪である。サイードやバーバの文学的・学問的著作を本当に読んでみればわかることだが、ポストコロニアリズムの政治的立場はきわめて曖昧で、日和見的にすら見えるかもしれないものなのだ。たとえば、帝国主義や人種主義を信奉する作家を高く評価したのがサイードである。また、ファノン解釈においては、「偏狭な民族主義に満足するようなものでなく、ヨーロッパ人と原住民とがひとつにまとまって新しい反帝国主義共同体に参加する」ことを促す理論であると評価したのもサイードなのだ。要するに、野村たちの政治的立場とは明らかに異なっている。だから彼らに求められていた仕事は、むしろサイード批判であり、ポストコロニアルリズム批判のはずだったのである。もちろん本書のタイトルも、『ポストコロニアリズムからアンチーネオ・コロニアリズムへ』とすべきだったのだ。

私の議論が信じられないものは、フィリピン人の左翼文芸理論家Epifanio San JuanのBeyond Postcolonial Theory を読んでみるがよい。あるいは、アーニャ・ ルーンバ『ポストコロニアル理論入門』でもある程度は触れられている。

もうひとつの問題は、「日本本土」を一枚岩的に扱い、植民地=沖縄と対比させている点である。私見では、東京とアメリカが共謀して作り上げた真の植民地は、沖縄県というよりは神奈川県のほうだからである。たとえば、横浜開港は香港やカルカッタの開港と対比されるべきだし、横須賀市と相模原市は日本の軍都として建設され、今では米軍基地となっている。極めつけは、県民がペリー来航を大いに祝い、東京とアメリカに郷愁の念を抱いていることだろう。ちなみに相模原南部に私は住んでいるが、祭りの踊りは「阿波踊り」である。こういう土地こそ植民地と呼ぶのに相応しい。沖縄植民地論を展開している学者たちがそろいもそろって、東京のお膝元が植民地であることを何故見抜けないのか。なかには、神奈川で暮らしたり勉学したりした「無意識のコロン学者」がいるのではないか。

以上、多くの欠点があるが、部分的には興味深い題材はいくつもある。たとえば、コロン作家・池澤夏樹を批判したり、在日朝鮮人作家・李良枝を取り上げた点である。サイードという虎の威を借る狐の論法を捨て去れば、さまざまな可能性が開かれてくるだろう。

2008年8月20日水曜日

郭基煥の北朝鮮論と李良枝論(その2)

郭氏は驚くほど率直に、彼の思想の偏狭性と日本人対する警戒心をむき出しに率直に語っている。たとえば、こんな具合だ。(この本の読者に対しては、あまりに過剰な警戒心であるようにも思われる。しかし、日本社会のなかでこのような警戒心を持たざるを得ないということについては、啓蒙的な意義があることは同意できる)。



在日同士の交流は、何かしらやよそよそしいものになる。私は会話が監視されているの感じる。ともかく、在日同士のコミュニケーションは、ほとんど常に日本人が聞き取り、日本人が割り込んでいくことができる体制の中でしかなしえなくなっている。

この文章は在日に向かってのみ語ることはできない。日本語で書かれている以上、日本人が割り込んでくる可能性がある体制の中でしか書くことはできない。だとすれば、強調されている者達がやるやり方をまねるしかない。盗聴器に聞かれてることを予想した上で話すことだ。そしてそれはこの文章の義務であろう。(152ー153ページ)



さて残念ながら、郭氏の李良枝論については、あまり深入りすることはできない。私がまだその作品を読んだことないからである。だが、最低限の紹介として、次のことを述べておく。氏は、李良枝より前の世代の在日の評論家が李良枝の作品の「非政治性」を批判的に言及するのに対し、彼女を擁護する。そして、自我の安定を前提する不条理文学であり、「日本のかつての植民地に対する宗主国意識、それを保護し正当化するための様々な言説やイデオロギーを暴き、動揺させ、分解するという意図が明瞭に現れている」(195ページ)と評価しているのである。

李良枝という日本語作家を、氏のような偏狭な発想で、はたしてよく評価できるものだろうか。私はそんな危惧を抱く。だが、ここではそういった批判をするつもりはない。実際、日本人の宗主国意識あるいは帝国意識批判といった側面を李良枝から読みとるのは一つの正当な解釈にちがいない。

しかしながら、次の議論は根本的に批判しておく必要がある。というのは、ポストコロニアル文学とは何なのかということについて、無知と独善を露呈してしまっているからである。



「日本のかつての植民地に対する宗主国意識、それを保護し正当化するための様々な言説やイデオロギーを暴き、動揺させ、分解するという意図が明瞭に現れているという意味で、彼女の小説の中でも、[「かずきめ」という作品は]もっともポストコロニアル文学と呼ぶにふさわしい。」(195ページ)



一般に在日朝鮮人文学と言われる一群の作品は「朝鮮発のポストコロニアル文学」と言っていいはずであろう。在日朝鮮人文学は、世界の他のポストコロニアル文学と直接的・持続的に交流することはなかったが、一方でそれらといわば共鳴ししあっているとみなすことができる。あるいは、世界のポストコロニアル文学、もっと言えば、世界中の被植民者達とコミュニケーションすることなく連帯しあっている、と言ってよいかもしれない。そういった事情を踏まえて、私が李良枝の『かきずめ』にポストコロニアル文学性を強く見いだすのは、なによりもその戦闘的・非妥協的性質のためである。(195-196ページ)



民族の言葉を奪われ日本語で文章の読み書きしなければならなかったら在日朝鮮人の文学について、ポストコロニアル文学と評価することには賛成である。だが、郭の独善的予想とは正反対に、世界のポストコロニアル文学と言われるものは、「戦闘的・非妥協的性質」のものだったり、植民地主義や帝国主義をストレートに告発する文学作品などではないのだ。少なくとも私は、そういった戦闘的な文学作品をほとんど思い浮かべることはできない(*)。おそらく郭は、いわゆるポストコロニアル文学だとかポストコロニアル文学理論について、まったく知らないし読んだことがないのである。

私は、郭の議論のすべてが無意味だと言っているのではない。だが、いわゆるポストコロニアル文学の発想と、氏の議論には大きなギャップがあることだけは強調しておく。

もちろん、これは郭氏個人の責任ではありえない。日本の朝鮮・中国・沖縄系の社会学系研究者が、意図的かどうかはともかくとして、共謀的にポストコロニアリズムという言葉を「倒錯的に」借用してきたこと、それが氏の勘違いの原因であることは、あまりにも明白なのだ

おそらく彼らに求められているのは、サイード、スピヴァックといったポストコロニアリルの文学批評家との根本的対決なのである。西欧的な権威に照らして、自分の議論の正当性を確保しようとするような発想から脱却することなのである。サイードだとかラシュディを否定する勇気がないので、議論がおかしくなってしまうのだ。
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(*)おそらくAchebeあたりが議論されるべきなのでしょう。Achebeは厳しいConrad批判で知られていますからね。しかし、彼の文学作品が「戦闘的・非妥協的性質」をもつといえるのでしょうか? あるいはGordimerでしょうか? しかし、Gordimerはそもそも白人植民者の文学ですし、氏の想定外でしょう。また、アパルトヘイト政策の南アと、現代日本とを比較する議論を私は受け入れることはできませんね。(ナチス・ドイツのユダヤ人と現代の在日朝鮮人とを比較する人もいるようですが、これも少々誇張しすぎでしょう)。

2008年8月7日木曜日

郭基煥の北朝鮮論と李良枝論(その1)

表象のアイルランド表象のアイルランド
テリー・イーグルトン

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ナビ・タリョン (講談社文庫)ナビ・タリョン (講談社文庫)
李 良枝

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郭基煥「責任としての抵抗」

野村浩也(編)『植民者へ』の中の郭基煥「責任としての抵抗」という論文は、李良枝の小説をとりあげ、ちょっと面白いと思いメモを取っておいた。取り上げられている作品は、「ナビ・タリョン」と「かずきめ」である。


①「北朝鮮表象」をめぐって

北朝鮮について日本で語るというのは、いかに難しいことであろうか。北朝鮮バッシングの恐ろしい圧力がある、客観的に見ても北朝鮮はちゃくちゃ国であることは否定できない。そういう状況のなかで、北朝鮮バッシングに組みせず、かといって、北朝鮮を礼賛するような愚かさに陥らないようにするには、どのような言語表現のスタイルや形式があるのだろうか。確かそんなことを、テリー・イーグルトン『表象のアイルランド』を読みながら考えていた。


イーグルトンはこんなこと書いている。

イギリス人がアイルランドのことを考えるとき、血で、気難しく、野暮な国民を思い浮かべるとすれば、このような不名誉な先入観を是正しようとするアイルランドの作家たちは、自分たちの社会秩序を消毒し、同国人たちを啓発し、さらには、甘美と崇高を兼ね備えたフィクションによって宗主国の読者層に感銘を与えなければならない。(中略)現状のままにアイルランド描写することによって、イングランドの読者の道徳的憤慨を喚起することは可能かもしれない。だが、その時は同時に、アイルランドがいかに堕落しているかに関する読者の思い込みを裏付けてしまうことにもなる。 イーグルトン「アングロ・アイリッシュ小説における形式とイデオロギー」(266-267ページ)




真理と傾向性、尊厳と本来生は、なかなか和解させることができない。それゆえ、植民地国民の文学芸術は、民衆を貶めることによってしか圧政者を告発することのできないリアリズムか、さもなければ、国民の自負の念を育成しながら植民地支配者に誤った安心感を与える危険をおかす理想主義かという、両極端の間で不安定に航行することを余儀なくさせるのである。(同上、268ページ)


当時の私は、フィリピン研究をしていたので、難解なジレンマの、この簡潔な提示に、大いに感激した。普通の日本人に対して、フィリピン社会について語るということは、いかに大変なことか。実際、ほとんどのフィリピン関係者は、二つのタイプに分裂せざるを得なかった。一方では、フィリッピン社会はいかに素晴らしいか、貧しくても人々が互いに助け合い、女性の力が強く、家父長制的な窮屈さからは自由であることを強調する理想主義のタイプがいた。他方には、フィリピン社会がいかに矛盾に充ち溢れ、文化的には極限的までに堕落し、ケチャップを塗りたくったような不味い飯しかないかを強調する現実主義のタイプがいる。前者は、フィリピン人とフィリピン関係者の自負の念を養い、自己満足を養うには良いのだが、本当の事をカッコに入れて、欺瞞に満ちた現実美化を行っている。例えば、女性の指導者は確かに日本よりははるかに多いのだが、圧力結婚はごく普通のことだし、実はレイプが頻繁で、レイプ婚だってけっして珍しくなかったりする。そういうことを都合よく忘れたり、或いは単に知らない人が、フィリピン社会は女性が強い社会であると報告文を作成してしまうのである。後者を後者で、もっと問題は深刻かもしれない。フィリピン社会の堕落と貧困を強調してしまうと、フィリピン人は、こんな国にても残っていても希望がない、俺はフィリピン人であることが恥ずかしい、と絶望的な気分に陥るしかない。冷淡で差別的な日本人はというと、自分の愚かさや醜さを棚に上げながら、そんなクダラナイ国は見捨ててしまえ、と単にバカにしだしたりしてしまうのだ。こういう悲しい両極端で、どのような表現が可能だというのか。

しかし、北朝鮮表象となると、フィリピン表象以上に困難極めることは予想がついた。日本人の帝国意識的思い上がりから距離を取り、かつ、北朝鮮礼賛のピエロにならないでいること。これほど難解な課題は、そうやたらにあるものではないあろう。(ピエロ路線を選択する在日朝鮮人の青年も知ってはいるが、政治的にナイーブで純粋培養だったためである)

大阪大学の在日韓国人研究者に対して、「北朝鮮問題」についてどのように表現するのかと私は質問してみたことがある。だが、K氏は簡単に私の問いは、どうでも良いことだと、あしらったのだ。おそらく在日韓国人の彼は、北朝鮮問題についてあまり考えていなかっただろうし、仮に考えていたとしても、それを日本人の私に論じるつもりなど全くなかったのだろう。(注、北朝鮮が唐突に出てきたのではない。私の参加していた研究グループは、朝鮮大学校の教員・大学生なども交じっていた共同研究だったからである)


しかし、郭基煥は北朝鮮表象について、全く逃げず、真正面から立ち向かおうとしているのだ。韓流ブームと北朝鮮バッシングの時流に乗って逃げようとする誘惑を、郭基煥は勇気を振り絞って断ち切ろうとしているのだ。


<責任としての抵抗>とは<対決>であり、そのことが意味するのは、決して支配者達に回収されない形で抵抗する、ということだ。(中略)たとえば自分の国籍が韓国であるという事情を利用して、韓国人であると日本人や同胞に向かって言ったり、戦後50年が経過したという歴史を意識の中で強調し、利用して、過去との差異を強調することではない。むしろ自分と北朝鮮との関係を強調することだ。北朝鮮を想起させる朝鮮人ということばで自らを語る。自分の親類に朝鮮総連の活動員がいることを語る。そういうやり方をとることだ。そういうやり方をとるとき、私は恐怖しないでは要られないだろう。だが、そのように恐怖の中で抵抗すること、つまり<対決>は、経験の構造が求めるものなのだ。(182ページ)



彼のような戦闘的姿勢について、いろいろな批判はあろう。たとえば、在日が日本国籍をとって韓国系日本人となったとして、いったい何が悪いのか。私だってそう思わないではない。だが、「責任としての抵抗」という一つの実存的決断について、我々は評価してもよいのではないのか、そんな気にさせられるのも本当のことなのである。

植民者へ―ポストコロニアリズムという挑発植民者へ―ポストコロニアリズムという挑発
野村 浩也

松籟社 2007-11
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2008年7月16日水曜日

ポストコロニアルか反帝か(続々)

amazonで野村浩也のもう一つの本『無意識の植民地主義』のレビューも書いておきました。再録し、さらにコメントを付け加えておきます。


無意識の植民地主義―日本人の米軍基地と沖縄人無意識の植民地主義―日本人の米軍基地と沖縄人
野村 浩也

御茶の水書房 2005-05
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5つ星のうち 3.0 沖縄人による現代「日帝」批判, 2008/7/15
By shakti - レビューをすべて見る
沖縄支配を継続し、米軍基地を沖縄に強要し続ける現代日本人に対し、その帝国主義を厳しく告発する沖縄人社会学者による書物である。現代の日本帝国主義批判という意味で論旨はきわめて明快だ。また、容赦ない批判を「良心的日本人」にも加えていて興味深い。「良心的日本人」とは、要するに「無意識」の植民地主義者である。本書では、沖縄に在住し、沖縄を「自分の土地」と呼んでしまったコロン(植民者)作家・池澤夏樹に対し、痛烈な批判を浴びせている。

正論ばかりであると思うが、いくつか問題点を指摘しておく。

①野村は、サイードやポストコロニアリズムを彼の思想的道具として使っているが、これは学問的厳密性に欠く議論だと言わざるを得ない。サイードは、ハイブリッド性を重視し、キプリングやコンラッドのような白人の植民地主義・レイシスト作家をも高く評価する文芸批評家なのである。当然のことながら、彼は、サイードやポストコロニアリズムを厳しく批判せればならなかったはずである。(たとえば、San Juan, Beyond Postcolonialismなどを参照のこと)。また、日本人と沖縄人を常に二項対立させているのにもかかわらず、沖縄民族主義や沖縄独立について語ろうとしないのは、たいへん奇妙だ。

②沖縄を主題化するならば、植民地主義はあまり適切ではない概念ではあるように思われる。力をもちいて遠隔地(沖縄)を支配しようとする日帝の帝国主義こそが、最大の問題点のはずだからだ。

③沖縄人の立場から日帝批判をするのはよい。だが、他の被支配民族とか、日本の米軍基地周辺住民との連帯の回路があまり示されていないのは残念である。たとえば私の住む神奈川県相模原市は、日本とアメリカの植民地主義者・軍国主義者によって建設された軍都であり、深夜早朝でも米軍ジェット機の発着演習が繰り返されている。しかし本書を読む限り、相模原や大和市の基地住民が沖縄人と連帯することは難しいような印象すら与える。私には納得がいかない。

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このレビューではさらっと言及しただけですが、③の相模原市と沖縄との対比は実は重要な指摘を含んでいるつもりです。植民地の概念に関わる重大なテーマです。しかし、この件はしばしば感情的な大論争のテーマになりますから、別の機会に書くこととします。

ポストコロニアルか反帝か(続)ーー二つのポストコロニアリズム

ここで再確認するのは、ポストコロニアルというカテゴリーに近い書き手は、むしろ小説家・池澤夏樹の方だということです。これに対し、野田のような自称ポストコロニアリズムの社会学者たちは、ポストコロニアルという文学的視点からはかなり距離を保っていると言える。

ポストコロニアリズムは政治的にはさまざまなポジションを含み、非同一性の理論を堅持する。これに対して野村たち社会学者の見解は、ポストではなくアンチの思想であり、むしろ反植民地主義反帝国主義の視点と命名されるべきです。

例えば昨年翻訳出版されたキャリル・フィリップス『新しい世界のかたち』(明石書店)はカリブ商品の黒人小説家による文学評論集ですが、明らかに前者のポストコロニアリズムの立場に立っています。黒人であり、決して保守的な政治評論家ではないのですが、どう見てもアンチ・コロニアリズムだとか反白人の政治的アジテーターではない。植民者(コロン)の文学者(ゴーディマーやクッツェーなど)だとかナイポールに対しても、どちらかといえば肯定的に取り扱っているのが、この本の特徴です。(さらには、レイシズム的要素を含む作家コンラッドに対する高い評価があることも、注目すべきでしょう)。

なお、もう邦訳では副題として「黒人の歴史文化とディアスポラの世界地図」と書いてありますが、これはやや誤解を招くタイトルです。おそらく出版社になんらかの「意図」があったのでしょうが、ちょっと残念ですね。

新しい世界のかたち―黒人の歴史文化とディアスポラの世界地図新しい世界のかたち―黒人の歴史文化とディアスポラの世界地図
上野 直子

明石書店 2007-11
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2008年7月15日火曜日

ポストコロニアリズムか反帝か、植民地作家池澤夏樹の評価

話が脱線してしまって、なかなか思うように主題に到達しません。

そして、またまた脱線してしまいます。最近図書館で野村浩也の人が編集した『植民者へ―ポストコロニアリズムという挑発』(2007年)という本を借りてきました。この本についての総体的評価はここでは避けますが、側面的に2点だけ問題にしておきます。

植民者へ―ポストコロニアリズムという挑発植民者へ―ポストコロニアリズムという挑発
野村 浩也

松籟社 2007-11
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① 本書では「ポストコロニアリズム」という言葉がタイトルばかりでなくさまざまと箇所で用いられていますが、この言葉の使い方は間違っていると言わざるを得ない。なぜならば、サイードやバーバあるいはスピヴァックといったポストコロニアル批評家の文章をちゃんと読んでみれば分かることですが、ポストコロニアルという概念の政治的ポジションはきわめて曖昧な文学的なものであって、本書のような明確な指針をうちだすような性質のものではないからです。

たとえば、サイードが敬愛しているの英語作家にポーランド出身のコンラッドという人がいます。代表作は、コッポラの映画『地獄の黙示録』の原作として有名になった『闇の奥』ですが、この本はある意味では、黒人差別と大英帝国の植民地主義の礼賛になっている作品です。すでにアフリカ人作家アチュベが読んではいけない作品だと非難しております。また、コンラッドという人間に対する厳しい批判は、藤永 茂の『「闇の奥」の奥―コンラッド/植民地主義/アフリカの重荷』を読んでみれば理解が深まることでしょう。

『闇の奥』の奥―コンラッド/植民地主義/アフリカの重荷『闇の奥』の奥―コンラッド/植民地主義/アフリカの重荷
藤永 茂

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では野村たちはどうしたらよいのか。簡単なことです。サイードの人気だとか権威に媚びたりせず、「反帝国主義」だとか「ネオ・コロニアリズム」という昔ながらの概念を堂々と使うべきだったのです。そして、サイードらの政治的姿勢の曖昧さを糾弾すべきだったのです。左翼からのポストコロニアリズム批判は、在米フィリピン人の政治批評家San JuanのBeyond Postcolonialismがよく整理されていますと思います。

Beyond Postcolonial TheoryBeyond Postcolonial Theory
Epifanio San Juan

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②野村たちは、作家・池澤夏樹を植民地主義者であると非難しています。私も、ある意味で彼らに賛成で、たしかに池澤はコロン(植民者)の視点から物を書いているのだと思います。しかし、ポストコロニアル文学理論的にいえば、それだけで終わりにしてしまうのでは、ちょっとだけ残念でなりません。(野村たちはポストコロニアル文学理論的ではないから、別に構わないのでしょうが)。

どういう事かというと、池澤は日本の植民者(の末裔)の立場から、すでに旧植民地(北海道、南太平洋の島々など)を舞台にした小説を書いているのだから、それらの作品についての本格的論評をすべきではなかったのかと思うわけです。エッセイや発言ではなく、小説の中で植民地と人間がどのように描かれているのか。実はそれがポイントではないでしょうか。(この点に関しては、サイードのカミュ批判が先行例として興味深いと思われます)。

植民地的作家、あるいはポストコロニアル作家としての池澤夏樹の評価については、今後の私の課題とすることにしましょう。(池澤さんの惜しむべきは、おまえはコロンじゃないかと沖縄人に指摘されて、「そうかもしれない」と潔く認めなかったことである。それだけは間違いない!)

南の島のティオ (文春文庫)南の島のティオ (文春文庫)
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2008年7月3日木曜日

ポストコロニアル文学のサバルタン表象①

サイードの『オリエンタリズム』が過度にヒットしてしまった結果だろうが、ポストコロニアリズムはしばしば誤解されることになった。わたしの知人でも誤解している人はかなり多いのだ。簡単に言ってしまえば、左翼・反植民地主義だからサイードとポストコロニアリズムが好きだという風に誤解する人と、その反対に左翼の生き残りにすぎないから嫌いだと誤解してしまう人に分かれてしまうのである。(希に、左翼として不徹底であるからサイードやポストコロニアリズムはダメだと批判するものがいる。これは誤解ではなくて一つの正論である)。

じつは、私のブログに言及しながら、ある人がポストコロニアリズムについて、まるで見当違いの文章を書いていたのを発見した。おそらく、ポストコロニアル文学とかその研究本を全く読んだことがないのだろう。毎度のことなのでやむをえないとは思うが、やっぱり残念なことである。(もっとも重要な参考書をあげると、オーストラリアの白人文学研究者アッシュクラフト他による『ポストコロニアルの文学』(青土社)。1番最近の興味深い研究本は、中井亜佐子『他者の自伝―ポストコロニアル文学を読む』(研究社)である。また、詩人・エッセイストでもある中村和恵(明治大学)の書くものは、ほとんど必読のものばかりである)。

しかも、笙野頼子のだいにっほん三部作の戦闘的文学について、稚拙なまでのパーフェクトな誤解している。こういうのは全くの勘違いなので、残念ながら批判する価値はない。(だが、文学・思想関係では、こういった誤解がしばしばあるから不思議である。決して頭の悪い人ではないはずなのだが、・・・。でも、大変ケシカランことです)。

さて、その人のポストコロニアリズムおよび笙野批判は、こんな文章であった。

自らの権力者である部分が見えていない故に進めない。それは笙野本人にも感じられることだ。笙野あるいはこの筆者に欠けているもの。それは、それこそスピヴァクの言葉である『サバルタンは語ることができるか』という問いである。何故サバルタンは自らを語れないのか。何故サバルタンは歴史を奪われてしまうのか。こういった問いがないとは言えないが、その存在感が薄いために、笙野は火星人主人公たるいぶきに歴史を語らせようとする。

もう一度言う。そんな簡単な話なのか? そんなに「わかりやすい」話なのか?こういった問いの答えを、それこそポスコロがやっているように、社会 体制に求めるのもよかろう。しかし歴史上の幻想にそれを求めると、歴史幻想における権力者の分析になり、自らの権力者である部分には何も影響が生じない。 自他未分 化的なおぞましくも魅惑的な領域に辿り着けない。サバルタンは非サバルタン化されることが「正しい」という固定観念から抜け出せない。


こういった考え方ほどポストコロニアル文学や理論からほど遠いものはない。というのは、書き手が語る言葉や文学の権力性についてもっとも自覚的なのが、サバルタンを主題化しようとするポストコロニアル文学だからである。端的な例は南アフリカの白人作家J.M.Coetzee のFoe(邦訳『敵あるいはフォー』)だ。この小説はDefoeの『ロビンソン・クルーソー』のパロディーだが、ここでは原住民フライデーは舌を抜かれて全く発話できなくなっている。そして、好き勝手に小説を書く作家デフォーは彼の敵(=フォー)となっているのだ。アパルトヘイト政策の南アフリカでアフリカーナー系白人作家が文学をやっていることの批判的言及になっているのはいうまでもない。(クッツェー文学というのは実は、クッツェーの「分身」や「祖先」が強姦親父になってしまう作品が多いのである。たとえば『恥辱』では、白人の英文学教授がカラードの女子学生を無理やりベッドに連れ込んでしまう。彼自身も南アの白人大学教授であったことも付け加えておこう)。

そもそもポストコロニアル文学の起源というのは、植民地官僚や植民地旅行者の記録なのだ。世代を下るにつれ、植民地生まれの白人クレオールたちだとか、原住民エリートたちが文学を執筆するようになる。そして、今日よく知られたポストコロニアル文学者や批評家というのは、実は、白人クレオールか文化的にイギリス化(フランス化)したような原住民エリートなのである。まもとめてしまうと、ポストコロニアル文学とは、①白人クレオールあるいは白人化した原住民の書き手によって執筆されたものであり、②宗主国の文化的・文学的伝統に則りながら、それを批判的に克服しようとする試みがなされたものである。断じて、サバルタン解放文学ではないのだ。

それではポストコロニアル文学の中では、植民地の中で発言権をもたない弱者について、どのように表現されているのか。意外に思われるかもしれないが、ポストコロニアル文学がサバルタンを好意的に論ずるとは限らない。(政治的非正義の代表的作家ナイポールがその代表だ)。もちろん、サバルタン対して好意的な作家もたくさんいる。しかし、まじめな作家である限り、サバルタン=被抑圧者を真正面から描きあげることはできない。何しろ書き手は、いくらリベラル・マインドで弱者にシンパシーを抱いたとしても、所詮は白人支配者の側にいるのだ。被抑圧者の文化や生活あるいは言語に通じてないのだ。というわけで、(ポスト)コロニアル文学においては、被抑圧者というものはどうしても主人公にとって恐怖の対象であるとか軽蔑の対象になりがちなのである。そういう文脈をよく考えないと、ポストコロニアル文学におけるサバルタンの表象の問題をよく理解することができないわけだ。

わたしが考えるに、ポストコロニアル文学のサバルタンの描き方には次の3通りの類型がある。

① 保守派のポストコロニアル文学――被抑圧者、弱者、被植民者、サバルタン、女、火星人、黒人といったものを恐怖の対象または軽蔑の対象としてとして描く文学である。

分かり易いのは、むしろコロニアル文学というべきであろうが、巽孝之の解釈するエドガー・アラン・ポーの『モルグ街の殺人事件』が挙げられるだろう。巽によれば、人間ばなれした怪力の殺人オラウータンは、南部アメリカ貴族ポーにとっての黒人なのだそうである。いわゆるポストコロニアル文学で言えば、カリブ出身の白人クレオール作家ジーン・リースの『サルガッソーの広い海』における、主人公の女性の黒人奴隷に対する恐怖をあげるのが適当だろうか。あるいは、カリブの小さな島トリニダード出身のインド系作家ナイポールの描く旧植民地社会(特にアフリカとインド)の描き方をあげてもよいかもしれない。

② エリート主義的的ポストコロニアリズム――保守派のポストコロニアル文学は文学だったが、これは文学と呼べる代物ではない。むしろ、アカデミズムの危険な潮流である。(笙野頼子の「おんたこ」とほとんど似通っていることに気づくであろう)。要するに、ポストコロニアル文学批評の難しい言葉を操ることができる植民地出身の知識官僚・エリートたちが、本当の弱者やサバルタンを「代弁」し、自分たちの特権を強化しようとするやり方である。

参考文献は、SpivakのA Critique of Postcolonial Reasonである。たとえば序文でSpivakは次の様に書いている。「わたくしは、ある種のポストコロニアルの主体が逆にコロニアル主体を再コード化し、〈ネイティヴ・インフォーマント〉[≒サバルタン]の立場を占有してきていたことに気づき始めた。グローバリゼーションがたけなわの今日では、テレコミュニケーションが〈ネイティヴ・インフォーマント〉から直接に土着の知識と称するものを盗み取りし」ていると述べている。詳しくは、この本の「文化」の章をよく読んでもらいたい。(邦訳がわかりやすいとは必ずしもいえない。原文でまずは読むことを薦める)。

③第3のポストコロニアル文学――これがいわゆるポストコロニアル文学のサバルタン表象である。じつは①保守派の文学との距離は案外近いのが興味深い。(明日また続きを書く)


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2007年3月13日火曜日

文学と非文学とのあいだで(その2) (木畑洋一のサイード批判をめぐって)

 木畑洋一のサイード批判

前回いわゆるポストコロニアリズムには二つの顔があること、すなわち、政治的にはより曖昧な文学理論的な側面と、政治的正義を強調する反帝国主義イデオロギーの側面があると述べておいた。一般によく広まっているポスコロだとかポストコロニアリズムが後者の側面であることは言うまでもないだろう。要するに、マルクス主義亡き現代において左翼思想を継承し、植民地主義や帝国主義の文化を非難する論調であると考えられているからだ。しかし、こういったポストコロニアリズムだとかポストコロニアル理論の受容の仕方では、その文学的な側面が見落とされてしまうことになる。

今回取り上げる木畑洋一(歴史学者、イギリス現代史)のサイード批判は、後者の立場から前者を率直かつ厳しく批判したものである。『思想』(1999年3月 NO.87. pp1-3)の「思想の言葉」のために書かれたきわめて短い文章「ポストコロニアリズムと歴史学」なのだが、おそらくは多くの歴史学者や社会思想・社会学者のあいだでも共感を持って読まれているに違いない。(直接伺ったわけではありませんが、おそらくは東京外国語大学の中野敏男[現在サイードの『文化と帝国主義』をゼミの教材として用いているそうである]教授も、同様の見解を持っているに相違ないと想像している)。私は木畑に同調するものではないが、このエッセイが方法論的な核心に関わり、ある種の説得力を持つことについて、全く疑うことができないと考える。要するに、文芸理論家サイードと、歴史学者・木畑洋一の興味関心のすれ違いなのではあるが、ポストコロニアリズムという概念に決定的な重要性をもつ論点を突いているのだ。まずは、木畑の議論に耳を傾けるよう。

木畑洋一は、近代イギリスの帝国主義を支える「帝国意識」を研究する立場から、ポストコロニアル批評について、政治的ポジションとしては好ましいが違和感を感じていると述べる。ここでは、はっきりと名指しはしていないが、要するに、ホミ・バーバに代表される「言説」分析の議論は問題外だとも述べる。しかしサイードならば、歴史学を豊かにする志向性があり、大学院の演習テクストで『文化と帝国主義』を取り上げてみたくらいなのであるが、木畑や大学院生は大いに「物足りなさが残った」のだそうだ。

サイードにはどのような問題点があるのか。木畑の論点は、次の三つにまとめることができる。

① 

「西欧と「他者」との二分法的認識に向けられており、西欧と非西欧のあいだにあるダイナミックな相互関係が、サイード的理論のもとでは消し去られていること」 

「歴史的コンテクストにあまり注意を払わずに、多様なテクストを「コロニアルな言説」として一様に読み解いていく体の作品においては、歴史のダイナミズムを求めるべくもない。ポストコロニアリズムというからには、植民地支配の確立の過程、支配をめぐるさまざまな闘争の過程、脱植民地化(政治的独立という意味での狭義の脱植民地化)の過程、さらに独立後の変化の過程を見通す視座が必要であろう」

難解な表現ばかりでメッセージが伝わりにくい。

「ポストコロニアリズムがめざすものが、植民地権力にからまる支配-被支配の思想・文化の構造の暴露と最終的解体であるならば、そのメッセージはいまだに植民地主義的枠組みが出し切れない広範囲な人々に届くものでなくてはならない。小林よしのりに対抗するような、ポストコロニアリズムの語り部は出てこないのだろうか」

ここで大いに問題となるのは②と③、とくに②の議論である。(続く)

2007年3月8日木曜日

文学と非文学とのあいだで (その1)

はじめにーーポストコロニアリズムとは何だろうかーー

ポストコロニアルだとかポストコロニアリズムという言葉が日本語で頻繁に使われるようになったのは、1990年代以降であろうか。サイードのオリエンタリズムが翻訳出版されたのが1986年だから、すでに20年以上たっていると考えることもできる。しかし、この言葉の意味や定義となると、いまだ明瞭ではないように思われる。多くの人は、旧植民地諸国が主張する新しいイデオロギーとして受け止めているようであるが、あくまでも印象論にすぎない。学問的にはといえば、すでにポストコロニアル理論の御三家とされるサイード・スピヴァック・バーバは全員翻訳されるようにもなった。だが、かなり難解で分かりにくい場合が多いし、サイードの『オリエンタリズム』以外は、本当の読者はどれだけいるのかどうかも疑問である。

最初に指摘しておかなければならないのは、ポストコロニアリズムは反植民地主義だとか、植民地主義時代以降あるいは政治的独立以降といった言葉に置き換えることができないということである。いわゆる反植民地主義的イデオロギーであるならば分かりやすい概念となるはずだが、ポストコロニアリズムの政治的スタンスは、実はそれほど旗幟鮮明なものではないのだ。だが、もしそうだとすると、ポストコロニアリズムを左翼や中国・韓国のイデオロギーとみなすような、我が国でよく浸透した理解とは大いに異なってくるであろう。ここに、ポストコロニアル理論の分かりにくいところがあるといっても言い過ぎではなかろう。

端的に結論を先取りして述べてしまえば、ポストコロニアリズムには実は二つの顔があり、サイードを含む多くの書き手が、その二つのあいだで揺れ動いているのである。つまり、いわゆるポストコロニアリズムの文書の中には、政治的にはより微妙な境界線を揺れ動く文学理論の側面と、反植民地主義・反帝国主義的な政治イデオロギー的な側面の二つが含まれており、それらが明瞭に区別されることないまま混じり合っているわけである。(例えば、サイードの主著である『文化と帝国主義』の前半部はおもに文学的側面が押し出されて、後半部は政治的イデオロギーが展開されていることがわかる)。

二つの側面をより自覚的に区別していくことが、ポストコロニアル理論の受容のためにも重要な課題となるであろう。そこでまず、歴史学者木畑洋一氏の文学者サイード批判について検討していくことにしよう。