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例えば次のような箇所がある。リービが李良枝に一度だけ電話したことがあるのだそうだ。
そのときに、なぜ自分のことを「韓国系日本人」と呼ばないのか、と聞いたのんです。彼女は「リービさん、あれはアメリカ的な発想なんですよ」と言った。つまり近代的な意味の段階、次元だけで自分の人生をとらえたくないということ言ったんです。じゃあ何なのかという答えは出ない。答えは出ないけれど、今いる文化と、もともと故国であった文化の間に永久にいるということが、自分の人生である。何々系何人とか国籍の問題ではなくて、言葉と言葉の間に生きるということは彼女の結論だったような気がします。(23-24ページ)
なるほど!と思った。
以前、鄭大均の 『在日の耐えられない軽さ』というのを読んだことがある。鄭は保守的論客と見なされることが多いと思う。だが彼の議論が「保守的」に見えるのは、じつはアメリカンな発想を日韓の文脈に取り入れたからではないか。私はそんなふうになんとなく理解した。ただ、それをどう評価したらよいのか判らなかった。ところが、李良枝はアメリカンな発想をはっきりと否定し、どちらかといえば歴史的古層を重く捉えるのだ。鄭大均に対して政治主義的な批判をするより、こういう李良枝の言葉のほうが面白い。文化的文学的に深い見解だろう。
考えてみれば、ポストコロニアルといった言葉は実は地理的に限定された言葉だ。つまり、一般には新大陸のスペイン語文化圏の文学をポストコロニアル文学といわないし、USAやUSAの旧植民地の書き物もポストコロニアル文学とは呼ばない。要するに旧イギリス領と旧フランス領の書き物だけがポストコロニアルなのである。(USAの場合はたぶん「移民文学」である。では新大陸のスペイン語文学はなんだろう?クレオール文学だろうか)。
旧英米植民地文学はポストコロニアル文学、USA関係は移民文学と呼ぶとするならば、在日韓国人文学はポストコロニアル文学と呼ばない方がよいかもしれない。また、あとで自説を詳しく述べるつもりだが、私は韓国は日本の植民地ではなかったという見解であることも付け加えておこう。
ま、こんな具合にいろいろと考えてしまうのだ、この本。そういうわけでリーベ英雄の対談集は、絶対に「買い」である。